「誰も悪くない事」もある
何か特定のことについて書きたいわけではない。
というか、何か特定のことについて書けば、必ず「いや、でもこいつは悪いのでは」という議論になってしまう。
だからあえて、何について、ということは書かない。
世の中全般の、たくさん起こる悲しい出来事、うまくいかない出来事について。
○○が悪い、○○が動くべきだった、○○は知っていた。
確かにそれはそうなのだと思う。
誰かが何かをしたら、起こらなかったり、助かったりしたことはあると思う。少し気を回せば、多くの人を救えたこと、逆に気を回したせいでダメになったこともあっただろう。
一つの出来事は、何千、何万、何億の要素が関わって発生しているわけだから、誰か悪い奴を見つけることは簡単で、それを糾弾するのも気持ちいい。
でも、同じ世界で生きている限り、その何億に自分が入っていることもあるだろうし、そもそも、その一つの要素を排除しただけで、本当にその出来事が発生しなかったかどうかもよくわからない。
もちろん、明らかに○○が悪いと言えることも中にはあるとは思う。
ただ、もう少し「誰も悪くない」とまでは言わないまでも「誰も悪くないかもしれない」という可能性を前提に、さまざまな出来事を客観的に捉えることもたまには必要ではないだろうか。
なぜなら、「○○が悪い」という気持ちは、「自分が悪くない」ということを別の形で表現しているだけのような気がするから。
誰も悪くないかもしれない。でも起こってしまった。
じゃあ、何をどう変えていけばいいのだろう。
そんな議論の始め方もあってもいいのではないだろうか。
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