暇空問題に乗じたAV――フェミニスト叩きのマネタイズ(適宜追記中)

確信犯でひどいなこれ。批判されるの込みで、それもまた都合よく利用するという魂胆も見え見え。これね、挑発して「Colabo支持者が」「ツイフェミが」とか「職業差別が」とかって都合よく利用するところまでがワンセットだし、「炎上」すれば「表現規制反対派」とかアンチフェミとかが乗っかってきてさらに論点をずらす展開まで見えるよ。

この作品が作られた文脈と意図は明白なのだけど、こうやって批判を「攻撃」に、加害者を「被害者」に変換して話をすり替える用意をしているんだよ。しかも、それを先に見せて、「こう言っているのにおかしな攻撃が」みたいに言うんでしょ。

こうやってしれっと書きながら、「被害者」ポジションを取る気満々なのが本当に醜悪。本来こういうことは権力者・強者に表現で闘うやり方だし、「エロ」にはそういう反権力性や攪乱性を持つものもあった(同時に性差別を孕む問題もあるが)。それがミソジニーによる攻撃の片棒を担ぐ形でなされる。

月島さくら~くりした善行がColabo叩き~暇空問題のきっかけの一つを作ったということも思い起こすべき。

AV出演被害防止・救済法案叩き、フェミニスト叩きで月島さくら、稲森美優とか中山美里とかが前に出たことはAV業界にとって都合がいいことだったし、彼女らにもメリットがあった。ただ、利益分配などAV出演者の制作者やプラットフォームへの権利要求は無視されている。彼女らも退路を断つことはしない。

以前も紹介したことがあるが、江原由美子さんの指摘する「からかいの政治学」ということを今一度考えるべきだと思う。


やはり自分がしてきたバッシング、加害は棚に上げて、自らの加害性を否認し目を背けて、被害者ポジションを取る。もちろん、誹謗中傷や叩くために叩くことはダメだが、正当な批判も一緒くたに「バッシング」として片付け都合のいいストーリーに逃げて、自分と向き合わないのは卑劣でしかないのよ。

案の定の山口貴士。デマでも何でも乗って、批判者を叩くのが「AV業界らしい戦い方」ならば、その卑劣さが「らしい」ということになる。今回の「炎上商法」は多少Colabo/仁藤さん、フェミニスト叩きは煽れても(もちろんそれは卑劣)、売上には大してつながらないと思う。収益化にはなるから醜悪だが。

こちらもやはり出てきた平裕介。叩きやすいように「仮想敵」の主張を作り上げるまでがワンセット。というか、本当にそう理解しているんだろうなと思えるのが歪みのひどさを表している。

山口貴士しかり平裕介しかり、弁護士などの専門家とか言論人とかがバックラッシュの土壌、暇空問題の土壌をせっせと耕し続けているのよね。こういうところもしっかり捉えておかないとならないし、だから局所的、単発的な問題と捉えて静観、傍観しているのはまずいのよ。

仁藤さんのポストを読めば、AV業界の構造、性搾取の構造を主眼にしていることは一目瞭然だし、「暇空のせい」とは書いておらず、むしろ月島が暇空の攻撃の発端を作ったことに触れられている。意図的な歪曲か、読解力のなさか、不安故の誤読か。後二者のセットだろうね。

暇空の動機の一端に「AV新法」があり、同法論議で前に出ていた月島が暇空問題のきっかけの一つを作り、暇空に乗っかり、しばらく直接の言及をしていなかったがColabo叩き、フェミニスト叩きをマネタイズするAVに出演していた。4か月ルールを考えると、企画は3、4月頃だろうし、撮影は5、6月頃だよね。

AV業界としては出演者・元出演者が「AV新法」論議で前に出るのが都合がよく、直接間接にモチベーションを提供していたし、元々「仲間意識」を醸成していたのが活きた。その月島・稲森を使って暇空問題に乗じてColabo/仁藤さんやフェミニスト叩きを煽りマネタイズする。暇空にとっても好都合な状況。

