東京マラソン2023
3月5日に東京マラソンを走ってきた。
大きなレースが1つ終わったので、ここで振り返りをしておきたいと思う。
準備のこと
昨年の12月4日に出場した防府読売マラソンからちょうど3か月。
早い段階で途中棄権を決断したこともあり、軽い肉離れで済んだのは不幸中の幸いだったように思う。
2週間でゆっくりではありながらもハーフマラソンを走れるくらいまで回復できたので、12月の下旬から本格的に準備を始めることができた。
ただ、この3か月(実質2か月半)は思っていたよりも短かった。
というより、やっておきたいことがたくさんあり過ぎて、足りなかったという表現の方が正しいのかもしれない。
トレーニングのこと
東京マラソンに向けてのトレーニングは、ハーフマラソンと、40km(標準)と32km(短)の距離走を中心に組み立てることにした。
ハーフマラソンは、レースペースで走るトレーニングとしての位置付けで、1月から2月上旬にかけて3本走った。
大阪ハーフは、自己記録の更新も狙っていったものの、強風に阻まれてまずまずのタイム。
それでも、大阪ハーフと守谷ハーフで2週連続で1時間4分台で走れたことは大きな収穫だった。
ハーフマラソンの無い週は、諏訪湖で距離走をやることが多かった。
この2か月半で40kmは3回、32kmは2回くらい走った。
気温が低い中で走ることが多かったため、ペースは抑えめにして距離を走ることにだけ専念した。
ただ、回数としてはもう少しやっておきたかったというのが本音で、特に2月上旬に雪が降って40kmを走れなかったのは痛恨だった。
こればかりは自分の力ではどうしようもないので、他のトレーニングで補うしかなく、今回は16kmのペース走を何回か入れることで補完することとした。
いつも1人でやることが多かったが、今回は高校生が一緒に走ってくれることもあって、とても心強かった。
レースプランのこと
大会が近くなると、どのくらいのペースで走ろうかということを考えるようになる。
そこで、昨年の大会のリザルトを見て、どのくらいのペースの集団ができるのかを調べてみることにした。
大きな集団は、先頭集団(オレンジ)と、日本人のトップ集団(ブルー)と、私が属していた集団(ピンク)と、女子トップ集団(ベージュ)。
赤いボーダーラインが昨年の私であり、2時間15分が黒いラインである。
つまり、2時間15分を切りたければ、日本人のトップ集団についていくしか選択肢はないということになる。
そうすると、1kmあたり2分58秒くらいのペースで突っ込まなければならないのだが、これは流石にオーバーペースである。
ただ、東京マラソンの最初の5kmは下り基調であることと、途中から日本人のトップ集団から分裂した集団(水色)もできている。
途中で離脱することを前提としてトップ集団についていき、頃合いを見計らって離脱するというのが最善策と言えるだろう。
問題は、どこまで付いていくかである。
そのことについては、プロランナーの川内優輝選手に相談をしていたのだが、ポイントとなるのは心肺に余裕があるかどうかだという。
そこを見落とすと一気にペースダウンすることもあるというので、今回はそのバロメーターに注視することにした。
いずれにしても、マラソンをハイペースで突っ込むのには、それ相応のリスクもついて回る。
覚悟を決めて、腹を括らなければいけないのは必至だった。
前日のこと
東京入りしたのは、大会の前日。
エリートは、京王プラザホテルが受付会場。
名前入りのアスリートビブスは嬉しかった。
また、エリートは受付でユニフォーム審査がある。
「競技会における広告および展示物に関する規程」というのがあって、主にロゴの大きさや、スポンサー名や所属名の大きさをチェックされる。
規程は主に「国際規程」と「国内規程」の2種類があるのだが、東京マラソンは国際規程を適用するため、これが結構厳しい。
例えば、ナイキのエアロスイフトのランシャツの場合、後ろにロゴがあるものは、テーピングで隠されてしまう。
私が、後ろにロゴの入っていない旧型のエアロスイフトを使用しているのには、そんな理由もある。
スタート前のこと
東京マラソンの前なので、緊張しているのかと思ったけれど、夜は意外によく寝れた。夜中に3回くらい目が覚めたが、それはいつものことで寝過ごしたらいけないという気持ちの表れだろう。
当日の朝は、京王プラザホテルでスペシャルドリンクの受付を済ませて、ホテル内の集合場所から選手控室(都庁第一庁舎)へ移動するのだが、
