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南部の唄

(作・牛島弟)

「あー、じゃあ今日はこんな感じにしよう」とチャーリーがギターのネック部分をぶっ叩いてみる。

「ベン・ベン・ベン・ベン・ベン・ベン・ベン・ベン・ベン」

「ビンビンビンビン。ブンブンブンブン。」

「ドンツク。ドンツク。ドンツク。ドンツク。ドンツク。ドンツク。」

おもむろにウィリーブラウンが、水道の鉛菅で作ったボトルネックのギターで、キュインキュインと金属質な音でスライドを鳴らす。それに呼応するかのように、チャーリーはギターのボディ部分をリズムを刻みながら太鼓代わりにどんどんとぶっ叩く。
するとウィリーブラウンは今度は6弦を親指で弾き出し、特徴的な低音部分を鳴り出していく。ドゥン・ドゥン・ドゥン・ドゥンと聴いているだけで、もうボーボーとウィリーブラウンの炎が見えるのだった。そう。炎がチラチラと、ボーボーと、やっぱりチラチラと。きっとこの大男の背後にいる守護霊は阿修羅のようなやつなんだなとチャーリーは耳を澄ますたびに思う。

チャーリーの手の甲がみるみるうちに赤くなっていき、そのうち興が乗ってきたのか、突然歌い始める。

「粋な神などありゃしない。あの白ブタどもを抹殺しないかぎりはさ。
粋な神などありゃしない。あの白ブタどもを抹殺しないかぎりではさ。
27年の洪水がミシシッピを飲み込んだ。
27年の洪水がミシシッピを飲み込んだ。
だけどあの白んぼどもは飲み込んでくれなかった。
だけどあの白んぼどもは飲み込んでくれなかった。
黒んぼどものいい供養になると思ったのに。

暴れて 壊して バラバラに崩れて
朝立ちして 夢精して 腹が減り タネが尽きれば また暴れ

厩舎に 生まれた ブタは 豚小屋に連れてかれ
夏がデング熱 冬はコロナ 秋がノロ 春は麻疹

唄えば空には満月が こいつの音頭は音頭じゃない 節回しが最低だ どいつの音頭が一番だ?

白んぼは黒んぼが嫌い

そのお返しで黒んぼは白んぼが嫌い

白んぼはクジラやイルカが好き

イエス様が大好き

だけどユダは嫌い黒んぼも嫌い

人という字はなんて書く? 支え合うよに書くだって?
嘘だね嘘だね金八野郎 センコーほざくな嘘こくな 
人は一人でたつだけだって
人は一人でたつだけだって」

とここで、チャーリーは一旦唄うのをやめて、ウィリーブラウンの伴奏に聞く耳を立てる。するとやってやるぜとばかりにウィリーブラウンのソロが始まる。パチンコ玉のような親指でドゥン・ドゥン・ドゥンとお得意の低音部を鳴らしながら、残りの指で対位法のようにリフを弾き出していく。正確に運指をしながら、ウィリーブラウンはチャーリーの彫りの深い顔ーパットン家に生まれた黒んぼと白んぼのあいのこであるチャーリーの肌は色の薄い茶色である-を眺めながら、この男が発する音の一つ一つが鈍重さを増していき、たくさんの血が流されていったスパニッシュ・モスのように絡みついては離れない粘っこさを身体の節々に感じてくる。「ははっ!」と一息笑いを混ぜながら、チャーリーの再びの独唱。


「だけどまだまだ生きている。いつだって。私も生きている。あなたも生きる。手に手をとって。ダンスして。健康が1番。お金が2番。人柄が3番。4番は王。5番シャネル。6番レブロン、7番フィーゴ、8番八村、又はコービー 野球は知らないし、ジャイアンツは嫌い。特に原と長嶋。だけどがんばれがんばれジャイアンツ。がんばれがんばれジャイアンツ。応援するよ。君にエールを送るよ。だけど、まだまだ生きていく。

ガツン、ガツンと、音の、塊が、聴こえて、くるだろう。
おれの音だよ。おれの音。素晴らしいだろう。
おれは今第二の子供時代を生きている。
おれは今第二の子供時代を生きているんだ。」

チャーリーのコールに対し、ウィリーの即座のレスポンス。餅つきのように、無駄がなく。

「棺桶の中で覚えている記憶はあるか?
子宮の中で眠っている記憶はあるか?」


すかさずチャーリーはネック部分を腕で叩きながら、弦を弾いていく。熱が増していく。チャーリーは硝酸アンモニウムのように、加熱していけばいくほど爆発していく。

「シンプソン家はまだ死なない

カルフーン家もまだ死なない

ダントン・マラーもまだ死なない(でももうすぐ)

ロベスピエールもまだ死なない(でももうすぐ)

ミロシェビッチもまだ死なない(でももうすぐ)

トロツキーもまだ死なない(刺し殺されるぞアイスピック!)



トゥーサン・ルーベルチュールもまだ死なない(当然だろ)

ハイレ・セラシエもまだ死なない(当然だろ)

ホー・チ・ミンもまだ死なない(当然だろ)

ウィリーブラウンもまだ死なない

チャーリーパットンもまだ死なない

されど死ぬのはいつも白んぼばかり

息を吐くように死んでいく

どんな感じがする?

どんな感じがするよ?