バックラッシュの土壌があって「AV新法」に際してのフェミニスト叩きが激化したし、それが伏線としてありつつ、バックラッシュの一つの現われとして暇空問題が起きた。暇空はバックラッシュの土壌から養分を得ているし、逆にバックラッシュのネタを提供している。こういう絡まり合いの下での今回のAV。

強制したり騙したりではなく、いかに女性から「主体性」「やる気」を調達するか、いかにAVや業界に「愛着」や「誇り」、「仲間意識」を抱かせるか、その仕掛けが狡猾。「AV女優」として主体化する=させられる仕組み。単純な自由意志対強制ではない。これは性風俗業も同じ。

本件は単なる「ひどいパロディAV」ということではない。AVを批判するフェミニスト、Colabo/仁藤さんを攻撃すると同時に、その流れとしてある暇空問題に乗じてマネタイズするものであるし、そのことへの批判をも利用するもの。

山口貴士は論点をすり替えるリポストをいくつかし、太田区議のおぎの稔も典型的なすり替え。論点をすり替える、「仮想敵」の主張を叩きやすいようまとめるは「表現規制反対派」の常套手段だが、今回の具体例の文脈をいかに外しているかが分かりやすいはず。こうやってミソジニーを隠蔽、合理化。

暇空問題も同じ。ミソジニーではなく「公金の使われ方」「利権構造」の問題なのだというストーリーにすり替えられる。「手続きがおかしい」とか細々ケチ付けしている者もそう。
結局、男の「当たり前」、その上に築かれた社会の意識や規範、制度がまだまだまかり通るし、それへのノーが叩かれ、話をすり替えられ、からかわれ…という事態が繰り返し起こる。根強いジェンダー‐異性愛秩序。

その下でアイデンティティ形成した男は(適応してしまった女も)論理以前にアイデンティティが揺るがされる不安、恐怖があり、だから既成の論理で武装するし、ノーを言う者を攻撃者、加害者と捉え、自らを防衛者、被害者の位置に置く。

大きな構造としてはそういう中で、具体的に起こってくる問題=ジェンダー秩序の発動にモグラたたきのように闘わなければならないのが現実だし、一見バラバラで個別的に見えがちだから、と同時に巻き込まれへの警戒もあるから、闘いもバラバラになりがち。そうは言っても闘いを積み上げるしかない。

現場の人たち、矢面に立つ人たちは満身創痍。退いた人も多いし、直接間接の犠牲者もいる。と同時に、新しく加わる人、声を上げる人がいて、バトンをつなぐ人がいる。ネット・SNSで攻撃はますます簡単手軽になり、対処の負担はますます大きくなっている。リアルとネット両方のつながりで闘うしかない。

出演者や擁護者らは案の定論点をすり替えるが、このAVの「内容」が「法的に」名誉棄損に当たるかは最初の問題ではない。このAVが企画、制作され、販売、宣伝される文脈、意図こそが問題であり、論点すり替えもその文脈にある。「燃やす」とか「キャンセル(カルチャー)」の問題ではもちろんない。

これは「パロディ」「風刺」やその許容範囲の問題ではないし、「お気持ち」「不快」の問題でもない。確かに「不快」なのだが、問題はその主観、感情ではない。これは「萌え絵」のことでもそうだが、不快さをもたらす事態、状況がどうやって成立しているかの問題。

「謎の勢力」ってすぐそういうストーリーにしたがるのだけど、FANZAもU-NEXTもここで暇空問題に乗るのはまずいという冷静な判断だと思うし、目先の利益より失うものの方が大きいということじゃないかね。右の写真は明らかに例の写真を意識した当てつけ。

AV業界そのものがそうだけど、FANZAなんてAV出演被害防止・救済法で全く前に出てこないじゃん。前に出たらやぶ蛇で不利になるとわかってるからダンマリ。と同時に、AVの利益から大きな取り分を得て、出演者やスタッフなどへの配分問題にも沈黙。AV女優らが闘うならこっちのはず。

