「誰が売っているのか」と「誰が買っているのか」――男の性の「ふつう」「当たり前」を問うこと

「ブルセラ」「援助交際」であれ、昨今の「パパ活」「立ちんぼ」であれ、現象化・問題化されるのは買われる女性の側であって、買う男の側は透明化されてきた。

女性の側に焦点を当てる場合でも、「売る」に至る背景に分け入るのであれば意味はあるが、表層的な、ステレオタイプ的な記述に終始するものも少なくない。ホスト・推し活のためとか、遊ぶ金欲しさのためとかは典型的だ。その問題点はいくつも書いてきた。例えば、

何より女性の側を焦点化することは、買うことを正当化し、免罪符として機能する。かつての宮台真司らの「性的自己決定」論は典型的にそのように使われた。「自分の意思でやっている」「お金がいる」「その日の宿がない」「人の温もりが欲しい」「セックスが好き」…こういった形で強調され、もちろん対価を支払うことで男たちは相手に対しても買春そのものついても罪悪感を抱かずに済む。

「援助交際」もそうだったし今の大久保公園横などの「立ちんぼ」もそうだが、ブーム的に扱われると、買う側は「誰でもやってること」「ふつうのこと」と合理化し匿名性、不特定性の中に紛れることができてしまう。女性の側は匿名、不特定の集団と扱われつつ(それによって「ふつうのこと」とされつつ)、メディア、YouTube等で晒されてとたんに有徴化、スティグマ化されるのとは対照的だ。

さらには、買う男であれその現象を眺める男であれ、しばしば「売る女性」に対して道徳的優位にあると誤認、誤信する。「金遣いが荒い」「節制ができない」「趣味のため」「ふつうの仕事ができない」等々のレッテルを女性に貼り「自己責任」の問題にすり替える。あるいは、虐待やDV、いじめ、孤立等々のストーリーから男を援助者、庇護者の位置に置く。どうであれ買うことは正当化され合理化される。

もちろん、買う理由、動機としての「性欲」の言説も強固だ。かつても「性的弱者」論があったが、男の性欲は抑えられないとか、(生理的な意味であれ心理的な意味であれ)溜まるから処理しなければならないとか、当然のように言われ、それが買うことを正当化する。性犯罪の動機の語彙にもなる。

むしろ事態は逆で、買う機会があって、という以上に買う機会があるという情報や言説があって性欲が動機・理由として喚起される。性欲の満足は実は付随的なものでしかなく、「どんなものか見てみたい」といった好奇心が主たる動機だったりもする。あるいは、「どこどこで買った」「誰々を買った」が話のネタになったり、何らかの集団への入場券のようになったり、武勇伝のようにマウントを取る手段になったりもする。そうなると主はホモソーシャリティ、男同士のことであったりする。

「性的弱者」論のような言説も根強いし、「非モテ」「弱者男性」のような形でむしろ強固になっている印象すらある。これは一つには上に述べたように、性欲を生物学的・生理学的な装いで自明視する言説により、その処理をする機会があるべきだというようにすり替わっていく。人権扱いするような主張すら見られる。

もう一つは男としての価値/自尊心、男の中のヒエラルキーを表すものとしての性的経験だ。「童貞」や「経験の少なさ」が嘲りになるようなことから、「誰と寝たか」「何人と寝たか」が、それが話される場面、関係、文脈等により基準は恣意的に変わるのだが(例えば「素人童貞」が嘲りになる場合もあれば風俗で買った人数が勲章になる場合もある)、象徴的な意味を帯びランク付けされ、その男の価値を表すようなものになる。

もちろん、女性差別、ミソジニーの動機もある。女性を支配しコントロールする手段としてのセックス。例えば、「プロを悦ばせた」「親しみを示された」「打ち明け話をされた」といった買った女性から引き出した(と男が信じる)ものが自慢になる。上で述べた道徳的優位性の感覚と組み合わさることもしばしばある。こういったことで、「女には男が必要だ」「男が女に施さなければならない」といった観念を抱き強化する者もいるだろう。

それがある意味顛倒して、「結局男が搾り取られる」「貴重な金が女に取られる」というように言う者もいるが、それもまた捻じれた形で、買うことを肯定し正当化するものだ。

買う男も様々だが、多くは「ふつう」の男だ。中にはネタにする営利目的の者もいるが、絶対数は少ない。あるいは、アディクション(性依存症)と思われる者もいるが、特に男の性とアディクションには「性欲」の観念からして明確な線が引けない。その意味で臨床的に「性依存症」と診断され得る者がどこまでいるのかはわからない。むしろ、買うということに既にアディクティブな要素があると言えるだろう。

性風俗も同じだが路上で買春する男の経済的地位も様々だ。金に余裕がある、金に任せてという者もいれば、なけなしの金を使う者、借金をする者もいる。地位の誇示として買う者もいれば、男としての自尊心を満たすために買う者もいる。よく「金があろうとなかろうと、地位が高かろうと低かろうと、しょせん男は男」というような言われ方がされるが、ある意味ではその通りでありつつ、それはこれまで述べてきた通り男の性がどのようなものであるか、どのようなものとして認識されるかという問題と直結する。

いずれにせよ、「売る」女性に焦点が当てられ、現象化・問題化されることは「買う」男の側を透明化し自明化するものだ。「買う」需要があるから「売る」供給があるという古来からの売買春の構造が、「売る」女性がいるから「買う」男性客がつくというように顛倒されている。「売る」女性に焦点を当てることがこの顛倒を支えるし、「ふつう」の男が「ふつうのこと」として買うことを可能にしている。

「誰が売っているのか」はもちろん若年被害女性等支援、困難女性支援等の施策・活動のために必要な視点だ。ただ、何らかの理由・背景で「売らざるを得ない」「売るしかない」という部分には職業機会や就労支援策等の問題ももちろんあるが、現に需要があり稼得手段として成立するという根本的な問題がある。そのためには「誰が買っているのか」という視点が不可欠なのであるが、それが決定的に不足しているし、男の性をめぐる「ふつう」「当たり前」を問わねばならないがそれが欠けているに等しい状況がある。

買春男性側にも話を聞いたというがさらっと1パラにまとめられてしまって。ただ、「ほとんどが『買春側への罰則規定がない』ことを認識」「『お金に困っている女性を助けている』と自らの行動を正当化する人までいた」はポイント。

また、それなりに深く聞いた売春女性側の話も、記事の最後で「『今』ではなく、『将来』のことを考えたとき後悔のない人生を送ってほしい」と上からの「説教」でまとめてしまっては買春男性の正当化と大して変わらないのではないかと思えてしまう。

この記事を「自業自得」「自己責任」「支援が嫌なら仕方がない」といった風に都合よく読む者が出てくるはずで、女性に責任を帰すかのまとめはそれを助長する。警察の取締や行政の画一的支援ではたどり着けない本心や背景を掬い上げるには強制でも道徳的でもない、信頼構築ベースの取り組みが不可欠。

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