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価値観と良識

はじめに

これはポエムです。

「社会の同調圧力の中でどう生きるか」という問いをされたことがあるのですが、私は普通の人と比べて、大分柔軟性がなく、独りよがりな価値観を持っていると気が付きました。

これらについてかなりのメイクセンスなので、せっかくなので文書化してみようかと思いました。

価値観とは

私の拠り所となる価値観

「価値観」という言葉を使っていますが、辞書的な意味はよくわかっていません。
「道徳的価値観」「ポリシー」「信条」「正義」といった言葉でも言い換えられるかもしれません。

「価値観」とは「意思決定する際のすべての指針となるもの」です。

2万円のパジャマを着るのか、無印のパジャマを着るのか、それは私の睡眠に対する価値観によって決めます。

職業を年収で決めるのか、社会的意義で決めるのか、それは私の職業に対する価値観によって決めます。

結婚をするのか、結婚をしないのか、それは私の人生に対する価値観によって決めます。

価値観はすべての人が持っている

価値観は私だけが持っているものではありません。
もちろんすべての人が持っています。

Windowsがいいという人がいれば、Macがいいという人がいます。
私はどちらかというとMacがいいですが、Windowsがいいという人もいます。

別にどちらが優れているというわけではなく、それぞれがそれぞれの価値観を持っているというそれだけの話だと思っています。(Linuxは?)

価値観は対立する場合がある

価値観には違いがありますが、違う価値観を持っている人同士で何かの意思決定をすると、時に対立します。

広島風お好み焼きと食べたい人と、大阪風お好み焼きを食べたい人がいるとして、彼らは一緒に食事をする必要があります。

どちらか一方を選ぶしかない場合、お互いの価値観を衝突させる必要があり、その上でどちらかを選ぶ必要があります。

良識

選択を変化させる良識

普通に考えて、常に価値観を衝突させている人はあんまりいません。

広島風お好み焼き食べたい人が超お腹すいていて、大阪風お好み焼き食べたい人がそんなに食への意欲がない場合、相手の価値観を尊重して、広島風お好み焼きを食べる場合もあると思います。

あるいは、本来は決して許されないことですが、広島風お好み焼きと大阪風お好み焼きを一緒に食べる場合も考えられます。

そうした社会の中で生きていくために必要な知恵や調整を私は良識と呼んでいます。(辞書的な意味は不明)

良識は人や状況によって異なる

良識の度合いは人によって異なります。
また、場合によっても異なります。

「食べ物くらい多少融通効かせられる」と考える人は多いと思います。

では、「現行の社会保障制度」だとどうでしょうか。

例えば、たくさん社会保障費を払っている人は、「もっと自分にとって利益のあるような制度にして欲しい」と思うかもしれません。

一方で、「日本人としてすべての人が平等に社会で生きていけるようになったらいい」と考える人もいるかもしれません。

これらはそれぞれの価値観です。

そして、「現行の社会保障制度を受け入れられるかどうか」についての議論、そしてその結論はより良識を問われます。

最も良識のある回答は「選挙で決まったことだからきちんと義務を果たす」かもしれません。

良識の程度が低ければ、「社会保障費を払わない」という選択肢も生まれるかもしれません。「革命」なんてのもあるかも。

良識はその意思決定の都度求められます。

私にとっての価値観と良識

他人には変更できない価値観

ここからが私の思想のやばいところなのですが、私の価値観は私にしか変更できません。

例えば、私は同性婚に賛成していますが、仮に義理の両親が同性婚に反対していても、「私は同性婚には反対」という価値観にはなりません。

同性婚に反対できる妥当な理由があり、それを聞いて価値観を変える可能性はあります。
ただ、それは私の意思で私の価値観を変更した場合にのみありえます。

「目上の人が言っているから」、「誰かが私の価値観を変更して欲しいから」という理由は私の価値観を変更する理由になりません。

では私は「義理の両親との価値観の食い違い」という危機をどう乗り越えるのでしょうか。

良識で社会をうまく生き残る

そこで登場するのが「良識」です。

私は「良識」を元に、義理の両親との会話では、「口先だけ同性婚に反対する」や、「なんとなく話を逸らす」などの対策ができます。

これは私の価値観を変更していません。
私の良識の範囲内で、うまく社会を生き残ろうとしているわけです。

一方で、常に良識が機能することは意味していません。

(私に子供がいないですが)仮に私の子供が同性愛者だとして、義理の両親が同性婚を反対した場合、私は子供の同性婚を応援すると思います。

そこでは両親よりも子供との関係性を優先しています。
ここでは良識は働かず、「両親の満足より子供の幸せを優先したい」「子供との関係性を大切にする」「同性婚に賛成する」という価値観に正直に従って行動しています。