結局ね、都合よくAV女優らを前に出させておいて、巻き込まれたらまずいとなったらスッと引く。人権倫理事の山口貴士も同情の余地はないけども、ずっと盾にされてスッと梯子を外された格好よ。恐らくFANZAは販売停止理由はぼやかすんじゃないかな。それでフェミニストらに矛先が向けば上々と。

白々しい。「圧力」「横やり」「あの界隈」…まさにテンプレで、「被害者の物語」にするのはシナリオ通りだよね。FANZAが早々に手を引くのは誤算だっただろうが、この「戦い方」はAV業界にマイナスと冷徹に判断されただけ。DMMなどにとっては「余計なことしてくれるな」というところだろう。

そしてね、Colabo攻撃の鉄砲玉コロアキの、しかも最悪のポストを宣伝に利用するというのはあからさま。


AV女優も売れようと思えばSNSが必須のツールになって、どう見せるかを日々意識せざるを得ないし、キャラクターとアイデンティティとにスパッと分けられない意識や思考を築いていく。そういう中から例えば「AV新法」問題で前に出る女優・元女優が出てくるのは業界にとって好都合。

そういうことは主に女優とプロダクションや中小のメーカー、スタッフとの関係性の中で育まれるが、AV業界全体としての構造がそこを取り巻いている。個々の女優、メーカー等のレベルで見れば厳しい競争だし、今や「適正AV」外の脅威もある。ただ、業界の「上の方」としては競ってくれていればいい。

個々の女優などのプレーヤーが前に出て、フェミニストとか「世論」とかと闘ってくれるなら都合がいい。でもAV業界にとってマイナスになるなら切り捨てたり、はしごを外したり、知らんぷりを決め込んだりする。人権倫だって盾にされ、広報役のようにされている(人権倫側は「第三者機関」と言い張る)。

ここでも、自由意志か強制か、主体性か操り人形かみたいな二分法では描けない構図がある。だから、月島さくらや稲森美優が「単なる演者」だからと免責はされないのと同時に、目立つところにいる彼女たちの責任は相対的なもので、関係者間の責任の重み付けの問題だ。

これはいつもながら状況と文脈の定義権の争い。彼らは「表現の自由」「不快な表現」「お気持ちでのキャンセル」「職業差別」の問題にしたい。そうではなく、「デマに基づくColabo等女性支援団体叩き(暇空茜問題)」と「これに加担した女優が出演する便乗AV」の問題。

さらに、入れ子構造のように、この状況・文脈の定義権の争いがある。

そして、背景として、見えにくくされているAV業界の多重的な構造に関わる上述の問題がある。

まさにこれこそ悪質で典型的なすり替え。「気に食わないColaboを潰したい」から始まり、そこに丸ごと乗っているということは無視だし、平裕介自身も暇空問題への加担者。

これを常套手段とする平裕介が「宮本から君へ」訴訟を闘っているのは皮肉以上のものがある。

ただね、「表現規制反対派」などが騒ぐほど、暇空問題もその被害も継続中であることにより多くの人が気づくことになるとも思う。感覚的だけど、静かになった者、元々様子見をしている者がいるように見える。あと、FANZAも自分たちが焦点化されたくないと思っているはず。

これもいつもながらの論点・文脈のすり替え。

中山美里も毎度の論点・文脈すり替えだし、相変わらず自由意志か強制かの単純な二元論に頼る。批判をその構図で捉えるから矛盾してるように言えるだけ。中山は「強要」の語感を利用してそれを「出演被害」に重ねて、「適正AVに出演被害はない」と矮小化してきたし。

その暇空問題に乗じてAVを作り、「パロディ」だ「風刺」だ「戦い方」だと称し、「表現の自由」「キャンセル(カルチャー)」「燃やす」「お気持ち」「職業差別」の問題にすり替える連中がいる。法的責任が生じるか以前に、全く不当な言動。誰が誰を抑圧し攻撃しているのか、ひっくり返すなよ。

