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小説『ビー・ヤング、ビー・フーリッシュ、ビー・ハッピー』



(作・牛島兄)

 デックからDJがトップ・チューンをかけると、ダンスフロアのダンサーたちが雄たけびをあげて拍手喝采し、その夜のそこまでで最高の盛り上がりを見せた、戦争でもはじまったみたいなきちがいじみた大盛りあがり。目をらんらんと輝かせ、手を叩き、床を踏み鳴らす者もいれば、感極まって泣き出す者もいた、そして母親の名前を叫ぶ者も。このようにして、地下室にて、みんなそれぞれウイーク・デイの日々の泡で身体中に溜まりに溜まった膿を吐き出すって算段だ。曲はトミー・ニールの「ゴーイン・トゥ・ア・ハプニン」、我々の約束の土地、ミシガン州デトロイトで創られた偉大なるノーザンソウル・クラシック。つまりあのアメリカ人って奇妙な連中が作った音楽の中で、最も暴力的かつ洗練されたもののひとつだ。ビッグ・バンのBGMがこの曲だったとしても、僕は大して驚かない。

 僕はといえばクールにニッコリして、デックに向かってさっ、と手を振り上げた瞬間に、その日つけてきたカフボタンがシャツの右手の袖口からいつの間にかなくなっているのに気付いた。なんてことだ。ターコイズ・ブルーの色の石が入ったビンテージのカフボタン。去年の夏、ソーホーのアンティークショップで埃をかぶっているのを見つけた。店主がこれまたぼったくり野郎で、茶色に変色したばっちい値札にはファイブ・クイッドときた。でも僕は一切、値切らなかった。そんな考えすら浮かばなかった。黒い小箱の中、ベルベットの布の上に鎮座していた一対のカフボタンは、そりゃもう美しかった!水星の女王の乳房ってかんじ。NASAが水星で拾ってきたのが、アインシュタイン博士の脳ミソの瓶詰めと一緒に流れ流れてソーホーの骨董屋に流れ着いたなんて言われても、僕は信じただろう、それくらい美しかった。黙って大事に抱えて、まっすぐ店のじいさんのとこに持っていった。じいさんが悲しげに戦争がどうとか言った気がしたけど、僕には聞こえなかった。買ってからは、ここ一番というときには必ずこのカフボタンをつけて出かけた。スクーターに乗ってたら袖口からのぞくこのカフボタンに見とれてしまってバスの停留所に突っ込みそうになったことだってあった。僕がバーで飲み物を注文して、カネを払うときは、周囲の空気が一瞬変化したもんだ。ジャケットの袖から、ハレー彗星みたいにカフボタンがとびだしてくるからね。

 そんな、身につけているだけで気分が高揚するような、そんなカフボタンが僕の袖から消えてしまっていた。その夜最高の盛り上がりのさなかに。

 ああ、なんてこった。僕は振り上げた腕をひっこめるとボタンを失ってみっともなくひらひらした袖を隠した。これじゃ今夜のださい奴一等賞だ。つけてくるんじゃなかった。なんでもない日だというのに、何で僕はこの大事なカフボタンをつけてウェストミンスターくんだりまで来てしまったんだ。特に意味はなかった。大事な時にだけつけていくというのも、何となく格好悪い、こういうなんでもない時につけていくのが粋なのだ、なんて考えてたような気がする。実にあさはかだった。この広い、そして暗いクラブの中であんな小さなボタンを落としてしまったら、まず絶望的だ。雪の中に落としてしまったダイアモンドを探すのと大差ない。しかもそこは汗を撒き散らしながら飛んだり跳ねたり独楽のように回転するノーザンソウル・ダンサー達でひしめいているときている。カフボタンの生存はまず絶望的だ。

 もう音楽もなにも耳に入ってこなくなった僕は、ひらひらした袖を右手で押さえながら野蛮な海岸に立ち尽くしていた。右手の血管が切断されて、血がぽとりぽとりと垂れ落ちていくような感覚を覚えた。右手を押さえる左手には、生き残った方のカフボタンがライトをあびて暗く光っている。相方を失って、どうもいつもの精彩がない。そこへ今夜僕をこんな野蛮な海岸に誘った張本人であり、幼馴染のトニー・フリッツが、手にパイント・グラスを持って赤ら顔でヨタヨタこっちにやってきた。
「よおアーチー、今のはお前が大好きな曲じゃなかったか。前にかかったときは、お前、お袋さんの名前を叫んでたぜ。」
 フリッツ家の忌まわしい遺伝により、立派に太ったトニーは今夜はワイン・レッドのハリントン・ジャケットにリーバイスのベージュのスタ・プレで、見てくれだけはスマートだが、それも酔いつぶれてパイント・グラスをテーブルから落とすか、誰か奴にとっての手ごろな「対抗勢力」に出会うまでのことだろう。
「トニー、カフボタンを失くしちまった。どっかで見かけなかったか?」
「カフボタン?」
「そうだ、」僕は左手の生き残りを彼に示す、「これだよ。時々つけてたろ?前にブラックプールのウイークエンダーに一緒に行った時だって。超いかすな、ってお前も言ってただろ?」
「知らん」トニーは事も無げに無表情で言った「それよりさっきすげえでけえオッパイの黒人の女がいたぜ。しかもまるでレスラーみたいに背が高いんだ。何者だろうな?」
なんだか僕は腹が立ってきた。
「トニー、なんだってこんなとこに来たんだよ?カフボタンは失くすし、ノーザンダンサーだらけだし、スキンヘッドの連中もいるみたいじゃないか。最低だ、まったく」
「スキンズの連中がなんだってんだ」
トニーが急に声を荒げた。しまった。トニーの前でスキンヘッズの話は禁句なんだ。続けて、俺はあんな連中にはびびっちゃいねえ、今日会ったらボコボコにしてやる、情けないミミズ野郎ども、ミジンコとファックしやがれ、などといつもの常套句。スキンズの悪口はトニー共和国の国歌みたいなもんだ。
「アーチー、お前は俺のことをオカマ野郎だと思ってるのか?スキンズにびびってトイレに隠れてるようなオカマ野郎か?アーチー、どうなんだ?」
トニーは赤い顔をこっちに近づけて酒臭い息を吹きかけながら僕の体をゆすってきた。彼は郵便配達夫の仕事をしてる。トニーが次の仕事を見つけるまでは、僕は大事な手紙は郵便局で出さないようにしよう。そう思いながら、トニーもちろんそんなこと思っちゃいないさ、スキンズだってお前を見たら小便たらして逃げてくさ、と言った。
「アーチー、友よ、愛してるぜ。俺は、飲み物を買ってくる。黒人のでかい女がいたら教えろよな。」
トニーはグラスを一気に飲み干すと、バーの方へ行ってしまった。と思ったら、急にこちらに振り向いて、真顔になって言った。
「アーチー。今日はどうしてもここに来なきゃなんなかったんだ。悪く思うな。」

