「原発ゼロ」原論

本稿は2017年12月の連ツイをそのままアーカイブしたものだ。6年近く経つが全く妥当性を失っていないことにいろいろと思うところはあるが、「原発ゼロ」についての論点を網羅しているので「原論」としての意義があると考える。


原発新増設とプルトニウム問題

「原発新設、議論着手へ=エネルギー計画見直しで―国民理解に課題・経産省」(時事通信)
「<エネルギー基本計画>長期見通しで議論へ 有識者委」(毎日新聞)
安倍政権も新増設論議は封印してきたが、現行政策は新増設抜きでは論理的に破綻する。

両記事にある通り2030年原発比率は40年廃炉では達成できず例外のはずの60年運転を前提とする。そして実は、40年廃炉での原発比率15%(毎日記事)も60年運転での20~22%比率達成も機械的な計算で、個々の原発の再稼働可能性(活断層評価、経済性、地元同意など)を見るとかなり高いハードル。新増設のリードタイムの長さを考えると、2030年比率達成のためにすら「遅きに失した」議論開始なのだ。もう一つの論理的な新増設要求が再処理路線だ。既に日本が保有するプルトニウムすらMOXで消費できるメドは立たない。計算上はMOXを増やせばいいのだが実際には相当高いハードル。

そもそも稼働メドが事実上立たない六ヶ所再処理工場だが、稼働するとプルトニウム消費のために原発を止められない、減らせないという顛倒した状況になる。しかも、既存原発を全て再稼働して、例外なく60年運転にしてもプルトニウムを使い切れない。MOX燃料再処理をしない計算でも新増設は不可避。保有プルトニウムについては既に提案のあるイギリスなどに引き取ってもらうことが経済的にも技術的にも、何より核不拡散上も日本への疑いを高めないためにも合理的な選択だ。

新増設は現行政策の論理的要求であり躓きの石であるとともに、踏み込めば現行政策の射程を超えて原発をやめられなくなる。次期エネルギー基本計画に新増設を盛り込めば、リードタイムを勘案すると今世紀一杯は原発をやめられない。固定費率の高い原発は長期での投資回収になるが、建設費・安全対策費が上昇する上に、電力自由化と再エネの価格低下で益々競争力が低下する。公的支援込みでも長期フル稼働が不可欠になる。

原発コスト計算のトリック

原発のコストが喧伝されていた程には低くないことが3.11後の検証で公式にも認められたが、依然として原発に経済性があるとする発電単価の計算式には様々なトリックが仕込まれている。代表的には分母の発電量を規定する稼働率。分子には実証途上の建設費・安全対策費も、実証はこれからの廃炉費もある。

何より議論が分かれ、過小評価が否定できないのが事故費用(損害賠償・回復費用、事故収束・廃炉費用、行政費用など)だ。これを発電単価に反映させるには、事故費用を同時期に稼働する原発で担う仮定で按分する方法や事故費用負担を保険料に置き換えて算入する方法が考えられる。政府方式は前者だが、いずれの方法でも事故費用(損害賠償・回復、事故収束・廃炉、行政費用等)、事故確率、原発稼働数(出力換算)・稼働率・稼働年数で大きく変わる。事故確率は原発稼働数等の変数でもあるが、3.11を1基と3基どちらの事故と看做すかや安全対策の事故率低減効果の想定に恣意が働く。

事故費用は3.11で発生した費用に基づくが、損害賠償・回復費用の長期見積りは難しく、裁判等で争われている損害評価も過小評価だ。この後の論点にも関わるが、健康影響や環境影響は特に未確定だ。また、溶融燃料取り出しすらロードマップ上の仮定で事実上メドが立っておらず、廃炉費用は上振れ必至だ。さらに、事故費用は福島第一1~3号機で発生したとの仮定で発電単価算出上の1基分に補正するが、その補正方法にも過小算出のトリックが潜んでいる。

さて、政府方式はモデルプラント方式ということもあり、3.11の事故費用を何基・何年で回収するか(≒炉・年当たり事故確率)という視点になっている。その事故確率が4000炉・年に1回。10万炉・年に1回といった安全目標ベースの仮想的な主張に比べれば高い確率だが、十分に低い。何より国内原発での事故費用回収という観点では、50基(120万kW換算)×40年=2000炉・年に安全対策加味の1/2を乗じて4000炉・年に1回。50基だけでも非現実的な想定。

