君の声は最後まで聞こえる 5.(終)

 星がきれいだ。星なんか見えないのにそう思う。星がきれいだ、と思う。
 夜。誰かと居て、しゃべることがなくなったときとか、気まずくなったときとか、そういうとき、星がきれいだって思う。それは条件反射的に頭に思い浮かんでくる言葉で、本当にきれいである必要はなく、もっと言えば、星が見えてる必要だってない。今だって、街灯の光を受けて、顔の前はまぶしいぐらいで、健兄の死体の青白い肌の色の照り返しがまぶしいぐらいで、でも、その青白い死体の照り返しの色が見えないくらい、私はきよのことを凝視して、何にも言えなくなっている。だから星がきれいだって思う。
 うそなんだ。それは。心の中にあるたくさんのうその一つなんだ。
「思い出したよ、依ちゃん」
 きよはうつむく。それから顔を上げて言う。いろんな顔のきよを見る。私は、もっといろんな顔のきよが見たいって思う。こんな時でなかったら、きよの、ころころ変わる表情をずっと見ていたかったって思う。
「私だった、私が、やってた」 
「なんで、きよ。分かったんなら、やめてよ、もう繰り返すの」
「ごめん、できない」
 きよはしゃがんでいた姿勢から立ち上がろうとして、それから、思い直したように健兄の体に顔をつけ、耳をつけて、心臓がもう止まってしまっているっていうのを、今更のように確認する。
「ごめん、お兄」
「あんたなら、戻せるんでしょ、時間」
「戻せるよ、依ちゃん、でも、しないよ」
「なぜだよ」
 きよは背を伸ばして立ち上がって、どこかすっきりしたような顔で私を見た。
「一般相対性理論の解、ゲーデルの解き明かした回転する宇宙では、閉じた連続した時間的世界線に沿っていけば、私達は過去へ戻ることができる。私は10の12乗グラムの燃料を乗せたロケットエンジンで進むのと同じ速度で、私達を過去へ進めたんだ。私には、そんな能力があったんだよ、依ちゃん。時間順序保護仮説は間違ってた。私達は、いつでも過去へ戻ることができる、自分の戻りたい過去へ戻ることができるんだよ、依ちゃん」
 私はきよが何を言っているのか分からない。けど、きよが間違いをしでかしてるというのは分かるから、きよの肩をつかんでぎゅっと握る。細い、小さな鎖骨と肩甲骨をつかむ。
「私は、未来へ行きたいんだ、きよ、行かせろよ」
「行かせないよ、依ちゃん、絶対に行かせない」
「なんでよ」
 きよは私には分かんないような笑みを浮かべていう。それは私を刺そうとする寸前の健兄にそっくりで、ああ、この子たちは兄妹なんだなって思う。
「私達はずっと、ずっとずっと、この繰り返しの中で生きていくの、この夏休みの中で、永遠に、何万回でも、何億回でも、この最後の週を繰り返すの。それが、私にとっても、依ちゃんにとっても、幸せなことなんだよ、依ちゃん」
 どこかすっきりしたような顔できよは言い、私は、何言ってんだよと思い、反発を感じる。
 でも、きよの言っていることも分からないでもない。誰もこの時の中で、この繰り返しの中で死なないのだったら、確かにそれは本当のことなのかもしれない。
 私たちは毎日遊びほうけて、プールへ行って海へ行ってスーパーでかき氷を食べて、花火をして公園へ行って恋の話をしたり将来の話をしたり、受験の話をしたり宿題の話をしたり宇宙の話をしたり、それだけできれば、私たちは幸せなのかもしれない。
 でも、私はそれが間違ってるってことを知っている。
 正さなくちゃならないってことを。みんな死んでしまうのだから。この繰り返しの中で死んでしまうのだから、私たちは、きよの作った世界の中で、未来を見ることもなく死んでしまうのだから。
 それを正さなくちゃいけないと思って、私は口を開く。
「そんなの――」
「依ちゃん、聞いて」
 言いかけた私の声を、きよが強い調子で遮る。ただならぬ様子で、きよは歯がみをする。その様子がいつものきよのようではないから、私は戸惑う。
「言いたくないけど、依ちゃんには言わないといけない。どうして私がこうしてるのか」
「なにがよ」
 ためらいのあとに、きよは言った。
「依ちゃんは死んじゃうんだ。この繰り返しから出たら、死んでしまう。だから私は繰り返している。それだけなんだよ」