 何だって、トニー?と声をかけてももう奴は振り返らなかった。またひとり海岸に取り残されて、僕は急に不安になってきて思わず左手のカフボタンを見た。なんだかとても不安にさせる光景だった。ひとつしかないカフボタン。今までにも何度か見ているかなしい光景なのだが、今回はどこか違った。ちきしょう、なんとしても見つけなきゃ、僕はひとりそう呟き、とりあえず今夜会場に入ってから自分が足を踏み入れた場所を丹念にチェックしていくことにした。


 僕はその日のパーティーが開催されていたベニュー、「101クラブ」のエントランスに戻った。普段はパンクのギグなんかがやっている古い、薄汚い地下のベニューだけど、今夜はノーザンソウルやスカのDJパーティーで、バンドはひとつだけ。数時間前、入場料をキャッシャーに払うときには左手にカフボタンはあった。ここがスタートだ。もぎりをやってるのは、顔見知りのフィオナ・ディッキンソンだった。フィオナはロンドンでインディペンデントの音楽レーベルをやってるスカしたボンボン男のガールフレンドで、どちらかといえばユニークな人材が多いこの界隈では珍しく、街の広告のモデルみたいなセクシーできれいな女の子だ。野郎どもはみんな彼女がフリーになるのを虎視眈々と狙っている。
「フィオナ、やあ。さっきも言ったけど、念のため、もう一回こんばんは。調子はどう?」
「ハイ、アーチー。まあまあかな。どうしたの?払いわすれてた?」
 今夜のフィオナは身体にぴたりとフィットしている黒いビートニク風のタートルネック・ニットに、赤いビニルのミニ・スカートで、いつものシックなモッド・ガールなスタイルと違ってなんだか派手な装いだ。60年代の娼婦ってかんじ。そしてなんだかんだいって、たいていの男は女性の60年代のシックな装いよりも60年代の娼婦の装いを好む。
「君がキャッシャーにいるからみんな何度も入場料を払いに来たくなって、プロモーターは大儲けだろうね。」
まあ大体いつもこんなことを言っては適当にあしらわれているわけなんだけど、彼女は今日はちょっと様子が違って、まんざらでもないようだった。
「大儲けも残念だけど今夜でおしまい。これからは法律事務所でフルタイムで働くことになったの。バイトしてる時間なんかないよね。」
「マジか。就職したんだねおめでとう。と、いうことはあの嫌味なボーイフレンドとは別れたってこと?」
 ちょっとした冗談のつもりだったが、途端に彼女は真剣な表情になって「ええ、そうなの。」とふっとどこも見ていないような目になって言った。
「そうだったのか。ごめんよ。」少し大げさに驚いている、女性思いの繊細な男のふりをしながら、僕は(マジかよ!こりゃカフボタンで騒いでるどころじゃないかも?)と大いなる男性的な衝動を感じていた。
「そういうことなの。あいつ、変な女にのめりこんで、カルトに出入りしてるみたいなのよ。『すごいソングバードを見つけた』って。」
「ソングバード?」
「そう。あいつの『歌手』の呼び方よ。バカみたいでしょ。君は素晴らしいソングバードだ、僕のレーベルからレコード出さない?って歌手志望の子を口説くわけ。ま、わたしもそれに引っかかっちゃったくちだけど。」
「え、きみ歌手志望だったの?知らなかったな。」
「そうよ。私歌えるのよ。ちょっと聴いてみてよ。」
間髪なく彼女は歌いだした。「たった一目で、わたしはあなたに、狂おしいほど、狂おしいほど、恋に落ちてしまったの。オーオ、オーオ、たった一目で」、ドリス・トロイの古いヒット曲だ。「すごいねえ。びっくりしたよ!君の元彼はクソ野郎だな。」拍手しながら、僕は努めて明るく言った。びっくりしたのは本当で、ただフィオナの声は「ソングバード」よりも瀕死の軍馬が泥の中であえいでいる姿か、チューニングの狂ったバイオリンが爆発する光景を僕の頭に思い浮かばせた。彼女のレコードが発売されたらセンセーションを巻き起こすだろう。それは、クラブではなく主にロンドン中の耳鼻科の待合室においてであるだろうが。そしてフィオナの元彼がクソ野郎なのは、まぎれもない事実だ。
「ありがとう。ねえアーチー、あなたの友達に音楽業界の人とかいないかしら?私の歌に興味ありそうな人が?」
「そうさねえ。ああ、従弟にレコード会社で小間使いみたいなのやってるのがいるけど。」
実際には従弟のエディはレコード屋の配達係だけど、そこまで遠くはないだろう。
「へえ、紹介してよ。あとよかったら・・・・こんどどこか静かなところでゆっくりお話しない?そのダークブルーのスーツ、ステキね。」
やったぜ!やったぜ!カフボタンなんかもうどうにでもなれだ。もちろん、そうしよう、と僕は言って、彼女の肩に触れようと、手を伸ばした。
「あ、アーチー、シャツの袖が変。」
「ああこれ?そうなんだ、さっきカフボタンをどっかに落としちゃったみたいでさ・・実はここに落ちてないかなと思って来たんだよ。でももういいさ!あんな安物どうってことないさ。で、いつにしよう?いつの何時何分?」
フィオナは僕の右手をとって、しばらくの間じっと無表情で眺めていた。
「ねえ、わたしやっぱりしばらく仕事が忙しそうなの。ちょっと落ち着いてから、また連絡するね。」
彼女の顔には失望や、侮蔑の感情が混じっているのが感じられた。それはつまり、「今夜のダサい奴一等賞」を見つめる顔だ。あ、ああ分かったよ、これ、電話番号・・・と僕の番号を渡したけど、彼女はそれをろくに見もしないでスカートのポケットにしまった。

