「AV新法」署名運動のレトリック、論点すり替え(3月15日追記)


そもそもAV問題をどう論じるか?

「このままでは、AVはなくなる。」と煽る前に、「AVに何を求めているのか」という自らの欲望を問うべきだし(「性欲は自然、本能」ではだめ)、「AVが成り立つ構造」を問うべき。「規制する側」「したい側」にイメージを貼り付けてばかりだからいつも話がおかしくなる。

AVや性(的)表現の問題全般に言えるが、出演者・被写体などの自由意思か強制かといった形式的、表面的な二分法で議論してはならないこと、善良な性風俗・性道徳の維持や健全育成ではなく女性や子どもの人権、差別撤廃が目的たるべきだが、そこには見る/晒される女性・子どもの人権も含まれること。

性(的)表現を見る側の観点を入れるとすぐに「不快さ」「お気持ち」だという批判や揶揄があるが、性差別のメッセージを受け取ること、女性/子どもへの暴力性や性的眼差しを感じ取り恐怖や不安を覚えること、逆に馴化されること、これらは無視されるべき「感情」ではない。

むしろ表現の自由等の権利・自由で非対称的に保護されてきたのは男性の「感情」であるし、そもそも男性の「感情」に基づき、また都合よく形成され制度化されてきた。表現の自由擁護、表現規制反対の主張にはしばしば男性の/男性的な「感情」、その「感情的反発」が背後にありかつ駆動因となっている。

すぐに貼られる「お気持ち」ラベルは、貼る側の主張、動機の「感情性」の否認と投影であるように見えるし、論調に滲み出でていることは多い。論理対感情の二項対立の構図にされ法は論理の側に置かれ、「リーガルマインド」だ何だと言う者もいるが、法も論理も感情とは切り離せない。

覇権を握る者たちの感情が論理として法として具現し正当性・正統性を獲得するという要素が必ず組み込まれている。もちろんどんな感情でもいいという訳ではないが、無視されあるいは正当性を剥奪されてきた感情の正当性要求は「感情」というだけで却下されるべきではないし、その却下は権力作用なのだ。

批判や抗議に対して融通無碍に「お気持ち」のラベルを貼るというのは、融通無碍な権力の行使であるし、不合理性を孕んだ既得権益を恣意的に保持しようとするものだ。「論理」や「法」で正当化して語ることは、実はそれ守られている感情を正当化するものでしかなかったりする。

抽象度を上げて書いてしまったが、表現の自由擁護や表現規制反対を唱える者の言葉に「気持ち悪さ」を覚えることがあるとしたら、その主張の言外に滲み出てくるその者の「感情」を感じ取ってしまったからなのだと思うし、その主張の核心は論理・法ではなくその「感情」にあるからなのだろう。

フェミニストがすぐに叩かれまた激しい攻撃に晒されるのは、フェミニストの批判・指摘をまともに受け止めたら、目を背けたい自分の姿、欲望、感情を直視しそれが自分のものだと認めなければならないからだというのは大きいはずだ。だから、否認しフェミニスト側に投影する、無意識に。

「なっている」のではなく「なっていることにしたい」なんだよね。この構図を立て解釈枠組みとすることが都合がいいから。仮想敵としての「フェミニズム」に過ぎない。

「夜道は危険だから女性は歩くな」というのは不当で、いや、痴漢が悪いだろって話。このことには同意する、積極的に主張するであろう者たちが、性表現を目にしたくなければその場所を通らなければいい、行かなければいいと平気で言ってるのって何なんだろうね。

同様に、20年以上前からあるすり替え、詭弁は子どもに見える女性に子どもを演じさせたAV、ポルノへの批判に対して「差別だ」「ルッキズムだ」というもの。子どもを大人の性の対象として描くことが批判されているのであって演者が批判されているのではない。

