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木瀬良さんは今日も一人

※この作品は現代では不快にうつる表現、考え方があるかもしれません。ですが、作品が書かれた当時の心境を大事にし、修正を行わず投稿しております。ご了承ください。

 第一話・ウェディング

「せっくすってなんですか?」
 と木瀬良さんがいいだしたのは、宴もたけなわとなった頃合で、もうすっかりベロンベロンに酔っ払った桐朋学園テニスサークルの先輩方は、けらけらと彼女を指差して笑った。
「まったまたー。純な振り? いまどきそういうのは、はやらないよー?」
「はあ……。えっと、ですが、知らない言葉はたずねて、以降恥をかかぬように精進したいと思っております」
「知らないわけないでしょっつってんの! かまととぶんなーっ」
「いたっ! ちょ、やめてください、やめてください」
 いわれのない暴力に戸惑っているというように、木瀬良さんは顔を歪めて立ち上がり、外敵に襲われた子リスのように私の所に寄ってきた。
 そのときの私はまだ、木瀬良涼(きせらりょう)というちょっと男の子みたいな名前を知らなかったし、顔も覚えていなかった。
 けれど、酒でぼやけた頭に聞こえてきた、「せっくすってなんですか?」という彼女の疑問の声は、しっかりと耳に届いていた。澄んだ水のような声。アルコールでぼやけた頭に、程よく心地よい声だった。
「ここ、お邪魔しますね」
 木瀬良さんはにこりと笑って私の隣に腰を下ろすと、ちょっと体を伸ばして小皿と箸を新たに入手した。木瀬良さんに絡んでいた宮部先輩は、すぐに別のターゲットを見つけたらしく、坊主頭の男子学生をじょりじょり弄繰り回している。
「先輩、お名前を伺ってもいいですか? 私は、木瀬良涼といいます」
「あー。私、先輩じゃないよ。同じ一年。藤原(ふじわら)。藤原モカ」
 礼儀として一応そう名乗る。茶色のソバージュの髪型と、毎朝念入りに施しているメイクから、私は実年齢より年上に見られることが多い。コンビニで年齢確認をされないから、楽だ。
「え」
 木瀬良さんはぽかんと口を開け、それから私のジョッキ、なみなみ注がれた麒麟ビールの泡をジーッと見つめた。
「えーと、ではこの飲み物は、泡つきのジンジャーエールでしょうか?」
 噴出した。幸い口の中にもう水はなく、空気だけが出て行った。私は笑った。遠まわしに未成年の飲酒を注意しているのだ。
「そう、そう、ジンジャーエール。泡つきのジンジャーエール」
「そうですか、そうですよね! ジンジャーエール!」
 木瀬良さんは笑った。案外のりのいい子だなと私は思った。しかし、それは大きな勘違いで、しばらく箸でつまんだ生春巻きを、小さく小さく噛んで飲み込んでいた彼女は、別の品物を運んできた店員さんに、いたって大真面目な顔で告げた。
「すいません、私にも、この人と同じ泡つきのジンジャーエールをください」
 と。

          ●

「いやー、愉快愉快。みんなこれからよろしくね、桐朋学園テニスサークルをよろしくお願いします。どうか、どうかよろしくお願いします」
 どこかの新人政治家みたいな音量と声音で宮部先輩はそう言って、坊主頭と一緒にふらつきながら暗闇の道へと消えて行った。これから二次会にでも行くのだろうか、それとも……と、妙な勘ぐりを入れてしまう。二次会行かないの? と、私も別のグループに誘われた。髪の毛を染めた先輩が多い、おしゃれで華やかなグループだ。
 人間の性質として、自分と近い容姿や服装をしている人間とは距離を詰めやすい。きっと、自分と同じような趣味嗜好を持っていると、経験上分かっているからだ。
 これからのサークル活動を円滑に進めるため、彼女たちに着いていくという選択肢はアリだ。しかし、引っ越したばかりの私は、どうにも生活費が心配だった。すいません、明日早くからバイトがあるんですと、微妙にグレーゾーンな嘘をつく。そっかそっかと先輩たちは笑って、またサークルでねと気さくに手をふり去って行った。
 自転車が通りづらいぐらい列を広げた大学生の一団は、陽気にまさかの「ふるさと」を歌いながら歩いていく。そうとうひどい酔っ払い達だ。まったく。
 私は大きく伸びをして、そしてもう誰もいなくなった居酒屋の前を立ち去ることにした。帰った人は少数で、大部分はどこかしらのグループで二次会へと出かけたようだ。18時から始まった飲み会が3時間の時間制限付き。時刻はまだ21時で、夜の闇にはもう少し遠いようだった。
「あのぉ……」
 声をかけられ、単純に驚いた。まるで幽霊のように唐突で、そして恨めしい声だった。振り返ると、線の細い少女が一人、所在なさげに佇んでいた。知らない人物ではなかった。
「木瀬良さん」
 私は始めて音として、彼女の名前を呼んだ。しっくりと来た。もうこれ以上にふさわしい呼び名は、彼女には存在しないように思えた。涼ちゃんやら、木瀬良ちゃんやら、せらりんなんていう愛称は、彼女ののっぺりとした薄い顔立ちや、浮世離れした瞳には、ふさわしくないように感じてならない。
 彼女の今日の服装は、暗い夜道に目立つ白のワンピースだった。すそにはレースがふんだんにあしらわれていて、ひざの下まで上品にかかっている。そこから伸びた足は、これも驚くような白さで、肉付きはほとんど感じられない。胸もない。平均ほどに見える身長に対し、あきらかに体重は、大きく下回っていることだろう。
「あのぉ……。すいませんが、一緒に帰りませんか?」
 彼女はどこかおびえた声で続けた。
「できたら、で良いですし、もちろん都合の良い場所まで……で、良いんですけど」
「あー……良いよ」
 彼女はぱあっと顔を輝かせると、私の隣に並んだ。大学に入ったばかりの一年生。同じ立場だからすごくわかるが、友達ができないのはつらい。
 一緒に授業を受ける友人がいないと、休むこともままならないし、校舎をいつも一人で歩いていると、ずきんずきんとどこか体の見えないパーツがきしむような音を立てる。
 幸い私には、オリエンテーションで席が隣になった子と、すでにメールアドレスを交換し、そのつながりから数名ほどの友人が出来ていた。けれど木瀬良さん。彼女は、いっちゃあ悪いが友達がすんなりと出来るタイプには見えない。だから、安心したのだろう。
「ほんとですか、よかったぁ。こんなに夜遅いと、怖くなっちゃいますよね」
「は」
 午後、9時。塾帰りの小学生が、鼻歌交じりにコンビニ寄るような時刻である。けれど彼女は大真面目なようで、「どうかしましたか?」と小首をかしげる。
 ……なんだ。これ、まじなのか。まじで大学一年生の女子なのか。彼女の髪は、服装や肌と違い、つややかな漆黒だった。きっと髪の毛を染めたことなど一度もないし、染めようかなと逡巡したこともないのであろう。
「いや別に。家どっち」
「栄口のほうです」
 運が良かったのか悪かったのか分からないが、木瀬良さんの家は私と同じ方向だった。並んで歩く。平均を五センチほど上回り、ヒールつきの靴を履く私と、歩きやすそうなぺたんこ靴の木瀬良さん。その差はちょうど、私の目線のすぐ下に、木瀬良さんの頭が来る高さだった。
「テニス、好きなの」
 無難な質問……というより、分かってはいるけれど話を広げるためのジャブを放つ。案の定木瀬良さんは、こくりと頷いた。
「小さいころからやっているんです。親に教わって……」
「あー。いいね、お嬢様ってやつ?」
「そんなんじゃないです。えっと、藤原さんは?」
「私は部活。中学のときから始めてる」
「へー。長いんですね!」
「あんたほどじゃないみたいだけどね」
 なんだかそわそわしてしまう。さっきも考えた。人は、自分と似た容姿や格好の人物と親しくなりやすい。木瀬良涼は、私の友人の誰とも違う。化粧気のない顔も。日に焼けていない肌も。私は自分の薄く焼けた肌色を見て、ちょっとだけため息をつく。
「……藤原さんは、サークル、入りますか?」
「ん。たぶんね」
 そうですか、と彼女はつぶやいて、空を見上げた。目つきがどこか空ろで、飛び回る妖精をぼんやり眺めるかのように、彼女はその空ろな視線を瞳だけで動かした。
「あんたは辞めるの?」
「迷っているんです。今日のような会は苦手で……。私はただ、静かに、テニスをしたいんですけれど」
「……だったら、ほかのサークルが良いかもね。テニスサークル、確か後2、3個あったし」
 私が提案すると、木瀬良さんは「え!」と驚いた顔を向けてきた。
「そうなのですか?」
「あーうん。サークルによって、だいぶ雰囲気違うらしいよ。うちのノリは軽いらしい」
 自分の言葉に、ああ私はどうやらこのサークルに入るようだと核心した。
「そうなんですか! じゃあ私、ほかのサークルを見に行って見ますね。あの、よろしければ藤原さんもどうですか?」
 ゆるりと首を振った。どうやら彼女はこのサークルが合わないようだし、きっともう会うことはないのだろうなと思う。今日の帰り道が最後。一期一会だ。
「いいよ、私は。ここが気に入ったから」
「そうですか」
 小さく唇をかんで、ちょっとがっかりした風に彼女は笑った。
「じゃ、私こっちだから」
 分かれ道の差し掛かり、声をかける。木瀬良さんはとても困った顔をして、その瞳には脅えの色が混じっていた。どうやらまだ9時30分にもならない現在時刻が、本当に恐ろしく足踏みをしてしまうものらしい。私はため息を吐いた。
「分かった。決めた。送っていくよ」
「え。で、でも、私のために藤原さんの帰宅が遅くなってしまうのは……っ」
「いいから、いいから」
 私は彼女の小さな肩に手を置き、分かれかけた道を戻った。ぐいぐいと押して、手を離す。はじめたばかりの自転車の練習のように、木瀬良さんはふらふらと歩き始めた。
「私は慣れてるから、ダイジョブ」
「……未成年の深夜の出歩きは関心しません」
「深夜ってねえ……まだ10時にもなってないし」
「でも、遅いです」
 口調こそ叱り付けるようだが、木瀬良さんはホッとした表情を浮かべていた。ちょっとだけずるいところもあるんだなと、私はなぜか安心を覚えた。
 彼女は実家暮らしだった。冗談で口にしたお嬢様という言葉が、まさかの真実であった大きな家だ。
「送ってくださり、本当にありがとうございました」
 彼女は細い体をきっちり45度折り曲げた。私は「いーえー」と適当に返事をし、手を振り家路を一人、口笛交じりに辿っていった。

          ●

 木瀬良さんと別れたあと、私は今日のバイトのことを考えながら帰宅した。口笛はいつの間にかとまっていた。少し急角度の階段を上り、三階の一番奥、ワンルームの自分の部屋へとたどり着く。このアパートを選んだ基準はひとつ。立地のよさだ。大学から程近く、コンビニや駅も歩いて十分圏内にある。
 鍵を開けると暗い我が家がぽっかりと口を広げて待っていた。靴を適当に脱ぎ散らかして、かばんを玄関に放り投げ、鏡に向かう。少し化粧が落ちていた。ファンデーションを塗りなおし、口紅をひく。髪の毛を軽く手櫛で整えて、準備は完了だ。
 私は働かなければと決意をし、パソコンの前に腰を下ろした。けれども、まだ気乗りしない。ぼんやりと、机に設置されたカメラを眺める。
眺めながら、再びさらさらと手を動かした。自分の髪の毛は好きだ。美容師さんに、つやがあり、細く、きれいな髪だと良くほめられる。前の彼氏が長い髪が好きだというから、付き合った5ヶ月の期間、髪を伸ばしたままだった。それまではミディアムヘアで通してきたのだけれども、今ではすっかり背中まで届く長さの茶色い髪である。ブラウンに髪を染めたのは、垢抜けた雰囲気が欲しかったのと、その彼氏と別れた気分転換をしたかったからだった。
 パソコンを立ち上げた。高校入学記念におじいちゃんからプレゼントされて手に入れたパソコンだ。当時は憧れから買ってもらい、あまり使いこなせずにもてあましていたが、今ではすっかり生活に欠かせない商売道具である。パスワードを打ち込み、インターネットを開き、お気に入りボタンから仕事場に向かう。
 カメラの電源を入れて、待機中の状態に切り替えた。パソコンの脇に収納してあるヘッドセットを取り出しつける。まだ視聴者は付かない。少し胸元を開ける。今中継されているのは首から下の部分だけだ。顔出しはNGとプロフィールにもきちんと記載してある。今の服装は、はだけたワイシャツと、生足のハーフパンツ。なかなかに扇情的な服装であると思う。ワイシャツは上まで閉めるとお堅い雰囲気がでるが、その分ボタンを数個はずしただけで、どことなくえっちな雰囲気になる。よく使う仕事着だった。
 視聴者がついた。現在、2名が視聴中。どこかで見知らぬ男が2人、私のこの姿を見ている。安アパートの座椅子に腰掛、ひらひらと手をふる私の姿を。
 見てもらっているだけではお金は入らない。幾人かの私の常連さんは、いつもとはinする時間が違うからか、見当たらない。視聴者が増える。9名。
 私は動きをつけるために、足を組んだ。と、誰かがチャットに入ってくれた。2ショットチャットだ。相手もカメラを持っているようで、画像がついた。一瞬何かわからないものが映る。
しかし、すぐに察する。アレ――だ。
 マイクから「ねぇ、ねぇ、どお? 感じる……?」なんて声が入ってくる。感じるも何も、こちらはまだ何もしていない。アダルトありのサイトなので、付き返すようなマネはしないが、なんとなくげんなりしてしまう。
「ぇえ……」
 消え入りそうな声で、あいまいに返事を返す。
「ねえ、モカちゃんも脱いでよ」
なれなれしいな糞親父。私はじらしを入れる。
「えー……。どうしようかなぁ……」
「いいでしょ、そーいうサイトなんだしさぁ……」
「うー……ん。じゃあ、少しずつね」
 最後の言葉は時間稼ぎだ。チャットしている時間が長いほど、当然給料は高くなる。歩合制の仕事なので、稼げるだけ稼ぎたい。私はゆっくりとワイシャツのボタンを外していった。お客さんはしっかり興奮しているようだった。あまり相手の画面が見たいわけはないが、「ねえ、見てよ」と定期的に繰り返される。しょっぱなの露出からも分かるとおり、そういった性癖なのかもしれない。
 ボタンをすべてはずし終えた。ちらりとブラジャーが見えるように、軽く手を当てて隠す。恥ずかしい、なんて、わざとらしいくらい甘ったるい声をだす。「かわいい」と、お客さんはいった。
「かわいい。きれいなおっぱいだ。ねえ、もっとよく見せてよ」
「えー……っ。ふふふ」
「ブラも可愛いし。服脱いで」
 私は肩からすべり落とすようにワイシャツを脱いだ。ぱさりと音がして、上半身は下着一枚になる。ハァ、ハァと荒い息が聞こえる。会話はもう不要だろう。私は後ろ手を回した。せめてもの抵抗で、ブラジャーのフックが引っかかったフリで時間をかせぐ。手ぶらで隠すと、揉んでと命令が飛んできた。ためらう様子を若干見せてから、言われたとおりに両手でそれぞれ包んだ胸を揉む。指先が先端に触れたので、そのまま摘んだり触ったり、相手が喜びそうなことをした。このあたりになるとだんだん、私もその気になってくる。妄想の中で、私の相手は糞親父ではなく流行りのジャニーズグループの、一番可愛い男の子だ。それにチャット越しではなく、直接。
「ねぇ、ねぇ、下脱いで。オナ見せてよ」
 声音はだいぶ怪しかった。先ほどから右手が激しく動いている。ハーフパンツのチャックを下ろして、下の下着一枚になった。性器を見せるのは禁止だから、これが一応このサイトでの限界だ。私はぱんつの上から触った。しびれるような快感に身を任せ、私は静かにはてた。

          ●

 あ、木瀬良さんっと私が気づいたのは、翌朝のお昼ご飯の時間だった。私は友達と5人で長机の端っこを陣取っていて、ひとつ空いた席にミーコとアヤネが鞄を置いているので、実質6人分の席を占拠している。すぐ隣はオタクっぽい2人組だ。知らないアニメの話だが、なんとなく美少女系なんだろうな(笑)と思う会話をしている。
 2限終わりすぐ、12時54分の現在、大学の学生食堂は混雑を極めている。どこもかしこも席が埋まっていて、トレーを両手にため息をひとつついてから外へ出て行く人が多い。4月の現在、気候は程よく暖かく、お花見気分でランチを食べるのだろう。私たちのグループは花粉症のカナがいるから、そんなの絶対やだと言うだろうけれど。
「ねえー聞いてよ、うちの彼氏がさあ」
 カレーを時折口に入れ、もぐもぐしながらアキがしゃべる。2ヶ月前に新しい彼氏が出来たらしく、彼女の話題は最近それしかない。やれ水族館にいっただの、やれ学校サボって平日ディズニーを満喫しただの。
「うちの彼氏がさ、この間エロサイト見てるの知ってさ。最悪だよね」
「えー。でも別にそれぐらい普通じゃね」
「いやいや! 違うんだって、デート中にだよ! わけわかんねーっつーの! 目の前に私いるいるって!」
「ぎゃはは、そりゃひどいわー」
「ねえー」
「どんなサイト?」
「なんでそこ聞くし! さてはアヤネ、覗く気だなぁ~?」
「ち が い ま す ! 興味本位だって」
「なんかね、ライブチャットっつーの? そういうのまとめた動画サイト」
 箸が止まる。けれどすぐに活動を再開し、サイドメニューのキャベツときゅうりのしょぼいサラダに手を伸ばす。会話はとこどおりなく進んでいく。
「まああれじゃね? アキ胸ちっさいし。つまり、そういうことだよ」
「どーいうことよ!」
「うっそ、わかんないの? かわいそうー、2つの意味で」
「失礼な! 失礼な! 失礼な!」
 私もきゃはきゃは笑いを続けながら、会話に混ざる。ファッションやスイーツや彼氏に夢中な女の子たち。心地よく、馴染み深くはあるのだけれど、時々うんざりしてしまう。
 彼女達から少し視線をはずし、そして見つけた。
 今日も白いワンピースを着ている。昨日とは違うデザインで、胸元にフリルのようなリボンが付いている。すそはシンプルで、派手な上半身と簡素な下半身でバランスのよいワンピースだ。蛍光灯を反射するようなまぶしい白布には、シミやシワひとつ付いていない。
 彼女は座席をさがしているようで、本日のAランチ、豆乳のキノコ鮭パスタと、キャベツときゅうりのしょぼサラダ、そしてわかめスープが載ったトレーをもって、うろうろと視線を泳がせながら歩いている。
 ばちん。目が合った。木瀬良さんは「お」っという表情を見せて、小さく口をあけた。その口元が、ほころぶ。彼女はローヒールのパンプス(こちらも白だ)で軽く音を立てながら、こちらへ近づいてきた。え、え。
 内心あせっていると、彼女はミーコの前でアヤネの隣、2人の鞄が置かれた席で立ち止まった。この時点になると私以外の4つの視線も、木瀬良さんに集まっている。
「あの、席を空けてもらえますか」
 毅然とした声だった。ミーコもアヤネも不意をつかれたようで、そそくさと自分のバックを床に下ろした。木瀬良さんはお礼を言わずに席についた。2人はちょっとムッとしているようだった。
 やばい、どうしよう。知り合いだと思われたくないなあ。ガン無視を決めてやろうかしら。
 しかしちょっと意外なことに、ガン無視を決めてきたのは木瀬良さんの方だった。こちらをまったく意に返さずに、箸でつるつるとパスタをすすっていく。フォークは見当たらなかった。けれどその仕草は上品で、正確に麺や具を掴み、汁一滴も跳ね飛ばすことなく、綺麗だ。パスタを食する際の正式な食器は、箸ではないかと錯覚するような動作だった。
 私たち5人は少し居心地の悪い気分で、彼女を気にしまいとしつつ、ちょっと気になっているという状態だ。とくにカナは、ちらちらと木瀬良さんを気にしていた。
 会話はなんとなく盛り上がらなくなり、局所的に小さな声が交わされる。自分たちが占拠していた、いわば秘密基地のような空間に、いきなり他人がやってきたのだ。気まずくって、不愉快な気分になるのは当然だろう。
 ごちそうさまとミーコが言った。彼女の家は教育ママだったようで、彼女は毎食必ずいただきいますとごちそうさまを言う。そのことを指摘すると本人はちょっと恥ずかしそうだ。私たちは鞄を持ちトレーを持ち、席を立った。オタク達もいつの間にかいなくなっていた。相変わらず混雑を極める食堂の長テーブルで、木瀬良さんはたった一人でパスタを食べていた。
「あれって木瀬良涼だよね」
 食堂を出てすぐにカナが言った。ぽかんと他3人が、誰? っという顔をする。私はカナの口から名前が出たことが意外で、次の言葉を待っていた。
「さっきアヤネの隣に来た女だよ。木瀬良涼。小学校一緒だったの。あの子同じ大学だったんだ。私の近隣じゃケッコー有名だったんだけど、誰も知らない?」
 知らないと口々に答える中、知ってる、この間サークルの新歓に来てたよと私は答えた。
「そっか。あの子さ、変わってるよね。なーんか、絵に描いたような善い子って感じ。そんで実行力があるから性質(たち)が悪いの。うちの小学校じゃケッコー嫌われてて、いつも一人だった。まあ、それだけじゃないけど」
「何が?」
「うーん……。あんまりしていい話じゃないからサ。事件があったんだよね、うちの学校で。ま、それにあの子が関わってて、みんな敬遠してたんだよねっつー感じ」
「何それ!? おしまい? 気になるじゃん! めっちゃ気になるじゃん!」
 いーえーよーっとミーコがカナにまとわり付く。肩に回された手をカナは振り落とそうともがくが、ミーコはフジツボのようにはがれなかった。