 ちくしょう!ちくしょう!失敗した。彼女がロンドンのトップ・モッド・グループの一員だということを忘れていた。スーツの裾丈が0.5インチ「間違っている」というだけで他人を人間扱いしないようなイカれた連中だ。こうなったら何としてでもあのカフボタン見つけてやるぞ、そして再度彼女にアタックだ。
 それからは真剣にバーカウンターやダンスフロアの脇にあるテーブルや椅子なんかを、酔っぱらったりドラッグでぶっとんでる連中を押しのけて探してみたわけだけど、さすがにあんなに小さい石を暗闇の中で探すのは無理があるってもんだ。DJはさっきからソウルからスカに代わって、西インド諸島の、あの永遠に続いていくような疲れ知らずなビートが鳴り響いていた。ここぞとばかりにベン・シャーマンのチェックのシャツの袖から筋骨隆々としたタトゥーだらけの腕をのぞかせたスキンヘッド達が、ブレイシズを揺さぶるようにダンスに興じている。トニーが何かしでかさないか、心配だが、まだまだ夜は続きそうだ。フィオナとお話するチャンスは残っている。そこで僕はどこかに懐中電灯はないだろうかと、楽屋に行ってみることにした。今夜出るバンドの「オネスト・ジョン」はメンバーに顔見知りがいる。ちゃんとしたローディーもいるバンドだから、懐中電灯の一本くらい持ってるだろう。