つまり、原発のコストは依然として過小評価に過小評価を重ねた代物なのだが、そもそも政府方式はモデルプラント方式(現時点で新設する原発の将来に向かった発電単価)という点にトリックと非現実性がある。当面問題となるのは既設原発だ。その場合、分子=費用と分母=発電量の双方に問題が生じる。

費用は先述の福島第一原発事故費用の将来に向かった算出がまず大きい。立地対策等公的支出の漏れなき算入も必要だ。新規制基準や防災指針等への対応費も基準・指針自体に甘さがあるため厳格化可能性を織り込むべきだ。通常原発の廃炉費が現行引当水準で足りるのかの検証、保守的な見積りも欠かせない。発電量については再稼働可能性と運転期間延長可能性の現実的な見積りが不可欠だ。感度分析で新増設を入れても既設原発の稼働期間内での発電単価への影響は軽微だ。

このように計算をすると原発が既に競争力を失っており電力自由化に耐えられないことが明白になる。だから、原発優遇・支援政策が進む。

原発の投資回収問題

原発新増設は当然に長期的な原発維持方針の表明となるが、間をつなぐために既設原発を最大限稼働させることになると同時に投資判断として選択的に廃炉をすることも可能にする。投資回収が見込まれない再稼働・運転延長は見送られるが損失は大きく稼働原発も基本的に60年フル運転を見込まざるを得ない。新増設込みで投資判断できれば選択肢が広がる。除却ではなく転用できる固定資産があり原発施設外で発生する固定費を含め新増設原発で回収できる道が開けるからだ。今進む優遇・支援策は固定費や福島第一原発事故費用の回収を一部、原発又は電力会社の外に転嫁するものだが、新増設は回収手段を広げる。

ただし、新増設で固定費回収の外部転嫁が止む訳ではない。先に述べた通り、原発は構造的に高コストである上に、事故に限らずトラブル発生等による長期停止リスクや(安全性の見地から正当な)規制変更リスクなどがあり投資回収リスクが高い。そのため固定費回収とリスク分散を外部に頼らざるを得ない。

以上の通り、既設原発維持にせよ新増設にせよ経済性で押し通すことはできないことは明白だが、そこで電力自由化の時代になっても、いやそれだからこそということで様々な理由が持ち出される。ちなみに、それを端的に表すのが電事連などが持ち出す「原発=公益電源」(故に支援は当然)という理屈だ。曰く、電力需給、エネルギー自給率・エネルギー安全保障、国富流出阻止/低減、地球温暖化。「3E+S」(安定供給・経済効率性・環境・安全性)が特に持ち出されるのが原発の必要性の議論だ。

エネルギー需給構造との関係

電力需給が理由にならないことは原発の長期離脱リスクを含め既に実証済みだ。だから他の理由と絡められる。

エネルギー自給率は原発を「準国産エネルギー」とするすり替えもあるが、自給率・エネルギー安保で言えば、再エネこそふさわしい。安定供給の議論でも再エネ拡大に伴う平滑化効果やそもそもエネルギー消費及びコスト抑制にも必須となる需給管理の高度化の効果が意図的に無視/軽視される。

需給管理の観点でも原発は邪魔な存在だ。ベースロードと位置付けることで既に再エネの伸びを阻害しているが(しかも再稼働を最大限見込んだ即ち未稼働原発を算入した計算式で)、出力抑制・停止が利かないことは需給管理の柔軟性を大きく損なう(出力変動に踏み込むべきとの議論もある)。

国富流出については火力焚き増しの影響の算出方法に過大推計をもたらす仕掛けもあるが、過渡的にLNG火力に頼るのはやむを得ない。LNG価格交渉力を高めることはもちろんだが、省エネの深掘りと再エネの導入加速でLNG依存度を下げるのが王道だ。そもそも殊更に国富が強調されるのが間違っている。

地域の視点では火力であれ原発であれ大規模集中電源はエネルギー購入費として富が電力会社本社立地点に流出している。それは大規模電源立地地域でも同じで、地元雇用や飲食・宿泊等で一部還流するが立地対策費や税収と合わせて大規模電源依存を高めこそすれ経済の自立/自律性を大きく損なっている。

これに対して、再エネを中心とする小規模分散電源は(外部資本によるものは別として)地域内に富を止め循環させる。なお、この点では電気だけでなく熱も重要だ。国富の強調は問題を隠すだけでしかなく、原発立地地域の自立を阻害するという重大な裏面を持つ。

再エネは「負担」なのか?