私は価値観も良識も手放さない

良識を発揮する場合

私は自分の価値観に従って行動します。
私は「業務時間外は、元々約束がない限り、自分の価値観に従って行動すべき」という価値観を持っています。

なので、業務時間外の緊急対応と親の死に目が被った場合、私は親の死に目を優先します。

一方、「テスト設計の勉強会がある」場合はどうでしょうか。
私はおそらく業務時間外の対応をすると思います。

ここには選択の一貫性がありません。

ここでは私のサブ価値観に基づく「良識」が働いています。
「親の死に目に会う」は私にとって「業務時間外の対応」よりも重要なので、良識によって選択を変えません。
一方、「テスト設計の勉強会がある」は私にとってそれほど重要ではないです。
なので私は良識を発動して、「業務時間外は、元々約束がない限り、自分の価値観に従って行動すべき」という価値観を一旦隅に置いて、業務時間外の対応を行います。

価値観は私のもの、良識も私のもの

私にとって人生で最も大切なことは、これらの意思決定を自分自身で行うことです。
「価値観」は私が設定したものですし、「良識」は私自身で考えるものです。

「親の死」であっても、「お好み焼き」であっても、その程度に関わらず、すべて私が自分の価値観に従って決めることです。

私の意思決定プロセスで、他者が私の意思決定を直接的にコントロールすることはありません。

仕事の中での価値観と良識

なぜ私が働けるのか

そんな私が社会人としてやっていけるのでしょうか。

できます。

なぜなら私は「業務として契約している時間、あるいはその監督する範囲においては会社の価値観を尊重するべき」という価値観を持っています。
そして、「会社の利益のために最大限の良識を発揮すべき」という価値観も持っています。

なので私は業務時間内であれば、会社から「親の死に目に会うな」と言われても、私の価値観に従って、おそらく一旦は「仕方がない」と思うと思います。

後悔はするかもしれないですが。

「仕方がない」と思うは、私が私の価値観に従うからです。
私が設定した価値観の中で自分で決めたことについて、私は最大限に尊重します。

「価値観を変えろ」と言いたい人々

そんなやばい思想の私が不愉快に感じるのが、「価値観を変えろ」と言う人々です。

価値観や良識は私のものだという価値観を私は持っています。
私以外の人々が影響を与えられるのは「意思決定」であり、「価値観」や「良識」自体は変更できるものではないと思っています。

社会にいると、私を通じて自己実現したい人や、私の考えを変えたい人がいます。
そういった人の多くは私の意思決定自体をコントロールしたがる人です。
たまにマジで価値観だけ変えてほしいという、変わった人もいます。

それはその人の価値観なので否定しないです。

ただ、彼らの価値観は私の価値観や良識の変更には繋がりません。
彼らが広島人だろうと、義理の両親だろうと、会社の上司だろうと、私の価値観や良識を変えることは決してできないのです。

どうやって私と働けばいいのか

「私の意思決定を完璧にコントロールしたい」というニーズは否定しません。

しかし、私に関してはそれは不可能です。

私は自分の価値観は決してコントロールさせませんし、自分の良識でしか意思決定はしません。

私と一緒に働くには、私の価値観と良識を理解して、ご自身の達成したいことに対して、役に立ち、阻害しないことを「信用」して、「納得」してもらうしかないと思います。

それが不可能で、私の価値観をどうしても変更したいのであれば、私と一緒に働くことはおそらくできないですし、私はそういったムーブに対して嫌悪感を抱きます。

私の価値観と良識を信用しろ

私の価値観や良識に対する不可侵の心はやばいことを理解していただけたと思います。

一方、私自身の「価値観」や「良識」は、エゴの塊だと自分自身は思っていません。
なんならきちんと他者と社会の尊重する道徳心あふれたものです。

なので、私を信用してください。

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