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ボーダー・ダック


 第一章・明日から

 真っ青になった。
 いや、まて、こんなの絶対、ぜぇったいに有り得ない。そう思い、背後を振り返る。私と目が合ったとたん、サッと洋子は顔をそらした。冷や汗が流れる。ぐるりと教室中を見回す。洋子と同じように、みんな顔をそらしていく。いっそ小気味いいぐらいだ。
 その反応に、確信した。どうやら、冗談ではないらしい。
 私は再び黒板に目を向けた。そこには昨日の日付と共に、帰りのHRで決まったのであろう、福祉会についての取り決めが書かれていた。

 内容・『演劇』
 主演・長谷川灰音

 昨日、私は体調が悪くて学校を休んだ。家に居るのは気まずいが、とにかく気持ちが悪かった。額から変な汗は流れるし、体は震えているくせに体温はやけに高いし、極めつけに立っていられないくらいの頭痛がした。
 しかし翌日、つまり今日になると大分体調は持ち直していた。快調とはいえないが、無理をすればなんとか学校に行けそうだった。それに今日は、福祉会の事前訪問の日である。
「本当に大丈夫なの?」やさしい声音で何度もたずねてくる母を振り払って、こうして今教室に立っている。
 そんな私に対する、この仕打ちである。
 おそらく福祉会に向けての会議が長引いた末に、「もう演劇でいいじゃん」「いいねー。俺小道具! 主演どうする?」「…………」「…………」「…………あ。長谷川」とでもなったのだろう。
「おはよう!」
 教室の扉が開く音と共に、大きな挨拶が聞こえた。こんなことをするのは一人しか居ない。
「千葉! 私、主演なんて嫌だからね」
 出し抜けに私に怒鳴られて驚いたのであろう。千葉はおっと肩を震わせた。しかし驚愕は一瞬で、黒板に書かれた文字と私を順番に見つめた後、にやりと顔をゆがませる。そして、何か問題でも? っといった表情で、事実そのような言葉を口にした。
「これがどうかしたか?」
「どうかしたかじゃないって! 私が居ない間にこんなの、勝手に決めないでよ」
「そうは言ってもなぁ。一度決まったことだからなぁ」
 うぐ、と喉を詰まらせた。いつの間にか、周りの視線も集まっている。
「灰音なら大丈夫だって!」
 洋子が声をだすと、皆も同調するようにうなずき始める。遠くに居た彩なんかは、「よ! 未来の舞台女優!」なんて声を張り上げてきて、周囲を笑わせていた。
「……そんなこと言われたって、無理だから」
「大丈夫大丈夫」
「何の根拠があるのよ、千葉」
「いや、根拠なんてないけどさ。平気だって。どうせ福祉会の出し物演劇だぜ? 対して期待もされないって」
 いいながら、ぽんと気安く肩なんか叩いてきやがった。眉根をひそめてみせる。しかし千葉はそれには気づかずに、揚々と話しを続けた。
「長谷川のことはみんな慕ってるしさ。頼むよ。このクラスで劇をやるってなったら、主役は長谷川しかいないんだって。な? 学級委員からのお願いだよ。マジで」
 ぱちんっと両手を合わせ、拝むように見上げてきた。たくさんの視線が私に集まっている。
 悪い気はしなかった。ぱっと光が当たったようだった。
人の視線は気持ちがいい。千葉の言葉も心地が良かった。私はみんなに好かれていて、クラスで一番の人気者だ。そう。その通り。それが真実。
 まだ熱っぽいくらくらの頭で、私は考える。
