小説『ぼくはとても遠い海の真ん中にいます』

 彼は無人島にいて、無人島は私の部屋の引き出しとつながっているのです。私が引き出しの中に手紙を入れると、その手紙は彼のいる無人島に届くのです。彼は私の手紙を読んで「佐藤さん(佐藤は私の名前)こんにちは。今日はかまどを作りました」とか「今日は鏃になりそうな石を見つけました」とかそんなことを手紙に書きます。私は彼に「こんにちは、今日は私の書いた詩を送ります」とか「小説を送ります」と言って、私の作った話を送ります。彼はそれを喜んで読んでくれて、手紙に感想を書いてくれて、「とても面白い」とか「今日はできが悪いです」とか「新人賞に応募してみたらいいと思います」とか言ってくれます。
 私は私の書くものなんかを楽しんで読んでくれる彼のことが好きなので、暇さえ見つければしょっちゅう机の引き出しに私の作った話を入れるのでした。
 どうして引き出しの中に無人島とつながっている空間があるのかは分かりません。きっとドラえもんか何かが、通り抜けフープを使ってつなげてしまったのだろうと思います。世の中には分からないことがたくさんあるものだ、と私は理解していました。それに、私はお話を自分で作ったりするぐらい、夢見がちな人間なものですから、たいていの不思議なできごとには、驚かないつもりでいるのでした。
「あなたのことを助けにいけたらいいんですけどね」と私は手紙に書いて送ります。彼ははははと手紙に書いて、「ぼくのことを助けることはきっとできません」と返事をします。
「どうして?」
「ぼくはとても遠い海の真ん中にいます。周りにはたくさんのサメがいます。たくさんの海賊が行き交っています。佐藤さんがきたらきっと死んでしまうでしょう」
「でもそれでも、私はあなたのことを助けにいきたいです」
 そうしたら、彼は涙のにじんだ手紙を返してくれました。「ありがとう、佐藤さん、その気持ちだけで、ぼくはうれしいです。ぼくは生まれてからずっと、そんなことを言ってくれるただ一人の友達を持ちたかっただけのような気がします」
 私は、私の手紙なんかでこんなに喜んでくれる彼のことが好もしく思えてきました。そして同時に、本当に彼のことを助けにいきたくなりました。でも、そのことを彼に伝えるたびに、彼はいつも、「それはできないですよ」と言うばかりで、私に具体的な場所を教えてくれはしないのでした。私は、彼の閉じ込められている、遠い彼方の無人島のことを何度も夢に見ました。家族で海に遊びに行くと、彼のいる島はどちらのほうにあるのだろうと、水平線の果てをじっと見ていました。船乗りになって、彼のことを助けにいけたらいいなと、船乗りの学校のパンフレットを取り寄せたりもして、お母さんを驚かせるようなこともありました。

 それから一年経ちました。ある日、お父さんが、我が家の屋根裏に潜んでいる不法侵入者を見つけました。
 不法侵入者は、何年か前の大不況のときに職を失って、それから鍵のかかっていない家などを転々としてきたのですが、たまたま我が家の屋根裏に都合の良いスペースがあるのを見つけると、そこに居着いてしまったらしいのです。
 家族がみんな出払った昼間や、夜中にこっそりと屋根裏を抜け出して、冷蔵庫の中身を少しずつ拝借していたのです。それで時折、お母さんは冷蔵庫の中身がなくなっているといって、私をしかりつけていたのでした。
 私は彼の捕まるところを見ませんでした。話に聞くと、彼が屋根裏にこしらえたベッドの傍には、私からの手紙が丁寧にたたまれてしまってあったそうです。彼が捕まったときも、ちょうど、私の新作の小説に対する返事を書いていたときだったそうです。
 それらをみんな、お母さんは、私を傷つけないように、丁寧に優しい言葉で話してくれました。私はお母さんに、彼の潜んでいた屋根裏を見に行きたい、と言いました。けれどもお母さんは、それを許してはくれませんでした。PTSDになってしまうから、の一点張りで、私は彼の潜んでいた屋根裏を見ることはついにできませんでした。屋根裏へ上るための階段は、私の見ている前で、お父さんに釘で封鎖されてしまいました。
 だから、彼が本当に屋根裏に潜んでいたのかどうか、いまでも私は分かりません。
 私は、彼はいまでも無人島にいるような気がしています。広い海の真ん中で、誰も他に頼る人がいなくて、私の手紙だけが唯一の心の支えであるような人が、遠い海原のどこかに寂しく待っているような気がします。
 私はそれからも、私の書いた小説や詩を、手紙の形にしたためて、机の引き出しの中に何度も入れてみました。彼の感想を聞きたいと思って、何度も手紙を書いてみました。でも、手紙が消えていることはもうありません。それでも私は、手紙を引き出しの中にしまってしまいます。彼からの返事があるのかもしれないと思って、何度も引き出しを開けて見たりします。
 いつか、こんなこともみんな、くだらないことだったなと思えるような日がくるのかもしれません。それまで私は、彼からの手紙が、世の中の不思議なことわりにつれられて、私の机の引き出しの中に現れることを期待して、何度も、何度も、引き出しを開けたり閉じたり、していくのだと思います。

終わり