ジャニー喜多川への「性嗜好異常(パラフィリア)」非難は「ペドフィリア差別」???

ジャニー喜多川の「性嗜好異常(パラフィリア)」を指摘し非難した調査報告書について「ペドフィリア差別」という声が上がり、ハッシュタグもでき、「性的指向」と混同したりLGBTQ+に含めたりも改めて見られ、暗澹たる気持ちだ。

そもそも、自らの意思でコントロールできる/すべきものとしての性(的)嗜好と自らのコントロールが及ばない性的指向を混同し同列に置くことは不適切であるし、性的指向に対する理解を歪め「矯正できる」といった差別言説にも場を与えることにつながりかねない。

そして、子どもに性的関心・欲望が向くということが内的衝動としてあるいは内心抱かれる想念として生じることがあり得るとしても、それを行為として表出し現実化することは全く別のことである。まさにジャニー喜多川は行為として現実化したのであり、かつ常習的であり、地位利用も伴っていた。

ジャニー喜多川の性加害については調査報告書を含め明らかになっている証言から、相手の子どもの側の同意が問題となり得ない状況であったことは理解されやすいはずだ。身体的、精神的、知的などあらゆる面で優位にある大人に対する子どもの同意は問題になり得ないが、そこに圧倒的な権力が働いていた。

子どもへの性的虐待・性暴力では子どもの加害者へのアンビバレントな感情・愛着が行為に際しても事後にも利用されやすいが、ジャニー喜多川の例ではこのことが顕著に現れていた。被害者は尊敬の念や「嫌ってはいない/ならない」という思いと「行為は嫌だ」という思い(無意識含め)とで引き裂かれていた。

このような加害〈行為〉を「性嗜好異常(パラフィリア)」としたことに対して、それを「ペドフィリア」に置き換えて「差別」だと批判し、「ペドフィリア」を認めよという声として発することは、子どもへの性的虐待・性暴力を正当なものと認めよと言うことに等しい。

実際、性的同意年齢引き上げに対しても子どもの同意能力を主張して反対する声があったが、表層的な場面描写で圧倒的な権力差や非対称性を無化して「同意」の存在可能性を言い募るのはあまりに身勝手であるし、子どもの心理や行動に対する理解と想像力がなさ過ぎる。

彼らの言う子どもの同意あるいは暗黙の同意のサインは、都合のいい言動をスナップショットで切り取ったものに過ぎず、時間的な経過も関係性や場の構造も捨象して行為を正当化、合理化すべく解釈されたものでしかない。

基本的に「ペドフィリア」と名指されるのは行為として表出され現実化された場合あるいは現実化のサインが捉えられた場合であって、内的衝動あるいは内心抱かれる想念に止まっている限りはそう名指されることはない。その意味でも調査報告書に関して「ペドフィリア差別」が言われるのは不可解だ。

もっと言えば、ここで「ペドフィリア差別」が言われ、「ペドフィリア擁護」の声が上がるということは、明らかに先取り的であるし兆候的、予言的であるとすら言える。ジャニー喜多川がその行為により非難されたのと同じことが起こらないよう先んじて防衛しようとしているとも言えよう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?