見出し画像

年末の朝生だけど……

田原総一郎は九十歳だそうで、流石にボケて……と言うのではない、最初からボケているから、相変わらずボケていると言うべきだろう。今回はおきまりの「宮沢総理って知ってる?」は、出て来なかったが、パーティー券問題に触れて、「羽生田が云々」と言ったら、どこかのNPO法人の代表者だという若い女性が「はにゅうだって、だれ?」と言って田原の腰の骨を折っていたが、本当に自民の政調会長のことを知らなかったら、「朝生」に出て来る資格はないと思うけど……。それは兎も角、話がどんどん飛んで、一瞬、だけど憲法改正問題になって、世論調査で改正賛成は、60%を超えているそうだ。産経系ではなく、毎日とか朝日だったと思う。「9条問題を含んで?」と誰かが聞いて「そうです」と、誰かが答えていた。確かに憲法9条、特に問題の二項目は、日本語としてさっぱりわからない、という以前に、日本語になっていないと思う。それより、ショックだったのは総選挙の投票率で、二十歳代は二割を切っているそうだ。一方、七十歳以降は九割。このアンバランスはグロテスクだ。要するに日本は「立ち腐れ」しているのだ。これまでも、比喩的に言われていたけど、もはや比喩ではなく事実なのだ。後期高齢者の私は、選挙には行っているけど、今後はバランスを取るために控えた方がいいかも。それはさておくとして、話は、なぜこんな数字になったのかという話になって、学校教育で具体的な政治に関わる問題は教えないことになったから、という解説で一致していたけど、私としてはディベートを取り入れるべきだと思う。というのは、赤坂真理という小説家が『愛と暴力の戦後とその後』という本で、十五、六歳の頃、アメリカのハイスクールに通っていたそうで、そこで「天皇の戦争責任」というディベートが行われたという。ディベートは、「天皇と戦争責」を肯定命題として設定し、否定派と肯定派に分かれて議論する。ただし否定派と肯定派は、第二ラウンド――というのかな?――では立場を変える。要するに、純粋に論理な論理問題として問題を論じるための訓練なのだ。一種のゲームであって、若い人は好むと思うけどなあ……。日本では議論の目的は「相手を言い負かす」ことにあるから、何の成果も得られない。実際、「ディベート」という言葉は、一時期話題になったので、教育に取り入れているところも……でも、あまり聞いたことはないなあ。『愛と暴力……』は結構、難解で、かつ範囲が極めて広いので、まだ拾い読みしかしていないけど、私が気になっていたことと重なっていることが多い。だからいいというと尊大だが、例えば、漢字の問題をとりあげていて、漢字を使う国は日本だけになるかもしれない、と書いていた。昔、周恩来が日本に来た時「漢字のような面倒臭い文字を教えて、まことに申し訳なかった」と謝罪し、日本人は意味がわからず、ぽかんとしていたそうだが、当時の中国は漢字廃止に動いていたが、そうはならず、簡体文字でお茶を濁すしかなかったが、朝鮮も、ベトナムも廃止した。書評は、アマゾンで。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?