          ●

 眠気と戦い、そして敗れ、アヤネにノートを写させてもらう約束をして、放課後。
 私は昨日のテニスサークルを訪れていた。鉄は熱いうちに打て。
顔を若干名でも覚えてもらっている間に会いに行き、スムーズな流れで入部しようと思ったのだ。火曜日と木曜日が活動日で、今日は火曜日。他のサークルと共同で、日付をずらして使っているというテニスコートには、宮部先輩をはじめ幾人かのメンバーが来ていた。飲み会よりも、ぐっと少ない人数だ。
「こんにちわー」
「あ、一年生! えーと、モカちゃんだっけ?」
 ニコニコしながら宮部先輩が言った。どうやら顔も名前も覚えていてくれたらしい。そういえば、酒に酔うと面倒な人だったが、その前は面倒見のよさそうなお姉さんという感じの人だった。
「はい、藤原モカです。あの、このサークルに入りたいんですけど」
「ほんとに? わーい、大歓迎だよー」
 宮部先輩は朗らかな笑顔でちょっと待ってと言い残し、テニスコートの端っこにおいてあった鞄から、ファイルを取り出し戻ってきた。団体名簿に学籍番号と名前を書いてとペンと一緒に差し出されたので私はサインをして、そして気が付いた。
 木瀬良涼。
「……木瀬良さん、入ったんですか?」
「え? ああ、この子なら今着替えてるよー。テニスウェアに」
 そういう宮部先輩はジャージ姿だった。テニスウェアといった言葉も、どことなく小ばかにしたような口調だ。見渡せば、そんなもんを着ている人はいない。運動しやすそうな、ラフな普段着かジャージ姿といったところだ。
 昨日はあまり乗り気ではなさそうだったが、どういう心境の変化だろう。
「君はどうする? やってく? その格好でぜんぜん、アリだけど」
 今日の私の服装は、カーゴパンツにぴったりめのTシャツを合わせたもので、上からパーカーを羽織っていた。いわゆる原宿系のファッションだ。
「はい、お願いします」
「おーけー、おーけー。ラケット貸し出すから。おーい、そこのボーズ共、コートあけろぉぉ! 一年生の若い娘が打つぞ! しかも結構可愛い! あとうらやましいスタイル!」
 後半は昨日宮部先輩とどこかに消えた坊主頭の男子生徒へと向けた言葉だった。彼は髪の長い女の子と打ち合っている途中だったが、指示を受けて笑いながらコートを立ち去った。もともと真剣に打ち合っている様子ではなく、談話メインのデートのような打ち合いだったからか、すんなりとしたものだった。コートの端に座り込んで、結局2人話している。
 宮部先輩が部室にラケットを取りに行ってくれた。受け取ったラケットは、質はそれなりといったところだか、ピンクを基調にしたもので、ホワイトのアクセントが可愛らしい。なかなかいいデザインだなと片手でもてあそんでいると、辺りがざわついた。ざわつきの原因を探す。すぐに見つかり、それはクラブ棟のほうからやってきた木瀬良さんの姿だった。
 上下白のテニスウェアに、やはり白のシューズ。肩にかけたラケットバックも白だったが、ところどころに黒のアクセントが入っている。だがとにかく、身に着けた服は白一色だ。
 どうしてあそこまで白いのだろう。こうなってくると、白を着る以外の木瀬良さんを、なんだが見てみたくなってしまう。さすがに喪に服すときは、黒をその身にまとうのだろうか? しかし彼女ならばあるいは、死人が着るような白の着流しで、葬式を乗り切ってしまうような気さえする。
「あ、藤原さん、こんにちは」
「こんにちわ、木瀬良さん」
 目の前で立ち止まられて、挨拶をされた。相手に合わせて丁寧にお辞儀をしてしまう。
「お昼ではどうも」
 と微かに口元を緩めながら言う。私はこくこくと頷いて、ええいついでだと気になったことを言うことにした。
「お昼ごはん、なんで私たちのテーブルに?」
「当然、座りたいからですが……」
「いや、普通あの状況でわざわざさぁ……」
「思うのですけど」
 木瀬良さんはまた、毅然とした態度で口にした。
「鞄は床に置くべきもので、混雑している食堂ならなおさらです。いちいち注意していたらキリがないので、別に怒ったりしませんけど」
 返しにつまる。
 木瀬良さんのいっている言葉はまっとうで、あの時、鞄をどけてもらったのにお礼を言わなかったのも、だからなのかと納得できた。しかし、なんだかなあと感じてしまう。
「なになに、2人仲良しなの?」
 宮部先輩が会話に割り込んできた。それじゃあ2人で打てばいいよと坊主先輩がどいた後のコートへと私たちを押し寄せる。木瀬良さんが私の顔を見た。ちょっと笑顔でうなずいた。「やろうよ」と、そんな合図のように思える。私もうなずきを返した。
 コートにそれぞれ立つ。サーブは木瀬良さんから。審判はいない。大丈夫だよねと宮部先輩は、自分のコートへと戻ってしまった。
「行きます!」
 サーブを打つ前に木瀬良さんはそう言った。力強いサーブがサービスコートに叩きつけられる。あっけにとられた。あの白く細い体のいったいどこからと驚くぐらい、速い。木瀬良さんが打つとレシーブを返せないままゲームが進んでいき、私たちのコートにはいつの間にか人だかりが出来ていた。
「ありがとうございました」
 ゲームは木瀬良さんの圧勝で終わり、彼女は汗一つかいていない右手を私に差し出してきた。対する私も汗ばんではいない。最後に一度、レシーブされた球になんとか追いついてラケットの端で打ち返した以外は、棒立ちのような状況だった。
「やあ驚いた驚いた」
 試合の途中からずっと観戦をしていた宮部先輩が近づいてきた。彼女は木瀬良さんの肩にぽんと手を置き、「すっげー強いじゃん。プロかと思った」と最大級の賛辞を送っている。
「ありがとうございます」
「えーっと……。ところでキミは、誰ちゃんだっけ?」
「木瀬良涼と言います。よろしくお願いします」
「そーだそーだ、木瀬良ちゃんだ。そんでさ、なんでうちのサークルに? うまい人はみんな、正部のほうに行くんだけどなぁー?」
 あんに、なんでここに来やがった。そんな声が聞こえた。
「ええ。実はHPで他の2つのサークルを調べたのですが、正部は土曜日や日曜日に練習や公式試合と書いてありましたので、敬遠させていただきました……。家の用事が多いので、出れないと思ったからです。もう1つのサークルは、実質的な活動が見られず、テニスがあまり多く出来ないのではないかと思ったからです」
「なるほどね」
 ため息をつくように宮部先輩は言った。ぽんぽんと何度も木瀬良さんの肩を叩く。
「うちの方針はさ、基本、ゆるいから。練習とか試合の強制とかなしの方向なんだよね。そこらへんはっきり了承の上でなら、来る者拒まずも社風だからさ。ま、ひとつよろしくね」
「はい、よろしくお願いいたいします」
 木瀬良さんは見ているこちらが恐縮になるような深々としたお辞儀をした。宮部先輩がつられて、ちょっと頭を下げかけた。

          ●

 帰宅した後のバイトでは、胸の上によだれをしこたま垂らすことと、細長い何かをいやらしく舐めることを要求された。冷蔵庫にあったいつ買ったかよく覚えていない干からびかけた胡瓜をつかった。
この仕事を始めたきっかけは、思い出すだに腹が立つ。元カレの命令だった。髪を染めたきっかけのやつとは、また別のやつ。
 当時、高校生だった私はいわゆる初めての彼氏というやつに、アホほどのめり込んでいた。友だちはみな、「何であんな奴にそこまで」と口を揃えて言っていたし、いまの私なら同じように口にするのだけれど、恋は盲目とはよく言ったもので、「みなの見えない良いところを私だけが知っている。彼は本当に素晴らしい人だ」と迷いなく言い切っていた。
 22歳フリーター。顔はそこそこ恰好よく、体型はスマートだった。主な収入源はコンビニのバイトで、プロの漫画家を目指している、いつか大ヒット漫画を世にだして、世界中の子ども達と子供心を忘れた大人を笑顔にしたいと口癖のように言っていた。
 破いて捨ててしまったが、彼の描いてくれた似顔絵は宝物だった。MOKAと右端に私の名前が書かれたイラスト。瞳がやけに大きくて、でも鼻筋の特徴は捉えられていて、フツーにとても上手かった。
 彼は生活費にいつも困っていた。デートでもバイトのシフトでも、締め切りが近ければ予定をキャンセルしていた。そんなことを繰り返し、ついぞバイトは首になり、次のバイト先もなかなか決まらずに、途方に暮れていたそんな時。
「モカ、ライブチャットってのがあるんだけど、働いてみない?」
 彼は紹介料として、自分に稼ぎの2割を渡して欲しいと言った。仕事の話を聞き、盲目だった私もさすがに幻滅した。けれど、キッと睨みつけた彼の顔は、絶望が張り付いた涙目だった。
 ああ、こんなこと頼みたくないんだ。それに、たったの2割で良いと、ちゃんと私の取り分を考えている。
 馬鹿な論理。
 私は要求を受け入れた。さらに詳しく説明を聞くと、ノンアダルトというジャンルで、ただ男と話をするだけで良いのだという。驚いた。どうしてそんなことにお金を払う人がいるのだろうと疑問に思ったが、寂しさを紛らわしたり愚痴を話したかったり、ただ話を聞いてくれて自分を絶対に否定しない若い女の子というポジションは、需要があるらしい。
 HPに登録し、さっそく仕事を始めた。カメラとヘッドセットは、会社がレンタルで貸してくれた。
 初めてついた客が幸運だった。私が新人だと話すと、この仕事のことを丁寧に教えてくれた。嫌なこともたくさんあるけれど、いい人も多いからめげないこと。卑猥な要求をしてくる人物もこれまた多いけれど、要求を飲む必要はまったくないこと。キックという機能を使ってアクセス拒否をしてしまえばいいこと。そんなことを教わって、その人の家族関係の悩みを聞いて、そんで、割と結構なお金が入った。
 なんだ、楽勝じゃん。てか、こんな簡単なのか。調子に乗った私はそのあともインをし続けた。この頃は、カメラ画面に向かって笑顔で手を振っていた。ノンアダルトは、性的な要求を飲まなくても言い代わりに女の子とのおしゃべりが実感できるように、顔を出していなければ厳しいのだ。それでも、学校には決してしては行かないメイクをして、光もたくさん当てて、仕事用にと普段とは違うジャンルの服を買ってきていたから、バレることは無かった。
 嫌な客は確かに多かった。ここはそういう場所じゃないからと要求を断ると、無言でチャットルームから立ち去っていくのが常だった。けれど続けるうちに常連さんも出来て、収入も安定していた。約束の二割はもちろん、それ以上のお金を元カレに貢ぎ続けた。お金という形でなく、間接的にご飯をおごったりプレゼントをしたり。人は余裕があればあるだけ、お金を使いたくなってしまうらしい。
 彼は私に対してどこか媚びるような態度をとり始め、すっかり漫画も描かなくなり、私から渡されるお金とほんのちょっとの自分のバイト代でつつがなく生活をしていた。ある日、そんな彼に対してもう私がペットを可愛がるような愛情しかもっていないと自覚した。四日間考え続けたが結論は変わらず、私は彼と別れた。泣きついて私にすがってきて、あいしてるあいしてると鳴き声みたいに言った。シネと思った。
 彼をこてんぱんに振った後、ライブチャットに別れを告げて、とある有名チェーンのレストラン店でアルバイトを始めた。そこのオーナーがセクハラ魔人で、私はよく尻と太ももを触られた。ミスも多く、お皿を割ることは珍しくなく、レジの腕前も覚束ない。ある日、つり銭を1000円間違えた。多くお客様に渡してしまったのだ。
 バックヤードでオーナーは私を厳しく叱り付けた。その目には弱いものをいたぶる快感が宿っていた。あ、やめよう。私は硬く決意をし、その日のうちに常々から忍ばせていた退職届を出した。
 そして私は、ライブチャットの世界に戻ってきた。常連客はもうすっかりやめてしまったのか、他の娘にハマッたのか、私の前にやあ久しぶりと現れることはなかった。
 ある日、おしゃべりを交わし、ちょっと服脱いでよと言われたとき、私はすっかり酔っ払っており、そのお客さんがなかなか愉快な人物で、かつ彼氏もいないしオーナーに尻と太ももを触られているし、と、上を脱いだ。お客さんは大変な喜びようで、なんだか私も嬉しくなった。
 そのやりとりが掲示板に張られた。誰かがチクッたらしい。
 ノンアダルトて脱いでくれる娘として、私のチャットルームは荒れた。一度そういう娘だと決めてかかると、男のなんと身勝手なことか。言われるままに服を脱ぎ、軽く要求に答えた。私の掲示板での評判はますます上がった。私は考えた。このままだと運営に目をつけられるのではないか、さらに、顔出しはやはり止めたい。そして、どうせ脱ぐのならもっと稼げるのではないか――。
 こうして私は今日も、アダルトライブチャットにインしている。

          ●

「おはよう」
 大学の授業、2限目。始まりのぴったり10分前に、私は教室に行きすでに集まっていた4人に声をかけた。1間目の政治学を、私は興味がわかないという理由でとっていない。
「……」
 誰からも返事が返ってこない。不思議に思いつつ一歩踏み出すと、彼女たちはそそくさと荷物をまとめて立ち上がった。え?
 私をちらちと見た、それぞれの眼。あきらかに蔑むような眼。いったい、なんだ? 何が起きて、彼女たちはそんな眼を私に向ける?
 わけが分からないまま、彼女たちがもと居た席に腰を下ろした。下ろすというより、抜け落ちたという感じだった。
 足元が覚束ない。
 なんだ。なんだ。何をやった? 昨日の会話で誰かを傷つけたのか? わからない。わからない。ただただ楽しいから外すの? わからない。
 彼女たちが私を避ける理由をぐるぐる考え続ける。授業の終わり、真っ白のノートに気づいて私は慌てて黒板を写メした。
 彼女たちが席を立って、歩き出す。学食に向かうのだろう。私は近くまで寄っていき、「おはよう……」と言った。情けないことに、肩が軽く震えた。
 アキが振り返る。射るような眼。びくんと震えて、足が立ち止まる。みんな私に言葉を返すことなく、教室を出て行く。私は後を付いて歩いた。
 ひょっとしたら、これはサプライズの前触れ? でも私の誕生日は12月。
 学食は賑わっていた。今日の先生はぎりぎりの時間まで講義するので、一週間で一番、学食が混む時間帯に食事を取る日だ。私は彼女たちの後を着いていったが、もう一度近づく勇気はない。だからといってばれない様に付近で食事を取り、様子を伺うなんていう探偵チックなことも、見通しの良いこの学食では出来そうにない。
 私はどうすればいいか分からなくて、立ち尽くしていた。食堂の入り口で唖然とする私を、邪魔そうに避けて人が歩く。あ。今、ひとりだ。
 視界に少女が映った。木瀬良涼――。
「木瀬良さん……」
 ずきんずきんと、体のどこか見えないパーツが音を立てる。私は彼女の細い肩を、つつくように叩いた。
「あ、藤原さん」
 どうしたんですか、と木瀬良さんは無垢な笑顔。不覚にも軽くじんと来た。
「あの、良かったら――」
 一緒にご飯を食べませんかと、私はなんとか口にした。

 木瀬良さんはBパスタ。キノコたっぷりのぺペロンチーノに小さなサラダ。私は日替わり丼。今日はキャベツの千切りの上にコロッケが一個乗っているだけの、簡素なコロッケ丼だった。
「藤原さんにご飯誘われて嬉しいです」
 屈託なく笑う彼女に、私は小さく微笑みを返す。箸を持ってコロッケを割り、口に入れる。ソースとご飯とコロッケとキャベツが口の中で混じり複雑なハーモニーを奏でる。木瀬良さんは今日も、箸でパスタを食べている。
「なんで箸で食べるの?」
「サラダが箸で食べやすいので。どちらも使うのはもったいないですから。エコロジーです」
 なるほどなあと思いながら口を動かす。木瀬良さんはなれたもので、つるつると麺を箸ですすっていく。
 あたりさわりのないことを話した。自己紹介でありがちな数々の質問の羅列。趣味は何なのか。木瀬良さんは読書。私はネットサーフィン。嫌いなものは何か。木瀬良さんは蜘蛛。私はとくになし(本当はお化け)。何かアルバイトをしているか。これは木瀬良さんに聞かれたが、私はしていないと嘘をつき、彼女もしていないようだった。
「今までアルバイトをしたことがなくて……。大学を機にやってみたいと思うのですが、なかなか話を聞く機会もないんですよね……」
「あー。それなら、高校生のときはレストランのバイトしてたよ。すぐ辞めたけど」
「え、ほんとですかっ」
 予想外の食いつきに、戸惑いながら話す。レジを打っているときに怖いこと。バイトで楽しかったこと。どうして辞めたのか。
 辞めた理由がセクハラだと伝えたとき、木瀬良さんはこめかみをぴくぴくさせて、「そんな酷い人がいるんですか、許せません!」と本気で怒りをあらわにしていた。
「それで、きちんと謝罪してもらったんですか!?」
「え? いや、とくには……」
「そんなのって、あんまりです! そうだ、今日の放課後そのレストランに乗り込んで……っ」
「いやいや待ってって!」
「でも、今もいたいけな女子高生が、同じ店長の魔の手にかかっているかもしれません……っ。そんなのって、許せません」
 木瀬良さんは本気で正義にメラメラと燃えているようだった。理由は他にも、ライブチャットでいかに稼いだかという過去の栄光(?)があったからなのだが……。彼女には、決してそれを伝えないでおこう。
 レストランの住所を聞きだそうとする彼女を、なんとか宥めて食事を終えた。確かに変わり者で、嫌われていたというのもちょっと頷ける。カナの言っていた事件とは、一体どんなことだったのだろう。今のような、自らの正義を実行に移し、迷惑をかけたのだろうか。
「ごちそうさまでした」
 彼女が両手を合わせていった。私もついつられて、いつもはしないのに今日はやってみた。木瀬良さんはちらりと、私の空っぽの丼を見た。
「米粒3粒」
 彼女と私では、空っぽの定義が違うらしい。私は自分でも驚くほど素直に、3粒を箸でまとめて挟んで口に入れた。
 幸運なことに、三時間目の授業は彼女と同じものだった。詳しく話しを聞いてみると、他にもいくつか同じ授業をとっていた。一年生の共通科目が多いためであろう。私は心底安堵した。今の私の隣には、おとぼけた顔をした白いワンピースの女性が一人。ちょっと窮屈に感じながら、お互いノートを広げている。
 前方には、アキたちの姿が見える。ミーナが授業開始後20分も経ってはいないのに、机に突っ伏して眠っている。彼女はいつもそうだ。ご飯を食べると眠気を我慢できない女の子で、ふわぁとあくびをしたかと思うと、次の瞬間には倒れている。
「この部分のWherはこの位置にかかって……」
 対する木瀬良さんの授業態度は、すこぶる真面目だ。予想を何一つ裏切らない真面目さと言って良いだろう。
 ただひとつ予想外だったのは、彼女の独り言だ。自分で意識しているのかいないのか、彼女はノートを取る前に、割と頻繁に声にだす。皆の邪魔になるほどではないのだが、隣の私には確実に迷惑だ。ぼそぼそっと何を言ったか分からないことが多いので、逆に気になってしまう。
 私は彼女の小声を聞きながら、普段なら船をこいでいる授業を受けている。横に座る木瀬良さんの様子が真剣そのものなので、つられてしまうのだ。なんとなく、高校生のときに利用した図書館の学習室を思い出す。さあ、勉強するぞ! と珍しく気合を入れて利用したこと数回、周りの熱気に後押しされて、集中して勉強することができた。
 彼女と一緒にいると、成績が上がるかもしれないな。別に大学なんて、単位が取れればいいけれど。
 授業が終わると、木瀬良さんは授業の感想を言い始めた。疑問に思ったことを、私に尋ねてきたりもする。普通の授業は当然答えられないのだが、社会学や文学など、明確な答えを求めるわけではなく、ただ自分の考えを言うだけのものは返事をした。
 私の意見に木瀬良さんはいちいち素直に頷いてみせ、ときには感心した態度を取ることがあった。悪い気はしない。
 そんな日々を重ねていたある日――つまりは、積極的に彼女を見つけ、なるたけ行動をともにし、お昼を食べ、活動日はサークルに行くという生活――木瀬良さんが、ぽつりと言った。
「もうすぐ夏祭りですね」
 7月の始まり。
 確かに、大学最寄り駅にはたくさんのポスターが張られ、夏の到来を祝う祭りが宣伝されていた。学内の掲示板にも、確か何枚か張ってあったっけ。
「そうだね、どうかしたの?」
 言いながら、私はガリガリくんを口に含んだ。本当はもっと細長いアイスが良かったが、昨晩のバイトで要求されたことが頭をよぎってしまい、定番中の定番、ガリガリくんのソーダ味にした。
 木陰のベンチに座って食べているのだが、次から次へと溶けたアイスの水滴が落ちていく。隣では相変わらず白いワンピースの木瀬良さんが、姿勢を正して座っている。
 彼女はアイスを食べていない。一緒に購買には行ってくれるのだが、文房具以外の代物を買う彼女を、いまのところ私は見ていない。
「一緒に行きませんか?」
 意外な言葉だった。彼女と行動をともにしだして、早二ヶ月以上。こんな風に木瀬良さんからどこかに行こうと言われることも、学校外で会うこともなかった。
 友人……? という形容の、一人でいないために一緒にいる相手。
「いいよ」
 どうせ誰ともいかないし、という言葉を心中で呟く。大学進学を機にこの町に越してきた私は、当然ながらこの町のお祭りに行ったことがない。せっかくの機会だ。行ってみるのもいいだろう。
「わあ、ありがとうございます」
 木瀬良さんは私に顔を向け、ちょっと小首をかしげながら微笑んだ。

