おい、笑える。〜美味そうな鴨

「美味しそうっすね。」青年は土手の石ブロックに座る鴨たちを見ながら言った。

その言葉に、隣に立つ年配の女性が驚いた表情を見せた。「え?」

青年は恥ずかしそうに言い直した。「美味しそう、美味そうだな、鴨。」

おばあちゃんはふっと笑いを漏らし、優しい目で青年を見つめた。「美味そう?おい、笑える。」





2024年の春の日差しが柔らかく降り注ぐ中、西条幸子は土手の際をゆっくりと杖をつきながら歩いていた。青年の何気ない一言が、彼女の心の中で遠い昔の記憶を呼び起こしていたのだ。

幸子は1927年に生まれ、昭和の時代を生き抜いた女性だった。彼女の初恋は、近所に住む快活な青年、小林勇二郎だった。幼少期から一緒に遊び、成長するにつれてお互いへの想いが深まっていった。二人は一緒に過ごす時間が増えるにつれ、心の中で特別な存在となっていった。

1941年に太平洋戦争が始まると、日本中が戦火に包まれ、彼らの生活も変わり始めた。勇二郎は学徒動員され、戦地へ赴くことになった。出発の前夜、二人はかつての海辺、現在の土手で最後の夜を共に過ごした。

「幸子、君のことをずっと想っているよ。」

「私もよ、勇二郎さん。どうか無事で帰ってきて。」幸子は涙を堪えながら答えた。

その夜、二人は鴨たちを眺めながら最後の会話を交わした。

「勇二郎さん、あの鴨、美味しそうだね。」幸子は半ば冗談めかして言った。

勇二郎は笑って答えた。「本当にそうだな。でも、彼らも生きるために必死なんだ。」

「こんな平和な風景が、いつまでも続けばいいのに。」

「そうだな。でも、俺たちも自分たちの未来のために戦わなければならないんだ。」勇二郎は赤い夕日に向かい決意を込めて言った。

その時、鴨たちが一斉に羽ばたき、空へ飛び立った。羽ばたく鴨たちの姿が、まるで空へ向かう戦闘機のように見えた。翌日、勇二郎は、戦地へと旅立った。彼女の心には、あの最後の夕暮れの記憶だけが鮮明に残った。





おばあちゃんとなった幸子は、2024年の春の日差しの下、青年と一緒に土手をゆっくりと歩いていた。鴨たちは静かに佇み、穏やかに水面を漂っている。彼女の目には、遠い昔の勇二郎との最後の夜が重なって見えた。

「お昼寝してる。」幸子は微笑みながら、鴨たちを指差して言った。

青年は鴨たちを見つめながら、無邪気に応じた。「美味しそうっすね。」

幸子は驚いた表情を見せた。「え?」

青年は笑いを含んだ声で繰り返した。「美味しそう、美味そうだな、鴨。」

彼女の心には、今もあの夜の勇二郎が生き続けていた。穏やかな春の日差しの中で、幸子は遠い昔の愛しい記憶と共に、今を生きる喜びを感じていた。

幸子はふっと笑いを漏らし、優しい目で青年を見つめた。「美味そう?おい、笑える。」

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