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道の歴史を探る‼️

古代人の移動を考えた時に、一つの疑問がある。
・古代人たちは道もない獣道を闇雲に移動したのだろうか❓

まず、古代人たちが交易や移動していた痕跡を調査する。本当に古代人たちは各地を移動していたのか?

交易や移動した証拠

縄文時代の痕跡
 ・黒曜石 ・翡翠 ・縄文土器
 上記の品が取れない地域の遺跡から発見されている。場所によっては、黒曜石の科学的素性から神津島産の黒曜石などが発見されており、列島内だけでなく、島を船で渡り伝わった痕跡がある。

遺跡
* 苗場遺跡(新潟県)
 約5000年前の縄文時代後期に造られた、東西約16キロメートル、南北約8キロメートルの巨大な集落遺跡です。
 遺跡からは、広範囲にわたる交易があったことを示唆する様々な遺物が発掘されています。

* 吉ノケゴ遺跡(長野県)
 約8000年前の縄文時代早期の集落遺跡です。遺跡からは、黒曜石やヒスイなど、遠隔地で採掘された石器が出土しています。

* 中山遺跡(長野県)
 約7000年前の縄文時代中期の集落遺跡です。遺跡からは、オホーツク海沿岸で作られた土器や、東北地方で作られた石器が出土しています。

弥生時代の痕跡
加工された品々、青銅器などの発見
 銅鐸や銅鏡、翡翠のネックレスなど様々な品が日本列島内だけでなく、大陸から伝わった証拠の数々が各地から発見されている。

 太古の遺跡から考古学的に発見された品々がある事は、人々が広域的な移動をしていた証拠になる。

 移動するための道はあったのだろうか?

道の痕跡を調査

縄文時代の痕跡
縄文時代の道の痕跡が青森県にある三内丸山遺跡から発見されている。

特別史跡三内丸山遺跡サイトより転載


 縄文時代の遺跡から幅12メートルの土で舗装された道路の痕跡が発見されていた。これは驚くべき発見である。
 これは、局所的な発見なのかもしれない。だが、この時代にすでに道路を整備する技術を日本人は持っていた事になる。

広域的な道を示すものはあるのだろうか?

広域的な移動を示すもの

1. 律令時代の道

* 里目:  6世紀後半~8世紀:  5里(約20km)ごとに設置された土盛り。形状は一定せず、榎などの木が植えられたり、石碑が建てられたりしました。

2. 中世の道

* 道標:  平安時代~戦国時代:  木製や石製の標柱で、道筋や距離などを示しました。地域によって形状や書体、設置場所が異なり、多様性に富んでいます。

3. 江戸時代の道

* 一里塚:  16世紀~19世紀:  江戸五街道を中心に整備された、1里(約4km)ごとに設置された土盛り。榎などの木が植えられ、笠木と標柱が立てられました。形状や大きさは地域によって異なり、現在も一部が残存しています。

 縄文時代・弥生時代の広域的な移動を示す道の証拠を探すのは、難しい。だか律令時代については、里目などの遺跡が各地にある事は、それが広域的に移動していた証拠となる。

 何故?縄文弥生の頃からすでに移動していたのにも関わらず、道の痕跡を調べる事が難しいのだろうか❓
 この事については、想像の話になってしまう事ですが、現代の道路においても古くから道路とされていた場所を拡幅工事などを行い現代の道路になっている場所が多く、古代の道は現代の道に上書きされているためであると考えられます。

まとめ

 日本の道の歴史は古く、弥生時代から道路網が整備されてきました。弥生時代の道の痕跡が残る遺跡も各地で見つかっています。これらの遺跡を訪れることで、古代の人々の暮らしや文化についてより深く理解することができます。

 広域的な移動は少なくとも弥生時代には、すでに道路網があったと、今回の調査で結論付けました。
 縄文時代の広域の道路についての証拠についても今後も継続的に調べていきます。

 次回は陸路ではなく、海路の歴史を調べていきます。

参考遺跡
* 中山遺跡(長野県)
* 紫金山遺跡(福岡県)
* 城ノ内遺跡(熊本県)
* 東山遺跡(京都府)
* 纏向遺跡(奈良県)
 古代の道の歴史を知りたい方は、上記の遺跡を調べてみてください。

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