もう一々固有名詞は挙げないけど、暇空問題という文脈を外して「またフェミニストが気に入らない性表現を攻撃している」という話にすり替えて騒ぎ始める者、騒ぎ続ける者がいるし、毎度ながら批判は曲解するしで。

いつもそうなんだけど、「お気持ち」だなんだと揶揄する側がむしろ感情全開だったり情緒に訴えたりするのよね。正当な怒りの表明を潰そうとするのに汚い言葉をぶつけるのもそう。でもそれをダブスタと思わず、逆に相手の言葉を都合よく解釈してすぐダブスタとか矛盾とか言うし。


女性が声を上げると率先して前に出てきて叩いて回る女性が出てくる。そうすると、男は囃す側に回ったり、その言動を利用したりする。彼女たちは決して操られている訳でも引っ張り出された訳でもなく、自らの生存戦略、適応戦略ひいてはアイデンティティが否定されることへの不安や怒りがある。

ネオリベ/リーンイン・フェミニストもトリッキーな存在だが、性暴力や性(的)表現の問題で告発者・批判者の女性を叩く側に回る女性がフェミニストと自己規定している場合が厄介。もちろんフェミニズムは多様だし「マイノリティ」のフェミニストの強烈な批判も重ねられてきたが、それとも違う。

「フェミニスト」は第一義的には自称なので、そもそも「自称フェミ」は無意味かつ蔑称でしかないし、著名なフェミニストはいても「代表的な」フェミニストはいないし、「本物」も「似非」もない。ただ、「フェミニスト」としての名乗り方、名指され方が何らかの意味、効果を持つ場面、文脈がある。

リーンイン・フェミニストの名乗りには他の女性に「甘えるな」等のメッセージを送り抑圧的に働きがちだが、往々にして当人は無自覚だ。性暴力や性(的)表現の問題で女性を「叩く」側に回る「フェミニスト」の場合、しばしば叩こう、黙らせようという動機が無意識にせよ見られる。この名乗りは複雑だ。

「女同士の闘い」とからかわれたり男が利益を得たりというお馴染の状況にさらに複雑さ、厄介さが加わっているように思えるのだ。今回のAVでも出た「似非フェミ」とか「ツイフェミ」「クソフェミ」のような「非真正」を含意する表現をこのような「フェミニスト」が使いがちなことにも現れている。

認識や立場等の違いによる論争ではなく、相手に「偽物」「紛い物」のレッテルを貼り「本来」「本物」のフェミニストの主張ではないとすること。フェミニズム内の多様な主張の一つとして扱わずフェミニズムの外に放逐するかの身振り。そのために「本物」の含意で「フェミニスト」と名乗られているよう。

あまりうまく言語化できている気がしないが、今回のAVの件で改めて感じたモヤモヤ。


全然追えないのだが、AVファンというアカだけでなく、業界関係者らしきアカからもいいね等の反応があるようなんだよね。業界内でも「あれはさすがに違うだろ」って感覚を持つ人はやはりいる模様。

例のAVを企画・制作したのも、出演者、メーカーの発信も悪手だったよ。企画は春頃で「行ける」と盛り上がったのかもしれないが。乗っかってきたいつもの面々も判断ミス。いくらすり替えようとも、暇空問題への悪ノリ、Colabo攻撃の意図は明白で、むしろ暇空問題が続いていることを周知させて逆効果。

FANZAやU-NEXTの対応の速さは誰かが動いてどうこうではなく「暇空問題に乗った」「Colabo叩きに乗った」と見られるのは自社にもAV業界にもマイナスという冷徹な判断だったのだろう。作品が表現として云々ではなく制作の文脈を捉えただろうし、出演者らの発信がむしろ判断を後押ししたかもしれない。

