日記 東京海洋大学のマリンサイエンス・ミュージアムを見に行く
東京海洋大学のマリンサイエンス・ミュージアムを見に行った。
なんでかというと小説(スケールアヴィエーションの小説)で使おうと思って捕鯨のことを調べていて、それで捕鯨砲の展示があるという情報を知ったので見に行くかということになったのである。捕鯨砲というのは鯨に打ちこむための銛を撃つ火器のことだ。鯨は銛で取るのだ。まあ、そんなことも知らなかった。
天王洲アイルに着く。ビッグサイトに行くときによく通り過ぎる駅だけれども降りるのははじめて。
空が広い。海が近いのだろうと思うけれども海は見えない。海が近いのに海が見えないのは何か壁の向こうにお化けがいるような気がする。
天王洲アイルはアートの街になりつつあるらしい。倉庫沿いにギャラリーがいくつかある。今回は行かなかったけれども面白そうな雰囲気があった。
海沿いだからか倉庫がたくさんある。おしゃれなカフェもある。犬を散歩しつつ、犬の乗せるためのカートを押している女性の方がいる。わたしもカートに乗りたいと思う。
橋(天王洲ふれあい橋)を渡る。渡っていると屋形船がきたので見つめる。昔からなんとなく船が動いていると動画に撮ってしまう。動画を撮ろうかと思ったけれども、屋形船の上に人が乗っていたので撮りづらい。それで船が橋の下をくぐって後ろを向いた瞬間に動画を撮り始める。
川沿いに高層マンションがたくさん建っている。ウォーターフロントというやつだろう。川沿いに住むのはいいところもあり悪いところもあるだろうけれども一度住んでみるのもいいかもしれない。少なくとも船が通りがかるたびに動画を撮るのには困らないだろうな。
水門と、船着き場ということなのか運河に降りてコンクリの階段を見る。RPGみたいで楽しい階段。一番下が水の中に浸かっているのがいい。水中遺跡という感じがする。
東京海洋大学に近づく。船が飾ってあるのが見える。確か練習船の捕鯨船だ。でかい。船には興味はないと思っていたけれども最近は船に興味が出てきたような気がする。
海は落ちたら助からないし底が見えなくて怖いので船もそんなに興味がなかったけれども、海が怖いということを除けば船はいいものなのかもしれない。
『憧れのヨット生活』みたいな本を図書館で借りたこともある。ヨットを買って週末に海に出て、それでゆらゆら揺れながらコーヒーを飲んだりするのが楽しいらしい。ヨットの中にはトイレも水道もあって家みたいになってこたつがあったりするのもあるようだ。そういうのもいいかもしれない。わたしも将来お金持ちになったらヨットを買って波にゆらゆら揺られるとしよう。
普段、そういう買ったヨットはどうしているのかというと、マリーナという係留施設に停めておくのだそうだ。たまに見かけるマリーナという名前はそういう施設だったんだなと思う。妙見島という二十三区唯一の島の探検に行ったとき、マリーナという名前の施設があってそこにヨットがたくさんあったのを覚えているが、あれはそういう施設だったんだ。
東京海洋大学に向かう。東京海洋大学には天王洲アイル側からでも入れるのかと思ったけれども案外品川駅の方まで行かないと入り口がない。それで東京海洋大学の校庭(大学の校庭も校庭っていうんだったか)の横を通って品川の方まで歩いていく。
結構歩いて正門の方まで着く。入ってすぐクジラギャラリーという、クジラの骨を飾っているギャラリーにたどり着く。
でかい。
ここに飾られているのはセミクジラとコククジラという二種類のクジラだ。どちらもでかいがセミクジラがとても大きく、嘘だろというような大きさを感じる。
たとえば上野の国立科学博物館の前にあるシロナガスクジラのオブジェは見たことがあって「クジラはでかい」ということは知っているのだけれども、このクジラギャラリーのクジラの骨はとても大きく感じた。骨だからだろうか。骨だからカクカクしていてそのせいで大きく感じるのだろうか。パーツが多いと大きく感じるのかな?
