君の声は最後まで聞こえる 2.

 三日後。私にとっては三回目の八月二十八日木曜日。
 良子の葬式はなくて、良子の家族だけで営まれることになっていたから、私はきよの家できよと一緒にいた。形だけでも葬式をしようって言って、でも何をしたらいいか分からないから、お線香を買って灰皿の上に立てた。スマホで良子の写真を表示しようとして、遺影にしようかと思ったけど、きよは、良子の顔を見るだけで泣いちゃうから、それはできなかった。私たちは何にもない窓辺に灰皿を置いてそれに火を付けた。お線香の煙が、きよの部屋に広がった。
 私自身、まだ良子がいなくなったことに現実感が持てなくて、心の中にもやがかかっているような感じでしか良子のいなくなったことを受け止めることができなかったから、きよみたいに泣いたりすることもできない。泣いたり悲しんだりできるのは、現実を否定したりゆがめたりしないでそのまま事態を受け止めることができるという証拠なのかなと思って、そう考えるときよはずっと強いのかなって思った。きよを慰めながら、良子の話をしたり、良子以外の話をしたりした。
 きよは途中でなんか買ってくるねって言って外へ出て行った。
 しばらく部屋のなかでぼんやりしていると、健兄が来た(健兄とは仲がよかったから、きよの部屋に健兄が来て、一緒にゲームなどをすることはよくあった)。
 健兄。平河健(ひらかわけん)はきよのお兄さん。身長が164センチで男性としては小柄だけれども、きよに似ていて顔はいい。やつれた隈のある目のアイドルみたいだって私はよく思っていて、病人だけれども、パジャマとかを着て寝ているところはあんまり見たことがなくて、今日は紺色のスラックスと水色のシャツを着ている。
「入っていい?」
「聞くんだ健兄」
「一応ね」
「こんにちは健兄」
「こんちは依ちゃん」
 健兄は歳が少し離れている(確か22歳)こともあって私とも仲がいい。健兄ときよと私は小さい頃から何度も一緒に遊んできた。私たちはいつも三人一緒だったけれども、中学生ぐらいのときに健兄が病気になって、それからは少し疎遠になってしまっている。
 病気について私は知らない。それは内臓のかなり深刻な病気であるということで、きよは時折健兄の病状について深刻な表情で愚痴をこぼして、愚痴をこぼすときのきよは心底健兄の病状を心配しているらしくて、私はそんなきよを見ているのがつらいと思っていた。
「依ちゃん、串良さんと仲良かったよね」
「うん」
「どうして飛び降りたんだろうね」
「分かんない」
「この話、続けたい?」
「どちらかといえば、続けたくないかな」
「じゃあ止めるよ」
 何にも言わなくなる。
 私は、何にも言わないんだったら出てってよって思うかっていうと、もちろんそんなことはない。健兄もそのことが分かっているから出ていこうとはしない。きよの前では泣かないけれども、健兄の前だと緊張が緩むせいで、ちょっと涙が出てくるから、私は涙を指の腹で拭く。
「仲良かったんだね」って健兄は言う。私はうなずきながら、あんまりそういう過去の話をしないで欲しい、泣いてしまうから、って思い、そしたら本当に良子の思い出がたくさんこみ上げてきて、私はみっともなくもしばらく泣いてしまう。あっ、泣けたなって思う。泣けなかったのはなんだか安心できなかったからかなって思う。あんまり健兄に泣いてるところは見せたくないけれども、泣いてるところを見せてもまあいいかと思える人はきよのほかには健兄しかいないので、泣いてしまう。
 健兄は何にも言わないで部屋の中にいてくれて、お茶でも飲むって言って新しいお茶を入れてくれた。私は頷いて飲んで、健兄が優しいのに涙が出てきてまたしばらく泣いていた。
 それから少ししてきよが帰って来たけれども、きよはあんまり良子のことばかり考えていたら気分が悪くなったって言って、もう帰ることにした。
 きよは言う。だいぶ前に、同じ学校の宝船さんが死んだときと同じで、誰か友達が死んだら自分が元に戻るのにはずっと長い時間が必要になってしまうから、だからもうこれはしばらくの間付き合っていかないといけない憂鬱なんだって言った。
 きよは強いなって思った。これがきっとすぐには治らない憂鬱だっていうことを自覚して、そしてそれに備えることができるのは、強いなって思った。
 私は健兄ともうちょっと話したかったから、健兄が「送っていこうか」って言ってくれたのはうれしかった。
 歩きながら少し話して、近くの海へ行くことにした。この辺は海水浴場じゃないし、礫浜だから人はあんまりいないから、人と話すのにはちょうどよかった。
 外は26度。真夏日だけれども、日が落ちてきて暗くなってきたから、少しはマシだ。
「体調、平気、健兄」
「だいじょぶ、依ちゃんこそ」
 私は気を遣うふりで健兄の手を握る。健兄は慣れたように握り返してくれる。