その先の論点はこちらで。これもすぐに性道徳押し付け云々の話にすり替えられるがそうではない。

保守派:ジェンダー秩序・規範を維持したい。性表現、性産業等を道徳的に非難するが、自分の性行動は別。

一部のフェミニスト:性表現、性産業等を性差別的な道徳に反対する立場から批判するが、それ故に性道徳の主張に似通う。本質主義的で、ジェンダー秩序・規範を強化する面も持つ。

表現規制反対派:性道徳や本質主義を批判する立場だが、ジェンダー秩序・規範に基づく欲望、性表現、性産業等、そして法概念・理論を前提、肯定。

一見、それぞれに対立しているけど、その効果はジェンダー秩序・規範の維持、強化であって、ある種の共謀関係がある。

厄介なことに、今政府、経済界や国際社会が推進する「ジェンダー平等」にはネオリベ的、ポストフェミニズム的、リーンイン的な側面があり、全否定するフェミニストもいる一方で、そういう側面との親和性を持つ「表現規制反対派」は道徳的、規範的との理由で「ジェンダー平等」に懐疑的又は否定的。

こういった構図を理解している人ほどスパッとわかりやすい議論をしにくいし、他方でスローガン、レトリックは分かりやすいから、噛み合わない応酬、対立ばかりが目立ってしまう。そして、誠実にかつ戦略的にジェンダー課題について議論、取り組みをする人がいろんな方面から違う理由で叩かれやすい。

セックスワーク論の陥穽

女性の性的自由や自己決定、女性による性表現は女性(解放)運動、フェミニズムの焦点の一つであってきたし、その歴史に学べば安直なことは到底言えない。それを無条件にAVや性風俗などの議論に持ち込み直結させるのはむしろ、女性の性的自由、自己決定、性表現を抑圧し、搾取してきた系譜と親和的。

セックスワーク論の中には重要な洞察や提起も含まれており私自身は全否定の立場は取らない。しかし、「セックスワーカー」が守られるべきは第一義的には客と業者からであるし、それとセットのものとして公権力による差別・迫害、社会からの差別・排除をなくすということがある。

セックスワーク論の背景には「セックスワーカー」が社会的にも、女性からも、フェミニズムからも差別・排除されてきた歴史と現実もある。しかし、そこだけを切り出して、「セックスワーカー」の客や業者に対する脆弱性、セックスワーク/セックスワーカーを取り巻く構造を等閑視するのは恣意的。

特に、「職業差別」という話が、AV出演者や性風俗業従事女性のことと、AV業(者)や性風俗業(者)のこととが一緒くたにされて、同視可能なような形で主張されるのは、セックスワーク論からも外れている。客や業者に対する権利主張・確立という核が消し去られている。

AV出演者・性風俗業従事女性と業者(と消費者・客)とが「運命共同体」あるいは「家族」であるかのように国や社会に向かって権利主張をする、差別撤廃を訴えるということが、「セックスワーク」を巡る構造、「セックスワーカー」アイデンティティを構築させる構造を露にしていると私は考える。

それと、「フェミニストと道徳的保守との結託/同調」という物語を必要としているのは誰か、ということはよくよく考えた方がいい。

ただね、セックスワーク論を批判する時に、誰の、どの議論・主張を批判しているのかを明確にしないと、従事女性一般を否定、侮蔑、差別しているかの話にされてしまうことには注意が必要。もっとも、明確にしていても容易にすり替えられるのだが、そこに不用意な言い回し等があるとなおさら利用される。

具体的なAV出演者・性風俗業従事女性やその主張を批判する時も、一般化するかのかつ過激な言辞を使ってしまう人がいて、そうなると容易に「職業差別」とか「道徳的」「禁欲的」とかのレッテルを貼られ、しかもフェミニストの主張を象徴するかの扱いをされてしまう。まさに「AV新法」で見られた構図。

まあ、自覚的であれ無自覚であれ相手は政治的に議論を歪めてくるので、いくら注意をしてもきりはないのだが、不用意さを避けるに如くはないし、自分に差別意識がないかの向き合いはいずれにせよ欠かせない。