 浴衣を買った。
 木瀬良さんと出かけるために気合を入れたいわけではなく、一着あっても良いなと思ったからだ。地元の祭りに出かけるときは、黄色地に紫とピンクの紫陽花が描かれた浴衣を着ていたが、引越しの際に邪魔なので置いてきてしまった。これがあれば、これからの季節、少しだけバイトのウケが良いかもしれない。はだけた浴衣から覗く白い柔肌に、思わず引き寄せられてしまうだろう。
 私はアダルトチャットで顔を出さない。だからこそ、顔から下の部分を演出することを忘れてはならない。
 買った浴衣は紺色で、青い花の模様にした。前と同じく黄色の浴衣にも気に入ったものがあったが、子供っぽすぎると感じたことと、前と気分を変えたいと思ったので、これにした。
 ネットで確認しながら試行錯誤して着付けを行う。1人でも着られると思っていたが、案外難しい。苦戦すること30分。多少着付けがゆるくなってしまったが、なんとか形にすることが出来た。髪をアップでセットし、浴衣と一緒に買った髪飾りをつける。浴衣の柄とおそろいの、和柄の青い花飾りだ。
 外に出ると、初夏の熱気を感じた。もう夕方も近いというのに、熱中症を気にする暑さだ。扇子も用意すればよかったかも、と思いながら、ぞうりの足を進める。鼻緒がこすれて、ちょっとだけ違和感を覚えた。靴擦れしないように気をつけなければ……。
 さて、果たして木瀬良さんは待ち合わせ場所に、どのような格好で現れるのだろう?
 日本人らしいのっぺりとした顔立ちにも、たれ眼にも、混じりけない黒髪にも、浴衣はとても映えそうだ。しかし、白以外の色を身に着ける彼女を、私はやはり想像できない。となると、浴衣の色も白だろうか? しかし、それではまるで死人のようだ。
 結婚式や葬式に出席するときも、彼女はいったいどんな服を着るのだろう?
 そんなくだらないことを考えて、思わず一人なのにくすくすと笑ってしまった。
 足を速める。巾着袋から取り出した携帯は、待ち合わせ時間の20分前を指していた。ここから待ち合わせ場所までは15分ほど。木瀬良さんは絶対に15分前には着ているだろうから、せめて待ち合わせの5分前には到着しておきたいところだ。
 必死に足を進め、ぴったり5分前に駅前のリスの銅像にたどり着くと、案の定木瀬良さんの姿があった。彼女は白いワンピースを着ていた。いつもより少し、フリルが多く、ビジューがあちこちできらりと光っている。頭には白いリボンを右横につけており、いつもよりおしゃれだなと感じた。手には白のハンドバック。足元は白のサンダルだ。
「木瀬良さん」
 声をかけたが、彼女はまだぼうっとしていた。どこを見るでもなく、ただ前方に視線を落としている。
「木瀬良さん!」
 ちょっと大きな声で呼びかけて、ようやく反応が見えた。こちらを向いた彼女は、やっぱり無邪気としか思えない笑みを浮かべる。
「わあ、来てくれたんですね」
「あたりまえじゃん、約束だし」
「そうなのですね! 私、待ち合わせってあまりしたことがないので」
「へぇ……」
 究極のボッチ現る、と心の中でうそぶいてみる。木瀬良さんは自分の発言にとくに傷ついた様子もなく、浴衣素敵ですねと私をほめた。
 並んで歩き出す。いつも学校へ向かうときに通る場所。それが普段とはまるで違う様子を見せている。私のほかにもぽつぽつと浴衣を来た男女がおり、出店からは威勢の良い声が飛ぶ。
「なかなか賑わっている祭りだねー。なに食べる?」
「わたがしが食べたいですっ」
 木瀬良さんは威勢よく言った。わたがしはぼったくりだぞー。キャラクターの袋で金を取ってるんだぞー、と意地の悪い私が心の中で言う。まあ、木瀬良さんのお金だからどーでも良いんだけど。
 わたがしの出店を探す途中で、私はフランクフルトを買った。ケチャップだけをつけて食べる。わたがし屋を見つけた木瀬良さんは、500円を払い、どれが良い? と店主に聞かれて、どれでも良いと返し、いかにも人気のなさそうな奇妙な豚の絵が描かれた袋を渡された。
「わあ!」
 綿菓子をちぎって、木瀬良さんは口に入れた。買い食いをする彼女も、歩き食いをする彼女も始めてみた。たずねてみると、祭りですから、と返ってきた。
「なんだか楽しいですね」
 遠くから祭囃子が聞こえる。心のそこから言っているのだろう、いつもより楽しそうな様子の木瀬良さんは、こちらまで楽しくなってしまう。
「藤原さんもよければどうぞ」
 ちぎった綿菓子を渡された。遠慮なく受け取り口に含む。これぞ砂糖! といった甘さの洪水が口の中に広がる。それは、どこか懐かしい味だった。小さなとき、子供のころ、私も綿菓子が大好きだった。彼女と違いビニールの袋に執着があり、お気に入りの美少女戦士の袋を選んだ。その袋を抱えて、てとてとと歩き、父親と手をつないでいた。
 懐かしい。
 それと同時に、心にとげが刺さったような気がした。
「花火があるんですよ」
 木瀬良さんが唐突にポスターを指差しながら言ったのは、すっかりあたりが暗くなったころだった。私はあれからたこ焼きとバナナチョコをおなかに収め、祭り気分を満喫していた。木瀬良さんは綿菓子だけだ。
「花火?」
「ええ。今日は頼んで、見てきてもいいって言われてるんです。一緒に見ませんか?」
 媚びるような瞳だった。彼女もこんな眼をするんだな、と、いつものおぼろげな瞳を思い出す。アキは良くした。こういった瞳を。
「いいよ」
 木瀬良さんはありがとうございますと微笑んで。軽く体をひねってワンピースのすそを揺らした。嬉しいらしい。ポスターによるとあと30分もしないうちに花火が始まるらしい。だからか、人ごみが多くなっていた。
「会場の近くまで行きましょう」
 場所は河川敷だった。ぎゅうぎゅうと満員電車のような文様に、河川敷に近づくにつれなって良く。この荒波に飲み込まれたらひとたまりもないだろうなと、背後を振り向くと木瀬良さんがいなかった。
 あたりを見回す。やはりいない。しばらく会話が途絶えていたが、まさか、迷子だなんて。そう思っていたら、腕を引かれた。あれよあれよという間に引き寄せられる。木瀬良さん? とそちらを向くと、名も知らない男だった。
「やあ」
「ちょ、え?」
 男たちは酒の入った四人組だった。唖然としている私を人ごみから引っ張り上げ、少し外れた場所にひきずった。そのころになると、私も驚きから抜けていて、「なにするんですか!」と相手をにらみつけていた。
「いや、困っているなと思って」
 私の手を引っ張った張本人の男は言う。わりかしイケている顔だ。それにしても、どこかで見たことがあるような……? 首元のほくろが、気になってしょうがない。
「大丈夫、ですからっ」
「そんな警戒心もたないでよ。急に掴んだりしたのは、悪い。ほら俺、アキの彼氏なんだけどさ」
「え――」
「友達だって君の写真見てたし。そんで、すごい不安そうな顔してたし。そんで助けたほうがいいのかなーって」
 男の顔をじっと見る。たしかに、アキにいつか見せてもらった顔だ。ほらみて、この間初めて一緒にツーショットとったのー! なんて、自慢げに見せまわっていたっけ。そうだ、ほくろが確かに同じ位置だ。
「……ありがとう、です」
 しかし、いずれにしたって気まずいことには変わりない。アキに紹介されたわけではないし、アキにはグループごと避けられている。ひょっとしたら、彼なら知っているかもしれない。アキたちが私を避けるわけ。
 それを知りたいとも思うし、知りたくないとも思うし、もういまさら知ったところでとも思う。私には木瀬良涼がいる。
「で、どうしたの?」
「友達とはぐれただけです」
「あー。そうなの? どんな子? ひょっとしたら見かけたかも」
「大丈夫です。携帯ありますし」
「え。でも今ほとんど繋がらないよ。人多すぎて」
 確かにあたりは人ごみだらけで、回線は混雑していそうだ。特徴教えて、といおう男の言葉のままに、私は木瀬良さんの特徴を告げた。白いワンピース。のっぺりとした顔。黒い髪。
「ああ。分かる分かる」
 男は満面の笑みを浮かべた。私はほっとして、張っていた肩を少し落とした。こっちだよ、と連れられたのは、ちょっと人ごみから離れた茂みの中だった。ショートカーットとアキの彼氏は笑い、その友達も笑った。
 私もつられて唇の端を持ち上げる。馬鹿だった。
 グワッと、背後から口を押さえつけられた。え、と思ったときには体が傾いて、柔らかな土の上に背中を預けていた。仰向けの視線には、にたにたと笑う男の笑顔。それが四つ。月の光が彼らの頭上から降り注ぎ、黒い影が際立つ。
 唇は押さえつけられたまま。いつの間にか、両手両足が押さえつけられている。アキの彼氏の腕が伸びた。胸元が開かれ、浴衣が乱れ、ブラジャーが覗く。
「うっわ、たまんねー。動画そっくり」
「ったりまえだろ、本人なんだから」
 男たちのやり取り。最初がアキの彼氏の言葉。次が友達。動画、といった。その瞬間、閃いた。アキたちと疎遠になったわけ。ばれたんだ。私がしてたこと。こいつ等から。
「あっは。いい表情だねぇー。そうそう、俺たちさあ、君の内緒のアルバイト、知っちゃったんだよねー。ほんと、たまたま。アキが見せてくれる友達の顔と、そっくりな君の動画。いやー、興奮したね。知り合いの知り合いでも、知り合いって感じがさ。そればっか見てヤッてんのばれたら、アキに捨てられちゃったんだよねー。ま、そろそろめんどかったから良いけど。でもさ、その責任とってよ」
 にたにたと、酒の匂いが混じった汚臭を男は放つ。責任、とってよ。馬鹿やろうそんなの女が言うセリフ。
「うーっ! う、ウーーーっ!」
 ふさがれた口から、私の言葉なき声がこぼれる。体をひねり、両手両足をでたらめに動かす。しかし、無駄だ。そりゃそうだ。男四人の怪力だ。
「なに、抵抗すんの。普段あんなことしてんのに」
 あざ笑うような声だった。あざ笑うような瞳だった。完璧に肉便器扱いだった。
 最悪、最悪。
 涙がこぼれる。一瞬、男たちはぎょっとしたようだった。しかし、それもすぐに興奮に変わる。シチュエーションは、麻薬だ。
「どうせもう散々汚れてんだかんよ、ばっかじゃね」
 素足でガラスを踏んづけたようだ。痛い、痛い。
 汚れている? そう、分かってる。でも、直接シてるわけじゃない! こんなの、こんなの――。
 暴れた。暴れまくった。押さえつけられた手首足首が悲鳴を上げる。爪を立てられているのが分かった。頭を殴られた。浴衣は極限まではだけた。写真を写された。男たちが脱ぎ始めた。どこかで花火が打ちあがった。このあたりにはもう人気がまるでなかった。
「暴れんじゃねえ、この糞ビッチ!!」
「おやめなさい!!」
 凛とした声があたりに響いた。
 空っぽ寸前の、虚ろな眼が人影を捉える。立っていたのは、少女だった。のっぺりした顔に、白いワンピース。白のサンダル。他の誰と見間違うはずもない。ここ数ヶ月、ずっと私の隣にいた木瀬良さん。
 男たちは、木瀬良さんを一斉に見つめた。にたにたとした笑いが浮かんでいる。荒い息遣いから、興奮が見て取れる。このあたりには、もう雄の臭いが充満していた。
 きちゃだめ。
 心が叫ぶ。
 きちゃダメ!!
 最初っからおかしな子だと思った。融通の利かない子だとも。自分とはまるで違うと思った。きれいで、美しく、もう私が二度と手に出来ないものを持っていると。
 それがぐちゃぐちゃに壊される瞬間を、私は絶対に見たくない。
「おい」
 アキの彼氏が木瀬良さんに向け顎をしゃくった。
 私の手を押さえる人員が減る。四肢は固定されているものの、さっきよりずっと力が弱い。私のもとを離れた男が、一歩、一歩木瀬良さんに近づく。もうちょっと。もう少し、離れたなら……っ。
「こ、来ないでください」
 震えた声。鳴きそうな声。私は思い切り右足を動かした。狙いは一人に絞る。足を押さえているコイツッ。
「ぐっ」
 拘束を逃れた左足が、なんとか男の顎をかすった。しかし、反撃はここまでだった。「なにすんだこのやろ!」ガンっ、脳みそが揺れるほど頭を強打された。
 力が抜ける。ああ、万事休すか。そう思われたとき、木瀬良涼に変化があった。
「やめて、ヤメテ、やめ、やめて、やめて、やめて、やめてやめてやめてやめてヤメテェェェェェ!!!!!」
 髪を振り乱し、両手両足を振り乱し、完全に瞳がイっていて、彼女は口から泡を吹いていた。男が手を触れることもなかった。明らかに拘束目的で近づいて行った男は、彼女に三十センチも近づくことなく立ち止まっていた。私を押さえつける男達も、急に訪れた彼女の変化に、ビビッていた。
「あぁ……っ」
 木瀬良さんはばふん。倒れた。男の一人が彼女に駆け寄り体をゆすった。それで、騒然となった。
 おい、大丈夫かよ。まずいんじゃないの。何もしてねえよ! 俺じゃねえよ! うるさい。おい、あんたなんかこの子の持病とかしってる? 平気?
 分かりません、分かりません、と私は言った。
 さっきまで襲われそうになっていたのに、今は全員で木瀬良さんの心配をしている。私は彼女のことが気にかかったが、この隙にとちょっとだけ場所を離れて浴衣を着付けしなおした。それから、落ちていた自分の巾着を拾って、中から携帯電話を取り出す。
「あの、電話します」
「あ、ああ」
 男達は困った顔をしていた。それから4人顔を突き合わせて、どうする、どうする、と言い合っていた。
「あの、どっか行ってください」
 たまらず私はそういった。男達がこの場から逃げたいけれど放置するのもどうだろうとぐずっていたからだ。
 許すつもりはなかった。しかし、警察沙汰になれば私は間違いなくさらし者だ。男達は動機として、ライブチャットの話をするかもしれないし。それならば、こうして未遂で終わったことであるし、消えてもらえば良い。
「ただし、さっきの写真は消してください」
 強い口調で言った。これは譲れない。男は素直だった。携帯のメモリから削除されたことを確認し、男達を帰した。木瀬良さんと薄暗い茂みの中、2人きりになった。
「木瀬良さん……」
 救急車を呼ぶ前に、もう一度だけ呼びかけよう。彼女の体をゆすって名前を呟くと、ゆっくりと薄いまぶたが開かれた。虚ろな眼をしていた。
「せんせい……もう……らめて」
「木瀬良さん?」
 花火の音がした。彼女の眼が、大きく見開かれた。飛び起きると、木瀬良さんは私を見つめた。
「あ、えっと……」
 彼女は言う。
「藤原さん……。えっと、どうして、こんなところに?」
「……。大丈夫?」
「はい、もちろん大丈夫ですよ! いなくなった藤原さんを探してたんですけど……。あれ、いつの間にこんなところに来たんだっけ?」
「ほら、男に襲われて……」
 一瞬、彼女の眼が虚ろになった。しかし、それはすぐに戻る。
「はい、もちろん大丈夫ですよ! いなくなった藤原さんを探してたんですけど……。あれ、いつの間にこんなところに来たんだっけ?」
「え……っ」
「まあでも、そんなこと、どうでもいいですね。こうして藤原さんを見つけられたんですから!」
 純粋無垢そのものの笑顔を、彼女は浮かべる。どっと疲れが振ってきた。立ち上がり、2人で帰路に着く。なんだか、驚くほど疲れた一日だった。木瀬良さんも倒れたことがあり体調が悪いのか、花火を見たいとは言わなかった。
 別れ際、木瀬良さんの家の前で、彼女は私をじっと見つめた。何か言いたそうだったから、なあにと尋ねた。けれど、それが間違いだった。
「あの、藤原さんが散々汚れてるって……どういう意味ですか?」
 なんでもないよ、とどうにか答えた。私は背を向けた。送ってくださりありがとうございますっと声が聞こえる。振り返れば、45度きっちり頭を下げた木瀬良さんが立っていることだろう。けれど、私は振り返らなかった。夜の帳を、たった1人で歩き続けた。

 一日休んで、翌日。月曜日。
 私は布団から出ることが出来なかった。安物の薄いカーテンから、照りつくような太陽の光を感じる。気だるくて、クーラーがんがんにつけて、けれど体を冷やしてはならないとお腹にだけタオルケットをかけて、私は部屋で寝転がっていた。
 ふと視界をずらすと、今日も今日とてパソコン近くに設置されたカメラが私を捉えている。アキの彼氏を思い出す。頭からタオルケットを被った。
 行きたくない――。
 あいつらも、そしてアキ達も、私を知っているんだ。そんでもって木瀬良さんも、ちょっと気づきかけている。不思議に思っている。
 髪の毛をかきむしる。何勝手に私の動画とか見つけてんのよ、てか削除はある程度したはず……。ネットの拡散力? くっそ、クッソ!
 理不尽な八つ当たりであることは、分かっている。手を止めて、脱力。両手両足を伸ばして動きを止めた私は、頭だけを回転させる。
 木瀬良さん、覚えていないみたいだったのにな。私に吐かれた言葉はきちんと聴いて覚えてたな。なんでだろうな。
 携帯電話がなった。一応と画面を確認すると、驚くべきことに彼女からだった。なんだかんだともう結構長い付き合いだが、今までメールも電話もメッセージアプリも彼女から来たことなどない。恐る恐る届いたメールを確認すると、『お体大丈夫ですか?』と来ていた。携帯を放り投げた。
 自分とは違う世界の子だなあと思う。彼女を見ていると、自分がいかに汚れてしまったのか。
 小さなころの夢は、近所のお兄ちゃんの花嫁だった。中学生になり性が芽生えると、道徳教育どおりに大切な人とセックスをしようと思った。
 いつからだろう。いつから、こんなに捻じ曲がってしまったの。
 木瀬良さんが来なかったら、私はきっとあの男達に犯されたのだろう。けれどあいつらの言うとおり、私はとっくの昔に汚れていて、犯されているようなものなのだろうか。画面越しの、知らない男との、行為。
 吐き気がした。自分がなりたかったものと、あまりにかけ離れた今の姿に。最悪、最悪。
 眼を閉じた。
 こんなときは、眠ってしまうに限るのだ。そして、明日はきっと学校に行こう。絶対に行こう。頑張って行こう。這ってでも行こう。

 まあ、無理かもしれないんですけどね?

   ●

 ぽんぴーんっと、玄関チャイムの音で眼が覚めた。相変わらずだるい感じの体をしぶしぶ起こしたのは、きっかり3分間隔でチャイムが4回鳴り止まなかったからだ。
 まったくどこのどいつだよ、しつこい訪問販売だろうな、絶対に追い返してやる、ついでに社会常識を叩き込んでやる。そう息巻いて思い切りドアを開けると、嫌な音がした。
 鼻先にドアを思い切り叩きつけられた木瀬良さんは、ボクサーよろしく完全にKO。私の家の前に、見事な死体が転がった。ワンピースの白が、悪い冗談みたいだ。
「ちょ、ちょっと大丈夫」
「だ、大丈夫です……」
 明らかに大丈夫じゃなさそうな彼女は、体を起こすとふらつく手つきで肩にかけていたテニスバックを持ち直した。
「えーと、どうしてここに?」
「心配だったので、人に聞いて……。ごめんなさい、迷惑でしたか?」
 木瀬良さんは、首を少し傾けると、自分の周りを確認し、それから辺りを確認し始めた。そして何を見つけたのか、通路の右端、私が開いている玄関扉の裏側へと駆けていく。視界から消えた木瀬良さん。返ってきた彼女の手には、果物籠が握られていた。メロンに桃にバナナにオレンジ……。いったい、何の重病だ。
「これ、お土産です。どうぞお納めください」
 そういってちょっとすまなそうに笑う木瀬良さんを、追い返す気力は私にはなかった。彼女を狭い部屋に招き入れる。わあ、ここが藤原さんの家ですかあと、感嘆の声を彼女は上げた。そして流れるようなスムーズな動作で彼女はテニスバックを床におろし――そして、中からテニスラケットを取り出し、唐突にパソコンの前に移動して振り上げた。
「え!?」
 戸惑いつつも、駆け寄ることも出来ない。彼女の手の中には、純白といっても過言ではないほど、白いラケット。ガットもきれいで、糸の一つ一つに蛍光灯の光があたり輝いている。
「えい!」
 戸惑う私の目の前で、木瀬良さんはラケットを振るった。ぶんっと空気を裂いたそのラケットは見事空振り、ただ地面から80センチ上辺りで静止した。
「あー、やっぱ、ダメですね。はは……意気地のない自分が、嫌になります」
 背中を向けたまま、木瀬良さんがそういう。
「……何、するのよ。急に」
「良くないうわさを聞いたから」
 木瀬良さんは答えた。同時に私を振り返り、片えくぼを作り笑って見せた。
「そーいうとき友達は、友達に嫌われてでもそれを止めるもの……なんです」
「――――っ」
 胸が詰まった。
「でも、ものを壊すのは、やっぱりいけないですね。ダメなことです……。本当に、ごめんなさい」
 木瀬良さんは頭を下げると、テニスラケットをバックに戻した。そしてそれを肩にかけなおす。帰るつもりなのだろうか。こんな、わけのわからない事態と、わけのわからない気持ちだけを押し付けて。
 だって、彼女は木瀬良涼。
 だれよりも正しくて、だれよりも面倒で、いつも一人で。
 そんな彼女が、まるで奇跡じゃないか。私のために、私のものを壊そうとするなんて。悪いことをしてでも、止めさせようとするなんて。
「行くから!」
 気づけば私は叫んでいた。玄関に向けて歩き出した彼女に、背中を向けたまま。振り返ったのは気配で分かった。けれど、私は振り返らなかった。見られたくないし。泣いてるとこ。
「私、明日は絶対学校に行くから。そんで、あんたに話しかけるから……っ。だから、だから――」
「はいっ」
 弾むような返事。無垢な声。木瀬良さんは出て行った。部屋にはまた、私一人だけが立っていた。けれど、さっきまでとはもう、ぜんぜんまったく別の人のようだった。

 一時限目より早く学校に着き、なんだか今日のお昼の気分はパンだなあと売店に向かった。ランチパックを物色していると、おーいと声をかけられて、振り返るとカナがいた。
 胸がちょっとざわつく。周りにアキやミーコらの姿はなく、一人のようだ。いったいなんのようだろうとビクついていると、悪かったとカナは頭を下げた。ほへ? っと声がもれる。仲間外しをしたこと、カナは後悔してるんだ――っと胸をつくものを感じたのは数秒、続けて、「木瀬良涼にあんたの住所とか……を、教えちゃった。ごめんね」
 ああ、犯人はお前だったのか。あやうくパソコンがおしゃんになるところだったぞ。
「いいよ、別に」 
 私は笑った。心のそこから晴れやかな笑顔だった。そして、そこで一つ思いつく。
「あー、そうだ。代わりにさ、向こうのこと教えてよ。木瀬良さんのこと」
「……ここじゃ言いにくいんだけどね、」
 木瀬良涼は学校の先生に犯されたらしい。小学生のときに。以来そのことがトラウマで、性的なことに関する記憶を意識的に飛ばす傾向が現れたらしい。性質の悪い同級生が、そのことで木瀬良さんをいじって長く遊んでいたということだ。
「……そっか」
「そーいえば、あの子が白い服ばかり着始めたのも、あの事件からだっけ。あーいうのも基地外じみてるって、ケッコー避けられる原因だったんだよねぇ」
 しみじみいうカナの言葉に、私はある日ネットで見つけた記事を思い出していた。白は純白。結婚式のとき、白いウェディングドレスを身にまとえるのは、本来ならば婚前交渉を行わなかった処女だけなのだそうだ。だからかなあと私は思う。だからかなあと。
「そっか……、ありがとカナ」
 私はへたくそな笑顔を作り彼女に手を振って分かれた。ランチパックは結局買わなかった。今日もまた、食堂で選ぼう。木瀬良さんと一緒のものにしようかな。選ぶの面倒だし。
 私は一時限目の教室へ向け歩き出した。
 これから、綺麗になる努力をしよう。少しずつでいいから、あの子のように。
「もう来てるかな、涼ちゃん」
 呟いてみた独り言に、自分で笑う。やっぱり全然しっくり来ない。だがしかし、そんなことはどうでもいい。今日もまた木瀬良さんは、あの広い教室でぽつんと一人授業の準備をしているのだろう。その隣に、座るのだ。それだけだ。
 私は弾む足取りを、少しだけ速めて教室に向かった。



 第二話・パッション

 テニスコートの入り口にぼんやりと立つ、白いワンピースの女の子を見たとき、カチリっと記憶が音を立てた。絶対に、いつかどこかで会ったことがある顔。あたしは彼女の能面を、しばらくじっと見ていたと思う。そうしたら。彼女がこちらに気がついて、にっこりと笑った。
 この子はいったい、どんな男とセックスするのかな? 
 微笑みかけられた瞬間、そんな疑問が頭に浮かんだ。純粋無垢そうな、否。純粋無垢そのもののようなあの表情を見て、そう、あの時もそう思ったんだ。
 ぴょこんと萌芽のように芽生えた疑問は、むくむくむくむく大きくなり、かなりのお酒を煽っていたこともあって、ついに口から飛び出した。
 だって、彼女のあの感じ。体に薄い膜を纏っている感じ。そういうの見ててさ、なんか、破いてみたくなっちゃったんだ。処女廚とかと、たぶんあたしは、ほとんど同じ思考回路をしてた。
 彼女はきょとんとした。
 のっぺりとした白い顔に、その表情はよく似合う。可愛くも美しくもないけれど、清潔な感じ。そして、彼女は言った。
「せっくすって何ですか?」

 完璧に思い出せたあたしは、手を止めて彼女に近づいていった。練習に使うテニスボールのかごを運んでいるところだった。
 歩きながらぼんやりと彼女を観察し続ける、手には白のテニスバックを持っている。昨日の服装も、白のワンピースだった。白、白、白。白。洗剤も真っ青の潔白ぶりだ。
「こんにちは、ひょっとして、入部希望かな?」
「はい! そうです。よろしくお願いします、宮部夏目(みやべなつめ)先輩」
 彼女はきっかり90度、腰をまげてあたしに挨拶をした。なんて馬鹿丁寧な対応! あたし、名乗ったんだっけ。ああでも、あたしは彼女の名前を覚えていない。ひょっとしたら、聞いたのかもしれないけれど。
 さてどうしようと少し考えて、良い手を思いついた。ちょっと待っていてと彼女を制して、部室から入部希望の紙を取ってきた。
「はいこれ、名前書いてね」
 紙と、ボールペンを手渡す。希望者が来たらこうしてくれと、最近忙しい部長に言付けられていた。
 すらすらと少女の手が、「木瀬良 涼」という文字を生み出す。ふられたフリガナは、「キセラ リョウ」だ。男の子みたいな名前だな。それに、なんだか覚えにくいや。
「あっりがとー。んーと、そんで、今日はどうする? ラケット持ってきているみたいだけれど」
 ひと通りのサークルの説明――活動時間や、部長の名前、連絡先、顧問など――を終えたあと、あたしは訊ねた。「打たせていただきたい所存です」とありえないくらい古風な返事とお辞儀が返ってくる。変な子。
「その格好じゃ、あれだよね?」
「あ、テニスウェアも持ってきています!」
 あたしはちょっと苦笑しつつ、彼女を部室に案内した。鍵をかけられるので、着替えはこの場所だ。
 彼女は、白いテニスウェアに着替えたりしてね。そんな想像を楽しんでコートに戻る。
 とりあえず、一人体操でもしているかと思った瞬間、背後から声がかかった。
「こんにちわー」
「あ、一年生!」
 少女が立っていた。今度はハッキリと見覚えがある。同じ空気がする子だなと、ちょっと気になっていた子。
「えーと、モカちゃんだっけ?」
「はい、藤原モカです。あの、このサークルに入りたいんですけど」
「ほんとに? わーい、大歓迎だよー」
 しまったばかりの紙を取り出し、モカちゃんに手渡した。彼女はさらさらと必要事項を埋めていたが、ふと手がとまった。
 視線が、一つ上の欄で停止している。
「……木瀬良さん、入ったんですか?」
「え? ああ、この子なら今着替えてるよー。テニスウェアに。君はどうする? やってく? その格好でぜんぜん、アリだけど」
「はい、お願いします」
「おーけー、おーけー。ラケット貸し出すから。おーい、そこのボーズ共、コートあけろぉぉ! 一年生の若い娘が打つぞ! しかも結構可愛い! あとうらやましいスタイル!」
 端のコートに居た光とミキちゃんに向けて声を放つ。申し訳ないが彼らが一番雑なテニスをしている。ラリーというよりデート気分なのだろう。光の口がスムーズに良く動いていた。
「あー、どうする? ミキちゃん」
「そろそろ疲れたしね! 代わってあげよーよ」
 交渉成立。私は部室にラケットを取りに行くことにした。モカちゃんに断って部室に向かう。軽くノックをし来訪の意図を伝えると、どうぞと声がして鍵の開く音がした。中に入ると、外からは見えない位置に木瀬良さんが縮こまっている。すぐに扉を閉めた。
「白、好きなの?」
「ええ……」
 彼女が着替えかけていたのは、上下白のテニスウェアだった。上品な丈のスカートだ。
 なんでここまで白が好きなのだろう。麻薬中毒者は極端なまでに一つの色にこだわることがあるという知識を思い出した。
「よし、あった」
 棚から程よい感じのピンクのラケットを見つけた。卒業と同時に引退していった誰かの置き土産だろう。
 じゃましたね、と一声かけるとき、木瀬良さんの胸元にちらり、目が行ってしまった。混乱する。すぐに目をそらした。
 部室の扉を閉めて、たった今見てしまったものについてあたしは考える。
 木瀬良さんのほとんど平な胸元には、ぐるぐると包帯が巻いてあった。

