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#ヌュアンスはいいぞ

ポップに行こうよ。ポップに。

アイドルは前衛的で実験的で美しかった。と、ことあるごとに書き散らかしているので、最初にいつそう思ったか、すっかり忘れてしまったのだが。
それと同じくらい、ポップミュージックは自由で斬新で楽しかった、と思っている。

そこで。
nuance(ヌュアンス)だ。

ヌュアンスの音楽は、あんまり一つの方向を指ささない。
ライブを見に行くたびに、おもちゃ箱をひっくり返したみたいな音楽性だな、と思う。

別の言い方をすれば、彼女たちの表現は、新しい曲が流れるたびに、新しい主人公(大体は少女の姿をしている。)が現れて、こちらに微笑みかけては、ひらりと消えていくような蠱惑を纏っている。

だから、ヌュアンスはある観点では大変無茶な表現だと思う。あれだけの数の違う物語を一個のライブの中において、ほぼノンストップで奏で、演じるというのは、あんまり正気の発想ではない(注:褒め言葉)。
なんなら曲によって求められる表現のギアみたいなの(つまり歌とダンスの配合比率とか求められる歌声やダンス自体の質の違いとか)が全部違う。まである。

だが。

「ヌュアンスの中の人も大変だな」みたいなことが書きたいわけでは断じて無いのだ。

実際問題としては、彼女たちは若干/かなり/相当身を削っているような気がするし、またはあの在り方は人体改造みたいなんじゃないの?と思ったりはするけれども。
俺は別にそう言う剥き出しの「切実さ」が視たくて、アイドルを観ているのではないのだ。
ぶっちゃけそんなもんはオリンピックアスリートかなんかに任せておけばいいのである。
そこには最初から絶対的な採点基準や、または定められたルールやゴールなどというものは存在しないのだ。

だってこれは、ポップミュージックの物語なのだから。

むしろそこには、シンプルな楽しさがあるべきだし、その観点においてヌュアンスは上質なポップスを表現できていると思う。
その上で彼女たちは求められた、または与えられたフィジカルさ……「死んでも歌え」と言う無茶な運動量と歌唱力というか、半ば「肺活量」……でもって、ポップミュージック、またはポップカルチャーという(たとえば佐藤嘉風やフジサキケンタロウ、または浅野康之やオレノグラフィティがその内面に蓄積してきた、)だだっ広いフィールドを縦横無尽に駆け回るのだ。

だから。
ヌュアンスの物語は、あくまでもポップに、少女たちがその自由を描く、斬新で楽しい物語である。または、あれ。願わくば。

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