 一瞬、言葉が出なくなる。きよの顔を見ている。きよの顔を見ている自分が真っ黒な影になったみたいに感じる。きよの言っている言葉は分かるけれども、理解はできない。でも、少しずつ、私はその意味を分かり始めてしまう。
「どうして」
「私もみんな覚えてるわけじゃない。覚えてるのは、大きな火が来て、依ちゃんは死んじゃうの。私は泣いて、それでもっといろんなこと、やってないこと、行ってないところ、たくさん行きたいって思って、それで、時間を戻せば、依ちゃんが戻ってくるって。だから時間を戻した。でもそれももうずっと昔のこと、一万回も昔のことだよ」
 聞きながら、自分の中で何かが震えているのを感じる。きよの言っていることが理解されるのにつれて、少しずつ分かっていくのにつれ、私は、自分が震えだすのを、止められなくなってしまう。
 嘘ではない。きよの表情がそれを物語っている。きよはこんな顔で嘘をつくことは絶対にしない。だからきよが言っていることは、本当なのだ。
「だから、ね、ずっと、ここにいよう、ここにいようよ。出ようなんて思わないで、この中なら、助けてあげれるから、いつまでも依ちゃんのことを助けてあげれるから」
 きよが近づいて、私のことを抱きしめる。温かい。細いきよの体と重さを感じる。びっくりして、きよを突き放そうとするけれども、いろんなことが起こって、泣きたいような気持ちと怒りたいような気持ちと、それからもっとたくさんの感情がわき上がって、もうどうするという気力もわいてこない。
 死んじゃうのか。
 私は、火に飲み込まれて死んじゃうのか。
 指が冷たい。体の末端に血が通ってない感じで、体の力が抜けていく。
 死んじゃうのか。私は死んじゃうのか。繰り返しが終わったら。だから、ここから出ないほうがいいのか。
 ここから出なければ、私たちは、夏休みのまま、ずっと楽しく過ごすことができるだろう。
 でも、記憶はどうする? いつか死ぬかもしれないという記憶を抱えたまま、夏休みを楽しむなんてことはできないだろう、とも思ったけれども、記憶は、たぶんきよが消してくれるだろう。繰り返しをしているという事実は、きよが調整弁を使って消してくれる。それに――とふと思う。もしかすると、これは初めてではないのかもしれない。
 その考えに思い至って、私は小さく身震いする。時間というもの、私が今日まで体験してきた時間というものの概念が、なんだか、違ってしまったような感覚だ。
 これは初めてではないのかもしれない。もしかすると、私はもう何回も繰り返しに気がついて、そして何回もきよに詰め寄って、記憶を消してもらっているのかもしれない。前の私、前の、記憶を消される前の私も、もしかしたらもう何回も、未来へ行くことではなく、繰り返しをすることを選んでいるのかもしれない。それは十分あり得る話なのだ。だって私は、自分が死ぬかもしれないような未来を選べるほど、強い人間ではない気がする。
 だったら今回だって同じことではないか?
 毎日を楽しく過ごすために、不安もなく、心配事もなく、死んでしまうかもしれないという未来を直視することなく、楽しい夏休みをずっと過ごすために、私はこの中から、出てはいけないのではないか。きよを泣かせるようなことをしてはいけないのではないか――
 そういうふうに、私は傾きそうになる。私はその考えに、自分が死んでしまうかもしれないという不安から出てきたその考えに、身を任せてしまいたくなる。きよの体を感じて、こんなに、泣いてまで、私のことを守ってくれようとしている女の子の気持ちを無碍にしてしまうことに、強い抵抗を感じてしまう。だったら、もういいんじゃないかって、思ってしまいそうになる。
 けれど、違うんだ。
 体の中に、自分でも分からない力が湧いてくる。でもすぐに私はその力の出所が理解できるようになる。私はぐっとお腹に力を入れて、自分にまつわりついているきよを突き放した。
 きよは不思議そうに、うるんだ目でこっちを見ていた。私はかぶりを振り、「違うよ、きよ」と言った。
「何が」
 動揺したようにきよは言う。きよは私をにらみつけて、強い口調で言う。
「何が違うの依ちゃん、言ってみて」
「だって、玉野も、健兄も、みんな、繰り返しを終わらせたがってたんだよ、きよ」
「だから、終わらせたら、死んじゃうって言ってるじゃん。依ちゃん、言ってるじゃんっ」
 混乱してきよは怒鳴り散らす。こんなふうなきよはたまにしか見たことがない。本当に怒っているんだなって私は思う。