   ●

「……っということがあったんだよ!」
 笑いながらあたしが言うと、竹彦は唇の端を持ち上げた。笑顔にも見えるが、付き合いの長いあたしには分かる。竹彦は笑っていない。どころか、ちょっと不愉快とすら思っている。
「それってさ、よくテレビとかで見るあれなんじゃない?」
「あれ?」
「性同一性障害」
 がつんと頭を殴られたようだった。不思議なことがあったんだよ、という笑い話のつもりだったのに。
「……そんなわけ、ないと思うけどな」
 想像以上にしゅんとした声が出た。竹彦に笑ってもらおうと思ったのに、怒られたような気がしたから。
 木瀬良さんがそんな障害を持っているとは思えない。だって、彼女の体つきや雰囲気や声の高さや……とにかくもろもろ、女性そのものだ。でも、テレビで見る性同一性障害のタレントさんはきれいな方が多い。何も知らずに見たとしたら、本当に分からないだろう。
 もしかして、ほんとうに、そうなのかな。
 日曜日の午後。デートの途中でよった喫茶店で、あたしは新入部員の木瀬良さんのことを話していた。目の前には、湯気のたったコーヒーカップが二つ。
 竹彦の顔をうかがう。今日も彼はカッコいい。すっと通った鼻筋に、クールな一重まぶた。しゃきっとした短髪は、つややかな黒色だ。高校時代からの自慢の彼氏。そんな彼は、ちょっと瞳を曇らせていた。
「名前も、木瀬良涼なんだろ。リョウなんて、ほんと、男の名前じゃん」
「うーむ。……言われてみれば、テニスもすごく上手かったしなあ」
 脳裏にあざやかによみがえる、彼女のプレー。ただひたすらに上手くって。機械のように精密で、それでいて力強さがあった。相手をしていたモカちゃんは、かなり一方的にボコスカにやられていたっけ。あれだけ上手ければ、正部のほうでレギュラー……いや、エースの座だって狙えるだろう。
「なに、テニス上手いの」
 竹彦の瞳がちょっと輝いた。あたしと竹彦の関係は、高校時代のテニス部だ。同学年で、仮入部のときに親しくなり、その後一年たって付き合い始めた。その部で、竹彦はエースだった。プレースタイルは、カウンターパンチャーで、相手の決め球をさらりと打ち返すのが得意だった。
 結局、今ではテニスから離れてしまったのだが、あたしから話を聞いたり、見たりするのは好きらしい。
「うん、ちょー上手かったよ。プロ並み」
「へえ。それは一度見てみたいなあ」
 顔が曇る。竹彦はたまにあたしのサークルを見に行きたいと言う。でも、希望を叶えられそうにはない。ぐにゅぐにゅと黒い気持ちが噴出す。ああ、いやだ、いやだ。
 あたしはコーヒーを一口含んだ。つられてか、竹彦もカップを手に取った。
 コーヒーを飲み終えて、お会計をすませて外にでる。夏が近づいてきた初夏の気温は、心地よい。一年で一番好きな季節かも。
「ねえ、公園でも行かない?」
「いいね」
 あたしはいつも、竹彦のちょっと後ろを歩く。彼は初夏の風が気持ちよいのか、小さく体を揺らしていた。

   ●

 差し込まれた日差しで目が覚めた。東向きの窓という悪条件が、このアパートの月四万円という安さの一因だろう。
 起き上がり伸びをする。体調はすこぶる良い感じ。顔を洗い、今日の大学の日程を確認する。三年生となった今では、授業はほとんどない。今日も二限だけだ。ただし、放課後にテニスサークルがあるから、帰ってくるのは遅い。時間までスマホをいじりつつテレビを眺め、時間が来たので大学へと向かう。
 教室にはすでに、友人のユナがいた。ストレートの長い髪は、ショートカットのあたしにはちょっと憧れだったりする。154センチという低身長もあり、ちょっと子供っぽく見えるあたしとは、正反対の高身長もうらやましい。スタイル抜群で、背後から見た背中のカーブも、ほんと、男好きがする体型だなあと思う。
「おっはー」
「あ、夏目! おはよ~」
 振り返ったユナは、真っ赤な口紅だった。彼女は何種類もの口紅を持っている。ユナはあたしの顔をじいっと見た。
「うん、昨日はヤッてないでしょ」
 軽く噴出す。小声とは言え、すでにちらほらと人がいる教室で、そういう話題は勘弁してもらえませんかね。
「うっせーなあ、ユナには関係ないでしょー」
「あー、やっぱりヤッてないね。何、週末は会えなかったの? だ・ん・な」
「……まーね」
 えっちな事なら鋭い勘が働くのに、ユナはこちらの嘘には気づかなかった。ごしゅーしょーさまとくすくす笑う。あたしはようやく、彼女の隣に腰を下ろした。
 偏見を恐れない言い方をすれば、ユナは誰とでも寝る女だった。彼女いわく、それは友愛の情で親交の証であり、アメリカ人が挨拶にハグをするようなものだという。ユナのそういった、あんまり人にはほめられそうにない性事情が、あたしにはそれほど嫌とは思えない。まあ、ブーメランだからっていうのが、一番の理由なんだろうけど。
「今日はサークルだよね、ばいばい」
「おー! ばいばいっ」
 っというのが、放課後ユナと交わした別れの言葉だった。彼女と分かれコートに行く途中で、光の背中を見つけた。テニスサークルの後輩で、見事なまでの坊主頭が現在の特徴。中肉中背のどこにでもいる男子大学生といった風貌だが、ノリのよさが良い。
 追いかけて、あたしは彼の方をぽんと叩いた。
「うっす」
「あ、宮部先輩」
 振り返った光の、ニヤついた口元。
 セックスをしたばかりの時だけ、彼はこんな表情であたしに挨拶をする。実際問題、それが嫌いだ。秘密の共有者に浮かべる、仲間意識がもたらす笑い。でも、光とやることについてムカツクのはそれぐらいだ。あちこち女を食っているだけあって上手だし、顔は普通だけどモテようと必死に努力しているのだろう、体型とファッションセンスは悪くない。坊主頭の髪型も、ダサいとは思うけれど似合っている。それに、前は違ったのだ。メンズファッション誌に乗っているような、ワックスで固定したイケてるショートカットだった。
「髪、いい感じに伸びてきたねえ!」
「やめてくださいよー」
 少し背伸びをして、ジョリジョリと頭をなでてやる。
 あまりにも女遊びが激しいため、彼の父親が寝ている間に丸坊主にしたのだという。嘘か真かわからぬが、光は坊主頭になっても結局女遊びをやめていない。時折鏡を見ては、むなしそうにため息を吐いているけれど。
「前の夜も散々触ったでしょう」
 あまりにも長く触っていたためだろう、光が抗議の声を上げた。ささやくように、耳元で。それがセックスの最中の様子を皮肉っているのだと気が付き、ちょっと顔が赤くなる。
 そう、あたしはついこの間、彼とセックスをした。新入生歓迎会の帰り道、お酒にべろんべろんに酔っ払ったあたしは、どうしてもソレがしたくなり、光の耳元で誘ったのだ。二つ返事でOKだった。
 あの晩の行為を、思い出す。けれど、すぐにそれを振り払い、「うるせー! うら、うら!」とさらに頭を引っ掻き回した。
 光と並んでコートに向けて歩き出す。足取りは軽い。二人共自前のラケットは、部室に置きっぱなしという有り様だ。部室においてある備品で事は済むのだけれど、やっぱりテニスを続けていると自分専用のものが欲しくなる。みんな同じ気持ちなのか、一年生の夏休み明けぐらいのタイミングで、自前のラケットをお披露目する人が多い。中学からの愛用品だったりも多い。
「今日、打ちますか」
「悪くないね」
 光の提案に頷いたタイミングで、携帯電話がなった。片手で断ってから電話を見ると、母親からだった。「悪い、先行ってて」
 声をかけてその場を離れる。放課後の大学なので、幸い人気のない場所はすぐに見つかった。
「もしもし。竹くん、竹くんは最近元気?」
 ため息を一つついた。
「お母さん、毎回だけどさ、娘の心配より先に竹彦?」
「あらあ、竹彦くんは私の息子よ」
 そう言って母はケラケラと笑う。この陽気な母に助けられている部分はかなり多い。太陽のような人、という表現がぴったりなのだ。彼女と比較するなら、私は月のような人かもしれないなと思う。うーん。ちょっと良く表現しすぎたか。
「元気だよ。相変わらずだけどね。何も変わらずに、元気」
「そお? 上手くやってる?」
「うん、上手くやってるよ。お父さんにもそう言っておいて」
「うん、了解」
 今回の電話も、多分、お父さんにけしかけられてきたのだろう。父は、一人娘のあたしの恋愛事情が心底に心配なのだ。出来るなら、付き合うことをやめて欲しいとも思っているのだろうと思う。
 あたしがあっちこっちの男とセックスしているって知ったら、きっと卒倒して倒れるんだろうな。光みたいに、髪の毛を剃られたりして。
「お金は困ってない? 御飯はちゃんと食べてる? 怪しい男はうろついてない? えーっと、それから――」
「お金ある、御飯食べてる、男いない。なにも問題ないよ、ノープロブレム。何かあったら電話するから。あたし、これからサークルだから、行かなきゃ」
「ああ、そうなの? わかった。それじゃまた今度ね」
 ぷつんと電話が切れる。この潔さは好きだ。スマホを鞄に戻して歩き出す。ふと、明日も竹彦に会いに行くかとあたしは思った。

   ●

 部室によって準備を終えてコートに行くと、光は同じ二年生と打っていた。どうやら待ちきれなかったらしい。いや、都合良くターゲットが一人だったから、あたしの約束など放り投げたのかな?
 光と打ち合っている長い髪の女の子、ミキちゃん。
 これは絶対に当たっている勘だけれど、光は彼女を狙っている。この間も彼女と打ち合っていたし、ここ最近はずっとそうだ。それに彼女を見る瞳が、肉食獣のそれである。サークルの風紀を乱すような行為は謹んでもらいたいなと心中で思いつつ、光と寝ているあたしは抗議なんてする資格がない。
 さて、一人あぶれてどうするかなと思っていると、白いテニスウェアを着た少女が、コートの隅でぼんやりと立っていることに気がついた。木瀬良さんだ。うむ。新入生と交流を深めてみますかと、あたしは彼女に近づいていった。
「おはよう、木瀬良さん」
「おはようございます、宮部先輩」
 彼女はにこりと笑った。その胸元を盗み見る。ちょっとだけ膨らんだ胸。今日もあの胸には、ぐるぐると包帯が巻いてあるのだろうか。
「珍しいね、一人なんて」
「そうですか? 私はいつも一人ですよ」
 ちょっとだけさびしそうに木瀬良さんが笑う。この子、いつも藤原モカと一緒のはずなんだけどな。 
 でも確かに、あの二人は、タイプがぜんぜん違うような気がする。モカちゃんの態度もどこか、よそよそしいような感じがするし、木瀬良さんは木瀬良さんで、ああ木瀬良さんだなという感じのままだった。
 彼女が砕けた口調で話す、親しい友人など存在しないのかもしれない。だから彼女は、こんなことを言うのかも。
「それで、宮部先輩。私に何か用でしょうか?」
「ん? んーん、特にはないよ。ただ、せっかくだし新入生と交流を深めようじゃないかと思ってね」
 サークルには他に、新入生が5人入った。けれど、木瀬良さん以上に目立つ存在はいない。木瀬良さんはテニスが上手く、いつも白いワンピースを着ているという変人ぶりだった。ついでにナンバー2はモカちゃんだ。容姿とスタイルが秀でており、特に男子からは注目の的だった。「ねえ、君テニス部なんでしょ、あのモカちゃんってさ、どう? 彼氏とかいるの?」なーんて、男友達に訪ねられたりもした。
「なるほど、交流ですか」
 木瀬良さんはぽんっと手を打った。どうやらむげに扱われることはなさそうだ。しかし、どうしたものだろう。こちらから話しかけた以上、話題を提供せねばならないだろう。この間の飲み会の態度から、セックスの話はNGのようだし……。
「……そうだね、なにか、困ってることとかない? あー、えっと、サークルで」
 考えた末に搾り出されたのは、先輩お悩み相談のコーナーだった。脳裏には、この間の竹彦との会話があった。彼女が彼で、厄介な事情を抱えているのなら、それなりの対応をしてあげるべきだと思い始めていた。竹彦にいい顔をしたいという、ちょっと不純な動機ではあるけれど。
「困っていること、ですかぁ……」
 木瀬良さんは、あごに手を当てて、空中をぼんやりと眺め始めた。そこに熱帯魚が泳いでいるかのように、しばらく瞳を逡巡させてから――。
「そうですね……真壁光先輩の態度が、少し……」
「光が?」
「はい、なんといいますか……。肩を叩かれたり、するのです。い、いや! えーと、そういうのが駄目なわけではなくですて、なんといいますか……」
 わたわたわたと、木瀬良さんは両手を動かす。あの馬鹿。どうやらいやらしい手つき顔つきで、さっそく新入生につばをつけ始めたらしい。
「あー、分かった。察した。おっけー、おーらいと、任せといて」
 あたしが返事をしたときに、ひょこっと後ろからモカちゃんが顔をだした。「ごめん質問長引いた」と木瀬良さんに軽く頭を下げている。続けてあたしに向けて、おはようございます! と頭を下げた。うん。この子の体育会系のノリは嫌いじゃない。おはようとあたしは手を振った。2人がそろってコートに行ってしまったので、あたしは手持ち無沙汰になった。同じ学年の友達が声をかけてくれたので、彼女と打って放課後を過ごした。

   ●

「でっさー、そのアプリゲームまじ面白いから! 招待していい? 一緒にやろうよ」
「えー、どうしようかなあ。迷っちゃう」
「光ッ」
 サークルの片付け終了後、あたしは歩きながらミキちゃんと話している光を発見し、声をかけた。邪魔をする気は毛頭ないが、この機会を逃すと光とは帰り道が別れてしまうし、日がたつと木瀬良さんからのお願いを面倒に思ってしまうだろう。
 それに、サークルの風紀を守ることにもつながるしね。こいつは、今回もどうせ本気じゃない。
「宮部先輩、何すか」
「これから空いてる? 話あんだけど」
「これからっすか? 大丈夫ですけど~」
 へらへらと笑う。ミキちゃんは少し不機嫌そうに唇を尖らしている。
「光くん、前から気になってたんだけど宮部先輩と付き合ってるの?」
 言葉には棘がある。この子、落ちかけちゃってるなあ。それに気づいているのだろう、光の表情が緩んでいる。その緩んだ口から、「ないない、宮部先輩ってばこう見えてあれよ? ステディいるのよ、ステディ」
「ステディってなーに?」
「まじめなお付き合いしてる恋人」
「へー!」
 ミキちゃんが心底に関心したような声をだす。続けて「光くんは物知りだね、すごーい」と甘ったるい声。うん、モテるためのテクニック、男を持ち上げて褒める、ですね。
 ミキちゃんと別れて、あたしと光は歩き出した。学校の最寄り駅近くのドトールへ行こうと決定。あたしはデザートセットを苦渋の決断で切り捨てて、豆乳ラテを注文した。日々の努力が体型維持のコツである。
「それで、何すか改めて話って」
 光の前にはカフェオレ。甘ったるい飲み物食べ物が大好きな男なのだ。
「うん、新入生からちょっとね。クレームが入って。あんまり色目を使うのはやめてあげてねっていうお説教な」
「あー、そっちかあ」
 額をぺしりと叩いて、光がへらへらと笑う。
「てっきりもうエッチはできないとか、そういう話かと」
「そういう話を、大声でしないでよ」
 眉間にしわが走った。こういったデリカシーのないところが、本命なら無理と思う理由かも。
「はーいすいませーん。で、通報者はあれっしょ、木瀬良ちゃんっしょ」
「ん。それは言えません」
 唇を思い切り持ち上げて、光は笑う。ダウトーと指差す彼には、言い訳はもう通じないだろう。
「宮部先輩はあれっすよね、胸でかいけど背は小さいし顔も小さいし目が大きいし全体的に子供っぽくて隠し事も嘘も下手ですよねー」
「何よ! 先輩馬鹿にしてんのかぁ!!」
「違いますよー。めちゃくちゃ褒めてるじゃないですか、チビロリ先輩」
「やっぱり馬鹿にしてる!」
「えー……。じゃあデカチチ先輩?」
「もっと馬鹿にされてる!?」
 酒が入っていたら間違いなく、光の背後に回ってヘッドロックを決めていたことだろう。そしてその後にじょりじょりと、ダッセー坊主頭を弄繰り回してやるのだ。
 光といると、気が楽だ。分かれた元彼とは最高の親友なんていう説があるが、まあなんというか、そんな感じ。胸が高鳴りはしないけど、一緒にいて楽しい。馬鹿をやれる友人というのは、男でも女でも大切だ。
「にしても、木瀬良ちゃんはホンット、お堅いですねー」
 カフェオレを飲みながら光が言う。
「軽く叩いただけなのに、面と向かっても文句言われたもんな。『女性の体に気安く触るのは、慎むべきだと思います!』ってさ」
「あー、似てる」
 リンッとした彼女の口調を、光は完全にコピッていた。
「ありゃ、絶対処女だね。完全。あーゆうの落として淫乱にすんのも楽しそうだけど、本気になられてメンドソー。今年のダントツは、モカちゃんだねえ。あれは相当なれてるぜ」
 さっきの注意を踏まえてか、ささやくような小声で言ってくる。
「そーいう男子トークを先輩女子に振らないでくれる?」
あたしは唇の端っこを持ち上げて、ちょっとシニカルにそう言ってみた。それに対して光は、
「でも宮部先輩もいける口っしょ」
 と、糸のように目を細めていった。
「にしても、なんであの2人、いつも一緒にいるのかねー。木瀬良ちゃんの視線が怖くて、モカちゃん口説けないぜ」
「ソレが狙いだったりしてね」
「まじで!? だとしたらプチショックなんですけどー」
 木瀬良むかつく、と、光がつぶやく。
 その濁った水のようなトーンが、何度かあたしの胸に反射した。
 カフェを出てから、このままではなんとなくエッチをする流れになってしまいそうだぞと思い、早々に別れを切り出した。光はとくに残念そうでもなく、あたしと別れた。たぶん、もしやりたければ相手などいくらでもいるのだろう。
 あたしにだって光のほかに、3,4人はいるんだぞとくだらない意地を張ってみる。本当にくだらなすぎて1人、落ち込んだ。

   ●

 翌朝水曜日。サークルもないこの日にあたしは、昨日も思ったとおり竹彦に会いに出かけていた。急な約束だが、竹彦は相変わらず暇をしているらしく、快諾してくれた。
「ごめんね、予定とかなかった?」
「大丈夫。今日の予定は読書だったから」
 竹彦の今の趣味は読書だ。竹彦の趣味が読書になったのと、テニスを辞めた時期は、ほぼ一緒だった。テニスをやっているときの竹彦は、今みたいに肌が白くなく、こんがりと健康的な小麦色だったなと、遠い昔のように思い出した。たった、2,3年前のことなのに。
「ね、なに読んでんの」
 話題を変えたかった。本に興味はない。竹彦は本のタイトルを告げた。そっか、とあたしはうなずいた。ぜんぜん知らない本だった。
 どこか行きたいところある? たずねたあたしに竹彦は、じゃ、美術館と言って、近所のしょぼい美術館の名を上げた。
「そんなとこ行って面白いかな?」
「俺はなかなか好きだよ。時間がゆっくり過ぎていく……ていうか、隔離されている気がする」
 ずいぶんと詩的なことを言うなあと、あたしは一人感心した。前を進む竹彦の後を、そそとして丁寧にゆっくりと進む。
「ふう」
「大丈夫? 疲れた?」
「けっこー疲れた。坂道やばいね」
「悪いな。でも、もうちょっとだ。がんばれよ、テニス部員」
 トレーニングするわけでなく、お遊びとしてテニスをやる身としては、耳が痛い言葉だ。そういえば、気のせいだかお腹がぷっくらしているような気もする。いやいや違うぞ。
「どうした、夏目?」
 ぶんぶんと一人頭を振っていたら、振り返った竹彦に小首を傾げられた。立ち止まり、なんでもないよと改めてあたしは首をふる。
 それからも歩き続けて、ようやく、近所の美術館が見えてきた。市の名前に美術館と付け足されたやる気のなさそうな建物だ。築何年か分からないベージュ色の建物はくすんでおり、見るものをちょっとだけ憂鬱にさせる雰囲気があった。
 中に入ると、チケットを購入させられた。2人あわせて750円。多少の割引はあったが、それにしても安い。ただ、中身も期待ができないなあ。
「こっち。右」
 竹彦の指示で進んでいく。行きたいと言ったときの言葉からも分かるように、ときどきここを訪れているのであろう。迷いのない口調だった。
「何かお目当ての絵があるの?」
 たずねるあたしに答えない。ただちょっと振り返って、いたずらをたくらむような笑みを浮かべた。だからあたしはぼんやりと壁にかかった絵画を眺めながら歩く。
 花をモチーフにした絵、太陽をモチーフにした絵、木々をモチーフにした絵。自然物が多い。どれも上手いなあと感じるものだが、あたしには、何が良いやらさっぱりだ。竹彦には、みんなきちんと分かっているのだろうか。だとしたら、ちょっと悔しい。高校時代の成績は、あたしのほうが良かったくらいなのに。いや、学業と芸術の感性は、関係ないか。
 テニスを辞めて、趣味が変わって。竹彦とあたしの楽しいことは、少しずつずれて来ている。
 小さくため息をついたその瞬間、角を曲がったその先に、白いワンピースの少女がいた。
「ありゃ先客かー」と竹彦が残念そうに吐き出す。あたしは不意に現れた後輩の顔に、さてどうしようかと頭をフル回転させていた。しかし無常、なんの考えもまとまらないうちに、木瀬良さんが振り返る。彼女は、はっとした顔つきをしたあとに、柔和そうな笑みをすぐに浮かべた。
「こんにちは。奇遇ですね、宮部先輩」
 ふかぶかと頭を下げてくる。竹彦にちらりといった視線にも、まるで嫌味がない。あ、大丈夫な人だ。とあたしは瞬間的に理解した。竹彦も彼女に好感をもったらしい。ちょっとこちらを振り返って見上げ、口角を持ち上げている。
「こんにちは、木瀬良さん」
「えっと、こちらのかたは……」
「んー、えー、まー、なんていうか、恋人?」
「わあ。それは素敵ですねぇ」
 ふわふわとした声だった。竹彦に向けて頭を深くさげ、「はじめまして、木瀬良涼と申します。宮部先輩には大学のテニスサークルでお世話になっております」と、馬鹿丁寧に挨拶をした。竹彦もつられてか、いつもより深くお辞儀をしている。名前を名乗ると、夏目がお世話になっておりますと彼は付け足した。うん、別に世話をされた覚えはないんだけどね。
「それにしても、びっくりしました」
 木瀬良さんがぱっと両手を軽く叩いてあわせる。
「この美術館で、知り合いにあったことがなかったもので……。こちらには、よくいらっしゃるんですか?」
「いんや、あたしは初めて。竹彦が来たいっていうから」
「俺は割りと頻繁かな。時間は結構あるしね。とくに、その絵がお気に入り」
 竹彦は木瀬良さんが先ほどまで眺めていた、すぐそばの壁に飾ってある絵を目で示した。全員の視線が集中する。それは、なんとも奇妙な絵だった。紫色の人体らしきモチーフが2人、ぐにゅぐにゅと絡み合っている。画材は油絵らしい。管理はきちんとされているようで、綺麗だった。
「わあ、ほんとですか!」
 木瀬良さんが大きな声をだす。あわてて自分の両手をふさいでいた。さっきまで、蚊の鳴くような小さな声だった。美術館であるということに、ずっと気を使っていたのだろう。しかし、今回は抑え切れなかったようだ。
「私も、この絵が一番好きなんです」
「え、ほんとに。奇遇だな」
「なんでしょう。何を描いているのか、何通りにも受け取れるような気がして……。見ていると落ち着いていられない、ざわざわした気分になるんですけれど、不思議とひきつけられるといいますか……」
「なるほどね。俺も同じ感じかも。ただ、この絵はセックスを描いているんだと俺は思うよ」
 木瀬良さんは小首をかしげた。
「せっくすって何ですか?」
 竹彦がぎょっとするのが分かった。肩が軽く震えた。あたしを振り返ったまなざしは、俺、へんな言い方してないよな、言っちゃいけない感じじゃなかったよな、と問いかけている。
 あたしは小さくうなずいた。そう、あの時の彼女もこんな感じだった。せっくすってなんですか? と、無垢な幼児のような瞳で問いかけてきた。改めてみると、ごまかしている感じではない。まるで、本当に知らないようだ。そんなわけないのにと思うのに、あるいは彼女ならと思ってしまう。
「なんでもないよ」
 だから、誤魔化してしまう。こんなもやもやした気持ち、さっさとどこかへ捨ててしまうに限る。
「それより竹彦、木瀬良さんはテニスがものすごく上手いんだよ」
「ん。あ、そっか、この間、夏目が言っていた後輩がこの子か」
 竹彦の視線が少し動く。胸元を見るな、胸元を。しかし木瀬良さんは無遠慮なその視線を、まるきり気にした様子はなかった。
「お褒め頂ありがとうございます」
 と、はにかんだ笑みを浮かべている。せっくすの単語はもう忘れてしまったかのようだ。木瀬良さんは、「用事がありますので」と断って、再び頭を下げて帰っていった。ぴんと背筋が伸びた細いからだは、後ろ姿が美しい。あたしはなんとなく、それをぼんやりと眺めていた。服も靴も、今日も白だった。
「いい子そうだな」
 竹彦がいった。そうだね、とあたしは頷いた。
 ただ、竹彦のその言葉が、あまりにも本気だったので、あたしは少し嫉妬した。
 壁際に描かれた絵を見る。竹彦いわく、セックスが描かれているらしい絵。
 言われてみれば、紫の人体は、それぞれ男と女のようだ。言われて見なければ長く見ていたいとは思えない絵だった。これがセックスだとしたら、きっと純粋に愛し合っている2人のソレではないだろう。あまりにもまがまがしい色使い。紫、紺、黒、群青。油絵の重々しさも相まって、不安や恐怖を掻き立てる。
 だからこそ惹かれるといわれれば、その気持ちも、分からないでもないけれど。
「竹彦はさ」
 言いかけて、言葉が出なかった。
「なんだ?」
 と振り返った彼に、なんでも。ただ、お昼ご飯なに食べたいって聞こうとしただけと咄嗟にごまかす。うーん。なんだかパスタの気分かも、と彼は言った。いいね、とあたしは答えた。正直、なんだって良かった。あたしが本当に聞きたかったことを、ごまかせさえすればそれで良かった。
 ねえ、竹彦は。
 ねえ、なんでこの絵が気になるの?