「AV新法」署名運動について

AV出演被害防止・救済法について宇佐美典也が言っていることは、妄想的な歴史改ざんはじめデマと歪曲ばかりだし、全然わかっていないなと当時からみんな呆れていた。それは浜田聡らについても同じ。他党議員や府省庁を含めまともな人はわかっているし、彼らと立場が近くても乗らない者が少なくない。

ただ、見境なく乗る者もいるし、利用しようと思う者もいるだろうから警戒はしておきたい。

AV新法の署名、平裕介が呼びかけ人になっているほか、亀石倫子弁護士が賛同人になってて、今気づいたんだが要友紀子さんも賛同人。法律や「規制推進側」を叩く前に、AV業界の構造をこそ問題にしろよ。「FANZAと自民党の癒着」みたいな話にしてないで。

AV出演被害防止・救済法の制定過程でも、AV業界そのものやトップ企業の意見表明はなされず(今に至るまでない)、人権倫が前に出たというか出されて、どういう立場かのニュアンスを微妙に変えていたし、AV擁護の側もそれを利用して「出演者らの声が聞かれていない」というストーリーにしてきた。

前に出たAV出演者・元出演者にしても、自らの意思で前に出てはいたけど、ほとんどの業界関係者はその陰に隠れて、一部記事で匿名で現場スタッフらのコメントが載る程度だった。AV業界中枢は「沈黙が得策」で、出演者が前に出てくれる分には好都合だが、都合が悪くなれば梯子を外すという姿勢。

散々書いていることだが、AV出演者がどう動機付けされ、帰属感を醸成されながら、アイデンティティとプライドを構築していくかということを含め、AV業界の構造、AVを巡る構造を捉えることをせずに、「仮想敵」を立ててAVを守ろうとすることが結局誰を利すのかということ。

AV消費者の大半はいろいろ乗り換えながらポルノを享受できればそれでいい訳で、「AVの素晴らしさ」とか「表現の自由」「職業差別反対」とかは後付けの方便だし、「AV規制」からポルノ享受の自由が侵食されるかもという煽りに反応しているだけだよね。

同時に、性差別、ミソジニーと言われるとカチンとくるというか、自分の差別性、加害性を見つめ認めたくないから、「フェミニスト」「道徳主義者」などと「仮想敵」化された人たちへの攻撃に乗る。その動機の語彙として「表現の自由」とか「職業差別反対」とかが取り込まれる。

AV新法の署名運動は、そうやってまともな議論、対話を成立させないようにしか働かないし、その呼びかけ人、賛同人あるいは署名運動を積極的に宣伝している者たちは議論、対話を阻害する煽り方をしてきた。それではAV出演者、出演者になり得る女性の権利は守られない。

宇佐美典也なので事実と主観とがごたまぜで区別がつかないが、AV業界の動向のこれまでの観察と符合するところはある。でもこれは「AV新法問題」ではなく法制定以前からの問題であるし、業界内に法制定を奇貨とする動きがあるということ。人権倫が都合よく前に出された挙句という見方はできる。

そしてね、この話は裏を返せば、AV出演被害防止・救済法を遵守してもAVはビジネスとして成り立つということであり、問題は収益配分だということなんだよ。ならば、取り組むべきは収益配分をはじめとする業界の構造の問題であって、その話を持ち出しつつ法改正=規制緩和を訴えることではない。

「適正AV」の適正性についての見方は様々だし、「適正AV」であれば問題ない訳では当然ないのだが、「同人AV」あるいは「個撮」はまず排除しなければという点では多くの意見は一致する。話をちゃんと切り分けないで「癒着」「利権」て話にしちゃうとぐちゃぐちゃになる。

「同人AV」「個撮」然り、海外プラットフォームや違法アップロードなどの法執行上の問題然り、AVやAV出演被害防止・救済法への立場は違っても、そこは何とかしなきゃならないという点では一致する話。結局はレトリックにすり替わるキャンペーンではなく、そういうところを焦点化しろよってこと。