骨の下に入りこんで、下から骨を見上げているとき、クジラと同じ位置に自分が存在しているというような感覚を強く受けた。もうこの骨はぜんぜん生きていないのだけれども。
ヒレ、を見ると骨が五本あって、指なんだなというのがわかってなにかぞわっとする。手みたいな形をしているのだ。
下から椎骨のずらっと連なっているのを見上げるときに建物の天井の青いのと相まって骨が雲みたいに見えるのもよかった。
長いものはなんとなく好きでそれは青森県の津軽で太宰治が天気輪を見たお寺の地蔵堂のお地蔵さんがとても細長かったのを見て以来なにか好きなのだけれども、クジラの椎骨もそんな感じ。
外に捕鯨砲が展示されていたので見る。捕鯨砲は旧式と新式の二種類が展示されている。ところで旧式の銃口の中に鳥が巣を作ったような跡があったのが面白かった。雀とかかな。
マリンサイエンス・ミュージアムに行く。わたしは人気のない博物館が好きでここも一人で見れないかなと思っていたけれども中学生ぐらいの子供たちがたくさんいたのでしばらく一人にはなれず。途中から一人になれたのでよかった。人気のない博物館は静かだけれどもところどころに生き物の気配(気配だけ)、生き物の抜け殻が置いてあるところがいい。
生と死の間ぐらいにある。死んでいるんだけれども形を保っているから生きているものよりもうるさくはないけれども、完全に死んでいなくなっているようなものよりも寂しくはない、そういう塩梅のところ。
南極調査時に船の上でペンギンを飼っていたらしい。だいぶ船員に可愛がられていたのだけれども、ペンギンが船酔いと食欲不振で衰弱してしまったので、やむなく注射で眠らして冷凍保存した、という張り紙が展示されていた。ペンギンも船酔いになるんだなと思う。
「文面には飼育担当者の想いが込められています」と紹介されているのもよかった。
帝王ペンギンと呼ばれていて、皇帝ペンギンという名前はもっと後の名前なのかなとも思う。それともキングペンギンのことか?
ペンギンの剥製が結構な量展示されていたのもよかった。ペンギンの目を見て心のなかで会話を試みようというような気分にさせられる。心のなかで会話を試みようというような気分にさせられる剥製はいい剥製だと思う。目を見ているうちに奇妙にも精神が融通していくような感覚に陥る。
「野生動物のそばにいるのに、それが自分にほとんど関心を示さないとき、私たちはなぜか多少の困惑を感じてしまうものだ。」
というのはトム・ヴァン・ドゥーレン『絶滅へむかう鳥たち』の一節だけれども、なにかそれに近いものを感じる。
剥製となってもう生きていない動物を見つめるとき、わたしたちはなにか多少の困惑を感じる。
それは夜中にこっそり動き出すかも、というような感覚でもない。
生と死の間にあるような在り方の一端を垣間見るような気がするから、そういう感覚なのかもしれない。
サメが結構かわいい。
ロブスターがでかい。
ニシキエビというロブスターは光沢があってとても綺麗な色をしている。食用というよりも剥製にして飾るためのエビらしい。とても綺麗ででかいので飾りたくなるのもわかる気がするが、家でエビを見かけたらびっくりするだろうなと思う。
奥の方にドワーフミンククジラの骨の展示がある。クジラなのでやはりでかいと思いながら見ていると、尾びれに位置するであろうところにアルミのフレームでなんらかの形が描かれていて、なんだろうと思っていたら、生前の尾びれの形を表しているということに気が付いて切ない気持になる。
失われたものを再現しようとする行為には(それが生きていたものであればなおさら)物悲しさとノスタルジアが伴う。自分が死んだ後に自分の生きていたことを何とか再現しようとする誰かのことを考える。もうわたしは死んでいるんだぜというように言いたくなるかもしれないけれども、でもその誰かにとって自分の生きていたころを再現するのはとても大変な大切な仕事なのだ。
自分は黙ってその人が自分の何かを再現するのを見ている。それは悲しいくらい遅々として進まない仕事で、悲しいくらい自分を再現しているとはとても言えないのだけれども、でも、その人はずっとそれを再現する仕事を続けていて、自分はもう死んでいるから何も手伝えないし、何もできない。
何かそんな場面を空想する。
同じ部屋に毛布にくるまれている何かの剥製があった。毛布をめくって見るわけにはいかないので、それが何なのかわからないけれども、毛布にくるまれている剥製は立って展示されているときよりもずっと死体みたいだという気がした。
見終わったらもうお昼だったので東京海洋大学の食堂でご飯でも食べようかと思って検索したら東京海洋大学の食堂は二時で終わりだった。ショックを受ける。ご飯が食べたい。
ご飯どうしようと思って探す。わたしは別にご飯にこだわりはなく吉野家か松屋か日高屋があればそこでいいのだけれども、最近は何か食堂みたいなところに行ってもいいかなという気持ちになれているので「食堂」のキーワードでGoogleマップを探すと、品川駅の近くにある食肉市場の敷地内に一般人でも入れる食堂があるらしくてそこに行く。
入っていいのかなという気分になりながら市場へ入る。
店の中は市場で働いてる人らしい人たちもいたけれどもスーツを着た人もいて、東京都の施設だから東京都の人なのかも? スーツを着たわたしがいても入って行っても問題なさそうな感じだったので入ってもつ煮定食を食べる。
味噌汁の中に煮込まれたもつ煮が入っているのが不思議な定食だった。味は美味しい。ちょっと食べ足りなかったのでコロッケ(メンチカツだったかも)を追加で頼む。一個三百円。高いがまあうまい。
それから電車に乗って帰った。船酔いになって死んだペンギンのことと、再現されたクジラの尾びれのことを考える。