   ●

「すいません宮部先輩」
 サークルが始まってすぐの時間。ストレッチを行っていたあたしに、木瀬良さんが声をかけてきた。相変わらずの白いテニスウェア。その衣をまとった彼女は、ちょっと困った顔を浮かべていた。
「ラケットが見当たらないのです。そのベンチに置いておいたはずなのですが……。ご存知ありませんか?」
 視線をベンチに向ける。誰かの黒いエナメルバックだけがある。
「うーん、ごめん、知らないかな」
「そうですか……」
 がっくりと肩を落として、あたしから離れていく。また別の誰かに尋ねに行くようだ。ストレッチを終えて、さて、誰か相手を探すかなとラケットを持ち上げた瞬間に、今度はモカちゃんに声をかけられた。
「すいません先輩。木瀬良さんの白いラケット、どこかで見ませんでしたか?」
「ううん。見てないよ。さっき木瀬良さんにも聞かれたんだけど……。まだ見つかってないの?」
 コートに視線を走らすと、木瀬良さんはあっちこっち――木々の間だとか、ベンチの下だとか――を覗き込んでいた。
「はい」
 モカちゃんはこくんと頷くと、もう少し探してみますねと笑顔をおいて去っていった。なんだか、少し嫌な感じだ。何がだろう。
 同学年の友人とひとしきり打ち、サークルが終わった後、あたしは正体に気がついた。
 光だ――。
 彼と、彼の友人数名が発している、なんとなくソワソワした気分。証拠はない。けれど、雰囲気ではなんとなく察してしまうものだ。木瀬良さんのラケットは、結局コートから遠く離れたグランドで、ちょっと砂埃まみれになって見つかった。
 帰り道、あたしは光を呼び止めた。できるだけ笑顔を心がけた。光はまるで疑った様子がなく、ひょいひょいあたしに付いてきた。
 一緒に帰っていた友人も、とくに気にした風はない。こんな風に光を呼び止めることは珍しくないことだ。まあきっと、彼らも察しているのだろうなと思う。あるいは、光が話しているかもしれない。それに対して、とくにどうとも思わないところ。あたしはセックスに対してある意味で情熱的で、そして、ある意味ですごく冷めている。
 いずれにしたところで、今回の目的は別なのだけれど。場所は、前回と同じドトールだった。光は変わらず、甘ったるい飲み物。砂糖とミルクたっぷりのカフェオレ。そして今回のあたしは、我慢することなくケーキセット。夏らしいマンゴーのミルクレープだ。したくもない話し合いをするのだから、これくらいの甘味は許してほしい。誰かへ向けた怒りを、食欲で解消するのはいかがなものかと思うけど。
 ストレス発散でいつもと違う行動をとるあたしに対して、光の態度はゆるぎない。テーブルの脇を通った女性を指さし、「見た宮部先輩、あの娘超ボイン……っ。めっちゃボイン……っ」と馬鹿みたいな感動を伝えてくる。
 チッと舌打ちしたあたしを認めて、「なんすか先輩、ひがみっすか、ひがみ」とニヤニヤ笑っている。うっせー。
「で、今日はなんの御用で?」
 カフェオレを一口含んでから、光が言った。
「残念ながら、君が考えていることとは違うと思うよ」
「えー。えろいことじゃないのー?」
「じゃないよ」
 わざとらしくちょっと笑ってみる。
「木瀬良さんのことだよ」
 ぴくっと光の眉が動く。罰として剃られた坊主頭のおかげで、そんな変化がよく見える。
「ねえ、なにか、知らない?」
 ゆっくりと発音していく。光はちょっと真剣といった顔つきのまま、微動だにしなかった。
「ええ、何も知りませんよ」
 宮部先輩は何か疑っているようですけどね、と付け足した彼の口元が、への字に曲がった。あたしは確信を強める。けれど、証拠なんて何もない。なら、何で今日、光を呼び出したりしたのだろう。分からない。木瀬良さんのために何かできればと、そう思ったのだろうか? そうかもしれない。彼女は、なんだか不思議な感じだから。
「そっか、まあ、気のせいなら良いの。気をつけてね」
 警告。
 ぴりぴりした空気が、あたし達の間を走っていく。適当におちゃらけて適当に遊んでいる光との間柄は、これで終わってしまうのかもしれないな。
 新入生歓迎会のあと、光と肌を合わせたことを思い出す。
 帰り際、いつものようにホテルの代金を少し多めに払うと、「うぃーっす。ごちそーさまです、先輩」と光は言っていた。彼は毎回この台詞を言って、にやにやと笑う。食事をおごるような気軽さが、ホテル室内での濃密な時間と重ならなくて、妙におかしいのだろう。はじめはあたしも笑えたものだが、最近は笑えない。さすがに数十回も繰り返せば、飽きる。光はよく飽きないな。その忍耐力を、テニスコートでも生かせれば良いのにといつも思っていた。
 あの台詞を聞くことも、もうないのかもしれない。別に良いけど。
「じゃあ」
「はい。お疲れさまっす」
 ドトールの前で光と別れる。右へ左へそれぞれの家に向けて歩いていく。明日は金曜日で、週末をはさむ。光と再び会うのは、火曜日のサークル活動だ。なんだか気まずいなと思う自分と、結果的に良かったかもと思う自分がいた。サークルクラッシャーにはなりたくない。光との、ただ欲望を投げつけあうだけの関係は、終われば終わったでスッキリとしたものかもしれない。
 そう思うのに、どことなく寂しく思う自分がいることに、きちんとあたしは気づいていた。別に涙の一滴も、出てきたりはしないのだけれど。

   ●

 新しい男紹介しよっか、とユナが唐突に言い出したのは、たまたま学内で光とすれ違ってしばらくしてのことだった。
 あたしは驚いて、ユナの顔をまじまじと見つめる。本日の彼女の口紅はオレンジ色で、もうすぐ駅前で夏祭りも開催されようという今日この頃に、ぴったりの太陽の色だった。
「え、え、なに。どしたの急に」
「真壁光くん、だっけ。今すれ違ったとき、態度変だったじゃん。だから、終わったのかなって」
 淡々というユナの口調に、少し驚いていた。本当に、ユナはこういったとき妙に鋭い。別に大丈夫と返して、そんなにおかしな態度だったかしらと振り返る。ユナはくすくすと笑った。
「夏目、変な顔してる~。あっはは。まあ、どんまいどんまい、ユナが紹介しなくても、新しい男は見つかるって」
 ばんばんと肩を叩いてくる。一緒に飲みに行った時や、お互いの家に泊まったとき、あたし達は割りとあけすけなくセックスの話をする。だから、あたしが光以外にだって相手がいることを知っているが、彼女の中では光とあたしはちょっと特別な関係らしかった。確かに、大学構内にいるいつでもセックスできる男は光だけだし、その手軽さゆえに頻度も一番高い。けれど、それだけだ。
 あたしはユナに、竹彦の存在を打ち明けていない。だから、こんな勘違いをされてしまうのだ。
「よーっし、今日は発散しよっか。放課後、どっかいこーぜ」
 ニッとユナが笑う。オレンジの唇からちらりと見えた舌先は、熟れたさくらんぼのような赤だった。
「いいね、行こうか」
 別に落ち込んでなんかないけどね、と付け足す。そうかそうかとユナはうんうん訳知り顔でうなずく。ちょっと叩きたい。ほんの軽い力でいいから。
 どこへ行こうかとユナと話し合いながら次の教室を目指す。放課後が訪れ、あたし達は2人で決めたカラオケ店へと足を伸ばした。
「カラオケ久しぶり」
「あ、そうなんだ? 夏目はデートで行かないの?」
「うーん。あんまりねえ」
 ユナは、誰とでも寝る。けれど、寝るだけでなくデートすることが多いらしい。相手に高いバックをねだったりすることも良くあるそうだ。それゆえか、彼女の相手は年上が多い。
 あたしは、ただ寝るだけだ。同じ大学、同じサークルの光は確かに、そういった意味で例外かもしれない。あくまで友人としてであるが、ちょっとご飯を食べたりカフェに行ったりが良くあった。
 デートをするのは、やっぱり竹彦一人だけだ。竹彦は歌わない。カラオケ店は苦手だし、入るのすら難しい。
 ユナは若い女性シンガーの歌を熱唱している。歌声は、お世辞にも上手いとはいえないが、耳をふさぐほどひどくもない。ちょっと外れているなぐらいの音痴。まあ逆に、これぐらいが一番もてるのかもしれない。ユナならば、それさえも意識して歌いそうだ。
 歌詞の内容はあまったるいぐらいの初恋を歌ったもの。その歌声に耳を傾けていると、高校時代が思い起こされた。
 初恋は成就しないとよく言うけれど、あたしは違った。高校時代の同級生。それが竹彦とあたしだった。クラスが別々だったあたし達を結びつけたのは、テニスだった。小学校時代からテニスをやっていたという竹彦はとても上手で、はじめたばかりのあたしは、そのプレーを惚れ惚れと眺めていた。憧れの気持ちが恋心に変わったのは、竹彦が大会で負けた日のことだ。
試合に負けた後も、竹彦は笑顔だった。けれど、部員たちから離れたトイレの裏で、彼は一人で泣いていた。その頃のあたしはようやくテニスがまともに出来るようになってきたかなという頃で、負けて悔しいという思いを感じずにいた。竹彦が真摯にテニスに打ち込む姿は、部内の誰よりも熱があり、カッコ良かった。
 当然、人気者だった。その競争に打ち勝つために、あたしは積極的に竹彦に話しかけた。いつでもそばにいた。快活な性格のあたしと、竹彦は気が合った。付き合い始めてすぐ、あたしのどこか好き? と聞いたとき、さばさばして男っぽいところが好きと、竹彦は答えた。確かに、あたし以外の女子は、どこか女の子女の子して、竹彦と接していたような気がする。手作りクッキーを持ってきたり、ねえ竹彦くん、テニス教えてぇと甘えた声を出したり。
 あたしは自分の竹を割ったような性格に、このときばかりは最大級の感謝をした。
「はい、次は夏目の番ね」
 マイクを手渡された。のどが渇いたのだろう。ユナはドリンクバーで取ってきたジュースを一気にストローで吸い込んでいる。歌が流れ始める。迷った末に予約したのは、夢と希望を歌った応援歌だ。
 3時間ほどカラオケ店で過ごした後、外へ出た。ユナと2人でしばらく駅前をぶらついていると、不意に頭をボカンと殴られたような衝撃が走った。
 視界に飛び込んできたのは、白いワンピース姿の少女。あたしの視線に気づいたユナが、んっとそちらの方向を見る。「ねえ夏目。あの子、どんなセックスをすると思う?」ユナがにやついた小声で囁く。あたしは答えずに呆然としていた。
 木瀬良さんは、今日は一人ではなかった。竹彦がいた。いったいどういう経緯なのだろう。二人、楽しそうに談笑をしている。竹彦が笑い声を上げているのが聞こえる。あたしと一緒にいるとき、久しくあげていなかったような笑い方だ。内側に何一つしこりがなく、心のそこから楽しそうな笑み。夏目とは気が合うんだよな、一番。と、高校時代に満面の笑みを浮かべていた彼の姿が重なる。
 頭痛がした。頭を抱えてうずくまりたい気分。けれど、そばにユナがいるからそれも出来ない。ユナにはやっぱり、竹彦のことを知られたくない。こんな状況では、なおさら。
「失礼だよ」
 珍しくユナをとがめて、あたし達は足早にその場を去った。後ろ髪を引かれる思いを振り払う。とにかく、もう一瞬だって、あんな二人を見ていたくは、なかった。

   ●

 夏祭りが終わった。無理だろうなと思ってはいたけれど、竹彦には一緒に行くことを断られた。人ごみが嫌いなのだ。これも、テニスを辞めた時期から。無理に誘うわけにも行かない。わかった、友達と行くねとあたしは言った。木瀬良さんとのことは聞かなかった。別に、浮気を疑っているわけではないから。ただ知人と道端であって、だから談笑しているだけ。そうとしか思えない。けれど胸中のざわつきは収まらない。
 祭りはユナといった。一瞬人ごみの中で、飽きもせず白いワンピース姿の木瀬良さんと、浴衣姿のモカちゃんとすれ違ったような気がした。気のせいかも知れないけど。
 夏祭りが終わってしばらくしてのサークル。再び木瀬良さんのテニスラケットがなくなった。なんて芸のない奴。ぼんやり光に目を向けると、彼はぶんぶん首を振った。俺じゃないっすよ、と声が聞こえるようだ。
 実際、光ではないようだった。いつの間にか、我がテニスサークル全体で、木瀬良さんを嫌う雰囲気が出てきていた。
 理由は単純明快で、彼女の生真面目さにあるようだった。入部してくるとき、このサークルの雰囲気に合っていないなとあたしは思った。そのミスマッチが際立って、今回のいじめという結果につながっているようだ。
 堅苦しい挨拶。徹底したコート整備。熱心な練習。有名テニスクラブなら歓迎されるであろうこれらの振る舞いが、ゆるく楽しくをモットーとしていたあたし達と、そりが合わないのだ。
 それだけならまだしも、木瀬良さんは時々、それをあたし達に強要する。しゃべっているだけならコートから出て端に行って下さい、出したものはきちんと片付けてください、言っていることは何も間違っておらず、正しいことばかりだ。そう、木瀬良さんはいつも正しい。けれど、正しいからといって偉いわけでは、決してないのである。
 いつの間にか、木瀬良さんが話しかけてきたら適当にあしらっても良い。彼女に嫌がらせをするのは当たり前のことである。そんな雰囲気が出来上がっていた。
 ひょっとしたら、竹彦と一緒に笑いあう木瀬良さんを見る前ならば、あたしは救いの手を差し伸べたかもしれない。そう思いながら、見てみないフリを続けていた。
 木瀬良さんの様子は、前と少しも変わらない。あまりにも変わらなさ過ぎて、彼女だけを見ているとサークル内の妙な雰囲気は気のせいだと思い込んでしまいそうだ。
 心を痛めているのは、むしろ友人のモカちゃんのほうだった。ときどき悪鬼のような表情で、いじめの中心と思わしき光たちの男子グループをにらみつけている。前にテニスラケットがなくなったときは、あんな感じじゃなかったのにな。
 夏祭り以降、二人はちょっとだけ距離が縮んだようで、木瀬良さんは時たま、モカちゃんにだけ打ち解けたような口調を使う。それでもまだ、丁寧ではあるけれど。モカちゃんのほうは、時々白いものを持つようになった。服もそうだ。今までは落ち着いた、黒色系のイメージだったから、明らかに木瀬良さんの影響だなあと思う。
 さて、そんな雰囲気が成り立ってしまったサークルの放課後。
 あたしはぼんやりと歩きながら、窓ガラスに映る自分の顔を見ていた。別に意味があったわけじゃない。よくやることだ。髪の毛の乱れや服装の乱れ、それに歩き方や姿勢なんかのチェックを、あたしは良く窓ガラスで行う。一度、ファミレスで食事中の九十過ぎのおじいちゃんと目があって、数秒見つめあうという気まずい事態が発生した。
 今回起こったのも、同じようなことだ。ただし、相手は竹彦。ガラス越しに見つめあった瞳は、おっという顔つきをして、笑顔になった。あたしは引きつった。なぜなら、竹彦は一人ではなかった。もう、後姿で分かる。木瀬良さんだ。木瀬良さんが、竹彦と一緒に喫茶店でお茶を飲んでいる。カッと頭に血が上るのがわかった。
 あたしの怒りが伝わったのか、違う違うという風に竹彦が首を振る。あせった顔。それから、おいでおいでと手招きのしぐさをした。やましいことはないから、夏目も来いよ。あたしは大きく足音を立てて、一歩踏み出した。
この喫茶店は、あたし達のテニスコートが良く見える。大学帰りをターゲットにして店をオープンしたんだろうな。ただし狙いは外れたようで、店内はまばらな人影しかない。気難しそうな老人が新聞を広げていたり、三人組の主婦がケーキセットを楽しんでいる。
 いかにも個人経営といった雰囲気のこの店は、入りにくい。あたしにはドトールが落ち着く。けれど、店主のこだわりが伺えるシックでどこかアジアンテイストな内装は、緩やかな時間の流れを感じて嫌いではない。案内にやってきた店の子に断って、あたしは木瀬良さんと竹彦の席に近寄った。

  ●

「お疲れさまです、宮部先輩」
「うん、おつかれ」
 乾いた声が出る。あたしは竹彦の隣に座った。浮気じゃないからな、と目が訴えている。小さく頷いておいた。
「たまたま、喫茶店に居たら木瀬良さんが入ってきてさ、せっかくだから声をかけたんだ」
「ふーん」
「ほら、ここ、雰囲気がめちゃくちゃいいだろ? だから、たまに本を読みにくるんだ。なあ、木瀬良さんもそんな感じだろ?」
「ええ……。たまにですけど、来ます。ぼんやりしたいときとか、本を読みたいときとか」
 あたしはメニュー表を広げた。コーヒー一杯、八百円。ありえない値段設定に目を見張る。こんな店、絶対あたしの趣味じゃない。本だって読まない。
「ケーキをください。チーズケーキを」
 注文をとりにきた店の子に告げる。同じような値段だったら、ケーキのほうがまだ払う価値がある。飲み物なぞ、水で十分。しかし二人の前にはブルジョワなことに、コーヒーが一杯ずつ置かれていた。
「それより夏目」
 隣に座る竹彦が、あたしの顔をじいと見つめる。そして、竹彦は一息に言った。
「いま、木瀬良さんから相談を受けてたんだけど、サークル内で彼女、いじめられてるんだって?」
「やめてくださいっ」
 木瀬良さんの叫び声が入る。
「いじめだなんて、そんな……。サークルの人は、みんな良い人たちです。ただ、私がなじめないってだけで……」
「いやいや、話聞いてて、木瀬良さんは悪いとこないって思った。あんまり自分にベクトル向けて責めなくていいよ」
 やさしい声音で囁くように言う竹彦を、ほっほーと冷めた目線で眺める。ずいぶん仲がお良ろしいことで。
「なあ、夏目は知ってた?」
 いじめのことでありますか。ええ、ええ、存じ上げておりますよ。見てみぬふりはしていますが、あたしは手を出してはおりません。
 ゆるり、首を振った。
「ぜんぜん知らなかった。そうなの?」
 心配そうな笑顔で木瀬良さんに話しかける。彼女が否定をするのは分かっていた。
「違うって、竹彦」
 それを受けて、竹彦に向けて言った。ぐにゃりと彼の顔がゆがんだ。チーズケーキが届いたころには、木瀬良さんは喫茶店を出て行ってしまった。彼女が居なくなった後、あたしは竹彦の対面に移動した。
「なあ、ほんとは知ってたんじゃないの?」
「……知らないよ」
 チーズケーキをフォークで一口に切る。それを上から突き刺して口に運んだ。美味しい。
「……あの子の性質は分かるだろ? いじめられてる。でも、相手すらかばうような言い方だった。喫茶店に入ったとき、すっげー悩んでますって顔してたから、俺が何度も何度も聞いたんだ。そしたらぼそぼそと起こってること、話してくれた。心配させたくないから、だいじょぶですって顔をして、こんな所に一人で悩みにくるような子なんだ。なあ、夏目の方でなんとかしてやってくれよ」
「でも、木瀬良さん、いじめられてないって」
「夏目!」
 大きな声に、店内の全員の視線が集中した。竹彦があわててぺこぺこと周辺に頭を下げると、誰もが気まずそうに視線を元の位置に戻す。
 夏目、とも一度静かに竹彦が言う。あたしはわざと困った顔をして、小首をかしげた。
 竹彦は顔を伏せた。怒っているようだった。
「夏目がこんなやつとは、思わなかった」
 つぶやいた言葉に、あたしの中の何かが爆発する。
 あたしだって!
 あたしだって!
 あたしだって!
 あたしが知っていた竹彦は美術館なんて行かない。喫茶店だってチェーンで十分。本だって趣味じゃないし、何より好きなのはテニスで体を動かすこと!
 高校時代の竹彦を思い出す。夏目とは、一番気が合うな、気が合うな、気が合うな……。
 不意に、涙があふれた。うつむいた竹彦には見られていない。あたしは伝票をひったくるように取った。竹彦は何も言わなかった。
 会計を済ませて外にでると、あたりはすっかり夕焼けだった。コロッケの袋をぶら下げた、若いカップルが手をつないで歩いている。そのあまりに穏やかで和やかな光景。
 ますます涙があふれた。あたしと竹彦は、もう二度と、並んでなんて歩けない?
 すれ違う人たちに不振に思われながらも、あたしは嗚咽を止めることが出来なかった。泣きながら歩いて帰った。
 安アパートにたどり着くと、扉の前に男が座っていた。立ち止まり、あたしは一度物陰に隠れて涙を拭う。鞄から鏡を取り出して、目が赤くなっていることを確認する。ポーチを取り出して化粧でごまかした。どうした夏目と、おざなりな声をかけてくる。そんなの絶対耐え切れない。あたしとあいつの関係は単純明快な男女のもの。それだけだ。そんなやつに、面倒だ。涙の理由をあれこれと尋ねられるのは。
 アパートの前にたどり着く。気づいた男が立ち上がり、よっと片手をあげてくる。あたしは伏目がちに頷いて、扉を開けた。気分を変えるのに、ちょうど良かった。無言で窓に向かい、カーテンを閉める。沈みかけの太陽が、光を差し込んでくるが、あたしの顔の涙の痕に気づかない程度には薄暗い。
 男はシャワーを浴びなかった。部屋に上がり込み鍵をかけ、ぽんぽんと服を脱いでくる。あたしも彼にならい、服を剥ぎ取る。下着姿のまま引きっぱなしの布団の上に座り込むと、男がすぐに押し倒してきた。
 めちゃくちゃに胸をもまれるうちに、世界の色が鮮やかに変わっていく。この感覚に身をゆだねればいい。さっきまで起こっていたこと。何もかも置き去りにして。
 あたしはゆっくりと呼吸をしたあと、男のソレに手を伸ばしてさすった。気持ちいい、と小声が返ってくる。
 ことが終わった後、シャワーを浴びた男をあたしは玄関外まで見送った。別れるとき、もう部屋の外なのに唇を奪われた。おざなりなキスだった。去っていった男をなんとなく見つめていると、通路の向こう側に見覚えのある人物。モカちゃんだった。目が合って、気まずくなり、目をそらす。部屋に戻り、鍵をかけた。
 あたしは快感の余韻の中で、ゆっくりと眠りについた。

   ●

 夢を見ていた。起き上がったときなんとなく、木瀬良さんがほんとに男だったら良いのになと思った。夢の内容は覚えていないけれど、どうやら竹彦と彼女の夢を見たらしい。セックスによる現実逃避は、あまり長くは持ちませんでしたとさ。
 小さくため息を吐いて立ち上がると、いつも起きる時間よりだいぶ早かった。そもそも、昨日眠りについたのがとてつもなく早い。
 さて何をするかなとスマホを取り出すと、着信が一件。母親からだ。寝てしまってよかった。どうせ電話を取った瞬間に、竹くんとは最近どう? とお決まりの台詞が飛び込んでくるに違いない。最近ですか、最近は仲違い中でありますなどと、馬鹿正直に報告する義務はないけれど、竹彦との交際を応援してくれている母には、あまり嘘を言いたくない。
 スマホを充電器に差し込んで、あたしは立ち上がった。じっとしていると、いろんなことを考えてしまいそうだ。せっかくだから、とサークルで使うジャージに着替える。こんなときは、体を動かすのが一番なのだ。
 ご近所を周回して、自分の部屋へと戻ってきた。流した汗をシャワーで落とす。昨日もよく洗ったけれど、今日も念入りに洗った。竹彦以外の男とセックスしたとき、あたしはいつもこれでもかと体を洗う。ごしごし、ごしごし、皮膚に赤が出るぐらい。それで何かが変わるわけではないけれど、まあ、気分の問題だ。
 ぬれた髪を乾かし、もう一度パジャマを着た。眠ってしまうことにしたのだ。そうすれば、いたって平穏な時間が流れる。そのはずだ。

