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no title. または、甲斐莉乃とまだ見ぬ「彼女たち」について。

出会ったことがない誰かについて、思いを馳せることは難しい。

一応それなりの社会生活を営んでいると大量の人とすれ違うから、その人に似た誰かには何処かで出会ったいるのかもしれないが、意味を持って出会っていない人について、自分や親しい人のように存在感がある他者として認識するというのは存外難しいのではないだろうか。
あるいは、それらの人々を、をたとえば架空の存在のように感じるのは、実は普通の人間の感覚なんじゃないか、とすら思う。

だから、これから書く文章は、架空の人物について書かれたフィクションのように見えると思うし、もしかしたら本当にフィクションなのかもしれない。

甲斐莉乃(かい まりの)という女性がいる。
「RAY」というグループで、アイドルをしている。
RAYはシューゲーザーという、ある意味で日本のメジャーシーンでは発見されて来なかった(シューゲイザー的なバンドというのは存在するのだが、たぶんメジャーでそれを名乗ったバンドというのがほぼ存在しない。)ジャンルの音楽を奏でるアイドルグループである。

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アイドルには「生誕祭」という文化がある。簡単に言えばお誕生日にかこつけて、本人がやりたいことやら喜びそうな企画をやってしまおう、というイベントのことだ。
(生誕祭とは亡くなった人の誕生を祝う行事だという言説はちょっと横に置いておくというか、それを言う貴方にって彼女たちは今のところフィクションだと思っておいてほしい。)

その感想として、
「甲斐莉乃には語り手が必要だ」と呟いたら、彼女自身が気になってくれたらしく、「野宿に文章を書いてネットに公開してほしい。」という依頼を受けた(この上ない名誉だ。)。

この発言に関しては、決して能弁な表現者ではない甲斐莉乃には、彼女の表現の意味を聞き取る「受け手」、または彼女に出会っていない誰かに伝えるための「聴き手」であり「書き手」である「語り手」が必要だ、という意図であったのだが、彼女自身がその語り手のひとりに俺を選んでくれたというのならば、俺はさび付いた感性と文章力を揺り起こして、その依頼に応えなければならない。

アイドルであるので、当たり前だが甲斐莉乃は歌い、踊る。
高音の透き通った声で、少し舌足らずに歌い、肉体を感じさせない、どこかこの次元に存在しないような浮遊感と、あるいは髪を振り乱すような力感の間を行ったり来たりしながら踊る。

甲斐莉乃は作詞をする。
RAYの楽曲であり、この文章の題号である"no title"は、彼女の作詞によるものであり、彼女たちのライブを彩るに欠かせない楽曲のひとつだ。

甲斐莉乃は作曲をする。
自作曲が発表された、甲斐莉乃生誕祭「灰」直前の彼女の様子を見ると、おそらく彼女は最終的にほぼ眠らずに楽曲を仕上げたのではないか、と俺は想像している。

甲斐莉乃はギターを弾く。
自分が所属するRAYのバンドセットライブで、名だたるミュージシャンに混じって(つまり自分のグループのバックに回って)アンサンブルを奏でる腕前を持っている。

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甲斐莉乃はイラストを描く。
美術のことは全くわからない俺(通知表で美術が2の人)にも解る、繊細で個性的なイラストを描く。

甲斐莉乃はほぼ毎日飲酒する。
甲斐莉乃は元不登校児である。
甲斐莉乃は虫好きであり、アニメ好きであり、いにしえの「インターネッツ」の住人である。
このあたりのことは「設定」ではない。
有り余るような時間の中で、彼女は自分に必要な栄養を取捨選択しながら、表現者としての自分を形作っていったのだろう。

甲斐莉乃は努力家である。
この表現はあまり正確ではないかもしれない。
より正確に書くならば、甲斐莉乃は自分が「やりたいこと」または「こうありたい」という表現に忠実に、自分自身にも容赦せず行動する。
彼女を見ていて一番思うのは、やりたい表現を見つけてから行動に移すまでが短い、ということ。いい意味で「溜め」がないというか、周到に準備して始める、というよりも、感覚的に飛びついて、ものすごく頑張って形にする、という方法論なんだろう。
それはもしかしたら彼女が元々持っていたものかもしれないし、先ほども書いた有り余るような時間の中で身に付けたありかたなのかもしれない。
(この辺をやたら大きく敷衍すると、デジタル世代のアーティストのアティテュードみたいなものが見える気もしている。例えばデジタルデバイスやインターネットが早い時期から身近にあることで、創作の手段も、その方法論も、表現する場所も我々の世代よりも近いから、表現に対する心理的ハードルが低い、というか。)

甲斐莉乃は仲間思いである。
たぶんこれにはふたつの意味があって、まず彼女は単純に他者との関りを求めている。
おそらく誰もがそうであるように、隣で笑い合い、またはその在り方を見つめる「誰か」を求めている。
もう一つの意味は、表現者としての甲斐莉乃は、「一人ではできない表現がある」ということと、「表現は一人ではできない」ことを知っている、ということ。
アトリエで自分と向き合うような作業にもそれを観測する他者が必要だし、または他者と交わって初めて生まれる表現があるということを彼女は知っていて、そこから生まれる表現の在り方を求めている。
甲斐莉乃が生きる世界と彼女の表現には、ともに在り、ともに表現する誰かと、それを観測する他者(つまり我々オタク)が必要なのだ、ということを、たぶん彼女はすでに明確にわかっている。
これらのことは、もしかしたら当たり前のことなんだろう。
ただ、多才でありながら能弁ではない甲斐莉乃を見ていると、そんな当たり前のことが「可視化」される感覚がある。

最後にもう一つ。甲斐莉乃が『アイドル処方箋』でぽつっと語ったことが深く印象に残っている。
「RAYでなら自分の表現ができる。」と。

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なんだかその言葉の向こう側に、甲斐莉乃自身が今の在り方に行き着いた道のりのようなものと、今ここにある自分たちの表現というものへの愛着や自信と、これからRAYを土台にして、彼女自身も新たに出会うだろう自分たちの表現への希望が、まとめて象徴されているように思えた。

さて。
甲斐莉乃という女性がいる。
RAYというグループで、アイドルをしている。
少し神秘的な雰囲気と、確固たる自分の世界を持ちながら、絶えず変化し続ける、多才な表現者だ。
そういう意味で、彼女は俺にとって「出会ったことがない」人だった。

でも、きっと彼女も、ほかの誰かの表現に憧れ、自分もステージに立ちたいと願う、たくさんの少女たちの一人だ。
彼女について考えることは、その向こう側にいる、まだ見ぬ「彼女たち」について考えることのようでもある。

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