「核」と「原子力」——潜在的核保有への欲望とナショナリズム
8月6日と9日は改めて”Atoms for Peace”、「夢の原子力」の欺瞞を直視すべき日。「原子力の平和利用」は「核による加害」を免責し「核の軍事利用」を封印しないためだったし、日本における原子力推進には潜在的核保有への暗い欲望がある。そして、「原子力」に希望を見出し使う側に回ることで、被爆と敗戦の傷を克服しアメリカを赦そうという倒錯。
被爆国としてその悲惨な実相と教訓を世界に、また後続世代に伝えていくことは当然重要なのだが、「被爆国」「被爆国の国民」というアイデンティティを以ってナショナリズムが動員されてきたこと、原爆による圧倒的被害が戦争そのものについても被害者あるいは受苦者の位置を取らせるように作用したこと、これらも直視すべきであるし、「被爆」をそのように利用する言説に絡めとられないようにしなければならない。
山本義隆「核燃料サイクルという迷宮——核ナショナリズムがもたらしたもの」。明治期、戦前・戦中のナショナリズムと科学技術という問題の連続線上に戦後の原子力推進、その深層にある潜在的核武装への欲望、固執を捉えた。原子力の「平和利用」「民生利用」が軍事・軍需産業と分かちがたいことも跡付ける。
ただ、政官、メーカー、研究者と電力会社とでは原子力推進の動機にズレがあることも示されている。実際、電力会社にとって原発は第一に経営問題。「国策民営」で推進され、それ故に利益も保証されてきたが、原発を維持しないと途端に経営が傾く。しかも、原発の維持のためにはますます公的支援・保証が必要になっている。一方、政官も「だったらやめろ」とは言えない、やめられたら困る。
同書も明確に抉り出しているが、原発にも核燃サイクルにも経済合理性はないし、実はエネルギー安全保障というのも後付けだし、脱炭素にも逆行するもの。不合理な欲望とナショナリズムが原発・核燃サイクル推進を衝き動かしてきた。
同時に、電力が自由競争から中央集権・国家管理に転換した見返りを享受してきた電力会社が再び自由競争に晒されるようになっても、大規模集中型のエネルギーシステムから小規模分散型への転換が進まず、そのボトルネックになっているのも原発。脱原発はエネルギーシステムの民主化、地方分権化にとって不可欠であるし、逆にそれが進めば原発は不要になるということでもある。
それと、原子力というものは国のため、全体のために犠牲を要求する精神と相性がいい。被ばく労働者も、立地自治体・住民も、いざ危機となった時の「決死隊」も、使用済み燃料の置き場も、最終処分地も、みな犠牲を要求されるし押し付けられる。福島第一原発事故の「後始末」においても被災者・被害者の「エゴ」「わがまま」がしばしば非難、攻撃されてきた。
そして、原子力は現世代の中で犠牲を押し付けるだけでなく、将来世代に事実上「未来永劫」犠牲を押し付けるもの。これについては既に確定してしまったことではあるのだが、最低限かつ不可欠の責任としては、これ以上核のゴミを増やさないこと、これ以上放射性物質を自然環境中に放出しないこと、将来リスクの管理・低減のために最大限の研究開発努力をすることがある。しかし、現状は全てにおいて逆行している。
今ある原発は償却が進んでるから電力会社の経営上メリットがあるし運転費用だけ考えれば電気料金が抑えられる(ただし、廃炉費用や使用済み燃料処理・処分費用が追って増えてくる可能性は高い)。
新増設/リプレースはまずリードタイムが長く稼働時期が見通せない。今具体的に計画が動き出したとしても、平気で20年後、30年後になる。そして新設原発は現時点での試算以上にコストがかかることが確実で、そのままでは市場競争力は全くなく電力会社経営にもマイナス。だから公的支援が入り、消費者/納税者に負担が付け回される。経済的には全く合理性がない。
そこに事故リスク、被ばく労働、核のゴミ問題、余剰プルトニウム問題がある訳で、エネルギー安全保障だ何だを持ち出しても正当化はできない。「運転中のCO2排出がない」というのも欺瞞でライフサイクルでは相当量の排出がある。
ここに無駄な投資をするのではなく、需要対策、系統対策、蓄電池といったところに投資をすれば再エネ導入拡大との相乗効果が高まる。極めてシンプル。