出生率と「少子化対策」の落とし穴——東京都知事選への示唆

出生率でまた騒ぎになっているけど、「少子化対策」という問題の立て方が誤りだし、出生率は社会状況や(少子化対策以外の)政策の効果を測る代理指標にはなり得ても、政策目標としたり少子化対策の効果測定の指標としたりすることは誤り。

日本の将来のために子を作ろうという人・カップルも老後の面倒を見てもらうために子を作ろうという人・カップルも少数派(社人研の調査で2割前後=複数回答)。子を作る理由は人生観・生活観に関わること。「少子化対策」で出生数・率を操作・誘導するようなことではない。

家族や子どもを巡る価値観が多様化しており、というより、家族(夫婦)を作るべし、子を作るべしという規範の拘束力も、まだ強くはあるが親などからの圧力も緩んできている。子を持ちたいけど持てないという状況や子育てに関する政策は当然必要だが、子を作らせるため、産ませるための政策は当然不要。

こういった切り分け、整理をしないで、出生数・率で大騒ぎして、少子化対策の効果がどうこうという話になるのが延々繰り返されている。「結果的に」出生数・率が増えるということはあっても、それは要因を分解して他の政策の成否の判断に利用するもの。出生数・率自体は目標、効果測定指標ではない。

そもそも「少子化対策」に括られる政策は、どれも別の目的を併せ持ち、むしろ少子化対策は副次的効果として期待できる、あるいは無理やりこじつけているというもの。少子化対策としての効果に至る経路は複雑で、多分に机上の空論だったり因果関係、相関関係に混乱があったりする。

そして、いつまでも「少子化対策」にこだわり、それが効果を発揮した前提で将来の人口やその構成を推計して各種制度・政策を進めていては、ケアの問題然り、年金や医療保険然り、全く予想と乖離したひどい事態に陥るし、経済・社会そのものが回らないことになる。

日本も世界も皆婚・多産に向かうことはない訳で、少子高齢化の現実への適応、対応を前提に数十年先を見据えた政策展開をするしかない。出生率で毎回大騒ぎし、少子化が「国難」だなんだと叫んでいる限り、ますます未来が閉じられていってしまうよ。

東京で出生率が上がる、上げるというのは産業と人口の吸収力を保ち、大都市としての付加価値を高めようという今の志向を続ける限りは不可能。少子化対策という問題の立て方をして出生率上昇とかファミリー層呼び込み・引き止めとかを追求するのではなく、子どもの育ちと子育ての環境の改善が最優先。

東京の悲観的、だが可能性は低くない将来シナリオは、「パワーカップル」など富裕層しか満足に子育てができず、子どものケアサービス購入の余裕がない低中所得層は今以上に育児と仕事の両立に苦しむ、その制約で所得向上ができず困窮する悪循環に陥るというもの。その家庭への支援の人手も不足する。

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