「死んじゃうかもしれなくても、終わらせたがってたんだよきよ、分かる?」
「分かんないよ。死んじゃうより、大切なことなんて、ないでしょ、依ちゃん? 違う?」
 そうかもしれない。真っ正面から、その通りのことを言われて、私はちょっとたじろぐ。
 でも違う。私は違うと言える。私には、死んじゃうことより大切なことがあるのだ。それにきよにだって本当は、死んじゃうことより大切なことはあるはずなのだ。きよはそのことを忘れている。私たちには、繰り返しを終わらせられるだけの理由があるということを、私はきよに伝えなくちゃいけない。
「スキー」
「え?」
「スキー行こうって、良子と、約束した。約束したよ。きよ。ラーメン食おうって。そこでうまいとんこつラーメン食おうって」
「行けないよ、もう、行けないんだよっ」
 きよは泣きそうな顔で言う。
「行けるよ、繰り返しから出れば、未来になれば」
「行けないよ、その前に、死んじゃうんだよ」
 きよはいつまでもめそめそしつづける。私はだんだん、分からず屋のきよに腹が立ってきて、声を荒げた。
「未来ってなんだよきよ、言ってみろ」
「え?」
 急に言われたせいか、きよはきょとんとしている。
「未来ってなんだよきよ。ねえ、言ってみてよ」
 私はきよに近づいていって、もういっぺん、肩をつかむ。有無を言わせない調子で。
「依ちゃん、痛いよ」
「言ってみろ。言えないだろきよ。言えないだろ。でも知ってるんだよ私は、未来って何か」
「なに」
 私は分かる。今でなら。健兄がどうして、死んでしまうかもしれないのに、繰り返しを終わらせようとしたのか。健兄の死ぬときの必死さが甦る。私のすぐそばまで近づいて、息がかかるくらい近づいて、そして私のお腹にナイフを突き立てようとしたときの必死さを思い出して、私はお腹が熱くなる。その傷はまだ痛い。まだ痛くて、でも、私はその傷の痛みを、間接的にでも、きよに伝えないといけないんだ。
「未来って、可能性なんだよ、きよ」
 きよの目が揺れる。慌てたように、私から目を離そうとする。私は、きよの顔を掴まえて、私から目を離させない。
「今の次の瞬間が未来なんじゃなくてさ、二十三時五十九分の次の、二十四時ちょうどが未来なんじゃなくてさ、未来って、可能性なんだよ。そこに、考えとか、計画とか、友達と遊びに行こうとか、誰かを遊びに誘うおうとか、そういうのを託して生きるんだよ、それが人生なんだよ。私たちは」
「はああ? 何言ってんの依ちゃん」
「あるかもしれないことを信じて生きるのが、生きるってことなんだ、きよ。良子も健兄も、たぶん、死んじゃった他の子たちも、きっと、そう思って、だから、繰り返しから出ようと思って、あがいて、そして、死んじゃったんだ」
「この時間は偽物だって言いたいの、依ちゃん」
 きよが、自分のことを否定されたと思ったのだろう、目の中に涙を光らせて、半泣きになりながら言う。私はきよの目を見る。
「そうだよ、きよ、私たちは生きてないんだ。たとえ何日、何時間、この中で生きていようとも、私たちは、生きてない」
 きよが私の手を押し返す。唇を噛みながら私を見た。
「分かったよ、分かった。分かったよ。依ちゃんの考えは分かった。でも、出さないからね、私は絶対に、依ちゃんを出さないからねっ、この中から、この、繰り返しの中からっ」
 言われて、口ごもる。きよが本当にそのつもりなら、確かに、私たちは、ここから出ることはできない。どうしようもない。私たちはここで、繰り返しを続けることしかできない。
 でも、と思う。一つだけ、どうにかなる方法があるんじゃないだろうかと、私は思いついてしまう。
 頭の中に、その考えが広がっていって、そしてたぶん、それがそんなに嘘っぱちの方法ではなく、ある程度、実現可能性がありそうなのではないかということが目に見えてきて、恐ろしくなってくる。それは恐ろしい方法だからだ。自分でも、どうしてそんな思い切った考えが浮かんできたのか分からない。分からないけれども、やってみようという気がしてくる。
 いや、気がしてくるんじゃない。やらなくちゃだめなんだ。私が、私のために、死んでしまった人たちの思いのためにも、私はその方法が、どんなに恐ろしそうに見えても、やってみるしかないのだって、思えてきた。