 私は見目が良い。すっと通った鼻筋と、ちょっとぽってりした唇がチャームポイントで、全体的に整っている。素材が良いのに加えて、努力だって怠らない。朝晩の洗顔に、化粧水と保湿クリーム。胸の辺りまで伸びた髪は、怒られない程度に軽くウェーブをかけて、ダークブラウンに染めている。スタイルだってもちろん、シンデレラ体重をキープしている。そこらのアイドルグループのメンバーより、よっぽど可愛いよねと、噂話の声だって聞いた。
 そして勉強が出来る。これは、ひたすらに努力の功労だ。中学三年生の頃、参考書にお金を惜しまず、放課後は図書館に通いつめて勉強をした。家に帰りたくなかったから、一石二鳥だった。その努力のおかげで、頭の良い高校に受かり、今でも成績上位をキープしている。
 性格ももちろん完璧で、常に笑顔。誰にでも分け隔てなく接し、さらには意図的に弱点だって作る。私の場合、それは食べ物だった。
 高校生だというのに、なぜかこの学校では給食として牛乳が配られる。私は、それが苦手という設定なのだ。いや、設定という言い方は、さすがに大げさだろう。事実、苦手は苦手なのだ。ただし、「やだぁー。本当に、牛乳とか無理、無理!」といいながら、逃げ回るほどでは決して無いのだが。
「……まあ、みんながそこまで言うなら? やらないでも……ないけど?」
 内心まんざらでもないな、という雰囲気を出しつつ言った。千葉の顔がぱあっと笑顔になる。
「さすが長谷川! お前ならやってくれると思ってたよ! よろしくなっ」
 にかっと笑い、なぜか右手を差し出してきた。まさか握手を求めているのだろうか。苦笑いを浮かべながらそれを見つめていると、千葉は気まずそうに手を引っ込めた。
 あちこちで、私の主役就任を祝う声が聞こえてくるので、恥ずかしそうな顔を浮かべておく。やがて担任の新井先生がやってきた。定年退職間際といった感じの初老の男性で、年寄りなのに新井というフレーズが定着している。そんな先生の入場によって、名残惜しそうな顔を浮かべつつ、みな自分の席へと戻っていく。もちろん私もだ。窓際の最後尾。絶好のサボりスポットが私の席だった。
「バッカみたい。くだらない人間……」
 言葉が聞こえた。
 ちょうど、自分の椅子の背もたれへと手を伸ばしたところだった。
 ゆっくり後ろを振り返る。椅子に座る生徒がたくさん視界に映ったが、目を留めたのはただ一点だった。私の一つ前の席だ。
 新橋明日香。
 20分1500円、安い美容院で切りました! っといった感じのさえない黒髪ショートカットが、天井の蛍光灯からの明かりで、てらてらと光っている。
 私はその頭のてっぺんを、じいと見下ろしていた。
 この子が。
 この子が、今の言葉を言ったのだろうか? 
 普通よりも可愛くなくて、馬鹿で、教室の隅っこで本を広げているような、この子が?
「おい、長谷川? どうした?」
 我に返った。担任の声に促され、椅子を引き自分の席に座った。まだ具合が悪いのか? と心配する言葉に、「なんでもないです」と首を振った。そうかと先生は言って、話題は福祉会のことになった。
「主役、頼んだぞ。長谷川」
 力強い声に簡素な頷きだけを返した。私は新橋明日香の後頭部を、穴が開くほど見つめていた。
彼女のことは、あまり良く知らない。
 どう考えても、同窓会で話題にすら上らないタイプの子だ。いつも一人か少人数のグループかで行動して、たくさんの人間と交わるということをしない。
『バッカみたい。くだらない人間……』
 と、頭の中で繰り返してみた。なんでこんなこと、お前に言われなきゃならないんだ。クソが。
 罵った瞬間に、落ち込んだ。
 肩を落とす私を置いて、ホームルームはいつの間にか終わりを告げていた。