   ●

「よっ。珍しいね、遅刻だなんて」
 一時限目の終わり、ユナが笑いながら言った。二度寝が想像以上に長引いてしまった。
「たまにはあります。そういうことも」
「なにその口調。ウケル」
 笑いあって、歩き出した。次の授業の教室へと向かう。今日のユナの唇は、毒々しい紫色だった。けれど、似合う。ユナの顔は目鼻立ちがはっきりしているから、ランウェイを歩くモデルさんがするようなメイクだって良く似合う。いや、化粧を落としたユナを見たことないから、目鼻立ちをはっきりしているように見せているだけかもしれないけれど。真相は闇の中である。
「ていうかさ、なんか」
 ユナが唇を尖らして言う。
「夏目、ひょっとして昨日なんかあった?」
「え、なにもないよー」
 どきっとした。なにかなど、ありまくりだ。それが露骨に顔に出ていないか不安だったが、ユナはふーんと言ったきり深く追求することはしなかった。何かを察したようであったし、違うのかもしれなかった。
 ため息をつきたい気分。
 次回のサークルが面倒だな。木瀬良さんの顔を見たくない。大学に入って三年間。サークル活動は本当に楽しくて、行きたくないなんて、思ったことないのに。それを思うと、木瀬良さんに対してますます怒りがわいてくる。怒り? ああそうか、あたしは彼女に怒っているのか。何に対して? 嫉妬? 別にやってなんかいないだろうに。デートはしていたかもしれない。でも、あたしはもっとひどいことをやっているのだから……。でも、それは……。
「はあ」
「何のため息よ」
「別にー。あれじゃない、課題がめんどいから」
「あー、語学のねー。だるいよねー」
 よーし、今日は一緒に図書館で勉強しますかねとユナが笑う。あたしは頷いた。とっさにだった。だから後からしまったと思う。
 どうせ、ユナはあたしの課題を写して終わりだろう。

   ●

 休んでやろうかと思ったが、きちんとサークルに出て行った。ここ数日の何の変哲もない学生生活によって、気分はいくらか清清しかった。準備体操をする。きちんと体を動かすのは久しぶりなので、気持ちが良い。ストレッチが終わると、後輩に声をかけられたので、その子と一緒に打つことにした。
 バーンと思い切りボールを打つ。そうしているうちに、いろんなこと全部、どうでも良くなって頭の片隅からすら消えていく。額からゆっくりと流れてきた汗を肩口でぬぐう。やっぱり、スポーツはいいものだ。
 ちりちりとした思いが胸をさす。それを追い払うために、思い切りラケットをスイングした。
 サークルが終わり、あたしは息を整えるためにコートを歩いていた。高まっていた体がだんだんと落ち着いていく。人影はまばらで、ダウンをせずに帰ってしまった人が多数のようだ。まあ、いつものことだけれど。
 二週目に差し掛かる頃、「先輩」と声をかけられた。ん? と振り返ると、背後にモカちゃんが立っていた。
「ダウン、一緒に、いいですか」
「うん……?」
 もちろん歓迎なのだが、どこか様子がおかしい。ああ、そうだ、この子には、アパートの前でキスしてるとこ、見られたんだっけ……。
 あれ? それで気まずいのだとしたら、じゃあ何で声をかけて来たのだろう。その疑問は、コートを半周ほどした後に分かった。
 それも、最悪の回答が。
「先輩、あの人、彼氏じゃないですよね」
 明らかな断定口調。隣を歩くモカちゃんを見つめた。足は止めない。あたしも、彼女も。
「……」
「ああいうの……よくないと、思います」
 あたしは立ち止まった。彼女は走り去った。
 呆然としていたのは数分。その後に足元から沸いてくるような、マグマの怒りが訪れた。
 はあ!?
 ふざけんなよ、あたし分かるっ。あんただってくそビッチだろうーが! ふざけてんじゃねー、調子乗ってんじゃねーッ! 後輩の分際でなんて言い草! 
 くさくさと沸いた怒りは、燃え続ける。藤原モカ。まさか彼女に、あんなことを言われるだなんて! ふざけんな、ふざけんな!
 むしゃくしゃした気持ちを抱えたまま、ダウンを続ける。足早になっていた。本当は叫びだしたい気持ちだった、走り出したい気持ちだった。
 ああそうか、木瀬良さんか。彼女にあたしの彼氏について聞いたわけで? それであいつは浮気って察して? ああそう、そうですか、すっかりいい子ちゃんぶりやがりますわね。

 ああ、もう、本当に、嫌だ、何もかも、嫌だ。

 ダウンを終わらせる。人影はもう居なかった。このサークルで、きちんと運動後にストレッチやらをする人は少ない。そんな真面目な人は少ない。
 それがありがたかった。今のあたしの顔、想像できる。きっと酷い顔だ。落ち着け、落ち着け。言い聞かせながら部室の扉を開ける。道具をしまうためだった。
「あ、宮部先輩、おつかれさまです」
 なんで、ここに。
 開いた扉を閉めたくなった。開け放った先には着替え途中の木瀬良さんがいた。相変わらずの薄い体つき。そして、包帯でしばった胸。
「…………」
「どうか、しましたか?」
 小動物のようにきょとんとした顔つきで、小首を傾げてくる。あたしは部室の扉を閉めた。室内は、簡易照明の光と外から差し込むかすかな夕焼けだけだった。
 ぷつん。
 たぶんこのとき、何かがはじけた。
「え、と、先……輩?」
 肩に添えた手は、ほとんど力を入れたつもりはない。けれど彼女の体はよろめき、壁際に押し倒す形となった。
「あの、えっと……?」
 混乱する彼女をよそに、そっと片手を足に伸ばす。すーっとなぞるようにひざ裏をさすり、そのままスカートの中へと手を入れた。びくんっと、木瀬良さんの体がはねる。顔面には恐怖が張り付いていた。ああ、やっぱり、この子、処女だなあ。あるいは童貞か。
 うん。何やってるんだろうね。自分でも、よく分からない。でもさ、ほんとさ、男だったらいいね。結局はこんなの、衝動じゃん。それを身をもって味わえば、あんただってあたしの気持ち、ちょっとは分かると思うし。ていうか、単純に壊したいんだよね。綺麗なものってさ、綺麗だって理由で不愉快だし。
 支離滅裂な思考が溢れる。たぶん、脳裏の半分以上が汚染されている。
 これから行う行為に、はい、恥ずかしながら興奮しているのです。
 とめかけていたブラウスを外していく。ひッと、彼女の口から悲鳴がこぼれる。
 あたしの心臓はありえないほどの大音量を奏でていた。男が変なAV見る気持ち、マジでちょっとだけわかったかも。
 さあ、どうしてやろうか、この子を。とりあえず、乳首のひとつでもいじってみるか――。
「あ、う、あ、う、い、いや! いや、いや、いや、いや、いやああああああ!」
 木瀬良さんが倒れた。
「……えっと」
 頭は数秒空白で。思考は完全フリーズで。
 あたしは倒れた木瀬良さんを見下ろした。
 こういうときは、えーっと。そう! そうだ、とりあえず冷静に、状態を観察しなければ!
 しゃがみこみ、手首をとる。脈はある。けれど、彼女のこの様子は明らかに異常だ。なにせ、口からはぶくぶくと泡を吹いている。顔面は蒼白だし、白目をむいている。
「おーい、おーい」
 ゆすってみる。どさくさに、腕があれに触れた。木瀬良さんは女だった。
「……これは……」
 さっきまでのイライラが、怒りが、衝動が、すっかりどこかへ消えていた。
「まいったなぁ」
 つぶやいた瞬間に、こんこんとノックの音がした。「木瀬良さん? 木瀬良さん? どうかしたの?」と、モカちゃんの声。判断の暇はなく、扉は開かれた。
 ぎょっとした表情が、モカちゃんに浮かぶ。次の瞬間に彼女は、木瀬良さんに駆け寄ってそばにしゃがみこんでいた。しばらく彼女の様子を確認した後、キッと鬼のような形相であたしをにらみつけてくる。
「何をしたんですか」
「……何も」
 モカちゃんは返してこなかった。けれど、瞳がうそつきと言っている。
「……木瀬良さんは」
 そして、ぽつりと話し始めた。
「木瀬良さんは、幼い頃に性的暴行を受けたらしいんです……。だから、そういうことに極度に触れると、こんな風に拒絶反応を起こして倒れるんです……。それで、そのときの記憶とか――性に関するあれこれだとか、全部、忘れちゃうんです」
「え――?」
 せっくすってなんですか、と、小首を傾げた彼女の姿を思い出す。
 あの言葉は、本当に、そのまんまの意味だったのか?
「――っ」
 息が詰まった。たったいま自分がしてしまったことの取り返しのつかなさに愕然とした。どうしよう、と自然と口からこぼれると、その言葉と重なるように、「うー……ん」と小さな声がした。
 木瀬良さんの体が起き上がる。彼女は周囲を見回して、あたしとモカちゃんの顔を交互に見比べて、不思議そうな顔をして、「あれ? 私、着替えの途中で寝ちゃいましたか?」などと、無邪気な顔でたずねてくる。
 モカちゃんに顔を向けると、何も言うなと仕草をされた。
「……うん、そう、みたいね」
「まあ! それは大変に失礼しました」
 ぺこりと木瀬良さんが頭を下げる。謝りたいのはこちらのほうだ。
「ごめんなさい」
「何がですか?」
 聞こえないようにぽつりとつぶやいたつもりだったのに、木瀬良さんは耳ざとく聞きつけた。それから不意に、ぽんっと右手で左手を叩く。
「あ、この間、宮部先輩の恋人さんが言っていたことですか?」
「え?」
「……私がこのサークルで、えーっと、つまりは、その……皆さんの団体行動から少し外れてしまっていることについてです」
「いじめね」
 モカちゃんがボソリという。言葉には怒りがあった。
 さて、どう答えようか。迷っていると、木瀬良さんはかってに話を進めた。
「先輩の恋人さん、本当に素敵な方ですよね! 会うたびにいつも、先輩の話を聞くんですよ!」
「え――?」
 頭が真っ白になった。え、え、何、何だって。
「……小説とか、絵画の話とか、しないの?」
「そういうのをするときもありますけど、宮部先輩のことをたくさん聞いてきますよ? 俺に気を使ってるのか、テニスサークルでの話しをあまりしないから寂しい、のだそうです」
 にこにこと木瀬良さんが笑う。不意に涙がこぼれてきた。それを、両手で押さえる。ごめんなさい、ごめんなさい、と誰に向けてかもう分からない謝罪を繰り返す。
 案の定、木瀬良さんはきょとんとしていた。
「どうしたのですか、先輩? 埃でも入りましたか?」
 と、心配そうな彼女に、あたしはゆっくりと首を振った。

   ●

 会って話したいことがある。
 そういって呼び出した喫茶店に行くと、竹彦はすでに席についていた。窓際の、日当たりがよさそうな場所。あたしが近づいていくと、どこか緊張した面持ちで顔をあげた。そういえば、本を読んでいない。あたしを待つ間、いつも本を読んでいたのに。
「あのね、ごめんなさい」
 席についてそうそうに、頭を下げた。顔を上げると、竹彦はきょとんとしていた。そのあまりに間抜けな表情に、思わず噴出してしまう。
「笑うなよ、こっちだって、びっくりしたんだから」
「なんでー?」
「いや、てっきり別れでも切り出されるのかと」
「……そんなの、しないってば」
 心のそこから微笑んだ。竹彦は唇を尖らせて、「いったい何の謝罪だよ」とたずねてくる。木瀬良さんのこと、と言った。嘘だった。
「これから、彼女のこと、ちゃんと面倒みていくから……だから、安心してよね?」
 どうしたんだよ急にという竹彦に、答えない。窓の外を見ると、本当に気持ちのよい天気が広がっている。
「ねえ、公園に行こうよ!」
「……急に話が変わるな……まあ、いいけど」
「よっしゃ!」
 ねえ。
 さっきの「ごめんなさい」にはホントは、別の意味が込められてるよ。それを明かすことは、話すことは、きっと一生涯ないだろうけれど。
 セックスは、スポーツ。あたしはそう思う。どうしようもない衝動によってもたらされる、どうしようもないシロモノ。
 けれど、しばらくは我慢してみようかな。どちらにしてもきっとそのうち、スポーツなのだから引退する日が来る。
 そのときは、きっと、今よりももう少し軽い気持ちで、竹彦のそばに居られるだろう。
「じゃ、行きますか」
「安全運転でお願いしますよ」
 立ち上がりあたしは竹彦の背後に回った。そしていつものように車椅子のハンドルを握り、一歩前へと踏み出した。



   第三話・ホワイト

 三日前に買ったファッション誌を眺めながら、ソファで寝転がっていると玄関のチャイムがなった。面倒くせぇなあと思いつつ、雑誌をソファに落としてしぶしぶ立ち上がる。インターフォンを確認すると、佐川急便の男の人だった。玄関まで歩き、飾りだなに置いてある箱の中から、印鑑を取り出す。「鈴木(すずき)」という、何の面白みもない平々凡々な苗字だ。
 扉を開くと、ちょっと男前の人。いわれた位置に印鑑を押すと、「毎度どうも、ありがとうございまーす」と威勢のよい声をかけられた。受け取った荷物を確認する。
 元払いで届いた荷物の差出人の欄には、「木瀬良 春(はる)」と、流れるような達筆。
 ああ、もうこんな季節か、と私はため息をつく。「おかあーさーん、木瀬良さんからお歳暮だよー」
 今は4月だ。お歳暮というからには、7月の頭あたりに来るものだろう。しかし、毎年のように木瀬良さんの家から送られてくるこの贈答品は、我が家ではお歳暮と呼ぶのが定着していた。
「まあまあまあ」
 嬉しそうな弾んだ声とともに、母がどこかから玄関へとやってくる。わたしからダンボールをひったくるように奪うと、寝転がっていたソファがあるリビングへと移動し、机の上にドンとダンボールを置いた。わたしは黙ってカッターを戸棚から取り出し、手渡す。
 席を立ったついでとばかりに、私はティッシュを取り出し鼻をかんだ。春はつらい。
 母は喜々とした様子でダンボールをあけ、クリスマスにプレゼントをもらった子供のように、中のものを机に広げていく。
 今回は高級ハムの詰め合わせだったらしく、ロースハム、生ハム、サラミにベーコンと、美味しそうなピンクの塊が、次から次へと飛び出してくる。
「ほんと、いっつも悪いわねぇ」
 母が弾むような声で言う。わたしは、答えの返ってこない問いを、けれど毎年のようにする問いを、母に投げかけた。
「ねえ、うちって何で木瀬良さんからお歳暮来るの?」
「んー……。また、今度ね」
 母は振り返らずにそう答えた。

   ●

「カナ、おはよう」
 かけられた声に振り返ると、モカがいた。藤原モカ。カタガナで「モカ」と書くのだという。「鈴木加奈(かな)」なんていう、苗字も名前も平凡すぎるわたしとしては、甘いコーヒーのようなその名前はちょっと羨ましい。それに、この子の顔立ちとスタイルも。
 モカは美人だ。スタイルも程よく出るところは出て引き締まるところは引き締まっているという、女の子の理想のような体型。彼女はきっと、非処女なんだろうな。いつものように考えてしまって、ぶんぶんぶんと首を振る。友達相手に、なんて無粋な想像を。
「おはよー。モカ、サークルは決めた?」
「うん。テニスサークルに入ろうかなって。加奈は?」
 わたしは別に、と答える。聞けばモカは、昨夜テニスサークルの新入生歓迎会に出て行ったらしい。なんでリア充そうな会! そんなピカピカで騒がしそうな場所、絶対に行ったら浮いてしまうだろうなあ。
「お、早いねー、モカ、加奈」
 ぞろぞろと女子が近づいてきた。アキにミーコにアヤネだ。アキがぴょこんと私たちの前に身を乗り出してきて、ねえ、聞いて聞いてーっと、声をあげる。
 きっとまた、二ヶ月前にできた彼氏の話なのだろうなと苦笑していると、案の定その話題が紡がれた。この間の週末に、お花見デートをしたらしい。
 アキは非処女だ。これは絶対。だって本人が開けっぴろげに、付き合って二回目のデートでセックスしたと公言したから。けれども、別にそれが初めてというわけでもないらしく、彼女の初体験は高校二年生の秋だという。「ちょぴっと遅いでしょー、えへへ。清純―」と、彼女は照れくさそうに笑っていた。
 それがちょっぴり遅いのだとしたら、大学一年生の春にして処女のわたしは、いったい何だ、やっぱ「行き遅れ」かと、心の中で盛大なため息をついたものだ。
 授業が始まる時間になり、おしゃべりをやめてわたし達は、横一列に並んで座った。いつものように、20分もしないうちに、ミーコが寝息をかきはじめる。
 そんないつもの調子で時間が過ぎて、お昼休みの時間となった。わたし達はいつも学食で一緒に食事をとる。ときどきお弁当を持ってくる子もいるが、それでも学食で食事をとる。みんなと一緒だし、テーブルと椅子があるし、水やお茶が無料で飲めるから。あとは、みんな何だかんだと根は優しいので、花粉症の私に気を使っているのだ。
「ねえー聞いてよ、うちの彼氏がさあ」
 カレーを時折口に入れ、もぐもぐしながらアキがしゃべる。これもまた、彼氏の話題だった。
「うちの彼氏がさ、この間エロサイト見てるの知ってさ。最悪だよね」
「えー。でも別にそれぐらい普通じゃね」
 ミーコが相槌を入れる。彼女には、1年ちょっと交際しつづけている恋人がいる。
「いやいや! 違うんだって、デート中にだよ! わけわかんねーっつーの! 目の前に私いるいるって!」
「ぎゃはは、そりゃひどいわー」
「ねえー」
「どんなサイト?」
「なんでそこ聞くし! さてはアヤネ、覗く気だなぁ~?」
「ち が い ま す ! 興味本位だって」
「なんかね、ライブチャットっつーの? そういうのまとめた動画サイト」
 わたしはアキの回答に口を挟んだ。
「まああれじゃね? アキ胸ちっさいし。つまり、そういうことだよ」
「どーいうことよ!」
「うっそ、わかんないの? かわいそうー、2つの意味で」
「失礼な! 失礼な! 失礼な!」
 盛大に返ってきたハイテンションな突っ込みに、意識がそがれていたからだろう。気がつくのが遅くなったのは。
彼女は軽く足音を立てながら、こちらへ近づいてきた。
視線を向けて、驚いた。立っていたのが、だって、あの「木瀬良 涼」だったから。
 内心あせっていると、彼女はミーコの前でアヤネの隣、2人の鞄が置かれた席で立ち止まった。
「あの、席を空けてもらえますか」
 毅然とした声だった。ミーコもアヤネも不意をつかれたようで、そそくさと自分のバックを床に下ろした。木瀬良さんはお礼を言わずに席についた。2人はちょっとムッとしているようだった。
 瞬間的に、ああ、この子は非処女とそう思った。え、同じ大学だったのと言った驚きや、懐かしさよりも、先に。
 久しぶりに見た彼女は、背筋をしゃんと伸ばし、豆乳のキノコ鮭パスタを箸でスルスルと食していた。相変わらず、ご飯を綺麗に食べる子だった。
 見るな、見るなと思うのだけれど、ちらちらわたしは彼女を気にしてしまう。
 真っ白なワンピースを着ていた。靴も白だった。これも、相変わらず。
 ごちそうさまとミーコが言った。それを合図にしてわたし達は各々のトレーをもって立ち上がった。モカの視線が、どこかを見ていた。それを辿ると、相変わらず混雑を極める食堂の長テーブルで、木瀬良さんがたった一人でパスタを食べていた。
「あれって木瀬良涼だよね」
 食堂を出てすぐに言った。ぽかんと皆が、誰? っという顔をする。いや、モカだけが、少し驚いた顔をしている。
「さっきアヤネの隣に来た女だよ。木瀬良涼。小学校一緒だったの。あの子同じ大学だったんだ。私の近隣じゃケッコー有名だったんだけど、誰も知らない?」
 知らないと口々に答える中、知ってる、この間サークルの新歓に来てたよとモカが答えた。そういえば、彼女は小学生時代にも、テニスをしていると言っていたような……。
「そっか。あの子さ、変わってるよね。なーんか、絵に描いたような善い子って感じ。そんで実行力があるから性質(たち)が悪いの。うちの小学校じゃケッコー嫌われてて、いつも一人だった。まあ、それだけじゃないけど」
「何が?」
「うーん……。あんまりしていい話じゃないからサ。事件があったんだよね、うちの学校で。ま、それにあの子が関わってて、みんな敬遠してたんだよねっつー感じ」
「何それ!? おしまい? 気になるじゃん! めっちゃ気になるじゃん!」
 いーえーよーっとミーコがまとわり付く。肩に回された手を振り落とそうともがくが、ミーコはフジツボのようにはがれなかった。
 やーめーてーっと叫び、結局のところわたしは、決して口を開かなかった。
 そして放課後。
 モカはサークルに早速顔を出すといって別れた。アキはこれから彼氏とまたデートなの、と弾んだ声を残して行った。アヤネは家に帰ると普通に帰った。わたしはミーコと二人で、なぜか手芸部に行くことになった。
「るーらーるー」
 隣を歩くミーコは、教養の欠片も見えない今時の大学生だ。黒髪ストレートを、サイドの髪を残してポニーテールにしているわたしに対して、彼女の髪はモカよりも明るい茶髪に、ボブカット。えくぼがかわいいミーコに、よく似合っている。
 わたしは少し鼻をすすった。ちょっとかすれた声でミーコに話しかける。
「ミーコってサ、手芸とか興味あるんだね、ちょっと意外」
「まあね! お母さんが結構好きだからかな。うちの毛糸の量すごいよー。もう、どっひゃーって感じ。ありゃ、地震来たらひとたまりもないね」
 なぜか楽しそうにぐふふと笑う。つられて笑った。
 そういえば、ミーコの家庭は教育ママの家だった。毎食いただきます、ごちそうさま、を欠かさなかったり。
「どんなものを作っている?」
「んー。編み物が多いかなー。たわしとか手袋とか。あみぐるみとかはちょい苦手なんだよねー」
「ふーん」
 わたしが作ったことがあるものは、家庭科のエプロンぐらいのものだった。手芸の話題になったとき、楽しそうと言ったのが、たぶん今日、ミーコに誘われた理由なのだろうけれど、少し実力差があるようだ。
「初心者大歓迎って書いてあるから、編み物以外のことに挑戦してみたいんだよね」
 ミーコが言った。顔が曇ったわたしを、見て、そういったのかなと思う。
 何も考えていなさそうで、ものを良く考えていたり、周りを気にしなそうに見えて、きちんと配慮していたり、ミーコはわかりにくい。
 彼女は、処女だろうか非処女だろうか。想像の中で、自分のほっぺたを思い切りひっぱった。だから、考えるなよそーいうコト!
 手芸部の活動場所は、大学の広いキャンパス内でも、隅の建物にあった。一番古くて、一番不便な校舎。椅子が冷たくて、机が傷だらけで、壁がすすけていて、冷房が効きにくくて、そんな校舎だ。
「ここだよ」
 ミーコがひとつの扉の前で立ち止まる。「3402」教室。入室を少しためらっているとミーコがまったくのためらいなしにその扉をたたく。続けてそーと扉を開き、「しつれいしまーす」と大きな声で言った。
 扉の隙間から、中にいる人たちが見える。その中の一人と、わたしはばっちり目が合ってしまった。慌てて逸らそうと思う。でも、なぜか瞳が離せなかった。
 それは男の人だった。それがまず、意外だ。髪は染めておらず、裸眼で、ワックスなんかをつかって整えているようで、顔は普通だが全体としてそれなりに格好が良い。体格は中肉中背といったところ。要するに、中の中の上ぐらいの人。だから、別にぼーっと見とれてしまったわけではない。
 ただその手の中に、縫いかけのパッチワークがあったから。
 それがあまりにもかわいらしい――小花柄やチェック柄が、バランスよく青色でまとまっている――ものだから、引き付けられてしまっただけ。男の人が持つには、あまりにも不釣合いな代物だった。
「いらっしゃい、入部希望者……?」
 かすれるような小さな声に、意識を取り戻す。
 視線を向けると、長い黒髪の地味な女の人が近くまで来ていた。室内には彼女と先ほどの彼と、もう一人、やはり地味な女の人。今現在活動している手芸部は、どうやら三人きりのようだった。
「あ、はい。そーです! 一年の竹内ミーコです。こっちは鈴木加奈! リンリンって鳴るスズに、酸素を作り出してくれる木に、お砂糖を加えちゃう加に、神奈川県の真ん中の奈で、鈴木加奈さんです」
 なんで自分の説明より、わたしのほうが詳しいのだ。心の中で思いながら、頭を下げた。顔をあげると、はっとするくらいかわいらしい笑顔を、あの地味な女の人が浮かべていた。
「ほんとに……? さあ、どうぞ、入って入って。紅茶とか飲みます?」
 女の人は弾むような足取りで、自分のであろう鞄に向かい、大きな水筒を取り出して、こちらに向けて掲げて見せた。わたしとミーコは、顔を見合わせて苦笑した。中へと進む。
 宣言どおりに紅茶を出された。用意周到なことに、女の人の鞄からは、耐熱用の紙コップが出てきたのだ。魔法瓶から注がれたミルクティーは、飲み頃程度に温かく、そして、ちょっと甘ったるかった。
「うちの部……、活動してるのは、今のこの三人ぐらいなの。あと二人が幽霊部員でもっているんだ……。だから、入部希望者は大歓迎よ」
 にこりと微笑み首をかしげ、彼女は名乗った。部長だった。順に自己紹介をしていき、最後がパッチワーク男の番だった。葛西重雄(かさいしげお)と男は名乗った。名前を言っただけで、あとは手音のパッチワークへと視線を戻し、もくもくと縫って行く。
 ん? と、少しだけ記憶が音を立てた。かさい、しげお……?
「ごめんね~。しげくん普段は結構コミュ力高いんだけどね、夢中になってるとなに言っても無駄なの……」
 部長さんが困った顔で言った。とてもじゃないが、そんな風には見えないぞと、視線を向ける。真剣な目つきを手元に注いでおり、ちょっとかっこよかった。彼は童貞? どうだろう。普通にそうじゃなくてもおかしくないが、趣味が手芸だし……。こっちの二人の女の人は、処女っぽい。雰囲気だけど。
 手芸部の活動内容と活動時間、かかる経費についてのあれこれを聞いて、その日は終わった。
 帰り道、ミーコは手芸部を、なんか陰気くさそうとばっさり切り捨てた。