 覚悟を決めて、私はきよに言った。
「やってみろよっ、きよっ」
 きよに背を向けて走り出す。きよが意表を突かれて「依ちゃんっ」って私を呼ぶ。でも、止まるわけにはいかない。
 走りながら思う。たぶん、私には義務がある。私にはたぶん、いなくなってしまった子たちの分の義務があるのだ。きよが、私のために繰り返しを始めたのだったら、私のせいで、彼女たちが死んでしまったことになるのだから。
 もちろんそりゃあ、私のせいではない。私のせいではないけれども、それを見ないふりして生きていることは、この繰り返しの中で安穏と生きていることは、もうできない。みんないなくなってしまったのだから。未来へ行こうとして、みんないなくなってしまったのだから。
 私には、彼や彼女たちの遺志を継がなくちゃならない義務があるんだ。
「依ちゃんっ、どこ行くのっ」
 走って行く。
 どこがいいかな。どこがいいだろう、と考えて、そうだ、と思いつく。
 良子のところに行こう。
 良子が最後に見た景色のところへ行こうと思う。


 きよの家のそばの高層マンション、昔のやつだからオートロックとかじゃないから誰でも入れるマンション。私は最上階までエレベーターで行く。屋上には出られないけれども、人んちのベランダを伝っていけばおんなじことだ、息を切らせながら、私は屋上へよじ登った。
 屋上は、排気ダクトが縦横に走っていて、その銀色の表面に月が反射して、まるで海みたいに光っている。掃除が行き届いていないのか、ダクト類の間には飛んできた落ち葉やビニール袋が吹きだまりになっている。機械室のような建物からは空調の機械が稼働しているような音が聞こえている。
「依ちゃん、待って何するの」
 後ろからきよが追いついてくる。高いところ嫌いなくせに、よくついてきたねって思う。
「きよ」
 すうっと息を吸う。走ってきたから、暑くて、汗がぽたぽたと落ちる。この高さでも風はそんなに冷たくない。でも、地上とは比べものにならないくらい、強い風が吹いている。
 私はきよの方を見る。距離にして、十メートルぐらいだろうか。離れている。十メートルもあれば、追いつかれることはないだろう、って思う。
「きよ、どうしても、繰り返しを終わらせる気はない?」
 最後にもう一度確認する。きよは質問の意図をはかりかねたみたいで、「どうしてそんなこと聞くの?」って言う。私はもう一度繰り返す。「答えて、きよ。どうしても繰り返しを終わらせる気はない?」
 きよはちょっとも考えずに、
「ないよ。絶対。ない」と言った。
 私は痙攣するように「ははっ」と笑って、そんな笑い方をしたのは怖かったからだけれども、とにかく、自分に活を入れようと思ってそんなふうに笑った。足ががくがく震える。口では強がって言うけど、心の中では、座り込んじゃいたいくらいに本当に怖い。でもやるしかない。
「分かった、きよ、気持ちは分かった」
「依ちゃん?」
 きよが一歩、こっちへ来る。私は一歩下がる。屋上の縁のほう。遙か下の地面が見えるくらいのぎりぎりまで下がる。
「私は、きよ、未来に行きたいんだ」
 良子のことを考える。良子は、何を見たのかなって思う。
 もしかしたら、良子は健兄に突き落とされたのじゃなくて、本当に自分から飛び降りたのかもしれない。どっちにしろ、良子が死ぬことを考えれば嫌だけども、でも、どちらがいいかと言われれば、最後まで自分の意思で、自分の行く末を決めようとしたんだったら、その方が良子らしくていいのかな、とも思う。
 空は広い。ここより高いマンションはもう一棟ぐらいで、それはきよの後ろに見えている。左手にあるのはJRの駅で、右手の方にあるのは、私たちの学校。学校の奥にあるのはちょっとした丘。あの辺にわき水があって、私たちは、わき水飲めんのかよっていいながらちょっと前に、私と良子ときよの三人で飲んだことがある。見えないけど、私の背中の方には海がある。海を見ながらにしようかなって思う。海を見ながら。見たって、どうせ真っ暗で、何にも見えないだろうけども、でもそこには、私たちが過ごした長い長い夏が、何重にも重なって残っているような気がした。
 ばいばい、って言おうとしたのか、でも、そんなこといったらばかみたいかなって思ったのか、私、口は動いたかもしれないけど、言葉にはならなかった。