          ○

 福祉会、というのは、わが学校の目玉年間行事の一つである。内容は単純明快。学校からほど近い福祉施設『太陽の家』に出向き、クラス単位で出し物を行うというものだ。月ごとに一クラスが担当となって、順番にお鉢が回ってくる。全学年ちょうど四クラスずつあるので、一年に一回はこの福祉会の順番が回ってくることになる。
 ちなみに毎年八月になるクラスは『大当たり』と呼ばれて、クラス中からブーイングの嵐が巻き起こる。理由はもちろん、夏休み期間中を準備に充てられてしまうからだ。三年生は受験を考慮して四月五月六月七月の間に福祉会を終えて、二年か一年のどこかのクラスがそこに当たることになる。
 私たちのクラス、二年一組は幸いにして、九月の担当となった。十月に開催される文化祭とも、十一月に開催される体育祭ともかぶらない、ついているほうの月である。
 めんどくさい行事と思われがちだが、この行事は学校全体の評判を底上げし、大学への推薦枠につながっている。自己PRにも事欠かない話題であるし、生徒、保護者、なにより近隣住民にと、全方向に評判のよい行事であった。
「えー、本日は大変お日柄も良く――」
 千葉の良く通る声が聞こえる。
 今日は、学校の授業の3限目と4限目が福祉会の事前訪問の時間に当てられていた。良く分からない生徒より、少しでも仲良くなってから出し物をやってくれるほうが嬉しいだろうという学校側の采配である。
 私たちは出し物を行う予定の体育館のようなホールに集まって、集合写真をとるように三列に並んでいる。左端にぽつんと離れて学級委員の千葉が居て、目の前にずらっといるパイプ椅子に座ったおじいちゃんおばあちゃん達に、朗々と挨拶を行っていた。
 私はにこにこ笑顔を浮かべて、けれど脳内はあくびを我慢することに必死だった。どうにか一度もあくびをしないままに千葉の話が終わり、交流会が始まった。
 おじいちゃん達の班と、私たちのクラスの班と、一組ずつでペアを組み、押し花を使った作品を作るという内容だ。用意された作業台にはすでに、相手方の班が座っていた。おじいちゃんおばあちゃん達は、間を空けて座っており、そこに私たちが挟まるようにと指示されていた。
「えっと……?」
 席についてから、私は右隣を見ながら首をかしげた。その席には、誰も居なかった。
「トイレにでも行っているんですか?」
 と、左隣のおばあちゃんに尋ねてみる。おばあちゃんはころころと笑って、「ああ、そこ、林田さんだから」
「林田さん、ですか。お具合でも悪いんですか?」
 少し大きめの声で訊ねる。おばあちゃん相手だから聞き取りやすくしようという意図もあったが、それよりももっと大きな意図があった。
 クラスのみんなへのアピールだ。私は、交流会でちゃんとおばあちゃんと交流するし、その場に居ない人を気にかけて心配もするような女の子なのよ、と。
「ううん。あの人、こういう行事が大嫌いなのよ。だから、顔を出さないの。今頃どこかのトイレだとか、屋上にでも居てさぼってるんじゃないかしら」
「へ、へぇ……」
 まるで一昔前のヤンキーだ。ふと気がつくと、おばあちゃんもそう考えているのだろうか。どこか楽しそうに顔をほころばせていた。
 やがて、押し花を使った工作が始まった。用意された押し花――これらは太陽の家のおじいちゃんおばあちゃん達が準備してくれたらしい――を、はがきサイズの厚紙に、思うが侭に配置して、ポストカードを作るというのが交流の内容だった。
 私は押し花の入った箱の中から、紫色の花をいくつか取り出して並べてみた。しかし、あまりしっくりとは来ない。
「こういうのはね、柱を決めるとうまく行くのよ」
 左隣のおばあちゃんが言った。
「一本、芯になるような大きな花を置いて、その周りに小さな花をちらすの。アクセントとして別の花や、草なんかをいれて色味を変えてみるのもいいと思うわ」
「なるほど」
 私はおばあちゃんの言うように花を並び替えてみた。先ほどよりもぴりっと感じる作品になった。
「楽しいわねえ。わたし、物を作るのがすごく好きなの。若い頃は裁縫を仕事にしていたのよ」
「へえ。そうなんですか」
 楽しそうににこにこ笑うおばあちゃんを見ていると、私までなんだか楽しい気分になってきた。顔を上げて周りを見回すと、ほかの人も程度の差はあれ、おおむね楽しんで作業をしているようだった。
 一所など、おじいちゃんと男子生徒が、プロ野球の話題で熱く盛り上がっている。
「あら。あなた、あの男の子が好きなの?」
 おばあちゃんが目ざとくそんな私を見ていて、とても楽しげに女学生のようなことを言う。
「違いますよ」
 くっきりはっきりにっこりと。私は否定をした。
「ああ、じゃあ、気になる子とか?」
 なおも話題を続けてくる。きっと若いころも恋や愛の噂話に目がなかったタイプなのだろう。
 そして私はそのおばあちゃんの問いかけに、とっさに新橋明日香のことを思い出していた。
 ちらり。振り返る。新橋明日香が居る席。一瞬だけ見えた彼女は、つまらなそうに一人で葉っぱを持ち上げて、肩肘をついて、それを眺めていた。
 小さな眼に、ちょっと形が上を向いた鼻。だらしのない丸顔に、みょうちくりんな唇。やっぱり、新橋明日香は不細工だ。
 両隣のおばあちゃんおじいちゃんは、そんな彼女を放って、それぞれの反対側の席の生徒と作業を楽しんでいるようだ。
 やがて、交流会の時間が終わる。私は自分でも満足する出来ばえのポストカードを作ることが出来た。「また遊びにきてね」とおばあちゃんがにこりと笑う。私は頷いた。ほとんど、とっさに。そこに約束の意味なんてまるで込めずに。