地球温暖化は原発推進の方便として悪用されてきた。これも繰り返しだが、省エネの深掘りと再エネの導入加速が最優先であるし、その両方を促進するダイナミックな電力需給管理を原発が阻害することも述べた通りだ。なお、石炭火力推進は高効率化と言っても従来石炭火力対比であって愚策、矛盾だ。

地球温暖化は原発推進の方便として悪用されてきた。これも繰り返しだが、省エネの深掘りと再エネの導入加速が最優先であるし、その両方を促進するダイナミックな電力需給管理を原発が阻害することも述べた通りだ。なお、石炭火力推進は高効率化と言っても従来石炭火力対比であって愚策、矛盾だ。

コストの話に戻ると、再エネも殊更にコスト、国民負担が強調される。まず対比される側の原発がコスト優位性を失っているのに正当化されるのが二重基準だ。3E+Sを持ち出せば、再エネはコスト以外でも環境と安全性で優位性があり、安定供給も自給はもちろん不安定性は拡大が解消することも述べた通りだ。

その優位性の付加価値として過渡的にコストが高いことは正当化されると考えるが、そのコストには投資的側面も大きい。つまり、再エネ導入ペースが速まる程コスト=価格低減ペースも速まるということだ。さらに、需給管理の高度化との相乗効果も高まる。原発を残すことはいずれにも制約となる。

FITは将来世代による現世代の搾取だというような歪んだ議論も見られるが、逆に原発は現世代による将来世代の搾取どころではないし既に現世代の間でも一部に不当な負担を押し付けてしまった。それに、FITを負担と捉えるとしても現世代はそれと原発維持のための負担と二重に課されていることになる。

原発撤退は電力会社に多額の損失が生じ、場合によっては公費投入=国民負担が必要になるかもしれない。そうだとしても、原発維持のための負担やさらなる事故で生じるかもしれない損害を回避する上では合理的な範囲に止まるし、それと引き換えに再エネ、省エネが進むことの便益もある。

原発に係る負担問題を解決した上でなおFITが現世代の搾取だと言うならば傾聴の価値はあるかもしれないが、その論理的道筋が想像できない。結局、原発の負担から目を逸らさせるための議論でしかない。

原発事故の損失

さて、以上で新増設はもちろん原発維持に合理性がないことは明白だが根本問題をまだ話していない。原発は一度事故を起こせば回復不能な損害をもたらす。損害は金銭評価して償うしかないが、人々の生命・生活をそれで取り戻すことはできないことを3.11で我々は改めて知らされたはずだ。それに、健康や自然環境への影響は未確定だ。数十年あるいはそれ以上経なければそれを知ることはできない。

その上で、経済的評価に限定しても損害賠償・回復費用は既に膨大で、将来どこまで膨らむかは確定できない。住民・作業員の健康影響は数十年単位で見ないと分からないし不幸ながらそれが不足する知見を補うことになる。自然環境への影響も同様だし、損害それ自体も損失だが経済・社会の損失に広がる。

廃炉費用も未だ合理的な見積りは不可能で今出ているのは暫定的試算でしかない。先に述べたように、溶融燃料の処分どころか取り出しのメドすら事実上立っておらず、汚染水問題等を含め各種見込み違いでロードマップは修正を重ねている。費用がどこまで上振れするか見通せないのが現状だ。

通常原発の廃炉等に活かせる知見も期待できるとは言え、福島第一原発事故の後始末に人材や技術開発力を割かざるを得ないことも経済的には損失だ。なお、将来的な人手不足も懸念されており、そうなると影響は1Fに止まらない。また、3.11は経済活動に大きな影響を与えた。

原発事故に帰属する金額を正確に推計することは難しいが、損害賠償・回復費用や行政費用に反映される部分以上に、交通・物流の寸断・阻害はもちろん、電力供給減に伴う影響など大小様々な経済的損失が生じた。GDPベースだけで見ても逸失利益を含む損失は相当な額になるはずだ。

そして、経済的に評価し切れないのが、狭義の被災地に限らず日本全国が原発事故による汚染を前提とせざるを得なくなったことの損失だ。すぐに風評被害や過剰反応と「戒められる」が、汚染の影響は数十年以上待たなければ分からない。そして、そう言うことは科学的だがそれだけに不安の源泉となる。