   ●

 携帯のアラーム音で目を覚ます。眠る前に仕掛けた時間から、五分ほどオーバーしていた。どうやらその間、ずっと熱心にこいつはわたしを起こそうとしてくれていたらしい。すぐに起き上がってやりたかったが、上手く体が起き上がらない。昨日、ミーコの手芸部に付き合ったあと、さらにカラオケへと繰り出したからだろう。
 でも、今日は一時限目から授業があるのだ。政治学の授業。早く起き上がって行かなければ、四人分の席を確保できないかもしれない。ちなみに、いつも五人でつるんでいるが、モカは興味がわかないといって政治学を受けていない。
 自分自身を奮い立たせて、ようやくわたしは立ち上がった。準備を終え家から出る途中、母さんに声をかけられた。いってらっしゃい。行ってきます、とわたしは答えた。
 大学についたのは、授業の始業5分前。教室に向けて歩いて行く。今日も何発も鼻をかんだため、ひりひりと鼻の下がうずく。
 すでに、アキもミーコもアヤネも着ていた。けれど、なんだか皆険しい顔をしている。少し小走りで近づいた。
「どーしたの、何かあったの?」
「あ、おはよ加奈」
 ミーコが顔を上げて言った。続けて二人からも、おはよーっとどこか投げやりな挨拶が返ってくる。
「……何かあったの?」
 わたしの問いかけに、返事をしたのはアキだった。わたしに向けて身を乗り出し、人差し指をぴんと立てる。
「うん、聞いてよ加奈、実はね――っ」
 アキの話は要領を得なかった。しかし、内容があまりにも驚愕過ぎて、わたしの脳みそにすんなりと入ってきた。
 藤原、モカ。
 彼女がえっちぃ動画をネットに上げていて、それで商売をしていると言うのだ。
 アキの彼氏がそれを見ていて、そのときのいざこざで別れたらしい。
「ねえ、あり得ないよね!?」
 アキの顔には明らかに私怨のそれが混じっている。しかし、わたし自身も思っていた、そう、そんなの、あり得ないって。
 だから、心のそこから頷いた。もし、それがホントならだけれど。
 アキはわたしの心が読めているのか、ポケットからスマートフォンを取り出した。
「証拠もあるんだよ、ほら」
 アキが操作をしている間に、政治学の先生がやってきた。わたし達の会話は自然と止まり、皆席に着き始めた。授業が始まり、いつものように20分もしないうちにミーコが眠りにつく。わたしはぼんやりと考え事をしながら、授業を受けていた。
 藤原モカ。
 仲良くなったきっかけは、オリエンテーションで席が隣だったからだ。大学に友人は少なく、緊張しながら席についていたとき、モカのほうから話しかけてきた。わたしはホッとすると同時に、このコは非処女と瞬間的に思った。茶色の髪に、男を絶対にひきつけるであろうスタイル。パッと目を引く華やかな容姿。少し苦手だなあというのが、そのときの感想だった。
 だって、わたしは処女だから。
 大学一年生にもなって処女だなんて、いまどき珍しいことではないかもしれないが、迫りくるタイムリミットを思うと恐ろしい。さすがに24歳までには……。うう、それまでに誰か良い人に出会えるだろうか? 不安だ。すごく、不安。
「ほら、ね!」
 授業が終わり、次の教室へと向かう途中、少し辺りから死角になる階段脇で、わたし達はアキのスマートフォンの画面を見ていた。画面の中でいまよりもちょっと幼い、けれど確かに藤原モカが、あられもない姿を披露していた。
「もういいよ」
 気分が悪くなって顔を背けた。アキは鼻息を荒くして、絶対許せない、まじきもいと呟いている。ほかの二人も同じような気持ちなのだろうか? 顔色を伺うと、アキに同情的な目つきを浮かべていた。
 二時限目の教室に向かう。もうすぐ、きっとモカが来るだろう。そのとき、いったいどんな態度で彼女を向かいいれればよいのだろう? 悩んでいるうちに、教室の入り口にスタイル抜群の茶髪娘が現れた。にこっと人好きのする笑みを浮かべて、わたし達のほうへと歩いてくる。
「おはよう」
「…………」
 誰一人として、何も言葉を返せなかった。アキ以外の2人は気まずそうに口をかすかに動かしたが、アキがひどくキツく、きゅっと唇を結んでいるものだから、声が出せない。
 アキが荷物をまとめだしたのをきっかけに、わたし達も習った。今までいた席を離れる途中、ちらりとモカを振り返ると、彼女は呆然と立ち尽くしていた。
「加奈、気にすることないって」
 アキの冷ややかな声が聞こえた。授業が始まり、隣の席からいびきが聞こえ、そして授業が終わった。おなかがどうしようもなく空いている。朝ごはんを食べていないからだ。
 さ、学食行こう~と立ち上がる。しばらく歩いていると、背後から声をかけられた。
「おはよう……」
 間違いなく、モカの声。いつもより元気がなくて、歯切れが悪くて、弱弱しい声だった。モカのこんな声は、今まで聞いたことがない。思わず振り返って微笑みかけたくなってしまうが、ぐっとこらえた。どうやらわたしの所属したこのグループは、モカを「外してしまうこと」に決定したらしい。逆らえばわたしも巻き込まれてしまうかもしれないし……。
 フラッシュバックのように、さっき見た彼女の表情が浮かんだ。酒に酔っているのだろうか、とろーんとした目つきと真っ赤な頬。口元にはいやらしい笑みを浮かべていた。
 キモチワルイ。
 わたしは小さくため息をついた。本当はそういうこと、したくはないとは思うけど。
 そういうこと、してもしょうがないかなあとは思うのだ。
 モカの視線を感じながら、食堂にたどり着く。彼女は能面のような表情を浮かべていた。ぼーっと突っ立っている彼女をあからさまにフォークで指し示して、「どーするんだろうねえ」とアキが笑う。皆もあいまいな笑みを浮かべた。わたしも。
 モカが動き出した。どうするのかなと思っていると、白いワンピースの少女の前で立ち止まり、何かを口にした。
「ん。昨日の子じゃん」
 アキが言ってから、馬鹿にしたように声をあげて笑った。ボッチ同士が仲良くしらあ、みたいな感じ。
 わたしは少し、顔が引きつったのが分かった。木瀬良涼。小学校のときの、同級生。
「ふーんふーふふーん」
 アキが口ずさみながら、から揚げにフォークを突き刺す。ぐちゃりっと、小さな破壊音が聞こえた。

   ●

「3402」
 そのプレートの前で立ち止まっていると、「わぁ……」と背後から声が聞こえた。振り返ると、案の定、部長さんが立っていた。相変わらず、すごい地味だ。化粧もほとんどしていない――いや、もしかしたらスッピンの可能性すらある。信じられないことに。
「鈴木さん……だよね? また来てくれたんだ、嬉しい」
 にこりっと柔らかな笑みを浮かべる。人を和ませるこの笑顔は、素直に魅力的だなと思う。わたしも笑い返し、こんにちはと挨拶をした。室内に案内される。今日も、もう一人の地味な女の子と、そして葛西重雄という青年がいた。
 ただし、今日はまだ活動が始まっていないらしく、二人とも椅子に腰掛けている。女の子は本をめくり、葛西重雄はスマートフォンを弄っていた。そんな彼が、顔を上げる。わたしと目が会うと、にっと人好きのする笑みを浮かべた。
「やあ、こんにちは。鈴木さん」
「あ、はい、こんにちは」
「昨日はちょっと愛想悪くてごめんねー。集中すると夢中になっちまって……。あらためて、葛西重雄。俺も一年生だよ」
「あ、そうだったんですか」
「うん。そう。だからタメでいこーぜ。俺、そーいう敬語、苦手だし」
「わかった」
 少し戸惑いつつ答える。タメ口はわたしも楽なので大歓迎だが、昨日とはまるで違う人物だった。彼は、なぜかじいっとわたしの顔を見つめていた。心臓がはねる。
「さあ、座って座って。いま紅茶を入れるからね」
 部長さんに促されて席につく。意識して、葛西重雄の近くに座った。昨日と同じように、厚めの紙コップに、部長さんは魔法瓶から注いだ紅茶を入れた。
「今日はね、お茶菓子もあるんだよ……」
 はにかみながら鞄から取り出したのは、白地に桜の模様が書かれた紙袋だった。100円ショップなんかで、ラッピング用として売られているような感じ。
「手作りですか?」
「うん……。ちょっと上手にできたから。ああ、でも、他人か作ったものとか嫌だったら、遠慮なく言ってね」
「いえ、いただきます」
 さくら型に抜かれたクッキーで、味は抹茶とプレーンだった。さくっとした食感が口の中で心地よく、程よい甘さが広がる。
「美味しい……っ」
「やっぱり? よかった」
 部長さんがにこりと笑う。紅茶を一口含むと、こちらも昨日より美味しく感じた。お茶菓子があるからだろう。
「竹内さんは今日はいないの……?」
「あ、はい」
 部長さんの言葉に、あいまいにうなずく。それで察してくれたらしく、彼女は少しだけ寂しそうな笑みを浮かべた。今日、ここに来る前に一応ミーコにも声をかけてみた。けれど彼女の返答は「あそこはいいや、今日は別のところに行ってみるーっ」だった。
「あの、わたしは入部したいなって思うんですけど、本当手芸は学校の授業でくらいしかやったことなくって……。それでも、良いですか?」
「もちろんよ!」
 部長さんが力強く言ってくれた。ほっと息をつく。
「今日からよろしくね、カナちゃん」
 いきなり投げつけられたあだ名に、びっくりして目を見開いた。横で葛西重雄が、「部長、距離のつめ方変だから」とわたしに言った。そういえば、彼もシゲくんって呼ばれていたっけ。だからこそ、入部したての一年生とは思わなかったんだ。
「よろしくね、カナちゃん」
 葛西重雄が、冗談のように言った。
「よろしくね、シゲくん」
 わたしも、冗談のように言えただろうか。
 それから部活動終了までの間に、わたしはフェルトの人形をひとつ作った。ちょうど水色と白と黄色と黒があったので、ペンギンのミニマスコットだ。材料は部長さんからもらったものだった。彼女のバックからは、不思議と次々物が出てくる。最初はフェルトなんて子供遊びと思ったけれど、やって行くうちにどんどん夢中になれた。みんな優しく教えてくれて、意外なことに、もう一人の地味な女の子の先輩が、一番丁寧に良くしてくれた。葛西重雄――シゲくんは、途中で俺もやらなきゃとパッチワークをはじめ、ペンギンマスコット作りには全く構ってくれなくなった。
 完成したとき、思わず「できた!」と声を上げた。部長さんがぱちぱちと小さく手をたたいてくれて、可愛かった。
 完成したペンギンは、三箇所ぐらいちょっと歪で、なれない感じが出てはいたものの、デフォルメされた丸っこい感じが、なんともキュートな代物だった。
 パッチワークがひと段落した隙を狙ってシゲくんにも見せると、「おお、可愛いじゃん!」とほめて貰えた。なんだかとても居心地の良い場所だ。わたしは密かに、ここにつれてきてくれたミーコに感謝をした。
「初めてにしては上出来だな。俺よりうまいよ」
「そう? へへへ。そういや、シゲくんはどうして手芸部に……?」
「んー。おばあちゃんっこだから」
「へ?」
「うちは両親とも働いててね、小さいときはずっとばっちゃが面倒見ててくれたの。昔裁縫の仕事をしてたとかで、めちゃくちゃうまいんだぜ。洋服とかたまに作ってくれたぐらい。で、ばっちゃが楽しそうにやってるの見てて、なんとなく始めた感じかなあ」
「へえー」
 なんだかほっこりといいエピソードだった。そこから他愛もない話を十数分したあとに、今日はおしまいにしましょうと部長が解散を宣言した。わたし達は各々荷物をまとめ、教室を後にした。
 帰り道、校舎内を一人で歩く。空はようやく夕方になり始めているころで、運動サークルであろう、動きやすそうな格好をした人たちが、集団で歩いて行くのとよくすれ違う。
 そんな中、ぱっと目を引く少女がいた。明らかに運動には向いていないであろう、白のワンピース姿の木瀬良さん。肩には、彼女の体にはちょっと不釣合いな、大きなテニスバックがかけてあった。こちらも、白だ。
 白、白、白。
 洋服も、バックも、靴も。
 彼女は何もかもが白い。そして、一人だった。
 すれ違うとき、思わず視線を合わせてしまう。だって、知り合いだし。けれど木瀬良さんはそんなわたしに対してきょとんとしていた。小さく首をかしげてすらいる。
 しょうがないか。同級生だったの、小学生のときだけだし。わたしは不自然にならないように顔をそらした。向こうが気づけばハムのお礼もあることだし、少し挨拶をしたかったけれど。
 すれ違い切ったあと、わたしは後ろを振り返った。
 ぴんと伸びた背筋でまっすぐに歩く彼女の姿は、驚くほどに美しかった。
 家に帰ると、お母さんがソファでテレビを見ていた。わたしはなんとなく、「今日大学で木瀬良さんにあったよ」といった。
 母は振り返った。見下ろした彼女の顔には、なんともいえない表情が張り付いていた。悲しんでいるような、喜んでいるような、戸惑っているような、そんな顔。
 思わずびっくりして、引きつった笑みを浮かべてしまう。
「……そう、同じ大学だったの」
「うん。まあ、地元の大学だしね」
「そうね、うん。せっかくだし、良くしてあげるのよ」
「良くしてあげる?」
「もし彼女が困っていたら助けてあげなさいってこと」
 わたしはあいまいに頷いて、自分の部屋へと向かった。

   ●

 それからの日々は、わたしにとって、穏やかで心地よく楽しいものだった。
 手芸部にいると、気取らなくて良い。この場所があるから、わたしはアキや、ミーコや、アヤネとうまくやっていけるのだなあと思う。
 彼女たちはもちろん、友達だ。でも、あのグループにいると否応なしに、ああ、自分は処女だなあと意識させられてしまう。
 だって、開けっぴろげなのだもの。とくに、アキが。
 アキにはまた新しい彼氏が出来ていた。今度の彼氏はめちゃくちゃ頭が良いのーっと、いつも楽しそうに話している。そんなイケイケ女子大生とはかけ離れた手芸部にいると、心がとっても安らぐのだ。
 この間も部長に、ポルフェノールがたっぷりだからと、イチジクのマフィンを頂いてしまった。ポルフェノールは花粉症の症状を和らげる効果があるのだという。良く鼻をくずらせているわたしを気遣って、わざわざ用意してくれたのだと思うと、本当に嬉しい。
 それに……。
「パッチワーク、だいぶ進んだね」
 シゲくんが紅茶の紙コップを手に取ったタイミングで声をかけた。基本的に作業中は無敵の無視力を発揮する彼だが、合間合間のちょっとした休憩時間に声をかければ、一応は相手にしてもらえることが分かってきた。
 窓の外では蝉が鳴いている。いつの間にかもう六月も終わりで、夏が本格的に始まろうとしていた。
「ああ、そうだね」
 彼が今行っているパッチワークは、初めて会ったときに縫っていた物ではなくなっていた。完成したのだ。出来上がったのはクッションカバーで、今はそれと同じものを作っている。ベースは青色で、チェック柄と小花柄。まったく同じクッションを、ソファの上に二つ重ねて置きたいのだという。
「そっちの羊毛フェルトは調子どうなんだ?」
「うん、こんな感じー」
 わたしは少し得意げに、作りかけのぬいぐるみを見せた。
羊毛フェルトとは、ふわふわした羊毛を、特殊な針でちくちくと刺して作って行く手芸だ。フェルトが楽しかったと部長さんに伝えると、この羊毛フェルトを紹介された。
 こんな感じのものが出来るよと見せてくれた、ふわふわの可愛らしすぎる猫に魅かれて始めたのだ。最初は意味の分からないくらい胴体が長く、猫というよりサルのような顔をした物体が出来上がってしまったけれど(シゲくんには鵺みたいと笑われた)、今では多少のクオリティを発揮することが出来ている。
「おお、いい感じじゃん」
「あ、ありがと」
 わたしの作ったぬいぐるみを手にとってシゲくんがにこりと笑う。いつからだろう。ひょっとして、出会ったときから。
 そう、もうすっかり認めてしまっている。わたしは、彼に恋をしていた。小学校のとき、中学校のとき、高校生のとき、それぞれ好きな人がいたから、恋はこれで四回目だった。
 だから、手芸部にくると安らぎ以上に、胸が高鳴って楽しい気分なのだった。
 休憩は終わりらしく、シゲくんが紙コップを机におく。わたしも自分の手元に集中することにした。針を刺す。チクチクと。この平穏な日々が、いつまでも続きますように、とわたしは思う。
「ところでさ」
 物思いに一瞬ふけてしまって、不意打ちを食らった。
「加奈ちゃんって、小学校、戸室小じゃなかった?」
「え。あ、うん、そうだけど」
「小学校の、6年2組」
「!」
 田中先生、の事が頭をよぎった。すぐに、頭の中の黒い鉛筆で、ごしごしと削る。うん、そうだけど、とあいまいに頷くと、「やっぱり! 俺も、俺も」とシゲくんははしゃいだ。
「え! ホントに!?」
「うん。あ、俺、前の苗字後藤ね。親が離婚したんだ。後藤重雄」
 ぴんとくるものがあった。
「うっそ! ごまっち!?」
「そう、それ!」
 小さくって、ずんぐりとしていて、黒縁の丸いめがねをかけていた。小さくて黒くて後藤、というのがごまっちのあだ名の由来で、一番大きな男子グループの端っこで、いつもちょこちょこと歩いていた。その彼が、今はこのような姿なのか。月日がたつのは早いもので、小学校を卒業してから、もう六年がたっている。
「最初会ったときから、あれー? って思ってたけど、なんか確証もてなくてさ」
「あー、うん。良くある名前だしね。それに、化粧してるし」
「そうそう! 女の化粧ってすごいらしいからね」
 くすくすと笑うシゲくんの中には、目を凝らせばかつての面影があるようだった。もう、すっかり忘れていたけれど。
「なつかしいなあ。運動会のソーラン節とか覚えてる?」
「ああ、やったねえ。あれ、大雨がきて大変だった!」
 懐かしい思い出話に花を咲かせながら、紅茶をいただく。手芸の手がすっかり止まっていたが、部長さんはわたし達をしかることはなかった。
 ただ、仲よさそうねえ、え、小学校同じだったの、すごい、と、一度だけ会話に混ざった。
 わたし達の会話は途切れることなく、弾んでいく。
 ふわふわと夢心地のような感覚。
 ああ、ひょっとして、こういうのって。
 もしかして運命、なのかも。

   ●

「きーんきゅーかいぎ!」
 昼休みにミーコが言い出したのは、いつもの食堂での食事が終わり、ほっと一息ついたところだった。昼食時間のピークが終わり、室内は閑散としている。
「どしたのミーコ」
 アヤネが冷静に尋ねると、ミーコはにやりと口元をゆがめて、「実は加奈に好きな人が出来たようなのですよ」と人差し指を立てた。って、おいおいおい!
 キッとにらみつけると、ミーコはぷいと視線をそらして唇を尖らせる。しかし怒鳴る隙間もなく、「え、ほんとほんと?」「誰なの?」とアキとアヤネの好奇心が押し寄せる。
 わたしが小さく「うー」っとうなっていると、勝手にぺらぺらミーコがしゃべり始めた。手芸部の男子。割と普通の顔。でも趣味は悪くない。たたずまいがかっこいい、などなど。
 別にわたしは、ミーコに好きな人が出来たと打ち明けたわけではなかった。ただ、手芸部の調子はあれからどうだと聞かれたから、ありのままに答えただけ。
「別に好きって言ってないじゃん」
「えー? だって聞いてもいないのに、手芸部について尋ねたらこの男子の話ばっかりじゃん。それに、顔つきがめちゃくちゃ乙女だったし。確信率、90パーだよ?」
「ぐぬぬ」
 おお、ぐぬぬがでたぞ。ぐぬぬがでたら間違いあるまい。と、アヤネとアキが騒ぎ出す。
「よし、告白だ!」
 アキがぱあんと手を叩いて言った。わたしはびっくりしてしまい、テーブルにおいてあった飲みかけのコップを倒した。ぷらす、なんとびっくりして鼻水がでた。それを颯爽とアヤネが立て戻し、さっとハンカチを取り出しテーブルを拭いた。そのままそのハンカチの綺麗な部分を、わたしに差し出してくる。礼を述べてから、丁重に断り、ポケットからティッシュを取り出した。ちーんと鼻をかむ間、みんなの視線が刺さって痛い。
「ちょっと、それは時期尚早ではないですか」
 とわたしは、重大な交渉に立つ外交官のような口調で言った。
「ううん。大丈夫大丈夫。それに今すぐじゃないし。そうだね……二週間後ぐらいをめどに行こうよ。アドバイスはアキちゃんにお任せですよ!」
「……たとえば?」
 アヤネが尋ねると、アキは胸を張って、
「まずはボディタッチ! 軽く、不自然じゃないくらいにするのよ。手芸部なんてところにいる内気そうな草食男子は、これだけで8割は落ちるって! それと、会話では常に相手を持ち上げることを忘れずに、隙があったら『すごーい、かっこいいー、すてき』って言うの。あとね、『あなただけ』とか、『○○くんが初めて』とか、そんな言葉も有効よ!」
 と、自信満々に捲し上げた。ふむ……。と関心しながらうなづいていると、アヤネがちょいちょいとわたしの肩を叩き、「あれは参考にしないでよ、短絡的には恋が実るかもしれないけど、長続きしないから」と言い切った。確かにアキは、今までの恋愛で三ヶ月もったことがないそうだ。うん、彼女のアドバイスには耳を貸さないようにしよう。
 それからふと、長続きしている奴がいるなあと思い出して、わたしはミーコと視線を合わせた。
「ねえ、ミーコは何かアドバイスある……?」
「んー。タイミングを逃がさないことかな」
 と、彼女は言った。わたしの恋愛話はそれで終わりになり、いつの間にかまたアキの話になる。どうやらバイト先で、ちょっとアプローチをかけてくる男がいるらしい。けれど、ぜんぜん好みじゃないのでどう諦めてもらうかだとか云々。わたし達に相談という形をとっているが、アキの中でかなり具体的に「(かなりはっきりとした)やんわりお断り計画」が立っていたので、それを聞くのが仕事だった。ぶっちゃけえげつなかった。
 帰り際、みんなと別れるとき、もう一度わたしの話になった。これから部活? 加奈、がんばりなよ、っと。
 苦笑いしながら手を振る。がんばり方が分からない。だって誰とも付き合ったことないし。いや、本当は分かっている。マンガやら、ドラマやら、ワイドショーやら、予習材用はたっぷりなのだ。ため息をつく。臆病な自分がどこから来るのか。
 セックス。
 シゲくんは、童貞だろうか。たぶん、違うような気がする。もしも付き合ったら、きっとそういうこともするんだろうな。どんな気分なのだろうと考えて、身震いがした。自分の体に他のものが入ってくるだなんて……。
 部室に向かって歩いていると、木瀬良さんの姿が見えた。彼女は相変わらず飽きもせずに白いワンピース姿で、立ち止まって掲示板に張られたポスターを見ていた。彼女が注目するぐらいだから、学校からの言伝だろうかと近づいて、背後から覗くと、以外なことに夏祭りの案内のポスターだった。七月の初めにちなんで、夏の到来を祝う祭りが開かれる、いつもの地域のお祭りだ。そうか、もうこんな季節なのか。この祭りにはそういえば、中学生以来まともに行ったことがない。ぼんやり眺めていると、ふと、木瀬良さんが振り返った。
 目が合う。わたしは思わず大きく見開いて、「あっ」と口が開いてしまった。声は出なかった。
 木瀬良さんは、ぺこんと頭を下げて、「すいません、見えにくかったですね」とすまなそうに言った。
「い、いや、こっちが勝手に後ろから見ていただけですから」
「そうですか、ありがとうございます」
 会話をしたの、いったい何十年ぶりなのだろう。そうだ、あの時だ。あの事件の直前。それ以降はみんなが彼女を腫れ物として扱って、誰も相手にしなかった。
 田中先生と二人で話しているときに、木瀬良さんが声をかけてきて、チエちゃんがわたしのことを呼んでいるから、行ってあげてと教えてくれたんだっけ。結局会えなかったけれど。
 彼女が小さく笑った。
 彼女はやっぱりというか、わたしのことを覚えてはいないようだった。
 彼女の下半身に、ぶしつけにも視線が行ってしまう。
 彼女を犯した田中先生の顔が脳裏に浮かぶ。うまく思い出せなかった。
 彼女で欲望を吐き出した彼は、もう「先生」ではないのだけれど。
「……どうかしましたか?」
 木瀬良さんが無邪気なくらい、にこりと笑った。もし笑顔に色がつくならば、間違いなく彼女は白だった。
 聞いてみたいな、と思ってしまう。聞けるわけがないけれど。わたしとは状況がまるで違うけれど。
 けれど、彼女はわたしと少し似ている。セックスが苦手で、臆病で、触れてはいけないもので、禁忌で、神聖なもので……。
「いえ、なんでもないです」
 わたしはその場を一礼してから離れた。歩いている途中で木瀬良さんのことは忘れて、ポスターがお知らせしていた夏祭りへと胸を馳せた。
 いつまでも、このままでいるのも嫌なのだから。だから、あの祭りにシゲくんを誘ってみよう。彼はなんというだろう。
たぶん、きっと、7割方来てくれるのではないかと思うのだけれど。彼女はいないことは分かっているし(それを知ったとき、廊下で一人になったときに思わずガッツポーズをしてしまった)、休日は予定なく手芸をして過ごしているらしいし、わたしと話すとき割と楽しそうだし、加奈ちゃんって結構もてそうだよねと褒められたこともあるし。
 とくんとくんと、小さく胸が高鳴って行く。そうだ、頑張るのだ。わたしはもう、大学一年生なのだから。ちょうど良いぐらいだ。処女を終えるには、ちょうど良いくらい。ただでさえ重苦しいのだから、きっと、24を超えたあたりで最高潮の焦りに達して、28を超えたあたりで絶望して、32になれば完全なるこじらせコンプレックス女子となってしまうだろう。
 いつか、変わらなければならない。
 だから、さっさと捨ててしまうのが良い。彼氏を作るのだ。シゲくんと結ばれるのだ。
 私は大きく深呼吸をしてから、「3402」教室へと足を踏み入れた。