ちなみに、私の本件関連ポストのインプレッションも万単位がいくつもあって、一番多いのは現時点(2023/10/14 17:00)で20万を超えている。

例のAVのメーカーは暇空に乗り続けるらしい。でも、公式アカではこの作品に触れず、非公式アカだけでやってるんだよね。

メーカーというか担当者も、出演者たちも、平裕介もおぎの稔も論点をすり替えたり、妄想の「圧力」話で特定の人物に矛先を向けたり必死なのだが、やればやるほど正当性のなさを自ら暴く格好になっているし遠心力を強めている。

元のポストは現行の「適正AV」の定義の話をしている訳ではなく、主眼は人権と倫理だということは一目瞭然。「『適正AV』なの?」はいわば皮肉であるし、「適正」という名称の妥当性の方を問うているもの。まあ、これをわかりながら矮小化したいのだろう。

出演者らは伊藤和子さんのポストを曲解して伊藤さんがプラットフォーマーに「圧力」をかけたというストーリーにしたがっている。今まで何度も繰り返されてきたパターン。わかりやすい「敵」とその「横暴」ということにして正当化、合理化したいだけ。そうできる余地を残すFANZAやU-NEXTもずるいけど。

こいつら最悪だ。

こうやって話をすり替えるのは常套手段。そもそも公権力による検閲、制作・販売禁止の話ではないし。

メーカー関係者も出演者もおぎの稔(太田区議)なども話をすり替えるのに必死だし、それが常套手段。

このAVに乗るのは逆効果とさすがの暇空も考えるかもと思ったし数日は様子見姿勢に見えたが、なりふり構っていられないようだね。そしてそれは暇空問題の文脈を外して話をすり替えようとする者たちにとっても都合が悪いと思うのだけど、彼らもなりふり構っていられない模様。

YASはどういう意図でリポスタしたんだ???話をすり替えていたら訳わからなくなったのかね。

稲森、月島、中山も私のポストに話をすり替えた絡み方をしてきてたけど、そもそもポストをちゃんと読めなくなってて意味不明なことになってた。とにかく、彼女たちに限らず、本質的な論点については反論を一切しないで仮想論点を立てるばかり。

何でほむらやなるじゃなくて私に来るのかがほんとに謎…。

ずっと「キャンセル」と言って、論点すり替え、事実歪曲がひどくて拾ってられないが、平裕介はどうにもならない。水着撮影会の歴史修正は何度も指摘。サツキとメイの入浴シーン、お決まりのしずかちゃんの入浴、あるいはドラゴンボールのブルマなど、「なぜ問題とされるか」がいつもすっ飛ばされる。

メーカー、出演者、おぎの稔、平裕介、山口貴士、それにろくでなし子とか、話をすり替えて大騒ぎして煽っているからね。そこに当の暇空も乗っかってるし。

話題のスルメもね。

ずっとこんな。

柴田英里、相変わらずすり替えが酷すぎる。女性の創作者・表現者への、その歴史への侮辱でもある。

話をすり替えたままテンプレに乗って突っ走って。こういう動きを男たちが囃し立て、土壌を耕すのも去年のAV出演被害防止・救済法案の時と一緒だし毎度のこと。

論点をすり替え、「仮想敵」の主張を叩きやすいようにまとめるというおなじみの手法でしかないんだよね。私が出している論点と対照してもらえば明らかだと思う。このテーマはずっとこう。

前編で示した論点の深掘りだからさらに論点がすり替えられていくだけ。「AV新法」論議でもそうだったが、郡司真子氏の主張を代表的、象徴的なものと扱うのがこの種の立場の者の常套手段で、それがまず的外れ。ただ、郡司氏の主張がそうやって使われてしまうのは厄介なこと。

暇空問題の発端の1つだった月島さくら~くりした善行のデマは郡司氏の不用意な発信(悪意に読まれることに無防備だったし、AV女優蔑視と取られ得る発信もしていた)がきっかけ。