 楽屋といったって、人が2、3人いればもう息苦しくなってくるようなスペースだった。そしてビールと小便と吐瀉物に、血やら殺虫剤やらなんやらが入り混じった奇怪な臭い。「オネスト・ジョン」は9人のメンバーを擁する大所帯のバンドで、スカやソウルのカバーが主なレパートリーで、パーティー・バンドとしてこういうクラブで引っ張りだこの人気バンドだ。巨漢シンガーのフロントマンだけで僕3人ぶんくらいの体積を誇っている。彼らが押し込まれた楽屋になんかなるべくなら行きたくないが、幸いにもまだ出番の前だ。出番の後よりはずっとましだ。楽屋のドアをあけると、運よく出番の直前でほとんどのメンバーはステージのセッティングに出払っていた。ちょうどいたのは顔見知りのベーシスト、デイヴ・ランカスターだった。楽屋の隅でひとり何やらごそごそやっていたデイヴは露骨にビクッと身体を震わせ驚いたようだった。
「誰だ?ノックくらいしやがれ!」
「おお、デイヴか、ちょうどよかった。悪いんだけどどっかに懐中電灯ってない?」
「なんだアーチーか。驚かせるな!」
「そんなにカッカするなよ。懐中電灯を貸してほしいだけなんだ。」
ステージ衣装の下品な赤のトニック・スーツに身を包んだデイヴは、グリースを塗りたくってストーク=オン=トレントの陶器のように盛り上がったポンパドール・ヘアも相まって50年代のポン引きみたいだ。僕とそう大して年齢は変わらないはずだが、やたら顔がフケてるのでまるでほんとに50年代からバンドをやってるおっさんみたいに見える時がある。音楽性にそぐわないから髪型を変えろと、再三他のバンドメンバーから言われても、頑固なアイルランド人であるデイヴは頑なに頭の上の陶器を壊そうとしない。
「ウム・・・懐中電灯ならそこの工具箱にあるだろ。見つけたら、とっとと出ていけ。」
いつもはメンバーからステージで髪型をイジられても穏やかでいるデイヴだが、今日の彼はどうも落ち着きがない。出番前だというのに、額には汗が光っている。
「デイヴ、大丈夫?珍しい、もしかしてキマってるのか?」
「バカ野郎!俺はドラッグはやらねえ。クソ懐中電灯は見つかったのか?」
今探してるとこだよ、と僕はデイヴに背を向けて工具箱をごそごそやってみた。背中にじっとこちらを見つめるデイヴの視線を感じる。彼はぶつぶつと何か言っている。やはり今日の彼は変だ。
「うーんないみたいだな。困ったな。」
「クソ懐中電灯でどうしようってんだ、アーチー?」
「どっかにカフボタンを落としちまったんだ。もしかしたらダンスフロアに転がってるのかも。」
「カフボタンだって?そんなもん諦めろよ。こんなクソ・クラブ、ネズミの糞しか見つからんだろうよ。あきれたやつだな。」
「そうもいかないんだ。あれは俺が持ってる中で一番大事なカフボタンだし、あれがないとフィオナに振り向いてもらえないんだ。聞いた?彼女今フリーなんだってさ。今夜中に新しいボーイフレンドができるだろうよ。」
アーチー、お前。と言いかけてデイヴは大げさに肩をすくめて見せた。
「アーチーよ。お前何か他に考えることはないのか?人生洋服と女だけなのか?もっと有意義な何かを人生に見出せよ。」
「何かって・・・・例えば何さ?」
「例えば・・・・大義だよ。お前は自分の人生で大義のために何かをする気はないのか?」
「大義だって?そんなもの犬にでも食わせとけよ。」
「アーチー・・・お前はまだ若い。今に自分の人生にうんざりしてくるぜ。カフボタンだとか、スーツだとか、スクーターだとか全部な。そんなもん、何の意味もないんだ。ぜんぶからっぽで、虚しいもんなんだ。それに気づいた時にはもう遅い。」
「なんだよデイヴ、しらけるな。今夜は変だぜ。俺とそんなに変わらないくせに。大義って例えばなんだよ?」
「例えば・・・・例えば民族のこととかさ。自分の祖国のために生きるってことだ。」
「おいおいデイヴ・・・・どうしちまったんだよ、ナショナル・フロントにでも入ったのか?」
「ナショナル・フロント?バカ野郎俺はアイリッシュだ。もういいからさっさと出ていけ!」
追い立てられるように楽屋を出た。ドアを閉める前にデイヴが言った。
「アーチー、忘れるな。人生ってやつは・・・・人生ってやつはすごい冷たい手をしてるんだ。触ったものを氷漬けにしてしまうような手だよ。おれたちはな、その手でがっしりと心臓を鷲掴みにされてるのさ。生まれた時からずっとな。気が付いた時には、もう心臓が凍り付いてるんだよ。冷たい手さ・・・本当に冷たいんだ・・・。」
「デイヴ、本当に大丈夫?」
ドアがばたんと閉じられた。
今夜はみんな、なんかおかしい。