ひとりぼっちで

誰にも知られず

自分の墓穴を掘った後で

後ろから銃槍で刺される気持ちは?」

熱狂していく二人の背筋はゾッとする感覚に襲われていく。鳥肌が立つ。穴という穴、毛穴が引き締まり、尻の穴も閉まっていく様子が手にとるようにわかっていく。


「竹中平蔵は?」

「地獄で焼かれるだろう。労働者の呪いでね」 

「麻生太郎は?」

「同様だね。万死に値する人間だ」

「小室Kは?」

「頑張って欲しいね。実に頑張って欲しいね」

「ショーンマクアードルKは?」

「頑張って欲しいね。実に頑張って欲しいね」

一息おいて、すぐにウィリーの声が、まさしく喉元から銃弾が飛び出していくような声が「そうだ!その通り!そうだそうだ!その通りだ!」と合いの手を入れ始める。意気揚々と、何もなく。ウィルの声は重油だ。一度燃え出したら、簡単に消火するのは難しい。
合いの手に調子付いてきたチャーリーはさらに独唱する。さらにさらに加速していく。

「まだだ。まだだ。まだだ。まだまだ。きっとまだまだだ。何がまだって俺にもわからんが。まあそんなことはいいじゃないか。おれは今カブを食べている。人参じゃなくてね。反省するよ。今までのアホ人生に。ぐだぐだに。宇宙に。改めてね。改心するよ。カミはまだ俺を見放してはいないはずだよ。たぶんね。たぶんだよ。だって俺はまだ生きているんだから。俺にはカミよりカミさんのバーサ・リーがいるし。マリオンが遠くの方で何か喋っているのが聴こえる。それだけの耳を持ってるんだ。だからさ、そろそろお前のボルトを触らせてくれよ。お前のアンペアは下のほうだろう。だから俺のドライバーを使ってさ、ドリル部で下穴を右回転で開けてあげるよ。そこからビットを差し替えて、下穴に差して食いついてあげるさ。そこから…」

とマッハの気分で、チャーリーのボイスがいよいよ光速並みに到達する瞬間に、慈悲深い神からのストップがかかる。


「ゴホッゴホッ‼︎‼︎ウエッ‼︎ちょっと待て。タンマ。」

「喉につっかえた。」

チャーリーはやたらと咳を繰り返す。

「ちょっと中断しよう」

「いや、今はいい感じだから、もうちっとやってみようや」

「じゃあお前が歌え」

ウィリーブラウンがこんどは、重油からクレオソート油に種類を変えて、つまりウェイトがより重くなるように喉を絞りあげて、強烈なヴィブラートがかかるように、若干声のキーを高めに設定して、唄い出した。

「1秒が1分に、1分が1時間に。1時間が1日のように長く感じる。
だけどこの地上の無慈悲な神サマは、ゆりカゴから墓場まであっという間に連れ去ってく。
4本足から、2本になって、あっという間に3本足。
4本足から、2本になって、あっという間に3本足。
4本足から、2本、3本、末は0本。もう幕無し。

49(シク)49(シク)49(シク)49(シク)36。苦死苦死久死久死36?違うね。違うね。いつだって。この世は苦死苦死、39(三重苦)。
シクシク痛むよ、古傷が。シクシク悲しい、人生が。
そうかいそうかい。創価学会。そうだよ。がっかり。これが人生。お前の人生棚に上げて、説教するのか。金八みたいに。宣教師みたいに。福音派?長老派?バプテスト?救世軍?グノーシス派?それともフランシスコ会士?ドミニコ会士?カルメル会士?
坊さん。坊さん。人生辛いよ。ありがたい説教聴いてりゃ、いつか良くなるたって。甘くないよな。そんなに、人生って。
同情するなら金をくれ
(有馬記念ならデルタブルース)
同情するなら金をくれ
(天皇賞ならデルタブルース)
同情するなら金をくれ
(菊花賞ならデルタブルース)

クロにもいろんなクロがある。炭のようなクロ、殆どシロに近いクロ、夜のようなクロ、昼のようなクロ、発酵したクロ、逆光のクロ、鋭利なクロ、鈍重なクロ、透明のクロ、濁ったクロ、クロのようなクロ、間違いなくクロの中のクロ」

「そうだ!そうだ!そうだ!」

 「こいつは俺のオリジナルじゃないある種の引用が主だが、それにオマージュなるものを捧げて出てきた言葉こそこれ
伯父ワシントンがリンチにかけられ、その遺体に火がつけられた瞬間、俺のブルースが喉元から腹に逃げ込んできた。
 祖母フランクが密告され、収容所送りになり、天井に舞い戻った瞬間から、俺のブルースが喉元から腹に溜まっていった。
 孫娘のワンが串刺しにされた瞬間、俺のブルースが全身から浸透していき、一切離れなくなった。
 白昼で大空がピカッと光り輝き、曽祖母のソノイが光の粒を全身に浴びた途端、俺のブルースは焼きただれ、腸へと運び出され、肛門から排出されていった。
 マイケル・ジョーダンが飛んでいった。カシアスクレイが脳天をぶん殴った。
 だけど俺が愛した人々の命が燃え尽きた瞬間、俺のブルースが真っ赤に燃えた。
 太陽の黒点が東から西へと居場所を変えて、はるか彼方から太陽フレヤが衝撃波を加えて放射線を浴びさせる間に、俺のブルースも脳みそのように、粉々に飛び散った。」


