少子化対策と因果関係の誤謬、悪しきエビデンス主義、歪んだ財源論

少子化対策が足りなかったのではなく少子化対策という問題の立て方をしているのが誤りで、成長戦略が足りなかったのではなく、成長戦略という問題の立て方をしているのが誤っている。出生率や人口も経済成長(率)も目的・目標ではなく結果であり代理指標であって、その要因を分析することが有効たり得るというだけ。例えば、女性の働きやすさと出生率が相関するという時に、少子化対策「のために」「として」働きやすさを高めるのは顛倒。(可処分)所得と結婚・出産が相関するというのを、(可処分)所得を上げれば結婚・出産が増えると短絡するのではなく、(可処分)所得が上がれば選択肢が増え、その結果として結婚・出産が増えると捉えて因果を丁寧に分析する必要がある。

成長すれば所得が上がる、所得を上げるには成長だというのも短絡で、実際成長が所得増に直結していないし、所得階層や属性別で成長の影響は異なる。そもそも収入~所得~可処分所得~生活水準も一様な因果を辿らない。相関を安易に捉えるのではなく、成長の効果と(再)分配の効果を丁寧に分析すべき。少子化、高齢化は成長の制約であり、人口減少化でかつてのような成長は不可能であるし、成長戦略は前提を欠く。しかし、同じ経路で、所得や格差、分配/再分配を決定/制約する訳では当然ない。どうもこの辺りが短絡、顛倒して何重にも議論がねじれているように思う。

典型的にはこんな因果のストーリーになってしまっている。

成長戦略・少子化対策→(可処分)所得増→結婚増→出生増→人口増→経済成長→日本の存続・繁栄

「少子化対策のたたき台」にはいいことや重要な施策も書いてあるのだけど、少子化対策の下に置かれることで意味が変わってしまう。つまり、結婚件数又は出生数といったことが目標あるいは要素に入ってしまうと、いい施策でも歪みが生じるし「成果」がそれで評価されることが起こりかねない。「『女性の健康』に関するナショナルセンター機能」も、これも重要な「妊娠期から出産・子育てまでの『伴走型相談支援」の制度化の検討」も少子化対策の一環とされるあるいは少子化対策の側面を持たされると立案・実行・評価の基準が歪んでしまう。

育児負担の偏り是正も、子育て世帯の負担軽減も、教育無償化/支援拡充も結局あらゆる施策がそうだが、少子化対策を冠することで推進力を得る利点はありつつ少子化対策を背負うことで歪みが持ち込まれる。それは中身だけでなく予算配分等の優先順位付けや政策評価からの改廃判断にも及ぶ。エビデンス主義の誤用もこれに関わり、既にいろいろ研究等があるように、「この施策で子どもが増えるか(増えたか)」というおかしな問題設定がされて有効性の評価がされてしまったりしている。「子どもが増えるか」は代理変数にはなり得ても、直接測るべき指標ではない。


少子化対策として(又はその名目もつけて)施策を立て効果を測定するからおかしなことになる。出生率・数や婚姻数、若い女性の人口増などで有効性を判断してしまっては、例えば就労支援、両立支援、子育て世帯の負担軽減といった施策の目的が歪み、改廃・改善の方向も歪む。

少子化対策はEBPM(根拠に基づく政策立案)論議の対象、標的になりやすいが、効果測定を少子化関連の指標で行うべき施策なのかという前提の議論が常に欠ける。PDCAサイクルが「少子化対策の与件化」のために回されるかの顛倒が起こっている。少子化対策が十分でないから、有効でないから出生率が上がらない、結婚しないと言われることが、既に因果関係を誤っている。出生率・数や婚姻数は結果的についてくるものであって、直接的に目的とし効果を測るべきは、女性の就労環境や待遇、男女問わず両立のしやすさ、子育ての経済的負担軽減など。

出生率・数や婚姻数は施策の効果を測る上での代理指標又は参考指標にはなり得るが、その場合でも因果の連鎖の仮定を誤ると結論がおかしくなる。例えば、家事・育児・介護のアンペイド・ワーク時間の男女間(夫婦/パートナー間)不均衡を是正することを施策の目的とし効果測定指標としたら、よっぽど少子化対策としての効果もついてくると思うよ。ただし、だからと言って少子化対策を目的に組み込んだらその瞬間におかしくなる。


焦点となっている財源論も「少子化対策の財源」「少子化対策のための増税か社会保険料活用か」という立て方をするから話がおかしくなる。あくまで、世代内と世代間の両面での再分配、そして受益と負担のバランスの問題として整理しないと、「誰が(より)取られるのか」の不毛な争いになる。税・社会保障一体改革のやり直しをしないと、効果がはっきりしないままに負担感だけが増すことになる。再分配の逆機能あるいは不十分さ、再分配による貧困削減効果の不均衡が問題化、検証されないままにつぎはぎを重ねてもそれこそムダが大きくなるだけ。日本の場合は財政と社会保障制度の将来に対する信頼感、安心感が低いし、ますます低くなっている。いくら個別施策を打っても「どうせ先々負担として返ってくるんでしょ」「どうせ先々もらえる額が減るんでしょ」と思われて、生活防衛的な行動を引き出してしまうという悪循環。

「デフレマインド」だ、「失われた20年、30年」だと言われた期間はバブル崩壊後に、将来不安解消のための政策的発想・思考の転換ができなかった期間だともいえる。むしろ、「新時代の日本的経営」「橋本6大改革」「小泉構造改革」と流動化・不安定化要因が前面に出た。「派遣村」のように男性の問題であることが可視化された(とっくに女性にとっては問題だった)ことで、新自由主義的な流れへの抵抗、対抗が強まったことが政権交代の大きな要因の一つだったが、野田政権で「一体改革」が変質し(民自公三党合意で決定的にした)、不発に終わった。アベノミクスは本来的な「大きな政府」とは違う意味での財政肥大化(かつ日銀を当てにした)で応え菅・岸田政権が踏襲した。それで将来不安が収まるどころかさらに高まることとなった。そういうところで少子化対策を先に打ち出し、財源論議を切り離して後回しにしたのだからおかしくなるのは当たり前。

せっかく民主党政権で種をまいた「新しい公共」も安倍政権下では生煮えで(ただ前進もあった)、菅総理の「自助・共助・公助」で揺り戻しははっきりした。それでも個別政策では積み上げられていたが、明確な反動として表面化したのが暇空茜問題、女性支援団体叩きだと言える。

防衛費大幅増や経済安全保障・国内産業保護名目の大盤振る舞いは許容又は歓迎する層が再分配・セーフティネット関連では「ムダ」を騒ぐ。ナショナリズムと新自由主義の歪な結託がこの10年余り特に顕著になったが、「リベラル」とされてきた岸田政権でピークになった皮肉。原発問題もそうだ。「何がしたいかわからない」と言われ続けている岸田総理だけど、この面は実は一番鮮明に出ているよね。そして、維新の伸長は非常に徴候的だということが言えるし、旧N国、参政党の議席獲得も社会的に孤立した動きではないということ。

少子化対策という問題の立て方は、少子化が国力の問題とされ「国難」が決まり文句になった通りナショナリズムと密接だし、経済の問題にされる通り新自由主義のご都合主義(実は歳出削減・規制緩和一辺倒ではない)の側面も表している。

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