このスレは郡司氏のツイを受け小倉秀夫が乱暴に揶揄したという経緯の中で書いたもの。

暇空問題に乗っかったAVの話に乗っかっても両者の悪質さが際立つだけでともに不利になるだけなんだけどね。

ほむらはどういう感覚、判断でこんなポストをするのか本当に理解不能だし、これが援護射撃になると思っているのも謎でしかない。当人たちは「表現の自由」の問題にすり替えようとしているんだが。

全くのすり替えで、全く逆なんだよ。暇空問題もそうだが、デマ、歪曲、すり替えを駆使して民主主義の基盤となる制度を掘り崩すようなこと、行政の萎縮を招くようなことをしてきたのは誰か。と同時に、ネット・SNS時代にそのような制度をどう機能させるかを真剣に考えないと本当にまずいと思う。

これが最新状況のようでAmazonには現時点で未掲載。相変わらず被害者ポジションからの論点すり替えが続いていて、紹介頂いたnoteで出したような論点はスルーされている。


「お気持ち」「キャンセルカルチャー」を連呼し高みに立ったかのような発言を繰り返す平裕介のような者は「表現の自由」を標榜しつつ、実は言論・表現の価値に序列をつけている。それは、女性を「感情的」等々として「人(man)」の範疇から外したり「二級市民」扱いしたりの歴史の肯定であり与件化。

「お気持ち」は聞かれるべきではない、まともに取り合われるべきではないという態度表明は、それが「お気持ち」だからという以前に、気に食わない言論だから、既成秩序、既得権益を脅かすから「お気持ち」というラベルを貼って排除したいということだし、そこに論理>感情という序列化を動員するもの。

論理なるものが既にジェンダー、性的指向、人種等々によって都合よく構築され、歪められていることへの異議、問い直し、挑戦が感情的と名指されて劣位化され又は排除される。論理が常に既に感情と切り離せないこと、マジョリティあるいは強者の感情が都合よく論理を導いていることの否認と投影。

「エビデンス」の話も同様で、何をエビデンスとみなすか、データ収集でどのような前提、仮定を置き設計するか、データをどう集計し分析し解釈するか…あらゆる段階で選択があり、無意識、主観、規範等々が作用し得る。量的調査が優位で質的調査が劣るというのも恣意的な序列化に過ぎない。

極論的には、数字ならエビデンスで、数字のない記述はエビデンスではないかに言われるが、そのように一般化することは、「エビデンス」という言葉で自らの主張を権威化したい、優位化したということに過ぎない。エビデンスがあるから優位なのではなく、エビデンスを作れるから優位になるという顛倒。

「論理」にしろ「エビデンス」にしろ、誰がそれを定義し占有するかという政治であり闘争であるんだよね。「お気持ち」「感情的」「エビデンスがない」「エビデンス無視」等の言辞はその道具。

そうそう、被害者の証言に矛盾や非一貫性を見てあげつらうというのもそうだよね。なぜそれがが生じたかを捉えれば別の「論理」が浮かび上がるのだが、そうせずに形式的・表面的な整合性、一貫性の水準でのみ論じるというのも被害者の口を封じあるいは信用を貶める政治。

「男は大変だ」「男も大変だ」からスタートいちゃいかんとは言わないけれど、それを「女は恵まれている」「女は有利だ」に反転させちゃう経路ばっかりだからね。そうではなく、男性が作り維持してきた制度、規範等による自縄自縛、男社会/ホモソーシャリティの抑圧性に目が向くのならいいのだけど。

そうすれば、男性が女性に対して被害者位置にあるのではなく、女性を排除し又は従属させて築いてきた制度、規範等が男性を縛っていることにも、男性が女性に対して当たり前のこととして行ってきた扱いや要求、向けてきた眼差しを自分も自明のこととして行使してきたことにも気づいてくるだろう。

適応するのを自明視し、あるいはそうしなければならないと強迫的にせよ思い込んでいた男性のホモソーシャリティが従う必要のないものであり、むしろ解体すべきものであることにも気づいてくるだろう。