続けざまにウィリーブラウンがチューニングを変え、がなりたてるようにチャーリーがギターのボディ部分をぶっ叩いて行く。                   

「路上で暴行で死亡。町長が逃亡。
 路上で暴行で死亡。町長が逃亡。
 路上で暴行で死亡。町長が逃亡。
      路上で暴行で死亡。町長が逃亡。
  ここはデルタの冥土めぐり。デルタの冥土は井戸より深く、冥王星よりはるかに長い。
宇宙が膨張しているように、デルタも膨らんでは縮み、縮んでは膨らんでを繰り返す。毎日が毎日が、朝縮んでは、夜膨張し、朝立てば、夜萎む。ここがそうデルタの昼または夜または暗闇または向こう側。
冥土こそ水先案内人、ガイドが必要。それが俺。案内するよ、それが俺。

リトルロックから、アーカンソーまで。赤血球から白血球まで。1次元から、2次元へ。3次元から、仮想現実を通って、無次元へ。時間は上に、右に、左に、下に。真っ直ぐに。後戻りに。なんとなく。そんな感じがするんだ。今日このごろ。

イェイェイェウォウウォウウォウサバイバルダンス。サバイバルダンス。トライアリトルテンダネス。優しい気持ちになったから、今日はもうロンリーティアドロップス」

チャーリーは調子をかえる。階段を登って、2階についた途端、降りていくような調子で今度は唄い始める。



「よう大将!おお大将!大大将。
青大将黄大将白大将。
故郷に錦を飾ったアンタが、今度殺そうってのは、あの神だってな。
潮の満ち引きから、橋の欄干まで。排水溝の穴から、マンホールの穴、凸凹だらけの鋪道の穴まで。弱肉強食から、適者生存へ。ぺちゃくちゃ喋ってうるさいんだなあの神は。


お喋りするやつは嫌いだね。
お喋りするは大嫌い。だから今は黙っているよ。いつだって黙っていよう。

はっはっはっはっ!もうダメだ。もう思い浮かばないし、電池ももう切れそう。もうダメだけど続けよう。静かにしよう。

沈黙、沈黙こそがすべてだ
音楽、音楽は爆発だ!
いや、違う!爆発するな!
いや、やっぱり爆発しろ!

んちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちん!」

「おい!お前はお前じゃない。お前が俺なんだ!」

「じゃあ俺は?誰なんだ?」

「お前は、お前だよ」

「いや、違うね。お前が俺かもしれないだろう」

「もっとうならせろ。叫ばせろ。破裂させろ。笛をならせ。こすらせろ。ブザーをならせ。爆発させろ。ごろごろさせろ。さらさらさせろ!」

風が一段と強くなり、ポプラの葉がざっとたなびいて、燃えている二人の音楽家の肝を心地よく冷やしていく。ウィリーブラウンのギターが徐々にトーンダウンしていき、弦を抑える指の動きも遅くなっていき、やがて音そのものがフェイドアウトする。

二人はしばらく身をおいたまま、憑依していたブルースを逃すかのように、鼻から息を吸って口で吐く-深呼吸をする-を繰り返していく。チャーリーはだらんと腕を下げながら、遠くの方でかすかに聴こえてくるバスのエンジン音に耳を澄ませながら、今度やるときはこの音のリズムを参考に組み立てて行こうと考えていると、


「よお、やってるか?」
背後から聞こえてきたのは、薬屋のドンだった。ドンは子分であり、コバンザメのジーゲルを従えてやってきた。ドンはクラークスデイルから数キロ離れたヤズー川のほとりにある田舎祭祀の息子であり、一族には「地下鉄道」を通って無事に南部から脱出できた逃亡奴隷もいた。ゆったりとした灰白色の背広上下に、アスファルト色の蝶ネクタイをし、その一見澄ました物腰の柔らかしさといい、ポマードべっとりの人工的な髪質や色素が薄く甲高い声質といい、麗しき「中産階級の仲間入り」といった面持ちを漂わせている。


「チャーリー、いつものやつを頼むよ。今日はわりかし抑え気味でさ。」

「旦那、今日はいくら貰えるんだ?最近は喉の調子が頗る悪いんだよ。ちょっと唄ったら、すぐに喉仏が苦しくなって、咳がとまらねぇ。おまけに背中や腰まで痛くなってくるんだからな。」

「そりゃお前さん、自業自得というもんだよな。六根清浄六根清浄〜」とコバンザメのジーゲル。チャーリーはこいつの眉間あたりをギターでぶん殴るかみぞおちあたりをヘッドの一番硬いところで小突かせる衝動ににかられる。いや、そうではなくてこいつの耳元にドカンと1発喚いて、鼓膜を破かせる方が効率的だと考えるが、ジーゲルが樫の木の枝を折って、地面に何やら模様を描くいつもの仕草をついつい見てしまうのだった。

ジーゲルは湿った地面に、スペルで「C・H・A・rl・e・s」と描くが、それがますますチャーリーをイラつかせる。あからさまにバカにしている、ジーゲルのいつもの陰湿なやり口にもう我慢ができねえと、「おめえなぁ、名前(スペル)くらいはわかるんだよ」と拳骨を喰らわせようとするが、ウィリーが直ぐに止めに入る。ドンは何ごともなかったかのように、あくまでも紳士的な口調で語りかける。