流石に、ここまで来ると日本のトップクラスの有名ランナーたちも周りにいて、圧倒的な威圧感ゆえに、近くにいるだけでも精神力を消費しそうだった。
それでも、マラソン元日本記録保持者のすぐ近くに座ってしまう自分はふてぶてしいとしか言いようがない。
ウォーミングアップは、スタートラインのところ。
気になるのは、気温と風。
思っていたよりも寒く、風が強く感じた。
レースのこと
スタートすると、大きな先頭集団が形成された。
今回の設定ペースは1kmあたり2分57秒ということで、ハイペースであることに違いはないのだが、集団が縦に大きく先頭と最後尾の差が結構あったこともあって、大集団の最後尾に付いていた私にとっては実質1kmあたり3分00秒くらいだったように思う。
5kmの入りは14分57秒、下り基調ということもあってそれほど速く感じることもなかった。
その後、集団が分かれたため、後ろの集団につくことにしたのだが、10kmを過ぎたあたりでその集団のペースも上がったため、一緒に走っていた松井俊介選手と集団から離脱した。
そこからしばらく2人で走っていたが、後ろから中村匠吾選手、福田穣選手、藤川拓也選手らで構成される集団がきたため合流、ハーフくらいまで後ろにつかせていただいた。
ハーフの通過は1時間4分49秒、今までマラソンを走ってきた中でも最速の通過タイムだった。
ハーフからは単独走。そのため、応援もたくさん聞こえた。
全部に応えたい気持ちはあったものの、そこまでの余裕は無かった。
24kmの折返し地点までくると、前を走るランナーの姿が見えてきた。
30kmを過ぎても単独走は変わらず。
ペースもそこまで大幅に落ちているわけでもなく、まだまだいけそうな感じで、このままいけば自己記録も更新できそうだった。
35km過ぎで、SUBARUの口町選手に追いつき、しばらく一緒に走らせてもらった。彼とはスタート前にも話をする機会があったのだが、礼儀正しく、とても感じのいい選手だった。前から彼のことは大好きだったけれど、今回更に彼のファンになったことは言うまでもない。
35km以降は何の前触れも無く、一気に苦しくなった。
向かい風だからというわけではなく、身体の使える部分が一気に少なくなったような感じだった。
女子のトップ選手がやってきて、その他にも大勢の選手に抜かれた。
そして、それと同じくらいの失速しているランナーを抜いた。
目の前で突然倒れる選手、痙攣して立ち止まる選手をたくさん見てきた。
ラスト1kmまできても、苦しさは変わらず。
ゴールは目の前なのに、何もできない。
そして、いつ痙攣してもおかしくないような違和感。
本当にいっぱいいっぱいで、久しぶりの大失速だった。
フィニッシュラインがあと100m先だったら、痙攣して倒れていたのではないかと思うほどギリギリだった。
フィニッシュタイムは2時間17分19秒、自己記録には遠く及ばないタイムとなってしまった。
終盤の失速が大きかったのは、言うまでもないだろう。
GPSのこと
走っているときは、そこまでペースダウンしているとは思わなかったが、実際には思っていたよりもペースが落ちていた。
というのも、GPSの誤差が大きかったのだ。
GPS計測での走行距離は43.3km。
1km近く誤差が出ていることになる。
実際に、GPSの辿った軌跡を見ると、とんでもないところを走っている。
都市マラソンではよくあることだと思うが、ここまで誤差が出たことは初めてだったように思う。
ゴールした後のこと
ゴールした後に、タイムや失速したことに対して悔しい気持ちはほとんどなかった。
どちらかと言えば、ゴールできたことに対する安堵感の方が大きかったように思う。
着替えた後に、富士通の福嶋監督とお話をする機会があったのだが、全体的に前半にハイペースで突っ込んでいるので、脚も売り切れて終盤に失速した選手が多かったのだという。
そして、そんなことよりも、福嶋監督が今から20年くらい前に会った私のことを覚えていてくれたことがとても嬉しかった。
他にも、いろんな人と話す機会があった。
SNSでは、よくやり取りをする人も、実際に再会するのは5年ぶりというような人もいた。
マラソン大会の醍醐味と言ってもいいだろう。
今回は求めていた結果には届かなかったけれど、今までに味わったことがない貴重な経験ができたという意味では大きな収穫だった。
こんな経験も今後に繋げていきたいと思う。
いただいたサポートは、アイシングの財源にしたいと思います。