「ゼロリスク」追求の合理性

そのような計測不能な損害をもたらす原発事故の確率はゼロにならない。いくら技術的に対策しても不確定性は残るし、人的要因を含め技術外のリスクもある。どんなに事故確率を低めても確率である以上、明日起こらないとは言えない。そして、許容不可能な損害が生じる可能性も確率なので否定できない。

だから、加藤尚武氏などが喝破するように、原発にゼロリスクを求めるのは合理的なのだ。そして、ゼロリスクが不可能な以上、原発は続けられないのだ。他の分野と違って、効用との比較衡量は意味を成さないし(但し、他分野でも比較衡量の濫用は許されない)、保険も成立しない。

同時に重大なのは、原発は被ばく労働を必然的に伴うことだ。そのリスクが不公平に押し付けられるという雇用・労働構造上の問題も内包するが、仮にそれがないとしても、誰かが被ばくによるリスクを負うということは、原発の効用との比較衡量を許さないギャップである。

被ばくの労災認定は少ないが、それは審査姿勢の問題も極めて大きいが、被ばくの影響を他の疾病原因と鑑別することが難しい事情もある。知見自体が政治性を被っているが、その面を含め我々は被ばく影響に係る知見を十分に手にしていない。このことは福島第一原発事故の影響評価にも影を落としている。

ともあれ、事故リスクと被ばく労働の両面で原発は原理的に維持が許されないのだ。

経営問題としての原発

その原発を何故維持しようとするのか。理由がいろいろ付けられ、そこかしこにトリックが仕込まれていることは見てきたが、端的には2つである。電力会社の経営問題と潜在的核保有能力だ。

電力会社は関電が顕著だが、国策民営の下で固定費率の高い原発に傾斜してしまったために、経営上原発をやめるにやめられなくなってしまったのだ。投資回収の済んでいない原発の廃炉は多額の損失をもたらすし、政策として原発ゼロが決まればなおさら資産の売却可能性が断たれ除却損が膨らむ。

投資回収が済んだ原発は(投資も回収も公的支えがある訳だが)、変動費率が低いため他の電源に優先して動かす旨味が大きいし、それで他の電源への投資も遅れる。投資未回収の原発もキャッシュフロー上のメリットは大きい。いずれにせよ、電力会社は原発をやめると即座に資本大幅毀損/債務超過に陥る。

潜在的核保有能力保持の欲望

国の政策として原発ゼロを選択するのであれば、電力会社の経営問題に対応のしようはある。共謀関係とは言え国策で推進してきた以上、電力会社に応分の責任を取らせつつも手を差し伸べる責任もある。その決断をしないのはエネルギー政策の視野狭窄もあるが、根底には潜在的核保有能力保持の欲望がある。

確かに日本が核武装に動く可能性は今のところ低い。しかし、いざとなれば核を保有できるという可能性は手放したくない、それが隠された意図であれ無意識的な欲望あるいは恐怖への防衛であれ根底にあるのだ。そもそも核と原子力は軍事用と民生用の違いだけで訳し分けられているに過ぎない。

核の恐怖が刻まれた日本で原子力が熱心に追求された背景には、敗戦国として露骨な軍事力増強いわんや核保有が許されなかった中で原子力が間接的経路として見出され、米国も自己利益に適うとして勧誘、推進したことがある。そして、抵抗を歓迎に転じたのが「核」から「夢の原子力」への言い換えだ。

「夢の原子力」にはそれ自体、時に滑稽な未来予想図を描きつつも醸し出す魅力もあっただろうが、「核」で悲惨な被害を受けた日本がその力を「原子力」として我が物にして経済発展するという自己コントロール感の回復あるいは形を変えた復讐欲の充足ということがあったはずだ。

一般レベルでは原子力と核をつないで考えることは、北朝鮮やイランなどでは問題になるにも関わらず「日本は別」という自信もあるだろうが、原発への慣れともに薄れた感がある。3.11後に核との連想は多少強まったかもしれないが、依然として日本では別物という感覚の方が強いだろう。

潜在的核保有能力保持の欲望は、時々政治家や評論家などが露わにするものの又(極)右翼やネットでは抑えが利かないものの、水面下で脈々と原子力政策を駆動してきた。原発への拘り、理屈付けや表し方が不合理に執拗なのは根底にある欲望の投影なのだろう。このことを押えないと原発ゼロ貫徹は難しい。

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