「喉はだいぶ治ったと聞いたけどね。無理はなさらずに、どうにかいけないかな?」


「今日はダメだな。ウィルにやらさせろよ。」

「エディーは?」

「エドは留守番だよ」


「でもお前さんは今日はいつものやつを持ってないじゃないか。あれはどうしたアランさんからもらったやつは。そりゃどうみてもガットギターじないか」

「あれは酔っ払った時に、桟橋から落としちゃったよ。ジャボンってね、いい音したよ。可笑しくなっちゃってね、そのまま座り込んで引き付けを起こすくらいに、笑いっぱなしだよ。ウィルのを借りるよ。今日はギターマンだ」

「わかった。だがギャラは折半してもらうよ。」

それに対してウィリーの抗議が入る。

「旦那、なんでなんだい。なんでこいつと俺だとそんなに差が出るんだよ。おかしい話じゃないか。なるほど。たしかにチャーリーはソングスターだよ。俺はどちらかと言えばギターマンだ。そしてこいつの声はたしかに良くしなるし、艶やかだ。それは認める。一方俺のスライドは、空間に塗りたくることができるんだ。ド・スタールみたいに。べったりと。鮮やかに。柔らかくね。誰よりも。だからといって、あいつのギターが俺に劣るわけでもないし、俺のボイスがあいつと同じレベルに達していないわけじゃない。要は味とかコクの差ってことだ。つまり言いたいことはだな、俺のボイスはあいつのように、[捉えて離さないこと]ができるってことだよ」

「そういうことだよ、旦那。ウィルの言う通りだ」

ドンはウィリーブラウンの合いの手はよく知っているし、声質・声量の良さは文句ないことから、特に反対することなく、その場ですぐに了承した。ギャラもチャーリーと同じ額にはなったが、それは呼び込みの具合によって、ということになった。

四人は場所を移し替えて、クラークスデイルの綿花畑から南方の酒場に繰り出す。ドンはステッキを携えながら悠々と歩き、その後ろでジーゲルは種々雑多な薬類の詰まった大型の行李を持ち込むための簡易的なリヤカーを引きながら、コバンザメらしくとぼとぼとついていく。

酒場は軒を連ねており、違法酒専門の「ファッティーズ」(店の前には「FATTIES」と書かれた看板があり、その下には「細いのお断り」と添えられているが、劣化したせいで消えかかっており、その上から「白いのお断り」と書き換えられている)ではオールド・オーリンズによる「ティキ・ワカ」が演奏されていて、ずんちゃかずんちゃかとリズムが聴こえてくる。そのリズムに合わせて、酔っ払った客が踊るカツンカツンという、革靴の踵の床に当たる音が、リズムの音のほぼ同時に忠実に規則正しく鳴らされている。途中でガチャンとグラス瓶の割れる音がその従属的なリズムに破調をもたらしていく。「頭かち割るぞ、この野郎」という怒声とともに。

ウィリーブラウンとチャーリーパットンは、酒場の大通りのちょうど真ん中を陣取って、ギターをケースの中から取り出す。ドンは少し離れた所から様子を見ており、ジーゲルは2人の後ろで旅行用の柳行李を3つほど開けてから、看板を-ドン閣下の薬屋訪問-取り出し、素早い動作で立てかけていく。柳行李には自家製のありとあらゆる薬、錠剤、粉薬、座薬、民間療法の薬剤、薬草、貼り薬に湿布が常備されていて、その一つずつに名称とその効果、値段がメモ書きされていた。ジーゲルは樫の木の枝で、地面を少しなぞってから、チューニングをしている2人の周りに正確な円を描いていく。チャーリーがまずコマーシャルソングのようなラグタイム調でテンポ良く伴奏していくと、ウィリーブラウンは喉元を軽く抑えてから徐々にぐっと押し出して、アパラチア山脈にまで届くような声を張り上げた。



「おーなーりーおーなーりードン閣下の薬屋訪問でござーいー。ドン閣下の薬屋訪問でござーいー。頭痛・腹痛・胃痛・生理痛に〜腰痛・痛風・梅毒・膣カンジダ・膣けいれん・痔に、ニキビ、風邪・胃カタル・腸カタルなんでもござい〜。精力減退・体調不良・食用不振・消化不良のそこの貴方にもね。アル中の伯爵夫人、侯爵夫人、貴婦人には、水薬を差し上げましょう。ヤク中の伯爵、男爵に、退役軍人の軍曹には、気付け薬を差し上げましょう。オナ中の皆様には、両手をちょん切ってしまいましょう」


いつものがなり声よりかは幾分マイルドな声色だが、そこはかとない艶やかさを巧みに混ぜ合わせながら、硬質化した喉仏をセミのように震わせていく。近くの酒場で暇を潰していた連中が、ウィリーブラウンの呼び込みに反応して、1人2人とぞろぞろ円陣の方に向かっていく。そらみてみろと、調子づいた大男はさらに続けて

「痺れにめまい、たちくらみ、悪酔い・二日酔い・嘔吐・むかつき・憂鬱症、お前さんがたのあらゆる痛みに対応できる、だけど心の痛みだけはどうにもならない!わかるだろう?だけど、どうしてだろう?どうしてなんだろうな?痛みってやつは何なんだろうな?身体が痛いってのは確かにわかっているし、場所だってはっきりわかる。そして薬を飲んだら痛みはなくなる。だのにね。心の痛みだけは、この痛みは確かに痛いことがわかっているんだが、どこにも当てがない?ってことはどういうことなんだろう?よく考えてみると不思議じゃないか?」