 バーカウンターのほうへ行ってみるとちょっとした人だかりができていた。中心にいるのは今夜の周囲の装いのなかで極端に浮いている、ミント・グリーンのセットアップのトラック・スーツを着た男で、アディダスのトレック・シューズに頭にはダービー・ハットを被ってステッキを持った変な恰好の奴だった。それがフィオナの元カレのジョン・マッギルであるのに気づくのに、少し時間がかかった。この間見かけたときはダブルのシャーク・スキンのスーツを着ていて、ヘア・スタイルはフレンチ・クロップ、頭のてっぺんからつま先までモッドだったのに、今日のチンドン屋みたいなスタイルは何なんだ?家が火事にでもなったのだろうか、ざまあみやがれ。クリーニング屋のチェーンを営んでる裕福な両親の援助で、お遊びみたいなレーベルを運営してアーティスト気取りでいやがる。まあそれはどうでもいいのだが、その横にジョンよりも10インチは背が高い黒人の女性がいるのが驚いた。もちろん初めて見る顔だ。カラフルな南国の鳥のような鮮やかな色遣いのアフリカの民族衣装を着ていて、同じ織布の大きな帽子をかぶっている。ジョンがいつものようにぺらぺら何かくだらないことをしゃべっているのを尻目に、彼女はじっと無表情で虚空の一点を見つめている。夜よりも暗い肌がきらきらと輝き、アフリカのどこかの国の女王みたいな感じだ。彼女は気高く、なんだか人を惹きつけてとどめてしまう雰囲気があった。人だかりができているのはジョンでなく彼女が原因だ。ブゥードゥーの魔術かもしれない。そして彼女恐ろしく、胸がデカい。トニーがさっき言ってた女なのは、間違いない。
「とにかくだね、もうモッズ・ブームもおしまいさ。スーツにスクーター、そんなもの僕はもうとっくに飽きてる。本当にモダンでありたいのなら、そんな過去のスタイルをコピーするのなんて実に無意味さ。これからは僕のレーベルも『新しい音楽』を模索していくつもりだよ。それこそが真実のモダニズムだ。そうだろ?」
またジョンは自分、自分、自分話だ。いつものことだ。今夜はおおかた洋服を決める前に「死亡遊戯」と「時計仕掛けのオレンジ」でも見たんだろう。実にばかげている。
「『新しい音楽』ってなんのことだよ?シンセ・ポップか?」と誰かが言った。
「『新しい音楽』はさっきから君たちの目の前にいるよ。彼女が僕の『新しい音楽』さ。」
ジョンはそういうと隣のアフリカの女王の肩に手をやった。身長差があるので、まるでジョンが女王の肩にぶらさがっているみたいになった。
「紹介しよう、僕の新しいソングバードで、こんどうちのレーベルからシングルをリリースする。ハイチの出身で、パリでモデルをやってたんだ。本名は僕も発音できないんだけど、ステージネームは『ビザール』っていうんだ。クールだろ。」
ジョンはぺらぺらとしゃべり続けているが、誰も彼の話なんか聞いちゃいなかった。みなビザールに魅了されているようだった。しかし彼女は英語がわからないのか、そんな視線もおかまいなしに、ただ黙りこくってしゃんと立っている。彼女はどんな声で歌うんだろう。フィオナよりはましだといいが。
「今夜は彼女のシングルをDJに渡してるからそのうちプレイされるよ。80年代の新しいモダニズムを僕はこれからは提唱する、その第一歩だよ。一言でいえば、クラシックであり、モダンなんだ。よく聴いてくれよな。」
ジョンはそういうと、ビザールに耳打ちして、ひとりバーへ向かった。ビザールは相変わらず、じっと無言で突っ立っていて、周囲の好奇の視線にもまったく気づいていないような、完全に自分ひとりの世界に入り込んでしまってるような具合だ。
 ふと彼女がこちらを見て、じっと僕のことを見つめ始めた。僕は狼狽した。急に僕という存在が彼女の世界に入り込んで、彼女の中の何かのスウィッチが押されたような、そんな感じだった。僕は吸い寄せられるように彼女のほうへ行って、僕らはしばし見つめあった。DJはリタ・マーレーのレコードをかけた。ミラクルズの曲のカバーだ。彼女の暗く輝く顔が目の前にある。そして彼女がゆっくりと口を開いた。
「あなた、探し物をしている。」
彼女は訛りの強い英語でそう言った。
「うん。分かる?」
「ええ。石ね?きれいな石。」
「どうして分かった?」
「忘れなさい。災いの石よ。」
「災いだって?いったいどんな?」
「あなたの生は、もう半分、火がついてる。その石は、残りの全ても焼き尽くす。」
そんなこと・・・と言いかけてジョンが戻ってきた。
「やあアーチー、しばらくだな。うちのアーティストに何か用かな?」
僕は少し腹が立ち始めていた。
「ああ。彼女、ブゥードゥーのまじない師か何かか?あんたも最近カルトに出入りしてるってうわさじゃないか。新しいモダニズムってのはそういう意味かよ?気色悪いぜ。」
「フィオナか?あの売女。アーチー、お前もそろそろ目を覚ましたらどうだ?こんなとこに集まってる奴ら、全員カスみたいなもんさ。さっさとそれに気づくことだな。」
 衝動的にジョンに殴りかかろうとしたところを、いつの間にか真後ろにいたトニーが僕を羽交い絞めにしていた。「さあさあ、行こうぜアーチー坊や。クズはほっとけ。」僕は2人から引き離されて、でもまだ頭に血が上っていた。
「ちくしょう!あの野郎、ぶん殴ってやる!」
「あんな奴殴る価値もねえだろ。」とグラスを飲み干してトニーがのんびりと言う。
「なんだよトニー、らしくないな。今日はお前らみんな、おかしいぞ!」