 手すりを乗り越える。屋上の縁につま先だけ乗せて、もう、いくらきよが走ってきたって、引き留められない場所に出てしまう。
「依ちゃんっ」
 きよが叫ぶ。私は、言葉が出ない。恐怖と、でもこれしかないっていう義務感とで、喉が詰まってなにも出なくて――
 そして私は、自分の体を宙に飛び出させた。
 落ちていく。時間が止まったみたいになるけれども、周りの景色だけはすさまじい勢いで流れていって、私の意識だけが後に残っていくような錯覚がある。きよが手すりから身を乗り出して見下ろしていて、物凄い形相でこっちを見ている。
 その瞬間、きよが気の触れたような大声で
「戻れっ」
って叫んだ。
 何を戻れって? って疑問に思った瞬間、きよの後ろの空が回転を始めるのが見えた。繰り返しだ。きよは、繰り返しをさせようとしているのだ。
 今は八月二十五日午前零時三十分、普通だったらまだ繰り返しの始まる時間じゃない。でもきよが繰り返しを始めてしまったのは私を助けようとしているからで、また八月二十五日午前零時に戻して、私を屋上に戻そうとしているからなんだ、と気づく。
 空が元の形に戻って、繰り返しが終わったのだと分かる。時計は見れないけど、八月二十五日午前零時ちょうどに、私たちはまた戻ってきたのだろう。また一週間が始まる。また長い長い夏休みの最後の一週間が月曜日の頭から始まる。また時間は繰り返されてしまったのだ。
 でも――その繰り返しは無意味だ。
 私の体はまだ屋上から地面まで落ち続けている途中にある。なぜって、当たり前だ。今まで、繰り返しの瞬間に、どこか私が別の場所に引き戻されたなんてことがあっただろうか? そんなことがあったら、みんなすぐに繰り返しに気がついてしまう。そんなことはないのだ。
 屋上から身を乗り出したきよは慌てたような顔をする。きよは、繰り返しさえすれば私が屋上の縁にいた瞬間にまで戻るって思ったのだろう。きよの顔が遠ざかっていく。
 きよは泣きそうな顔になって、それでも私を助けようとして、もう一度「戻れっ」て叫ぶ。繰り返しが始まる。きよの後ろの空が回って、八月二十五日午前零時ちょうどに時間が戻る。また一週間が始まる。また長い長い夏休みの最後の一週間が月曜日の頭から始まる。私たちは、また、戻ってくる。
 でも、無意味だ。私はまだ、飛び降り自殺の途中にあった。
 無意味なんだよ。きよ。
 私は思う。繰り返しは私たちの意識の中の時間だけを戻して、私たちの肉体は戻さない。
 私はいまも空中にいる。さっき屋上から飛び降りて、そして、いまも地面へ向かって落っこちていく真っ最中だ。それじゃあ、何も変わらないんだよきよ、何回時間を戻したって、私が空中に飛び出してしまっている事実は変わらないんだ。
 だから私を助けたかったら、きよ。
「依ちゃんっ」
 あんたは、繰り返しを止めるしかない。
 この繰り返しの世界の中から、私たちを元の世界へ戻すしかない。
 だから――
 時間が回転を始める。私の中の三半規管が回転しているのを覚える。空がぐるぐると回る。地面が震動しているのが空気を通して伝わる。
 地面が迫ってくる。もうすぐ。もうあと一秒も経たないうちに、私が地面に衝突して、骨と肉と血に分かれてしまう。怖いなと感じる時間も、たぶんもうない。怖いな。死ぬんだったら、もうちょっと、かわいい靴を履いておけばよかったななんて思う。あともう本当に、まばたき一つ、本当に、あと一瞬のうちに、私が息を止めてしまうであろう、その瞬間に――
 スイッチが切り替わるように、私は、自分が、どこか別の場所にいる、ということに気がついた。
 ぼんやりする。視界の焦点が合わないみたいに、意識の焦点が合わない。今が何時何分で、ここがどこなのか、体がどんな姿勢にあって、どこに体重が乗っかっているのか、そんなのもぜんぜん分かんないくらい、頭がぼんやりしている。
 けれども分かっている。そんなのは決まり切っている。ここは元の時間だ。繰り返しが起こる前の元の時間に、私たちは、戻れたのだ。
 私は、きよに抱えられて、きよの部屋のベランダで、横たわっている、ということに気がついた。
 そうだ。
 私はあのとき、こうして、きよの部屋にいて、夏休みの最後の瞬間を、きよと一緒にすごそうと思って、こうしていたんだった。
 どれくらい前なのだろう? 何回前の、何万回前の、遠い昔のことなのだろう?