ウィリーブラウンがいつものように脱線しかけながらも、チャーリーのギターは今度はベッシースミス調でポロロンポロロンと「セントルイス・ブルース」を奏でていく。ブルースは客引きには印象が良くないが、チャーリーは構わずにあの「夕日を見るのが嫌になる〜自分の行く末を考えるから」から始まる、わたしたちの骨まで疼く孤独の悲しさを音一つで表していくのだった。寂しく、まさに今は正午の太陽が辺りを、強い紫外線と共に白昼の陽の元に全てを曝しているのだが、あれ?昼の方が暴力的と言ったのはだれだったけ?とウィリーブラウンが頭の中でクエスチョンマークが浮かんでいるまさにその時に、正午の太陽が辺りを、そう、ちょうど太陽が燦々と暴力的に照らすなか、チャーリーが奏でる寂しいセントルイス・ブルースを、ウィリーブラウンや、ドンや、ジーゲルや、酔っ払いの連中が、聴いているのだが、辺りはまさしく昼なのに、その空間だけは夕陽が静々と沈んでいく様子が、まざまざと確かに現れてくるのだった。

とそこに、とぼとぼと杖を携えながらひとりの老婆がウィリーの前にやってくる。乾燥したしわくちゃの雑巾並みに皺だらけの赤茶けた顔に、くるくると白髪混じりのパンチパーマの髪をたなびかせた、老婆は朴訥と2人に語りかける。

「ウィル、心の痛みは信仰の痛みさ。神が私らに与えた贈り物だよ。大事に大事に痛がることさ。」

「ヘザー婆さん、こんちは。調子はどうだい?」

「元気さ。何もかも元気だよ」

「そいつは良かった。ボーイズもどうなんだい?」

「息子たちは元気さ。よくしてくれるよ。」

「まだ楢山の方には行かないのかい?」横目でみていたチャーリーの意地の悪い牽制が飛ぶ。続けて「言ってたぜ。ロニーがよ。お袋を早く連れて行かせたいってさ。ここんところは呆けちゃってるから、「もうろくしちゃって、いい加減に楢山行きだよ」だってね」と息子の真似をしながら、先制パンチを食らわすが、ヘザー婆さんは意に返さない。


「まだお迎えには時間の猶予が残されているようだよ。それにあんたたちだって一緒の席に座ってんだからね。結局のところは。それはタンゴかい?」

「違うよ。婆さん、これはブルースだ。れっきとしたブルースだ。ブルーズでも、ブルースでもどっちでもいいんだ。」チャーリーの訂正が入るが、婆さんは聴いているのか聴いていないのか、はたまた聴いていることすらも忘れていてるのか、片目を閉じて明後日の方向を向いている。

「俺はやっぱり[ブルース]の方が好きだな」とウィリーブラウンはいつもの地声でガラガラと話す。

「どっちでもいいよ。おんなじことなんだからさ。神様にすりゃどれだっておんなじだよ。それもよりもこの、ほれ、リウマチに効くのはどれなんだい?」

ジーゲルは、柳行李から麻袋に包まれたチューブ上の軟膏ををひょいと取り出して、

「これなんかどうだい?オイラックスだよ。万能薬だ。」

「じゃあこれを2つほど貰うよ。なんだってこんなに容量が小さいのかね。上手くできてるもんだね。それから背中らへんにぶつぶつが出来てね、痒くてたまらないんだよ。」

と、くるりと後ろを向いて、ガリガリと引っ掻いた跡がそこらじゅうにある背中を見せてくる。ジーゲルのすぐ後ろから、ドンが口を挟む。

「それは帯状疱疹ですな。お婆さん、痒いからってかくと、余計に悪化してしまいます。」

「違うよ。痒いからかくんじゃないよ。かくから痒くなるんだ。悲しいから泣くんじゃなくて、泣くから悲しいのと一緒だ。」

「なるほど。それは一理ありますね、お婆さん、なかなか学がありますな。さて、それではこれに効くのは、アルマリン錠とタリージェ錠ですね。アルマリン錠は毎食後に一服飲んでください。タリージュの方は夜寝る前に飲むとよろしいかと。あとどうしても痒くなる時には、このテスラというクリームを塗るだけでだいぶ収まりますよ」

「随分とたくさんあるね。ドクターでもないのにね。なんかこう、よくわかんないけどさ、心臓が悪いんじゃないかね」

「いや、心臓は大丈夫ですよ。」

「じゃあ、脳みそが悪いんじゃないね」

「いや、脳も大丈夫ですよ」

「じゃあ、なんかバイ菌に感染したとか」

「その可能性は低いですね」

「ふうん、そう…」


「ドクターじゃありませんがね」

とそこに痺れを切らしたチャーリーが交える。

「もういいだろ。婆さん。この薬飲んどきゃ直ぐに治るさ。ドクターじゃないけど、いい旦那さんだよ。信ずるものは救われるってんだろう。大丈夫だよ。」

「わかったよ。チャールズ。じゃあね、このあんさんを信じてね、この薬に私の病気を託すことにするよ。いろいろご親切に、ありがとね。」

神の御加護がありますようにと、十字を切ると、チャーリーは「ちゃんちゃんちゃん」と締めの音をかき鳴らす。

「とりあえず3週間分は処方しておきますよ。もし早く治った場合でも、きっちりと飲み切ってください。」

ヘザー婆さんは、こっくりと頷くと、ジャラジャラと音がする手製の編んだ巾着袋から一掴みして小銭を取り出すと、ジーゲルに差し出した。ジーゲルはそこから3週間分のアルマリン錠とターリジェ錠にテスラ1個を足した金額を正確に割り出すと、ヘザー婆さんの小銭からその分とプラス相談代を割増して抜き取ると、残りの額をヘザー婆さんに渡す。その間僅か数秒で。ヘザー婆さんは無表情で杖の先端をさすりながら、ゆっくりと立ち上がると、西側にあるドックリー・プランテーションの方へと踵を返した。

