数学科で6年かけて得たもの
私事ですが先日、無事に数理科学プログラムを修了し、理学修士の学位を取得しました!
さて、先週あげた数学科はなぜ女子が少ないのか考察するnoteにいただいたコメント(めっちゃ嬉しかったです…!)で、”数学と将来が結びつき辛い”ということに改めて気付かされました。
私もこれに近いことで結構悩みます。実社会とほぼ無関係の勉強しかしてこなかったけど本当に社会に出れる?とか。数学科のスキルなんて数学以外なんの役に立つんだ?とか。
(ちなみに体感でしかないけど、数学系はそんなに就活不利じゃないと思う。)
私は教員を目指していたこともあったのですが、
「なんのために数学勉強するの?」「数学なんか勉強して何になるの?」
に答えられない、それどころか自分自身もその疑問を持ったままである、という事実にビビって教職に就くのを先送りにしてしまったほどです。
けれど最近になってやっと、案外汎用的なものを数学から得られたように感じ始めています。
学生時代がまさに終わろうとしているこのタイミングで、今回はこれを少し整理してみる。
一言でいうなら、”疑う力”
数学科で得たものを一言でいうと、疑う力。
自明だ(≒当たり前だ)、と言うことの難しさを知っていること、と言い換えて良いかも知れない。(「なんで自明なの?」とゼミで何度突っ込まれたか…)
自明だと思っていることの背景には、案外いくつもの理論が隠れていたりする。
例えば、『曇っているから雨が降るかもしれない』という推論は当たり前で直接的であるように感じるけれど案外色々な知識に支えられているはずだ。
まずは、
①曇っているならば、大気中の水蒸気量が多くなっているはず。
②大気中の水蒸気量が多いならば、雨が降る可能性は高まりそうだ。
の2段階に分かれる。この時点で、最初の推論は論理の階段を少なくとも一つ飛ばしている。
しかし、そもそも重力がなかったら水蒸気が雨粒になったからといって地面に引き付けられるように降ってくるとは限らない。雨粒が大気に浮いたまま落ちてこないかもしれないじゃん!という反論も本来あっていいのかもしれない。(我ながらド屁理屈…!)
『曇っているから雨が降るかも』のような現実の推論は理屈だけでなく感覚や記憶にも強く結びついているから、理屈の上では自明でないことも自明に思えてくる。
けれど、数学的な事象に感覚や記憶は通用しない。より正確に言えば、数学的な事象にも感覚や記憶は存在するだろうけれど、証明としては通用しない。
数学的には『雨粒ができた場合には地面に向かって落ちてくる(重力の存在より)』という鬱陶しい文言も述べておく必要がある。
当たり前だろう、ということにも軽率に自明だと言わず、できる限り根拠を用意することが数学の場合はとても重要だと思うのだ。
実際、数学をやる上で自明なことはほとんどない。だから私は大学で数学を勉強するようになってから「当たり前じゃん」とはあまり言わなくなったと思う。
数学に限らず、古い慣習であったり、あまりに多数派だったりする意見だとしても、自明であることなんてそうそうない、と数学科の癖が言ったりする。
当たり前とされていることが本当に当たり前なのか疑い、
背景にある省略された理屈を考える姿勢。
これが、私が数学科で得たものだ。
正直なところ、この具体的な活用方法は今の私にはいまいち分からない。今までこの癖を基本的に数学の研究と自分の考え事のためだけに使ってきたからだ。
でも具体的で実用的なメリットとして表現できるようになりたい。
それは数学の魅力が伝わり易くなるためでもあるし、自分のためでもある。論理的思考力みたいな便利だが実態の掴めない言葉を使うことを、今はまだ選びたくない。
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