 そこで音楽が止まり、デックにとつぜんヘプワースの特売コーナーのスーツみたいなのを着た知らないおっさんが出てきて、マイクでこれからダンス・コンペティションをやるからダンスに自信のある人はフロアに集まれ、とか言い出した。国の補助による青少年の健全などうたらこうたらって・・・。みんなブーイングし始めた。なんだそりゃ、ダセえ!って。おいおいダンス・コンペだとよ、ここはクソ・サタデーナイト・フィーバーかよ!と僕もトニーも顔を見合わせて笑ってしまって、さっきのことは一気に吹き飛んだんだけど、賞金が100ポンドだってヘプワースのおっさんが言ったとたんに全員目の色を変えてダンスフロアに集まりだした。
「アーチー!100ポンドあれば仕事当分やめられるな。お前、どうする?」
「トニー、お前のダンスはなんていうか・・・とにかく難しいんじゃないかな?恥をかくかも?」
「バカ野郎!嫉妬か?お前さんのダンスだってサーカスの象みたいだぞ。」
僕はいろんなクラブでトニーが披露してきた、彼によれば「ダンス」ということになる身体の動きを思い出してみた。ひとことでいえば、朝の公園で中国人がやってるスローなカンフーそっくりで、リズムから完全に自由になったスタイルだ。いつもエネルギーの有り余っているトニーの様子を見るにつけ、きっと彼の「ダンス」は健康にはいいのだろう。なんにせよトニーは乗り気だ。止められそうにもない。するとダンスフロアがライトで照らされはじめた。しめた!これなら踊りながらカフボタンを探すことができそうだぞ。僕もコンペに参加することにした。結局30人くらいがフロアに集まった。
「審査員が肩に触れたら失格です。フロアから去ってください。曲は3曲です。ではスタート!」
 ヘプワースがそう言って、ウィリー・ミッチェルの「ザ・チャンピオン」が流れ出した。ソウル・ボーイたちが手を叩いて喜びを表明し、いっせいにみんなオーバーな動きで踊りだす。ドラムス、ベース、ギターそしてホーンセクションとオルガンが、徒競走のように一列に並んでレコードから繰り出す魅惑的な音、それは聴く人間の両足を激しく上下に動かすことのためだけに作られた、1966年。ドンドンと、ダンサーたちが床を踏み鳴らす音がクラブ中に響き渡る。僕は腰をかがめてなんとなくツイストっぽい動きをしながらあっちを向いたりこっちを向いたり、いそがしく身体を動かしてフロアの床を僕の呪われし「石」が落ちていないか、ごそごそ探し回った。途端に背中のほうでトニーの叫ぶ声がした。「ふざけんな!ちゃんと審査しろよ、クソじじい!」。おおかた、始まったとたんに肩を叩かれたんだろう、だから言ったのに。2曲目はチャールズ・シェフィールドの「ヴードゥー・ワーキン」がかかって、これはちょっとダンスが難しいのかどんどんフロアから失格者が出て行った。リズムに込められた呪術的なムードに、僕は暗闇の中のビザールの無表情の顔を思い出して、少し背筋が寒くなる。僕の人生は半分火がついてるって彼女は言ってたっけ。そりゃまあそうだ。こうしてる間にも失業保険はもうすぐ失効。人生ってやつが不気味なうなり声をあげて僕を追い越そうとしてきている。負けてられるか、ダンスフロア狭しと動き回る僕だが、カフボタンの気配もない。気が付けば、フロアの外から見物している奴らが、ゲラゲラ笑いながら僕のことを見ている。ちくしょう、勝手にさらせ。おまえらが指輪や給料袋や離婚届を落としたって僕は探すのは手伝ってやらないからな。フロアに残っているのは5人くらい。審査員は呆れた顔で僕を見ているがなぜかまだ肩は叩かれない。ダンスフロアに現れた変人をみんなで楽しんでいるのだろう。
 3曲目、最後のチャンスだ。メルバ・ムーアの「マジック・タッチ」のイントロが流れ出して、僕は思わず叫んでしまった。僕はこの曲が聴きたくて今夜来たんだ。ダダッ、ダーン!と力強いビートが噴火のように吐き出されるたび、心臓から血がすごい勢いで押し出されて、各器官にいきわたり、手足の先っぽから熱くなっていく。そうして全身が熱くなると、何かの呪いから解き放たれたかのように身体が勢いよく動き出す。よく見ろ、これが水を得た魚ってやつだ。とても速いテンポだ、ついていくだけで大変なのだが、足が勝手に動いてくれるので何の心配もいらない。僕の脳みそは今、足や手にある。それが僕をコントロールしているのだ。あいつらが、僕のことを感嘆した様子で見ているのを感じる。ざまあみやがれ!やっとのことで僕は何もかもから自由になって、もう僕にできないことは何もないと確信している。
 しかしそれも2分30秒でおしまいだ。気が付くと音楽がやんで、審査員が拍手して僕の背中を叩いている。ダンスフロアにいるのは僕だけだ。ヘプワースがデックから言う、「今夜のチャンピオンです!」。背中を冷たい汗がはっていくのを感じる。みんなが拍手する。
 彼らは僕のことを言ってるのだ。

 「いやはや、君のダンス、最初はどうかと思ったけどね!あれはいったい何の動きなんだい?」
デックにあげられた僕に、ヘプワースが聞いてきた。ちょっとしたインタビューだ。「カフボタンを探してたんです。誰か、見なかった?」と答えると、みんな大笑いする。
「ハハ、君は面白い奴だ。では賞金の贈与の前に・・・1曲みんなで踊りましょう!」
ヘプワースが言うと、DJがマイクで語り始めた。
「このレコードは今度発売される、『フューチャリスモ・レーベル』の新作、今夜こちらにもお忍びでお越しのニュー・ディスコ・クイーン、ミス・ビザールのデビュー・シングルです。」
DJは少し投げやりな様子だった。なんたらレーベルってのはもちろんジョンのレーベルで、きっと無理やりねじ込まれたのだろう。僕はビザールの姿を探した。彼女はさっきと同じくバーカウンターに背をもたれかけさせて、じっとこっちを見ている。ドラムマシンの力強いラテン・ディスコ・ビートが流れ出して、ビザールが異国の言葉でなにかの呪文をつぶやく声が聞こえてくる。曲は、なんだ、スティービー・ワンダーのカバーだ。「ドンチュー・ウォーリー・バウト・ア・シング」。それをディスコ風にしている。これはきっと「ハウス」ってやつだな。これがジョンの言う新しいモダニズムってやつか。いとこのエディがこういう音楽も好きで、一回クラブに連れていかれたことがある。ゲイ・クラブだった。
 みんな最初ちょっと戸惑っているようだったが、酔っぱらっているし、結局はみんな踊りだした。モッズもソウル・ボーイもスキンヘッドも、好き勝手に自分たちのダンスを踊っている。新しいモダニズムも悪くないかもな。デックからみんなを眺めながらそうぼんやりと思っていたら、デックのそばに見るからに頭の悪そうなスキンヘッドが何人か集まりだして、騒ぎ始めた。
「こんなクソ音楽、さっさと止めろ!」
「オカマ野郎!」
奴らはデックをゆすったり蹴ったりし始めた。いつもトラブルを探している、見覚えある奴らだ。まずいな。すると、どこからか「てめええええええっっっっ!!!」って聞き覚えのある声がして、声のほうを見るとトニーが目を血走らせて彼らに殴りかかっていた。まずい、本当にまずい。ダンス・コンペで恥をかいたばかりのトニーは、今夜一番誰かに殴りかかりたい気分になっていたところだ。巻きぞえを食う前にさっさと帰ろう。でもその前に、賞金をもらっとこう。と隣を見たら、いつの間にかDJも司会も逃げてしまったのか、デックにはほかに誰もいなくなっていた。デックのそばでは大乱闘が始まった。グラスや瓶が音を立てて割れる中、フィオナがデックに駆け上がってきた。
「アーチー!あれ、あなたの友達でしょ?助けに行きなさいよ!」
「えっ。いや、まあどうかな・・・?暴力には反対なんだ。服が汚れたら嫌だしね。それよか、僕のダンス見た?」
「何言ってんのよ!あなた男でしょ?あんな奴ら、やっつけてよ!」
「わかった、わかったよ・・・ちょっとこれを持っててくれ。」
僕はスーツのジャケットを脱いでフィオナに預けた。フィオナがぱっと輝くような素敵な笑顔を僕に見せた。僕は一瞬彼女にキスしたくてたまらなくなったが、ぐっと堪えた。
「警察に知らせてくる!」、そう言って僕はデックを飛び出した。