   ●

 待ち合わせの十五分前に駅前につく。きょろきょろと辺りを見回してみるが、シゲくんの姿はなかった。わたしは目印のパン屋の前に立って、息を整えながら窓ガラスで自分の姿を確認した。
 歩きにくいだろうなとは思ったけれど、今日の服装は浴衣である。新しく買った、レトロモダンな感じの水玉の浴衣。白い生地に、灰色と黒の水玉が、規則正しくならんでいる。いつもはポニーテールにまとめている黒髪も、今日はアップのお団子姿で、かんざしを挿して華やかにしている。
 浴衣を買うのは気合を入れすぎだろうかと思ったが、去年まで来ていたものを引っ張り出すと、子供っぽすぎる気がしたり、使い古してよれた感じがあったり、たこ焼きを落としてしまったときについた小さなソース跡があったりと、袖を通す気にはなれなかったのだ。
 去年はまた着るって言っていたじゃない。そう唇を尖らせる母親を、大学生になったからを言い訳にどうにか口説き落とした。少し体を動かして見る。試着のときも思ったが、この浴衣はやっぱりわたしに良く似合っている。
 鼻の下の気になる赤みも、ネットで対策をチェックして、ぬるま湯でケアし、化粧水で保湿し、美容液でケアしている。きちんと薬も飲んで来た。よし。
 一通りコンディションのチェックを終えて、わたしは再び周囲を見回した。相変わらず、シゲくんの姿はない。携帯を取り出し、アプリでメッセージを送った。「ついたよ~」と、パンダのスタンプ。
 携帯を巾着袋に戻して、駅前の方向を見つめる。今日の街中は案の定というか、カップルだらけだ。
仲のよさそうなカップル。ちょっとギャルっぽい茶髪同士のカップル。もう若くはなさそうな中年同士のカップル。ここらあたりはきっともうやってるな。
 歩く距離が離れたカップル、中学生同士のカップル、なんだか楽しくなさそうなカップル。こっちはまだカモ。
 わたしは小さくため息をつく。やっているとか、いないだとか、そんな風に人と合うたびに選り分けて、いったい何がしたいのだろう。
 そう考えるのだけれども、ほら、また。きっと今リスの銅像の裏を通って行った、肩身の狭そうなオタク系男子は、童貞。
 巾着から携帯を取り出した。待ち合わせの時間を少し過ぎている。どうしたのかな。まあ、少し時間にルーズなのだろう。
 わたしは携帯を戻した。なんだか落ち着かない。
 別に、人生初デートというわけではないが、そういえば、好きな人とデートをするのは初めてだった。
 今まで誘われて何度か男子と二人で遊びに出かけたが、どれも退屈なものだった。相手は自分を良く見せたいのか、格好の悪い自慢話ばかりをしてきて、わたしはしょうがないので期待されているであろうとおりに、興味深そうに頷いて、ああ、ここ褒めて欲しいんだろうなというタイミングで褒めてやった。
 わたしに質問が来ることもあったが、答えても向こうがつまらなそうな顔をするので、そのうち話すのがいやになった。普段女友達と話して楽しむような話題――ファッションやお菓子の話は、やはり男の子には退屈なものであるらしい。
 ……シゲくんとは、きっと手芸の話が出来るだろう。部室でも、その話を良くするし。
 わたしはふわふわと夢想した。
 結婚した二人。お互い少し離れて、きれいで落ち着いたリビングのソファに腰を下ろして、わたしは羊毛フェルトでチクチクとぬいぐるみを作り、シゲくんはチクチクとパッチワークをしている。お互いふとしたタイミングで顔を上げては微笑みあい、休憩といってはお菓子と紅茶を楽しむのだ。
 ブウンと携帯が振動した。取り出し確認すると、「ごめん、もうちょっとまって」というメッセージと、土下座しているサラリーマンのスタンプがあった。
 仕方なしに、再び待ち合わせの人々に視線を向けた。と、見覚えのある後姿が二つあった。木瀬良さん、そして、藤原モカ。あの二人、祭りに来るほど仲良しなのか? 相性が良いとはとても思えないけれど。
 木瀬良さんはひねりなく白のワンピース姿で、モカちゃんは紺色の浴衣だった。木瀬良さんが誰かと一緒にいると、少し不思議な気持ちになってしまう。
 小学六年生。
 あの事件がある前、わたしは田中先生と仲が良かった。だから、信じられなかった。そんなことをするなんてとても思えなかった。だから……。
「ごめんごめん、ちょっと出かけに戸惑っちゃって」
 シゲくんが現れた。気にしないでと手を振った私の足元は、なれないぞうり姿で疲れていた。
 二人並んで歩き出す、似合うね、と途中でシゲくんが言った。一瞬だけ何のことだか分からなかったが、すぐに自分の浴衣姿だと気がつき、胸がいっきに熱くなった。シゲくんの服装は、いつもとあまり変わらない。大学生になると、友人と休日に遊んだとき、私服に対する驚きがないのが特徴である。
「さて、何をみよっか」
「そうだねえ、少しおなかがすいちゃった」
「お、いいね、俺、焼きそばが食べたい。加奈ちゃんは?」
「……わたしも」
 本当は、焼きそばはいまいちだった。食べれないこともないけれど、夜ご飯として普通に出てくるので、たこ焼きのほうが食べたい。
「よーし、玉子が乗ってるところのが良いなあ、玉子好きなんだ」
 しかし、嬉しそうに出店を探すシゲくんを見ていると、そんな気持ちはどうでも良くなってきてしまった。わたしも一緒になって焼きそば屋を探す。
 チョコバナナに、金魚すくいに、たこ焼きに……お祭りの定番出店が並んでいる。待ち合わせた時間が午後五時と、お昼のピークをとっくに過ぎた時間だからだろう、人気があるのはオヤツ系の出店のようだ。じゃんけんをして、杏飴を二個もらい、喜んでいる小学生がかわいい。
「お、あった」
 500円の玉子が乗った焼きそばを、シゲくんは何も言わずに二つ買った。わたしがお金を払おうとすると、いいよ、誘ってくれた御礼といって、シゲくんは笑った。
 セルフサービスでおいてあるマヨネーズを二人ともたっぷりつけて、人ごみを避けて縁石に腰をかけた。口に含んだ焼きそばは、家よりだいぶ濃い味付けだったけど、シゲくんにおごってもらったという効果もあってか、とても美味しく感じられた。
 悪くないかも、お祭りで、焼きそばも。
「今日は花火を見て行くんだろ?」
「うん、わたしはそのつもり」
「やっぱなー。待ち合わせ時間がこの時刻だもんな」
 花火をちゃんと見るのは久しぶりだなとシゲくんが言う。いつもは家のベランダから見れるので、適当に眺めておしまいらしい。
「わたしは中学生以来かなあ。高校に行ったら他のことが楽しくて、地元のお祭りに行かなくなっちゃったんだよね」
「あ、俺もそんな感じ。最後に行ったのいつかなあ? にしても、地元の大学って楽だよなあ」
「うん。大学選びも実家からの近さが決めてだったし」
「なるほどなー」
 シゲくんが言いながら焼きそばを食べようとして、落とした。ちょうど玉子の部分で、「げえ」っと針で指を刺したときの声を彼は上げた。わたしはくすくす笑いながら、巾着からハンカチを取り出した。
「いいよ、汚れるから」
「でも、染みになっちゃうから」
「いいって」
「……」
 わたしは手を伸ばし、ハンカチで汚れをそっと落とした。シゲくんは不意をつかれたようで一瞬驚き、けれど黙ってわたしに拭かれていた。
 ボディタッチで男は8割落ちるって!
 どうしてこんなときに、アキの言葉を思い出してしまうのだろう。わたしは、ぜんぜん、そんなつもり、ないのに。
「ありがと」
「どういたしまして」
 わたし達はどちらからともなく立ち上がり、祭りの喧騒へと再び繰り出した。
 少しだけ。
 ほんの少しだけ男の子の、それも片ひざに触っただけなのに。服の上からハンカチ越しに、そっとなぞっただけなのに。
 こんなことで、こんなにもどきどきしてしまう。わたしはなんて純情なの。馬鹿らしいぐらい、馬鹿らしい。気づけばにやけてしまう頬を、きゅっと意識して引き締める。こんな表情に気がつかれたら、隣をまともに歩けやしない。
「そういや地元の大学といえばさ、他にも地元から来てる奴もいるかな?」
 シゲくんの疑問符に、木瀬良さんの顔が浮かぶ。けれど答えにくい。そう思っていたら、向こうから、「この間木瀬良さんっぽい人見かけたんだよなあ」と名前があがった。
「……いるよ、木瀬良さん」
「ああ、やっぱり! あのコぜんぜん変わってないよなあ」
「そうだね」
「懐かしいなあ……。あの時は、悪いことしちまったよな」
 罪悪感が湧き上がる。そう、罪悪感だ。わたしも他の子たちと一緒になって、木瀬良さんを腫れ物扱いした。程度は、酷いほうだったかもしれない。田中先生と仲がよく――勉強を教えてもらったり、ちょっとしたご褒美にキャンディをもらったり――していたから、彼がやったという事件が、いまひとつ信じられなかったのだ。
 木瀬良さんの筆箱を隠したことがある。彼女を居ないものとして扱ったことがある。輪に混じって悪口を言ったことがある。数えればきりがないかもしれない。
「あの子、まだあの『症状』がでるのかな」
 シゲくんがポツリといった。木瀬良さんの『症状』。
 セックスに関することを見聞きすると、記憶をなくしてしまうという不思議な現象。そういった授業の保健体育を、彼女は特別に保健室で休んでいた。一度気になって、木瀬良さんの『症状』を調べたことがある。
記憶が、今の自分が健やかに生きるために著しく辛い場合、人間は記憶を抑圧するのだという。たとえば虐待が原因で、傷をもち、時折フラッシュバック――強いトラウマが突然かつ鮮明に思い出される状態――によって、激しい吐き気に襲われてしまう。
 たとえば強姦が原因で、人間恐怖症になってしまう。しかし、強姦されたという事実は、ケロッと忘れてしまっている。
 そんな事例が、ネット上にはいくつも転がっているのだった――。
 どんよりと重たい気持ち。それを振り払うように首をふった。
 わたし達は、いろいろな出店を回った。歩きながらお祭りに関する思い出話に花を咲かせ、くじ引きの景品にけちをつけ、一人三発ずつの射的をやって(わたしがお菓子をひとつだけ落として、二人で分けて食べた)、金魚すくいに興じる小学生たちを観察して微笑み、小腹がすいたとチョコバナナを食べた。シゲくんが先に買ってじゃんけんに負け、わたしが後に買ってじゃんけんに勝った。二人で抱えた三本のチョコバナナを、笑いながら食べた。
 ああ、なんだかとっても楽しいや。
 いつの間にか、夜が来ていた。
 人の波が一定の方向へと、流れるように進んで行く。わたし達もその波に飲み込まれていた。河川敷が絶好の花火スポットであることを、もちろん知っていたからだ。
「はぐれないように」
 言いながら、シゲくんがわたしの手をとった。心臓が飛び跳ねる。顔を下げてうつむく。体温が明らかに、熱い。真っ赤な顔を隠すように下を向く。もう辺りはすっかり真っ暗で。だから、わたしの林檎みたいなこの顔も、きっとシゲくんは気づかない。
 隣をこっそり伺うと、シゲくんの頬も少し赤いような気がした。
 早めに移動した甲斐があり、良い場所を取れた。一発目の花火が、夜空に真っ赤な大輪を咲かす。星が見えない現代の空に、花火はとても美しい。ちらちらと火花を散らして消えていく。その美しい光景を見上げながら、わたしの意識は完全に自分の右手に持って行かれてしまっている。
 胸が熱い。
 手を握るということは、きっと、シゲくんはわたしを嫌いじゃない。ならば……好き……。
 もう一度、花火が上がった。続けざまにもう一発二発。青に、緑に、黄色に……。煌く光の一瞬を、わたし達は二人、手を繋いで見上げていた。

   ●

 足元がおぼつかない。
「きれいだったな」
「そうだね……」
 浴衣姿のカップルが、わたし達を追い越した。少し騒がしい二人組みで、腕を組みながら歩いている。帰り道はみな違うから、人ごみは行きよりマシになっていて、はぐれる心配がないくらいには余裕がある。けれど、わたしの右手には確かなぬくもりがって、少し汗で蒸している。それを不快じゃないと感じることで、やっぱり好きなんだなあと実感できる。
 このまま、永遠に時が止まってしまえばよい。ありきたりな表現なのだけど、心のそこからそう思う。
「これからどうする?」
 わたしは尋ねた。どこかファミレスにでも入って、ゆっくり二人で話したいな。そう思ったので、それを提案した。シゲくんは、小さく「うん……」と頷いた。
 無言だった。けれど、不思議とそれは心地の良い無言だった。柔らかな綿の上にいる感じ。ふわふわと、ふわふわと。
 歩き続ける。シゲくんがスマートフォンを片手に、それを時折確認しながら進んでくれるので、わたしはそれにただついていくだけだった。祭りの喧騒はいつの間にか静かに小さくなっている。カップルは幾組がいるけれど、子供たちはいなかった。彼らにとってはもう夜も遅いので、さっさとお家に帰ってしまったのだろう。
 やがてシゲくんが立ち止まった。情けないことに、ん? っと異変に気づいたのは、ようやくこのときの事だった。わたしの意識は相変わらず、右手に奪いとられていたらしい。
 そこは、南国のリゾート風の建物だった。見上げれば、『休憩4300~』のでかでかとした派手な文字の看板。
 足がすくんだ。
 だから、先に進んだシゲくんと、繋いだ右手が離れてしまった。「ん?」っとシゲくんが振り返る。わたしはなんとか笑おうとした。自分の表情がとてつもなく、ゆがんでいることに気がついていたから。けれど笑おうと思ったその顔は、もっと酷いことになっていそうだ。シゲくんの顔が歪んだ。ああ、傷ついているんだなというのがわかった。わたしのことをどう思ってる? 聞きたいと思ったけれど、言葉は喉の奥でつぶれた。
 進めない。
 はっきりと分かる。だって、進めない。
「俺のこと嫌い?」
 質問は逆に彼から来た。わたしは慌てて首を振り回した。
 嫌いなわけない。好きだ。嫌いなわけない。でも……。でも、これはそういうことじゃないのだ。
 はじかれたように、わたしは駆け出した。背後から呼び止める声は聞こえなかった。
 何か言ったかも知れないし、何も言わなかったかもしれなかった。
 とにかく無我夢中で、何も考えられなかったから、周りの音なんて気にはしていられなかった。浴衣は走りにくい。ばん、ばんっと、何度も小さな歩幅で走った。買ったばかりの浴衣なのに。
「はあ、はあ……」
 家の前についたころには、すっかり息が荒れていた。酷いことをしてしまった……かもしれない。あるいは事情を説明すれば……いや、でも、処女だなんてこと、恥ずかしくてとても口に出来ない……。
 そおっと、玄関の扉を開けた。わたしが帰っていないから、鍵はかかっていないのだろう。音を立てないように閉めて、鍵もかけた。誰にも見つからないうちに、部屋に戻ろう。そして、落ち着いた場所でもう一度考えよう。今から連絡すればまだ、シゲくんと……。いや、いや、だいたい、わたし、本当は……。
「セックス、したかったのかなぁ」
「え、何の話?」
 最悪のタイミングで母の声がして、世界よ終われと瞬間的に思った。
 そんなわたしにお構いなしにリビングの扉が開き、ひょこっと母が顔を出した。
 ど、どうしよう、なんとかごまかさなければ!
「い、いや、違うの、いや、なんていうか? …………そう、この間、木瀬良さんに会って! ほ、ほらあの子って……小学校のとき事件があったでしょ。今思えばあれって、木瀬良さんのほうがセックスしたかったのかなぁ……なんて! だってあの子、小学校のときかなりませてたっていうか、そーいうのに興味あるタイプの子だったからさあ!」
「…………」
 めちゃくちゃなわたしの言葉に、お母さんは苦い顔をした。その表情に、息を呑む。何度か逡巡するように瞳を右に左に動かして、それから意を決したとばかりに、母さんはわたしの目をまっすぐに射抜いた。
「あのね、加奈……
「田中先生は、本当は、あなたを……その、……あなたを、自分のものにしたかったのよ。木瀬良さんはそれに気がついて……。それで、あなたを庇ったの。直前で止めて、あなたを逃がして、そして、そのあとに先生に注意をした。歯向かった。だから……」
「え……?」
 すべてを聞き終えて、わたしは呆然と立ち尽くした。体が震えた。確かに逮捕される前、田中先生には良くして貰った思い出もある。勉強を丁寧に教えてくれたり、お勧めの本を紹介されたり。
 けれど、まさか、そんなこと。
「本当よ。逮捕された後、あいつが自白したの。あの子は……木瀬良涼ちゃんは、あなたのことを守ってくれたの」
「だって、だって……」
 急に、頭の中が真っ白になった。

 体育館倉庫。校舎の裏手にあるその場所に、さあ足を踏み入れようとその瞬間。私は勢い良く誰かに肩を引かれた。
「鈴木さん!」
 わたしの肩を引いたのは、白いワンピースの女の子。
「あのね、チエちゃんが鈴木さんのことを探してたよ! 急ぎの用事らしいの、すぐに行ってあげなよ!」
 わたしはびっくりして、駆け出して行った。
 途中わたしは、彼女を振り返った。もちろん、田中先生も。先生は、あからさまにまずいところを見られたと、醜く歪んだ表情をした。

 あれ? っと思ったときにはもう、涙があふれていた。
 そうだ。どうして、忘れていたんだろう。わたしはあの日、田中先生に話があるからと言われ、ノコノコ人気のない場所について行っていた。
 小学六年生で、もしも、好きでもなんでもない男の人に、無理やりに奪われていたとしたら……それはいったい、どれほどの、計り知れない恐怖だったのだろう。
『そっか。あの子さ、変わってるよね。なーんか、絵に描いたような善い子って感じ。そんで実行力があるから性質(たち)が悪いの。うちの小学校じゃケッコー嫌われてて、いつも一人だった。まあ、それだけじゃないけど』
『うーん……。あんまりしていい話じゃないからサ。事件があったんだよね、うちの学校で。ま、それにあの子が関わってて、みんな敬遠してたんだよねっつー感じ』
 いつか心なく吐き出した言葉。
 それが、自分の胸に突き刺さる。
 ――今の自分が健やかに生きるために著しく辛い場合、人間は記憶を抑圧するのだという。
 わたしは、わたしのせいで彼女が犯された、虐げられているという思いから逃げようと、記憶をなくしていたのだろうか?
 堰を切ったように涙が溢れて、わたしはひざから崩れ落ちた。彼女のどうしようもない、はた迷惑な優しさが、今の『なんの傷跡もない綺麗なわたし』を作っていたのだ。
 そして、彼女は壊れた。
「事件のあと、春さんとも何度も話しあってね……。この子にしてこの親ありって感じの、とても丁寧でいい人だった。今でも毎年お歳暮をくれるのは、その縁があってのことなのよ」
 母さんの優しい言葉を聴きながら、わたしは小さく頷いた。

   ●

 お祭りのあった週末があけて、いつもの平日がやってきた。月曜日の学校はどこか憂鬱で、もしも木瀬良さんのことがなかったら、そこに輪をかけたようにわたしは憂鬱だっただろう。
 心を決めたわたしは、とてもすがすがしい気分だった。
 シゲくんに、ちゃんと言おう。
 恥ずかしいだとか、そんな感情、だって、かまっちゃいられないくらい、大したことがないではないか。
 いつか木瀬良さんが守ってくれた純潔を、わたしは大切にしたい。
 だから、正直に話して、それで駄目ならそこまでだ。もしも、もしも、わたしの心が落ち着くまで、ゆっくりと階段を上ってくれるなら、そのときこそ。
「あの」
 かけられた声に振り返る。驚いたことに、木瀬良涼が立っていた。
 まさか、わたしのことを思い出してくれた?
 彼女は相変わらずの白いワンピース姿で、足元も白いローパンプスで、肩にかけた皮製の鞄も白だった。
「あの、すいません、ちょっとお尋ねしたいことがあるのですが……」
「尋ねたいこと?」
「はい、あなたは確か、藤原さん……藤原モカさんと、友達……ですよね?」
「うん、そうだけど」
「実は……」
 彼女がぽつりぽつりと話し始めた。なにやらモカの様子がおかしくて、どうしておかしいのか分からなくて、その理由が知りたいらしい。
 母に言われたことはもう抜きにして、木瀬良さんには良くして上げたいと、わたしは心の底から思っていた。
 学内の喫茶店に入り、腰を落ち着けて話を聞くことにした。前後の話もすべて聞き、彼女の記憶が抜け落ちているところがあった。性的なことだ、と解釈して、だいたいの事情を察することが出来た。
 ……モカは、知られたくないかもしれないな。それでも、わたしは木瀬良さんの味方である。
 悪いなあと思いつつ、モカの個人情報を話した。記憶が抜け落ちないように、性的な表現には注意をした。
 モカはパソコンで悪いことをしていて、それが原因で祭りの夜に襲われたのだと木瀬良さんは理解してくれた。
「本当に、ありがとうございます」
 木瀬良さんは深々とわたしに頭を下げた。こちらこそ、本当に、ありがとう。
「藤原さんは私の友達だから……だから、絶対に救いたいのです」
 顔をあげて微笑む彼女に、嬉しい気持ちが溢れてきた。
 あの事件が終わった後、彼女は当然のように渦中の人となり、犯されたキタナイモノとして、クラス中から敬遠された。彼女の性格はだんだんと変わっていき、正義と白に固執して、壊れていった。
 ああ、木瀬良さんはもう、一人ではないのだな。
「それでは、失礼いたします」
 立ち上がり、もう一度礼をし、去っていく彼女の後姿は美しい。
 のっぺりとした顔は魅力的とは言いがたいが、スタイルはスレンダーで、なにより背筋がしゃんと伸びている。
 その背中を見ながら、その白を見ながら、ああ、でも、木瀬良さんはやっぱり一人なのかもしれないと思い、気分が憂鬱になってしまった。友達は、いつか自分の手元から離れてしまうものだから。
 藤原モカには、いつか真剣なお付き合いをする恋人が出来るだろう。慎ましくその愛情を育てて、結ばれて、子をもうけて、老けていくのだろう。
 そのとき、木瀬良さんにも同じように、素敵な誰かがいるのだろうか。

 わたしはゆるりと首を振り、考えるのを止めにした。

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