子どもが欲しくない 繰り返す 私は子どもが欲しくない

 子どもを欲しくないと初めて思ったのは、小学四年生か、五年生のときだった。私は小学四年生の一年間、学校へ行けない不登校児だった。原因の一つは、毎日ヒステリックに怒り散らす担任の先生だった。今考えてみると問題のある先生だった。私は共感力の高い、繊細な子どもだったから、他の子が怒られている時、まるで自分が怒られているかのように感じていた。そのうち学校が苦痛になり、夏休みが明けたある日の朝、学校へ行けなくなった。自分でも、最初はなぜ学校へ行けないのか分からなかった。学校へ行き渋る私に、母は腹を立てた。母の出勤時間になっても私は学校へ行けなくて、母は自分のお弁当の準備ができず「今日は(お弁当がないから)水で我慢だ」と私に八つ当たりしたことを、今でもはっきりと覚えている。今ならコンビニで済ませるなどいくらでもお昼の用意を準備する手段があるはずだと分かる。けれど当時の私は子どもだったから、そんなこと思い付かなかった。母は本当にお昼抜きだと思った。
 私はその言葉にぷつんと糸が切れた。私を学校へ連れて行こうとする母に、泣き喚いて抵抗した。学校では担任の先生に「保健室に行こう」と言われた。保健室なら、私もなんとか登校できた。
 その頃だった。人生は苦痛に満ちていると知ったのは。私は学校へ行くくらいなら死にたかった。小学四年生の子が、死にたいと思い詰めていた。死ねば苦しくなくなると、本能的に子どもの頃の私は知っていた。そう、死にたいという感情は、本能なのだと思う。
 あるとき、私は母にひどく叱られた。私は叱られている内容に納得いかなかった。お風呂に入りながら、なんで、なんでと繰り返し泣いた。蛇口から流れる水を眺めながら、この世は地獄だ、と悟った。この世に子どもを産むなんて、私は絶対にしない、と思った。
 小学六年生の時、親戚に子どもが産まれた。私は母と一緒に、産院へ訪れた。赤ちゃんはしわしわで、可愛いなんていう感情は浮かんでこなかった。私は、感激する母の横で、可哀想に、と思っていた。こんな世界に産まれてきて、可哀想に。人間は、産まれない方がいいのに、と思っていた。私は反出生主義という言葉を知る前から、反出生主義の思想に、小学六年生にしてたどり着いていた。

 反出生主義という言葉と出会ったのは、ウィキペディアだった。私は当時にしては珍しくネット環境を与えられていた。私にとって、ネットは逃げ場であり、居場所であった。私はネットを通して様々なことを知った。田舎に住んでいたから、ネットを通して、本当に、様々な文化を知った。そのうちの大きな一つが、椎名林檎だった。当時椎名林檎を聞いている同級生は、ほとんどいなかった。私は多分、カラオケで変な歌を歌う変な女の子だった。そのほかにも、ラッドやバクホンやアリプロや、他に誰も聞いている子なんかいない音楽を聞きまくった。もちろん、ニコニコ動画で。

 話を戻すと、私は小学生の時すでに子どもが欲しくなかった。ただ結婚だけはしたくて、夫と結婚した。夫も子どもが欲しくない人で、私たちは結婚三年にして、一度も子どもについて話したことはない。
 基本的に、私は夫のことが大好きだ。
 ずっと夫と二人で楽しく暮らしていきたい。そこに子どもが存在するなんて、想像もできない。子どものせいで喧嘩したり相手に不満を持ったりなんて、したくない。
 なのに、どうして子どもを持たないという選択肢を選ぶことに、こんなに胸がざわめくのだろう。
 理由の一つ目は、まず、社会からの圧力があると思う。
 産んで当たり前の風潮は、まだまだ強い。ネットでも、子どもを持たないと意思表明すると、バッシングを受ける。少子化はどうするのか、老後は他人の子のお世話になるのか、年金はどうする、みんな苦労してるのにずるい、などなど、ありとあらゆるバッシングが、子どもを持たないと意思表明した女性に寄せられるところを、目にしたことがある。子を持たないのに結婚するなんて意味がないと、もはや価値観の押し付けさえある。
 けれど考えてみてほしい。老後も人間らしく生きる権利は、子の有無に関わらず全員にある。申し訳ないという気持ちもないわけではないけれど、私は老後、正々堂々と福祉にお世話になるつもりだ。
 ここに書き切れないほどの反論したいことが、私の胸には積もりに積もっている。
 理由の二つ目は、子のいない夫婦のロールモデルが少なすぎるということだ。
 結婚したら子どもを産んで当たり前とされる社会で、子のいない夫婦はマイノリティだ。マイノリティである不安がゆえに、本当な産んだ方がいいのではないかと、自分の気持ちを蔑ろにしてしまいそうになるときさえある。
 これはすぐには解消できない。けれど、自分にできることはある。
 それは、私自身が次の世代のロールモデルになることだ。
 私が子どもを産まない人生を貫き通すことで、次世代に生きる人たちが、生きやすくなる可能性がある。私自身が時代のロールモデルになることで、この問題は解消できるだろう。
 理由の三つ目は、子どもを持たないという選択肢は、孤独だからだ。
 けれど、孤独に負けて子どもを持つようなことはしたくない。これは延々に、子どもを持たないとことを選んだ人たちが考え続けることかもしれない。

 私は子どもが欲しくない。その気持ちは、私の人生の根幹に関わる出来事と絡み合い、ずっと心に根を張り続けてきたことだ。
 それでもあなたは、私に産めと言うのだろうか。それでも私は、産んだほうがいいのだろうか。

 繰り返す。私は子どもが欲しくない。そして大きく手を挙げて、私と同じように、子どもが欲しくない人たちを探している。




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