もちろん、法制度や慣行も変わってきて、形式的、表面的なあるいは建前的な部分だけ見てジェンダー平等は十分に進んだとか、男女逆転したとすら捉える者もいるが、自覚しにくい、否認している(無)意識や認知の部分は根強く残っているし、だからこそ平等が達成されたとか逆転したとかと見えてしまう。

女性が違和感や落ち着かなさを覚え、抑圧的と感じ、不快感や苦痛を覚え…等々することや場が、男性にとっては何ともなくあるいは快適で、あるいは「平等」「対等」とすら感じられるということはよくある。その非対称に男性は全く気付かず、抗議、異議や指摘がされれば驚き、被害者意識すら持つ。

その際の男性の感情的反応、反発が例えば「燃やされた」「お気持ち」「ポリコレ」「キャンセル」といった言葉に現れるし、従来のということは男性の既得権益である条件に則った意味での公平性等(男並み平等)の要求として現れる。そして、気づいてない男性ほど自信満々にあるいは無邪気に説くからね。

そうか、正義対ケアという補助線を引いてみると、表現の自由という正義を行使する男性を女性はケア(気遣う、慮る)しろと言っていることになるのか。正義対ケアという問題設定にジェンダー視点が欠けがちであるように、ここで言われる表現の自由にもジェンダー視点が欠けがちな訳だし。

ここでの表現の自由を「男性が男性のために女性を表現する自由」と言い直せばわかりやすいし、表現の自由が保障されている下でも「女性が女性のために女性を表現する自由」も「女性が女性のために男性を表現する自由」も社会的に行使しづらかったし法的規制に引っ掛かりもした。

表現の自由の議論においては正義は男性の専有物であるかのようだし、表現への抗議、異義は正義に反する、これを掘り崩す感情(お気持ち)とされる。正義の定義を巡る争いとはみなされないし、女性が正義の名の下で語ると「主観的な正義」を振りかざしていると扱われる。性暴力、セクハラでもそうだ。

幾重にも女性の声が無効化される、されようとするということ。そのために、歴史的な負荷、バイアスの下で構築され定義されてきた表現の自由概念、正義概念が脱歴史化されたままに動員され、ジェンダーの問題、性差別の問題が表現の自由の問題、正義の問題にすり替えられること。

あのさあ、フェミニストの講演とか書籍とかさらには「(性)表現」とか昔っから標的にされてきたのよ。何でも「キャンセル・カルチャー」に括って都合よく一緒くたにするなって話だし、無知・無理解を晒してるようなものよ。

性差別意識、ミソジニーからフェミニストの言論・表現はしばしば攻撃の対象になり場を奪われてきた。一方で、性差別・ミソジニーの言論・表現はまかり通ってきた。この歴史的な構造、非対称性を無視して「キャンセル・カルチャー」と括ってみせることがどれだけ性差別、ミソジニーの発露であることか。

上塗りだよ。「お気持ち」というラベルの差別性、ミソジニー性を何ら自覚していない。こんなレベルで表現の自由を論じることこそまさに表現の自由を掘り崩すんだよ。前も書いたけど、平裕介、山口貴士らこそ言論・表現を主観的に序列化し保護の優先順位をつけている。

月島さくらはまた文脈をすり替え。これは「悪質ホスト」問題の被害者についてで、性風俗従事者一般の話ではない。そして、ホスト/ホストクラブに新たに規制を掛けるとしたら、どう定義し限定するかが最初の難題となる。だから塩村さんはまず現行法での対応で質疑したはず。

平裕介はさらにひどいね。「悪質ホスト」対策の話なのにガン無視して全く話をすり替え。平も暇空がホスト規制を強く主張していることや性風俗従事者、売春女性への差別発言をしていることは完全にスルーしておきながら、こんな悪質なことをする。

中山美里もやっぱり叩ければ何でもありなんだよね。「風俗で働いている女性全員」の話を誰がしている?

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