再びチャーリーが今度はミシシッピシークスの陽気な「we are both feeling good right now」をウィリーブラウンの宣伝文句と共に演奏し始める。2、3人の客の相手をして、あたりがざわつく中に1人、茶色のしなやかな肌にくるくると左右に編んだ黒髪の美しいリンダ・リーが、しゃがみ込んだ客のフェルト・ハット越しに、こちらを覗いている姿をチャーリーは発見する。いつもとは違う無表情で真っ直ぐに目を据えながら、無言で佇むリンダに、何かを察したチャーリーは警戒しながら尋ねる。

「どうしたんだい?リンダ。こんな時間に、今日は勤めがあったろ」

「チャーリー…ごめんなさい、なんといっていいかわからないけど」

「腸ねんてんでもしたのか?」

「姉さんはもうあなたの家にはいない。うちに帰ってきたの」

「それともあれか、ババアにぶたれて打撲痕でもできたか?」

「違う、ことづてよ。バーサ姉さんからね。もうあなたとは会いたくないそうよ。薄々はわかってるでしょう。今朝あなたがあの友達と出ていった後に、部屋を片付けて、髪を整えて、荷物をまとめて、壁に飾ってあったロザリオと時計を沙汰袋の中に入れて、8時37分のバスに乗ってきた。そう。家とは反対側のね。振り返った時に、軒先にある生い茂ったタイサンボクが、朝日を浴びて、チカチカと光の粒が葉や花に反射して溢れていくのを眺めていたんだって。いつも冬になると、冷え込んだ朝は、幹から蒸発した水蒸気がモクモクとけむってきてけど、あなたはいつもこのタイサンボクが俺たちを縛りつけ、押さえつける根本だって言ってた。でも私はこのマグノリアの花、そんなに嫌いでもなかった。そんなに綺麗な花でもないけどさ。そう。で、それからすぐ家を出たそうよ。でもその間全くあくびもしなかったそうよ。わかるでしょう?あくびしなかったのよ。あの人。いつも習慣のように、欠かさず、朝・昼・晩とね。わざと人前でやっていたこともあるじゃない、大口開けて。私、好きだった。あの人が気持ちよくあくびするの。でも今日はあくびをしなかった…いや出なかったのよ。その時に思ったそうよ。もうこの家から出るべきだって。それが引き金だったのかわからないけど、萎んでいた気持ちがすうっと消え入るように楽になったんだって。それで、私はうちの玄関前でずっと待っていた。気が気じゃなかった。あの人がバス停を降りて、うちに向かっていくのを待てなくて、迎えにいった。私は抱きつきたかったけど、姉さんは両手に荷物を抱えてたし、そんな気分でもなかった、早くうちに帰りたい、あばらやに帰ってゆっくりしたい、そんな目をしてた。早く落ち着かせようと、うちに招き入れると、私の椅子に座らせた。かまどに火をつけて、お湯を沸かして、お茶を淹れたの。ちょっといいやつ。くすねていた高級なやつ。姉さんは椅子にうなだれたまま、じっと木板の床のシミをずっと見ていた。一言も喋らずに。私も肘掛け椅子に座って、雨漏りでジメジメしている床のシミをずっと見ていると、どこかにこんな形の国、アラビア半島か南米あたりーそういえば昔、母親と手を繋ぎながら、ジョーンズタウンにあるアダムおじさんの商店のレジ前に風呂敷のようにでかい世界地図が貼ってあって、母親が買い物をしている最中によくみていたーになかったかっけ?そしてなんでこんな吹き溜まりの田舎にあんな世界地図が飾ってあったのかと考えていたら、ふいにシューッとやかんが沸騰する音がした。ふと耳を澄まして意識して聞いてみると鳥の囀りや、子供の笑い声も聞こえてきた。私は火を消そうと立ち上がると、一足先に姉さんが消してくれて、そこから洗面台の方に向かっていって、鏡の前で自分の顔を見つめていた。私はすぐ後を追って、あの人の後ろに立つと、すっと髪をなぞりながら、じっと姉さんの目を見た。ずっと無言だった。姉さんの長い髪をクルクルと指で絡ませると、それからあの人がふいに口ずさんだの