 私はたぶん、きよの次くらいには健兄のことを愛していた。いや、妹は、お兄さんをそんなには愛さないだろうから、たぶんきよよりも健兄のことを愛しているのだろう。健兄もたぶん、私のことについて、そう思ってくれているだろう(だってどうせ、健兄の世界には家族の他には女の子は登場しないだろうからだ、という打算はもちろんある)。
 夕暮れ。遠くの丘の方はもう黒い塊になっているけれども、空と海の上にはまだ少しだけ光が残っていて明るい。今日は風も凪いでいるから波の音も静かでちょうどいい。
 歩きながら良子のことを思い出す。いなくなった人について思い出すときは、何か別なぜんぜん関係ない行動をしながら思い出したほうがいいな、って思う。そうしないと思い出に強くのめり込みすぎてしまうから。のめり込みすぎないちょうどいい塩梅で考えるには、そうした方がいいって思う。
 それから、ふと思いついて健兄に尋ねる。
「健兄は、時間は繰り返してるって思ったことない?」
「うん」
 それはもしかしたら、良子のほかにも繰り返しに気がついている人がいないかどうか、を探るためでもあった。横目で健兄の顔をちらっと見つめ、それから、自分がさもさりげなくその話題を切り出したのだというように、目線をそらす。
「それは有るのうん? 相槌のうん?」
「依ちゃんはどっちだと思う?」
「めんどくさいやつだな」
「ひひひ」
 どういうふうに話をまとめようか、さもさりげなく話題を持ち出したふうに聞こえるには、どういうような展開をしたらいいかなって思う。
「いつも思ってるんだ。この世界って、もしかしてずっと繰り返しているんじゃないかってこと」
「それは大局的な意味での循環? それとももっとミクロ的な意味での循環?」
「ミクロ的な意味での循環。大局的な意味での循環って?」
「永劫回帰とか、サイクリック宇宙論とか」
 知らないけど、たぶん違う話だろう。
「そうじゃなくて、私たちは毎日繰り返しの人生を送っていて、それで時が前に進んでいるように思えるけれども、実際には毎日繰り返しているだけなんじゃないかって」
「思春期の時には考えがち」
 思春期の時でまとめんなよ。
「依ちゃんはその繰り返しの単位はどのくらいだと思ってるの?」
「えーと、いっ、ヵ月ぐらい?」
 一週間、と本当のことを言わなかったのは、どうしてか躊躇われたからだけれども、それでも冷静に考えたら、「この世界は」なんて主語の話をし出したのに、一ヶ月なんてスケール感を急に小さくしてしまったのは、それはそれで何か論理の展開に問題があるような気もする。
 私はたぶん、うすうすにでも健兄に気づかれて、(依ちゃんは頭がちょっと残念なんだな)って思われてしまうのがいやなんだ。
「実感はあるの?」
「うーん、実感と言って、これといったものは、ないけど」
「でもそれって、全部依ちゃんの錯覚だったっていうことはないかな」
「錯覚って?」
「いま仮に名前を付けよう。それは時間循環症という精神病の一種なんだ。時間循環症患者は、自分が時間を巻き戻されているという思いに駆られる。もちろん本当は他の人たちも一緒に時間を巻き戻されているのだけれども、でもどういうわけか、ほかの人たちは気が付いていない。自分だけが時間循環の罠の中に嵌まってしまっている。そう思い込んでいるって」
「病気ってこと?」
「そうかもしれないね。統合失調症的」
「健兄は私がそうだってこと?」
「依ちゃんはたぶん違うよ。話してることが筋が通ってるし」
 そうだ。筋が通っていることが、なによりも問題なのだ。
 いっそのこと、何もかもが違和感だらけになってくれれば、もっとすっきりと自分の頭がおかしいというせいにできるのに、何もかもが整っているから、自分自身のせいにもできないんだ。
 私は、健兄に繰り返しのことを、私は実際に時間を巻き戻されているんだよ、ということを、伝えようかどうか考えて、でもいつまで経っても、そのことを伝える勇気が出なかった。病気の話をされてしまって、健兄に、私は病気なんだって、頭がおかしいんだって思われるのがいやだから、自分が時間を繰り返してしまっているということを告白できない。
「で、依ちゃんはどう? もしこの世界がループしてるっていうんだったら、ループから出たい?」
 それは私がずっと考えていることだ。夏休みがずっと続くんだったら、なにも無理にこの繰り返しから出ようとしなくたっていいのではないか、ということ。
 良子は、確かに死んでしまった。今となってはその自死がどういう思いの下でなされたのか、私には分からない。六年間も同じ繰り返しの日々を続けていれば、頭がおかしくなってしまっても不思議ではないとは思うけれども、でも、まだ三回しかループしていない私には、その恐怖や重圧は、理屈としては分かるけれども、実感として感じるのは難しい。
 あくまで今のうちだけは、という前置きを心の中でした上で、健兄に首を振った。
「夏休みがずっと続くんだったら、私はそれでもいいかな」
「そっか。じゃあ僕とは相いれないかな」
「健兄は出たいの? あっ、もしこの世界が繰り返してるって言うんだったらね」
「うん」
 健兄は礫浜の礫を蹴っ飛ばしながら言った。
「そしたら僕は、出たいかな」