「このままでは、AVはなくなる」って煽って署名集めて、その中のどれだけがAV=「適正AV」と理解してるかって話。あるいは「適正AV」だけを守ることを意図して乗ってるかって話。そこをすり替えて署名結果をアピールするのも目に見えていて。

大体さ、人権倫関係者含め「適正AV」を推進する者たちは、「出演強要」の「強要」が広い意味で使われていることを知りつつ、実際そのことにも言及しつつ、典型的には刑法の強要罪のように「強要」の語が与える強い印象を利用して、「適正AV」に強要あるいは被害は「(ほとんど)ない」と言ってきた。

その延長線上で、「適正AV」ばかりがAV出演被害防止・救済法で不利益を被っていると言い、「適正AV」以外を「AV」と呼ぶな、「AV出演被害」と言うのがおかしいとまで言う者までいる。「適正AV」はあくまで業界団体の自主的、私的な呼称でしかなく、公的、公共的に適正性が認証されたものではない。

児童ポルノ規制について、「実在の児童に対する性的虐待の記録はダメだけども」と言いながら規制に反対したり法律の見直しを求めたりするレトリックと通じるものがあるのよね。

もうね、一々ばからしいんだけど、こんな妄想垂れ流して煽ってないで、AV業界内でまず話し合い、交渉をしろってことだよ。


「AV新法」署名運動や同調して発信する者を見ていると、「仮想敵」の立て方、戯画化も、訴求する層も、20年間、30年間「表現規制反対派」がやってきたことそのままでね。結局は搾取者や性差別的な買い手を利するだけだし、フェミニストを標的にしている間に保守的、道徳的な規制論が通りやすくなる。

パターナリズムや善良な性風俗の維持とかが、健全育成条例や刑法175条はもちろん、様々な法規定に具現されたままというのは、「表現規制反対派」が規制、規律の類を何でも一緒くたに性道徳の押しつけだ何だと切り捨ててきたことにも責任の一端がある。

ジェンダー視点、人権視点で主張されていること、法規制ではない形や批判として主張されていることも、全部「表現規制」「言論統制」「検閲」あるいは「職業差別」等の差別という話にしてしまうし、戯画化してしまい、信用毀損と印象操作に頼る。そうやって議論が成立し得ない状況を作ってしまう。

「パターナリズム」とか「善良な性風俗の維持」とかも、一般的な理解は実は秩序・道徳寄りから子ども・女性の権利よりまでバラバラで、「子どもや女性が危険な目に遭うのはダメだ」ぐらいの認識の人も少なくない。さらに、規制の目的の理解も同様にばらついている。

そこに「エロの自由か規制か」のような構図を立ててしまうと、論点も対立軸もすり替わってしまう。そうすると、「風紀委員」のようなステレオタイプのレッテルを貼られて叩かれやすいフェミニストらは発言しづらくなる一方で、権利寄りに捉えていた人でも保守的な規制に賛成しやすくなる。

ある意味そこに付け込まれた格好なのが東京都の「非実在青少年」問題。推進したのが石原都政だったというのがわかりやす過ぎたけど、当時反対派は石原とフェミニストを一緒くたにして叩いた。そこに現れたミソジニー、性差別に、条例案賛成に回ったフェミニストもいたと記憶している。

もう一つ、「表現規制反対派」は欲望の多様性、優劣のなさを強調し、道徳的保守やそれと結託・同調すると描かれるフェミニストを「仮想敵」とするが、意識的であれ無意識的であれまたは結果的にであれ、特定の性欲望を優先し、相手・対象を抑圧し又は犠牲にするということではむしろ道徳的保守と同型。

声高な「表現規制反対派」であるほど、実は誰の欲望・権利が優先されるべきかということについて非対称性がある。それを隠すかのように、あるいは目を背け否認するかのように攻撃的になるし、より戯画化した「仮想敵」を立てる。その身振りが議論を阻むとともに、保守的な規制を招きやすくする。