牛乳石鹸〜 良い石鹸〜 香りなめらか〜
肌はつややか〜 ♪

私の石鹸〜 良い石鹸〜 ♪

「あんたの作ったてくれた石鹸、すごい良かった。私の髪質にあってたのよ、珍しく。」

「そう、良かった」

「また作ってよ」

「うん」

私の石鹸〜 良い石鹸〜 ♪

それで、私も鼻歌で参加してみたのー昔二人で作ってた、冗談みたいな歌だけどねー

ダルジュおじさん 豚を市場に連れて行く 2匹はつがいで 僕の豚はラフィという名前〜 ♪

「それで、仕方ないじゃないか。あいつが帰りたくないっていうんだったらさ。」

「あなたのことは何にも言ってない。その時はね。牛乳石鹸の歌を口ずさんでいただけよ。私が作ったやつ。あなたのことは好きだったのは間違いないはずだった。姉さんはずっと、あなたの声も、唇も、喉仏も、体も、踵や、くるぶしや、甘い体臭も、好きだった。手や、手首の形だってね。ブルースは暗いから好きじゃないし、あなたの讃美歌も媚びているようで、好きじゃなかったて言っていた。でもあなたが発する音の一つ一つ、調子の一つ一つ、節の入れ方・出方とかは好きだった。それにあんたとの情事もね。それはこと細やかに教えてくれた。あんたが股座から珍棒を取り出して、自家発電する様子とかもね。それからその相棒さんの弦が湿気ですぐにダメんなるから、イライラして投げつける時も。そのあと、あの人が弦を張り替えたり、修理したりしてたのよ。ご飯も、洗濯も、掃除も、全部あの人がやってたのよ。健気じゃない?わたしにはわからないわよ。そんなに人を好きになったことなんてないんだから。それに、私は姉さんとは似てないし、母親譲りで堪え性がないから。ねえ、覚えてる?6年前の大洪水のとき。マウントランディングの堤防が壊れて、うちのおじさんとおばさんが流されて、行方がわからなくなったとき。男たちはみんな白んぼに脅されて、グリーンヴィルの堤防固めのために駆り出されてさ。上は耄碌した爺さんから、下は10才の放たれ小僧まで。抑えつけられて動けるもんはみんな連れてかれていった。ひどいもんよね。ライフルで脅し付けてさ。残っているのは私たちだけ。必死に探した。当てもなく…どこにいるのか検討もつかない。盲滅法に探しまくった。それから何日経ったか、片手で数えられるくらいだったと思うけど、ようやくおばさんが見つかった。郵便局前の電柱に引っかかっていた、めちゃくちゃに倒壊した家の軒先の下に、泥だらけの足首だけがちょこんと見えた。左足を姉さんが、右足を私が両手で、くるぶしをあたりをぐっと掴むと、思いっきり引き摺り出した。呼吸を合わせながら、イチニノサンの合図で何度も引っ張った。その先はもう腐っちゃって、足首だけだけしか取り出せないんじゃないかとヒヤヒヤしながら、何度も何度も力付くで、引っ張り出そうとした。ちょうど暖かくなってた頃合いで、泥濘の乾燥ぐあいも進んでいたのが良かったのか、胴体から、胸のあたり、それから首根っこまで抜き出すことができた。このまま時間が過ぎると今度はセメントみたいに固まっていくから、なんとしてでも身体を取り出さなきゃいけなかった。なんとなく、手術で帝王切開した赤ん坊を母胎から引っこ抜くというのはこういうことなのかと思っていたら、ようやくおばさんの全身を泥から引き離すことができた。青あざだらけで、顔は…顔はもうあんまり、どんなんだったか覚えてない。眼鏡もどこかにいっていたからさ。なんとか判別できたけど、その人が本当におばさんだったのか、そうじゃなかったのか、よくはわからない。でもどっちにしろおばさんじゃなくても良かった。どこかのホトケさんが、見つかって、きっと魂も離れて、どっかに彷徨っているんだろうからね。それから一息つくと、横たわっているおばさん(じゃ無いかもしれないけど)をどうしようか、姉さんと相談した。けど得た結論は一つだった…私たちの体力の残っているうちに埋めてしまおうということだった。それ以外にどうしようも無かったし…もっとちゃんとした場所に埋葬して、せめてお花の一つや二つくらい一緒に添えてお弔いしてあげたかったけど…今できることはそれだけだった。バーが太い幹を使って土を掘りだしていって、私が素手で穴の形を整えて行った。入れ替わりたち変わり繰り返していって、ようやく大人一人が横たえるくらいになった。「おばさんだけでも見つかって良かったね」と姉さんが言うと、私は汗だくのなか、疲れて果てていて、何にもいえなかった。二人で担ぎ出して、穴に埋めると、さっきまで子供が芋を掘るように夢中になっていて、一種のお遊戯会のようだった瞬間から、途端に「厳かな雰囲気」に一瞬で替わっていった。私たちは死者へのお祈りをした。バーはひざまづいて祈祷をしていた。私は手のひらを見ると、泥カスがちょうど手の皺の方向の一つ一つに、縦横無尽に、正確に、まるで根っこのように、ひび割れていた。思わずずっと見惚れていた。それからあたりを見回してみた。太陽が東から西に登って行くのがよくわかった。段々と日が暮れて、夜になって行く様子が手にとるようにわかった。赤ん坊の鳴き声がした。ラッパの音がした。銅鑼の叩く音、野良犬の遠吠え、銃声が響き渡った。土壌のにおい、石灰の匂い。硫黄のにおい。石油の匂い。散らばったゴミ。流れていった誰かの荷物。樫の幹で作った十字架。白んぼ用に作られたおあつらえむきの真っ白の棺。
しばらく経つと、姉さんが、

