牟田和恵さんのトランス女性を巡る議論について

牟田和恵さんの「トランス問題と女性の安全は無関係か---『LGBTQ+への差別・憎悪に抗議するフェミニストからの緊急声明』についてフェミニストからの疑問と批判」を読んでいろいろと引っ掛かった。

この問題で殊更にフェミニストの分断が煽られているのは異様な事態だと思っているし、それで利を得るのは保守派でありトランスヘイターだ。

千田由紀さんなどもそうだが、正当な批判・批評に混じって「TERF」レッテル貼りされ誹謗中傷されで落ち着いた議論・対話ができる状況でなくなってしまっている。ただ、研究者には論理の飛躍やすり替えがないようにして議論・対話の可能性を開いて欲しいと願っている。その点から牟田さんの文章で引っ掛かった箇所をいくつか指摘してみたい。

まず牟田さんは「この声明があたかも日本のフェミニストの総意であると受け取られてしまうことを懸念」と書くが、「フェミニストの総意」がそもそもあり得ないことは承知の上でのはずだ。むしろ、多様な立場・主張、論争がフェミニズムを豊かなものにしてきた。WANサイトに掲載された声明も差別を非難しつつ議論・対話に開こうというものだと受け止められるが、それを分断的な内容と決め付けるかの書き方はミスリードではないか。

「女性の安全を求めることをトランス差別・トランスヘイトとみなす立場」「トランスジェンダー問題と女性の安全は一切関係がないとする立場」を同声明が取っているとは解せないし、「トランスの権利を擁護する方々の中でしばしばみられます」とは言えないのだが、牟田さんはそのようなものとして断じてしまう。

確かに、乱暴に「TERF」呼ばわりするような者はいるが、それを代表的な声、立場とみなすのは誤りだ。多くの批判は、女性の安全を焦点化することがその効果として、結果としてトランス女性への差別になってしまっていること、女性の安全を求める中であり得ない想定がされたり話が混同されたりしてトランス女性への不安や恐怖を煽ることになっていることに対するものだ。

その中で、トランスジェンダーへの差別意識がないかが問われることはあり、そこできつい言葉が用いられることはたしかにあるが、その部分ばかりに反応し咎めることは、女性の正当な怒りが感情的なもの、攻撃的なものとして非難され矮小化されがちであることを痛感してきたはずの牟田さんのセクハラ問題への取り組み、研究などと矛盾するものだろう。

牟田さんは女性トイレなどでの女性・子どもに対する犯罪を挙げ、「男性加害者によるものであり、トランス女性とは何ら関係ありません」としつつ、「公共スペースにおいて女性トイレをなくしてオールジェンダートイレにするという事態が生じています」などとして「『トランスジェンダーへの配慮』のもとに安全のハードルが下がっている』とするが、ここには飛躍と混同がある。

昔から女性専用トイレがない、少ないという問題があり、その改善が途上であることは事実だし、例えば災害避難所の女性トイレの安全性、快適性の問題は最近ようやく課題として認識されてきた。同時に、公衆トイレ等においてスペースの制約から男性用小便器と共用個室という組み合わせとなっていることは珍しくない。

もちろん、男性標準のトイレ設置の問題は、女性トイレの個室の少ないケースを含めて引き続き見直しが必要だし、暗がりや死角など設置場所や設計のあり方もまだまだ改善が必要だ。そのことがトランスジェンダーへの配慮のためにないがしろにされていると言える訳ではない。

問題となった歌舞伎町タワーのオールジェンダートイレは数ある設計の選択肢の中で選択を誤った例だ。オープンな空間に女性、男性、オールジェンダーの個室を配し、洗面台を共用としたことは思慮がなさ過ぎた。男女で空間を区切る設計や個室内に洗面台を設ける設計などが可能だったにも関わらずだ。違う角度では、コミュニケーション等の観点から職場等のトイレは男女共用がいいという主張もあるが、それも女性の安全・安心への配慮に欠けると思う。

新幹線・特急車両や狭い公園のようにスペースにどうしても限りがある場合には小便器と共用個室の組み合わせにするのが確かに回転しやすいだろう。ただし、個室に連れ込まれる等の危険を防止するための設計・配置は不可欠だ。もちろん、人気のない時間帯であれば女性トイレでも犯罪は起こり得るし、早朝のグリーン車トイレで女性乗務員がレイプされた事件などもあった。とは言え、これらはトランスジェンダー配慮とは別の課題である。