そう言えば、「エロの攪乱性」「反権力性」みたいな話も、その「エロ」が自由と対等性に基づいているのか、性差別や権力関係が埋め込まれたものかによって全く意味が変わってくる。それを一般論、抽象論にしてしまうことは欺瞞だ。

芸術の/における性差別性もフェミニズムでは問題化されてきたが、同時にその批判、批評は「からかい」の的になりやすいし、「善良な性風俗の維持」のような視点とも同一視されやすい。いずれにせよ、既成秩序・規範を問うジェンダー視点が、無意識化しジェンダーバイアスのために無力化される。

まあ、丁寧に論点を整理するような議論ほど「表現規制反対派」には無視されるか、「規制賛成派」と片付けられ勝手に背景や思惑を想定されるかだというのも、約30年見てきたことだけれども。 

いや、そもそも認識と戦い方を間違えただけだろって話だし、そもそものそもそも戦っている主体は誰なんだ、宇佐美典也はじめ「AV新法」署名運動は誰を代表してるんだって話。人権倫も要は業界の弾除けに使われ、自らも顔を使い分けてきた。

「AV出演強要」問題に「適正AV」で逃げようとしたAV業界。その業界中枢の思惑以上に「適正AV」に意味を読み込んで擁護者、代弁者のように振舞ってきたのが人権倫だったり「AV新法」に声を上げた出演者らだったりする訳だよ。それで都合よく業界の外に「敵」が設定された。

これってAVを成り立たせるメカニズム、構造そのものなんだよね。出演者らに主体性やプライドを持たせ、愛着や帰属意識を持たせて駆動する。目に見えた強制やあからさまな誘導がなくそうされる。

「AVに出演することが被害と言われている!」「出演者に自由意思・主体性がないように思われている!」「出演者が道徳的に下に見られ差別されている!」等々と話をすり替えて、議員やフェミニストなど「敵」の像を勝手に造形して叩いている間に「業界」に足元を掘り崩されたということ。

「2年以内の見直し」について

これさ、「2年以内の見直し」に関する牧原議員の発言の趣旨を全く捉えられていないんだよね。相変わらずの宇佐美典也。それと他のポストで憤ってたけど、牧原議員は「議員立法は全会一致が基本」という慣例を述べただけ。それは法案の性格、経緯によること。

当然、立法に当たった議員を中心に状況把握はしているよ。関係団体も適宜報告している。その中で、運用の問題ではなく法改正しないと対応できない問題があれば正式に動き出すということ。ついでに言えば、後退させたい向きもある中で見直し作業をどうするかという観点もあるよね。

すぐに訳の分からない誹謗中傷が飛んでいく中で、まずしっかりと現行法を運用して解決事案を積み重ねていこうという判断も当然あり得るよね。

附則に書かれている通り2年以内の見直しをせよという意見自体は当然であり正当だが、それが誹謗中傷やデマ、歪曲を伴って言われるとなると全く意味が違う。

それとさ、宇佐美典也も大きく加担してきた暇空問題のせいで、関係団体に余計な負担がのしかかり、まず活動を回すことに必死な状況。見直し作業にコミットするのは大変。しかも、暇空問題の影響は男女共同参画局、ワンストップセンターなど法の運用に関わる各方面に及んでいる。その状況で見直し作業は進められないと思う。

AV出演被害防止・救済法を推進・賛成した側も仁藤さんたちのようにより強力な内容を求めて反対した側も、2年以内の見直しでより良いものに改めたいという思いは同じだと思う。でも、余力を奪われている現状。一方で、暇空問題に加担した者たちが暇空問題に乗るように法改正を訴える。このいびつさ。

女性支援新法も施行されるからね。まずは行政と民間の現場がしっかりとAV出演被害者の受け皿になりかつ連携を高められるよう頑張ることが現時点の優先順位ではないかな。

こう考えてみると、改めて宇佐美典也、浜田聡、平裕介、おぎの稔ら暇空問題に加担しかつ「AV新法」署名運動の旗を振っている奴らに怒りが湧く。

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