 もう忘れてしまうくらい遠い昔の、夏休みのことを、私は少しずつ、思い出し始めていた。
「依ちゃん、依ちゃんっ」
 きよが泣きながら私を呼んでいる。
 私はきよを押しのけ、スマホを見た。おそるおそる。繰り返しの時間の中で、もう何回も確認したその表記を見た。
 九月一日、午後零時一分。
 ああ――戻ってきたんだ。
「依ちゃん、何してるの、だめなんだよ、戻ってきちゃ、だめなの、戻ろう、戻って、それで」
「きよ、わかるでしょ、もう」
「依ちゃんっ」
 きよが混乱して、泣きながら、私に怒鳴っている。
「きよがまた戻したら、何回でも、飛び降りるからね」
 私はきよに笑いかけながら言う。それはきよと、健兄の、ちょっと残酷な笑い方が、うつったみたいな笑い方だって、私は自分で思う。自分で自分の笑い顔は、見えないけれども(それに、たぶん不細工だ)。きよにはかわいそうだけれども、でも、そんなふうに笑ってしまう。
「だって、だって」
「きよ。怖がんないでいいよ」
「怖がるのは、依ちゃんの方なんだよ、依ちゃんが、だって」
 そのとき、どこか遠くの方で、何かの炸裂する音がした。
 はっと顔を上げる。夜なのに、空が、東の方からどんどん真っ白になっていく。それが何なのか、私は知らない。知らないけれども、それはいいものではないのだろう。きっと恐ろしいものだ。ぶるっと、体が震えて、私はきゅっとお腹が縮こまった。
「きよ」
 私はきよを抱きしめる。自分が怖かったのと、きよを慰めようとしたのと、それから、飛び降りたせいで、まだ腰が抜けているのと、その、いろいろとで、人の体に触れていたかったからだ。
「ありがとう」
「え?」
 きよは本当に分からないみたいに聞き返してくる。
「私のこと、思ってくれて、それで、ずっと、助けてくれようとしてたんでしょ」
 きよは言葉を続けることができなくて、私の肩に顔を埋める。私はきよをもっと抱き寄せる。
 結果として、どうにもならなかったけれども、でも、私を助けてくれようとして、ずっともがき続けていた、目の前の女の子のことを、私は強く思った。
 お互いに、何にも言わない。どこかから地響きが聞こえてくる。怖くて、泣いてしまいそうだけれども、私は泣いてしまうのももったいないと思う。
 たぶんもう、そんなに時間は残ってないのだ。私たちがここでこうして息をしていられる時間は。あと少し、一日か、一時間か、一分か、時間が経てば、私たちはきっと水とタンパク質に分解されて、跡も残らないようになってしまうのだろう。その時間を、大切に使わないといけない、と私は思うのだけれども、でも本当は、こんなふうに思っていられる時間だって、私たちにはもう、贅沢すぎるぐらいなんだ。
 だって時間ならもううんざりするくらい、私たちは過ごしてきたのだ。きよが用意してくれた、最後の夏休みを、私たちは、いやってくらい、堪能してきたのだ。
 もう、終わったっていいのだ。
 ここが未来なんだ。私たちが、何度も、何度も、行こうとした――

 それから私は、きよの耳元で、いつか三人で話したことを、なぞるように言った。
「ね、スキー行こうよ」
「いつ」
 行けないよ、とは、きよはもう言わなかった。顔を上げて、きよが笑うのが見えた。私は、そのことがすごく、安心する。
「冬、白馬のほう。良子と、健兄と、それから、みんなでさ。何人でもいいよ。みんな、連れて、それで、ラーメン食べて、温かい、ラーメン……」
 遠くで、誰かが叫んだ。誰かが泣いている声がした。空気が熱くなってきた気がする。息を吸い込むと、熱くて、肺がいっぱいになる気がする。窓から強い光が射し込んできて、そうしてすぐに、何も見えなくなるくらい、明るくなった。
 でも、きよは言う。きよの返事だけは、最後まで、聞こえる。
「そうだね、行こうね、依ちゃん、冬になったらさ。冬になったらさ、みんなで――」