牟田さんは「トランス女性の方々で、性別適合手術を受けていない(以下、未オペと略)状態であるにもかかわらず、女風呂に入った体験を喜々と語り、またそうした行為を勧めているような発信・発言がネット上では見られます」と書く。ここには飛躍と混同がある。

まず、ネット上の声であるので信憑性の問題があり過大視はできない。もちろん、こういう例が少しでもあればという趣旨だと思うので、本質的な批判にはならない。肝心な点は、仮にそれらの声が事実だとすればその人たちは女性としてパスしたということになることだ。つまり、身体的には男性でも心が女性と「言ったから」女風呂に入れた事例ではない。逆に男風呂に入る選択肢は持ち得なかったということになる。牟田さんが読んだ投稿を見ないとはっきりしたことは言えないが、この人たちはもし見咎められたら女風呂に入ることを断念したのではないだろうか。女装して侵入しようとして見咎められたら「心は女性」と主張する男性犯罪者とは同列に扱えない。

そして、パスしていると思って入ろうとして見咎められ、身体的な性別移行が済んでいなければ女風呂の利用は断られるというのが厚労省通知の帰結になる。パスしているけど身体的な性別移行が済んでいない又はできない場合の女風呂入場を予め禁止するのかということは別の問題であるし、具体的な危険がないにも関わらずトランス女性の権利を制限することはプライバシー上問題があると私は考える。付言すれば、そうなると入口での身体検査、ボディスキャンというような話にもなりかねない。

なお、厚労省の通知は確認的なものであり、「女性の安全を求める人々の力が大きかった」のではなく、LGBT理解増進法案審議過程を含め繰り返しデマや歪曲などで懸念が煽られたためであり、従来からの運用を変更するものでも本法施行に伴い何か付け加えるものでもない。

そして、大学や公的ポストの女性枠、女性スポーツへのトランス女性の参入が公衆浴場の問題につなげて論じられているが、それはまた別の問題である。不当に権利・利益を得るために悪意で性別移行し参入することは許されないが、女性アイデンティティを持ち性別移行した場合や女性枠を使い事後的にジェンダー・アイデンティティが揺らいだ場合と混同して論じることはできない。これも元々男性として生活し、勤務し、競技参加しといったことが明らかな場合にはその観点での審査はやむを得ないだろうが、例えばテストステロンのような身体的な数値で線引きすることも困難で、「異常値」を示す女性を含め排除しかねない点は留意が必要だ。客観的に見える生物学的、身体的特徴であっても既にジェンダー的に意味付与され性差が構築されていることは牟田さんも十分承知しているはずだ。

そして、女性としてパスしている場合でもこのような女性枠への参入を禁止するのか、そのために参入の「自粛」を求めたり実効性のために公的書類や身体検査等で性別確認をしたりするのかという議論にも発展せざるを得なくなるが、牟田さんのこの文章を含め、この点についての議論は見受けられない。「男性が女性になって権利を奪う」というストーリーになってしまうことはトランスジェンダーの実情、実感と乖離していると感じる。

「女性の安全」を求める声には以上と同じような飛躍や混同が見られ、当人は無自覚にせよ話がすり替えられてしまっていることが少なくない。また、性差別的な言動を取ったり同性婚に反対したりしているような保守派がトランス女性の問題に急速に焦点をシフトし「女性の安全」を声高に唱えだした状況もある。そうしたことで不安や恐怖が煽られ、悪意がなくても効果として、結果としてトランス差別に加担してしまっているようなケースが多く見られる。さらに、「トランスジェンダリズム」「性自認至上主義」「トランスカルト」といったレッテル貼りも横行している。声明はそうした流れに一部のフェミニストが棹差してしまっていることへの懸念から発せられたものだ。

一方で、LGBT理解増進法の「全ての国民が安心して生活できることとなるよう留意」等の規定は以上のような(意識的であれ無意識的であれ)声高に唱えられた主張を背景に設けられたもので、女性への一般的な配慮だと読むことはナイーブに過ぎる。そうではなく、「女性の安全」を名目にしたヘイトを防ぐべきということが何よりも強調されるべきだ。このような形で女性が利用されることこそフェミニズムが剔抉し批判してきたものであるはずだ。

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