 クラブの階段を昇っていくと、なんとおあつらえ向きであろうか、警官隊がどかどかと降りてくるではないか。誰かが先に呼んでくれたのだろうか?しかし「ああ、よかった。おまわりさん、こっちです!」と僕が言っても、彼らは僕を空気のように無視してそのまま地下室へと降りて行った。10名くらいの警官隊だ。いくらトニーやスキンヘッド達が手の付けられないような暴れん坊でもこれはさすがに大げさすぎる。どうなってんだ?と訝しんでいると、警官隊に遅れてゆっくりと、よれよれのトレンチ・コートを着た薄汚い無精ひげのおっさんがゆっくりと降りてきた。髪は寝癖が付いたままで赤ら顔。酒を飲んで寝ていたのを起こされてやってきた感じだ。足許も少々おぼつかない。だがその態度にはどこか威圧感があり、僕はすぐに彼も警官隊の一味、いや彼こそが彼らの親分だと気づいた。嫌な予感がしてそのまま階段をあがって帰ろうかとも一瞬思ったが、その反面強い好奇心にもかられて、少し考えた後僕は階段を降りて行った。
 クラブの騒ぎは一瞬でおさまったようだった。警官隊が突入してきたら誰だってそうなるだろう。トニーもスキンヘッドたちも目のまわりににあざやたんこぶをつくって元気なく立ち尽くしている。音楽も止んで、クラブ内は静寂に包まれている。さきほどのおっさんがデックにあがっていて、マイクを持って語りかけ始めた。まだ半分寝ぼけているような声で、なんだかやる気がない。
「えーーーーーー。お楽しみ中のところすみません。私はロンドン市警のラムレー警部です。実はですね。実は・・・・。さきほど新聞社宛にIRAを名乗る団体が犯行声明を出しまして、この地区のナイト・クラブの紳士用トイレに爆弾をしかけたと(ここで女性がキャーッと叫び場内が騒然となる)、ああ、ああ。落ち着いてください。どうか落ち着いて。まだこのクラブと決まったわけではありません。手分けしてこのあたりのナイト・クラブを回っております。現在、爆弾処理班が念のため、念のため、トイレを捜索しております。大丈夫です!安心してください。多分イタズラです。今月はいって3回目ですよ・・・。だいたいこんな貧乏人しか集まらないようなボロっちいクラブ、爆破したってなんにもならんでしょう・・・。いやこれは失礼しました。どうも、私も寝ているところを起こされたものですから。ご容赦ください。」
僕はさっきのデイヴとの話を思い出していた。身体が冷たくなった。彼の言う「冷たい手」が僕に触れたのがわかった。思わず、彼の姿を探してあたりを見回してみたが、あのストーク=オン=トレントの陶器の頭はどこにも見当たらない。警部が無線に語り掛けた。
「あー。こちらラムレーだが。どうだ?」
ジーッと音がして無線が話し出した。
「こちら処理班。爆弾を発見。」
「マジかよ。」警部は無線から顔を離して天を仰いだ。「参ったな。えーーーーーと。みんな、逃げろ!」
クラブ内は一斉にパニックになり、これこそがクラブ始まって以来のおお盛り上がりとなった。モッズ、スキンヘッズ、ソウル・ボーイたち、男も女もみんな一斉に出口へと殺到していった。ぼろぼろのスキンヘッドとトニーもお互い支えあってよろよろとそれに続いていって、最後にDJがレコードを重そうに抱えながらついていった。