「ねえさ、ちょっともよおしちゃいそうだから、ここでやっちゃわない?」

と罰が悪そうに、ちょっと笑いながらぽつりと言うから、私もそうねって、相槌打つと、そういえば久しく生理現象の事を忘れていて、それに気づくとようやく自分にもあのツーンとする感覚が戻ってきた。これはもう神が私たちにすっきりさせよ、と言っているような天啓だと信じたわ。それでふたりで汚泥混じりの丘の上を這い上がって行くと、眼下をようやく見渡せる高台のところまでたどり着いた。しゃがみこんで、ズロースをずらすと、おまんこをわざとみんなに見えるように、大胆にご開帳してやって、勢いよく放り出してやった。シャーっとね、それはそれはいい音がしたわ。線香花火のようだけど、気分はもうナパーム弾を落としているようなものだった。なんというか、久しぶりに良い気持ちになって、軽くほろ酔いする感じ…子供の頃に戻ったようなあの感じ。地面に垂れ流すってのがこんなにも、いいもんだとはね。泥が固まってカチカチになった大地の、ほの一点の、そこだけが潤っていた。私たちの排泄物でね。いつも銭勘定ばかり気にしてて、先のことばかり悩んでばかりだった日常も、汚泥と血にまみれたこの土地に、全部一緒に流れて仕舞えばいいと思った。それだけ、それだけよ。それから姉さんも気持ちよさそうに、また口ずさんだの。もう讃美歌でも民謡でも労働歌でもなんでもござれ、という感じでね。私は黙って、聴いていた。遠くの方で汽笛の鳴く音が聞こえたような気がした。でもそんなわけなかった。疲れていたからね。何かと勘違いしたんだと思う。爆発する音。群衆の騒ぎ立てる音。誰が叫ぶ音。それからまた銃声の音。それから」





「いや、どうもありがとうございました。またこの調子でお願いしますよ。助かりましたね」

ジーゲルの南部訛りのおべっかを聴きながら、ウィリーブラウンは報酬と違法酒・つまみのウリを受け取る。ジーゲルは、チャーリーの喉の傷口を労る様子を見せながら、親分の方に居直ると、ズルズルとリヤカーを引いていった。今度はミシシッピ川を南下して、ナチェズを目指して行くという。


ウィリーブラウンとチャーリーパットンは、酒場を抜け出して、とぼとぼとまた元来た道を戻って行く。陽の光は徐々に弱くなっていき、当たりが段々と暗くなり、日が暮れようとしていた。分かれ道のところまで来ると、報酬の分け前をウィリーは6つ半、チャーリーは3つ半に分配した。ウィリーブラウンは呼び込みの盛況ぶりに満足していたのか、気前よく酒は全てチャーリーに渡した。あの濁声のトーンを落として、うわべの機嫌さを隠せないまま静かな調子で話しかけてきた。

「ルイーズ(ジョンソン)のところに行ってくるよ。今日は鍋料理なんだ」

「俺もいいかな」

チャーリーは訝しげに、相手の反応を伺う。

「だめだね。お前は嫌われてるから。ギターでぶん殴る奴に用はないだってさ。」

「クズはクズらしくしてろってことか、ふざけんな。そんなんだったら、わけ前をもっと寄越せよ。お前にゃ貸しがあるんだからな」

チャーリーは、護身用に持っていたナイフの柄から鞘を抜き取ろうとする動作を見せつけて、啖呵を切る。

「まあまあ。気を悪くするなよ、大将軍さん。わかったよ。カモ鍋だから、余ったら持って行ってやるよ。だがな、来るのだけは勘弁願いたいね。わけはわかってるだろう」

「ああ。だがよ、これだけはルイーズに言っといてもらいたいね。あれは俺だけのせいじゃないってね。俺を、単なる癇癪持ちの穀潰しなやつ、みたいに思わないでくれってね。俺だってこの喉さえ治りゃなあ…」

「わかった、わかった。じゃあな」

ウィリーブラウンは別れを言うと、東の道、プランテーションの脇道を下っていった。チャーリーはウィリーの背中を見届けると、西の薄暗い上り坂道を登っていった。

夕暮れの、最後の西日の光がチリチリと照らすなかチャーリーは斜面を歩いて行く。デルタの道はいずくまで…どこまで続くぬかるみぞ…と独り言をぶつぶつと唱えながら、薄暗い道を早歩きで前進していく。行き交う人は誰もなく、赤茶色の地面を踏みしめる音だけがあたりに響いている。真夏を過ぎてから、影法師が長く濃くなって行くのを傍目で見ながら、そのときチャーリーはバーサ・リーを思い浮かべた。髪はしっとりとした黒色に、焦茶色の鄙びた肌、刻まれた皺の数々、漆塗りのような透き通った瞳、笑ったときの目尻ー綺麗なカラスの足跡ー、頬ずりしたくなる太もも、そして何よりも愛しい愛しいあの名器ーいつも愛し合っている時に鼻を近づけて嗅いでみると、シメジのようなにおいがしてくるーを、一つずつ思い返していった。

「愛してるよ。バーサ。今すぐお前のところにいって、お前のいたるところを全て吸い付くして、抱きしめたい。お前のおまんこは、俺のものだよ。誰にも渡しやしないから。一晩中、一緒に踊り明かそう。俺の伴奏で。お前はずっと踊ってくれればいい。そうすりゃ機嫌も治ってくれるだろうから。それでまた一緒に暮らしていこう。」


チャーリーは、駆け足でリンダ・リーの家へと向かっていった。背中に背負い込んだギターが、草木に当たり、からんからんと鳴っていく。

1933年9月2日のことであった。

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