 表に出ると、夜が終わりそうになっていて、クラブの周りはたくさんの警官で封鎖されていた。通りの向かい側にロンドン夜遊び人種の人だかりができて、この騒ぎを見守っていた。クラブの客のほとんども帰らずにことの推移を見守っていて、警官隊が彼ら一人ずつ身分証を確認し、連絡先を聞いている。ラムレー刑事はパトカーのそばにいて、無線で処理班とやりとりしている。僕は彼のほうへと、善良な一般市民の足取りで近寄って行った。
「あのお、ちょっとすみません。」
「なんだね?身分証と連絡先の確認が済んだなら、早く帰りなさい。」
「いや実はですね。おそらく僕、容疑者に心あたりがあります。」
最初の寝ぼけ眼からうってかわって飢えたコウモリみたいな目つきになっている刑事に、僕はデイヴのことを話した。ほう、ほうと聴きながら刑事の目がどんどん鋭くなってゆくのがわかる。
「なるほど。のちほどまたゆっくり聞くから、パトカーの中で待機していなさい。」
パトカーに入ると、とたんにフィオナが駆け寄ってきた。
「ちょっとアーチー!どうしたの、大丈夫?」
パトカーの窓を叩いて彼女が言う。
「大丈夫、大丈夫。ただの参考人だよ。明日、僕の名前が新聞に載るかもね。」
フィオナの口が「バカ!」の形に動いて、彼女は離れていった。刑事の無線でのやり取りが聞こえる。
「こちら処理班。時限式爆弾で、あと15分しかありません。念のため入り口付近には近寄らないでください。」
「了解、封鎖済みだ。解除はできそうか?」
「それがイタズラだと思ったんで装備をちゃんと持ってこなかったもので・・・もしかしたら無理かもしれません。」
「バカ野郎。何とかならないか?あと10分くらいならある。」
「時計の針の間にさしこんで動きを止めるなにかパーツでもあればいいのですが・・・警部は結婚指輪とかお持ちでないですか?」
「俺は独身だ。」
「失礼しました。ちょっと周辺を探してみます・・・・。ああ、あった、ありましたよ警部!これならぴったりだ!」
「やれそうか?」
「こちら処理班。爆弾の一時停止が完了しました!あとはほかの処理班の応援を読んでください。私もいったんそちらに合流します。いやはや、ラッキーだったな。ぴったりの石が落ちてましたよ。」
「石だって?」
「カフボタンかな。誰かマヌケが洗面台に忘れていったんでしょう。」

 気が付くと僕はパトカーをとびだして刑事の無線を奪っていた。
「あの!それってターコイズ・ブルーのカフボタン?」
「ええ?そうですが。警部ですか?」
「僕のカフボタンだ!」
僕はそう叫ぶと無線を放り出し、クラブの入口へ一目散にかけていった。身体は疲れ切っていたけど、スピードが効き始めてきたような暴力的な高揚感が僕の足を動かした。僕の顔は大笑いしている。笑うのをおさえられない。入り口で、いままさに上がってくる処理班の男2人とすれ違い、刑事が「そいつを止めろ!」と叫ぶ。2人の男が、刑事が、フィオナやトニーが、ロンドンの夜遊び人たちが僕に戻ってこい!と呼びかける。僕はクラブに押し入ると、後の奴らが入れないようにドアのカギをかける。彼らが、すぐやってきてドアを叩く。
「アーチー!開けろ!!ばか野郎戻ってこい!!」
「いまにわかるさ、どっちがばかか!」
誰もいない、しんとした埃くさいクラブの中、僕はゆっくりとトイレに向かう。一番奥の個室の中に、それは鎮座していた。デイヴがみんなに残していった、黒く光る冷たい手。あった!時計の針の間に挟まっている、あの愛しいカフボタンを僕は取り出す。僕はそれを丁寧にハンカチで拭いて、右手の袖に、もとの王座へゆっくりとつけてやる。頭の中でとたんにファンファーレが鳴り響き、スポットライトが当たった。

 やっとまともな人間に戻れたよ。鏡を見ると、おれがいた、名はアーチー。一昨日受け取ってきたばかりのダークブルーのモヘアのスーツを着て、ボタンは3つ、水牛の角のボタン。靴はバスケットウィーブの茶色のローファー、オックスフォード生地のダブルカフスのシャツ。

 僕はとてもいい気分だった。一番お気に入りのカフボタン。ターコイズ・ブルーの色の石が入ったビンテージのカフボタン。去年の夏、ソーホーのアンティークショップで埃をかぶっているのを見つけた。この話、前にもしたっけ?僕はゆっくりとデックにあがる。ターンテーブルの上に、レコードが一枚置きっぱなしになっているのに気づく。DJが次にかけるつもりで、慌てていたから忘れてしまったのだろう。レーベルを見てみたら、やった!僕は快哉をあげた。ザ・タムズの「ビー・ヤング、ビー・フーリッシュ、ビー・ハッピー」のシングル盤だ。ABCレコード11066番。僕のいちばん大好きなソウル・ミュージックだ。ターンテーブルのスイッチを押すと、途端にレコードが回りだし、力強いシャッフル・ビートがスピーカーから勢いよく飛び出してきて、あの愉快な帽子をかぶった5人組が僕にむかって歌いだす。

 若くあれ、愚かであれ、そしてハッピーであれ。
 雨が降ったって、くよくよしなさんな、時間のむだだよ。
 楽しみなよ、輝く太陽の中、毎日を生きるのさ。
 世界は相変わらずのあの調子、ガール・ミーツ・ボーイにボーイ・ミーツ・ガール!

 どうだ、これこそが本物の音楽ってやつだ。新しいモダニズム、けつ食らえ。本物の音楽は僕を超えてクラブ内に、クラブを超えて外のみんなに、そして世界中に語り掛ける。僕がこうしてここにいて健在であることを、僕の心臓を握っていた冷たい手は完全に溶けてしまって、もうどこにも残っていないことを、だから僕は完全に自由であることを知らしめる。外の連中は相変わらず、いろいろわめいている。なんにもわかっちゃいないんだ、彼らは。僕は外の喧騒よそに、ここで余裕しゃくしゃく、カフボタンを眺めながら優雅に音楽に耳を傾け、にんまりしている。やっと調子が出てきたぞ。僕は誰もいないダンスフロアに降りて、ゆったりとステップを踏む。

 しかしその時、夜が終わる音がどこからか聞こえてきた。それは僕の肩をやさしく、静かに叩いた。僕はダンス・コンペに失格してしまったみたいだ、くそったれ。(2021/2/4)


メアリー・ウィルソンとノーラン・ポーターに捧ぐ

牛島俊雄

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