          ○

 交流会の後、生徒たちはその場で点呼をとって、太陽の家の前で解散となる。一時的に荷物を預けていた部屋に行き、それぞれの鞄を手に取る。くまのキーホルダーが目印の自分の鞄を見つけて拾い上げると、背後から呼びかけられた。
「はーいね」
 振り返ると、よっと片手を挙げて、洋子が近づいてきていた。洋子は可愛い容姿で引き締まったスレンダー体型なのに、ソフトボールという泥臭いスポーツをやっている。毎日遅くまで練習していて、ひざ小僧には生傷が耐えない。いったい、何が面白くてそんなことやってるんだかといつも感じる。けれど洋子は、「つらい」「顧問がムカつく」とぼやきつつ、毎日楽しそうだ。
「なあに?」
「いやさ、実は忘れ物しちゃってさ……。取りに行くの、付き合ってくれない?」
 気恥ずかしそうにぽりぽりと右頬を掻く洋子を見つめながら、「いいよ」と私は返事を返した。一緒に行ってあげたほうが私の株は上がるし、家に帰る時間は少しでも後のほうが良い。
 洋子は顔を輝かせて「ほんとに!? いつもありがとー! 灰音大好きーッ」なんて言い、安堵を浮かべて私と並んだ。
 新井先生が先導していた道を、二人だけで歩く。洋子は忘れた場所に大体の見当がついているらしく、ほとんど迷いのない足取りで進んでいき。廊下を確認しようとはしない。
 角を曲がり、新しい通りに入ると、一人の少女が目に入った。
 綺麗な子だ、と私は思った。
 そして次の瞬間気がついた。この子は、新橋明日香だ。
 相変わらずの雑なショートカットなのに。目だって小さいし顔だって大きいし、ぜんぜん可愛くなんて無いのに。スタイルだって、私より足が二周りも太くて、普通なのに。
 けれど私は今一瞬。確かにこの子を綺麗だと感じた。
 彼女は、本を読んでいた。両手で古い本を持っていた。
 その表情が、素敵なのだと私は気がついた。
 瞳が輝いている。キラキラと、太陽の光にかざしたビー玉みたいに光っている。頬は軽く蒸気して、唇は無意識なのか小さく、可愛らしく開いている。
 写真に収めたいと思った。それほどまでに、心魅かれる一つの絵だった。
「新橋さん?」
 苛立ったような声が出た。綺麗だとそう思っていたのに、一秒でも長く見ていたいと思っていたのに。
 新橋明日香は本を手に持ったまま、首だけでこちらを向いた。輝きはやはり、失われた。ただの、人並み以下の高校生の顔がそこにあった。ほっと一つ、息をつく。
 しかし安堵もつかの間、
「何?」
「え、っと……」
 声をかけてしまったのは、ほとんど咄嗟のことだった。助け舟を求めて洋子を見やるが、彼女は我関せずと微笑を浮かべて立っている。
「何をしてるの?」
 迷った末に、頭の悪い質問をしてしまった。「本、読んでるの」と吐き捨てるように言ったあと、新橋明日香はばつの悪そうな顔を浮かべて、やぼったい手つきで本を棚に戻した。彼女が居た場所は、『太陽の家』のちょっとした交流スペースなのだろう。ソファと、本棚と机がある場所だった。新橋明日香は、別れの挨拶もせずに出口へと向かっていく。
 先ほどまで彼女が立っていた場所に立ってみた。
 本を戻したあたりを目で追っていく。ちらりと見えた背表紙と、同じものがそこにあった。タイトルは、『演劇のせかいとそれから』。
 私はその背表紙をじいと見つめる。演劇。
 福祉会。演劇。私が主役。
 連想されたワードに、なんとなく眩暈を覚えた。「灰音、行こう?」と、洋子に声をかけられた。二人で再び歩き出す。
 洋子の忘れ物はすぐに見つかった。押し花を作っていたテーブルに置き忘れた手帳で、片付けをしてくれている『太陽の家』の職員の手に渡っていた。礼を言って、二人で来た道を戻った。
 ようやく、本当の放課後が訪れる。

          ○

「ただいま」
 なるたけ小さな声で言ったつもりなのに、母は耳ざとくそれを聞きつけたらしい。料理中なのだろう、キッチンからエプロン姿で顔をだす。年の割に若く見える母は、今日も自慢のショートカットの茶色髪に、三角巾をつけている。
「おかえり。今日は遅かったのね」
「……うん。今日は福祉会に向けての慰問だから。それに、友達の忘れものを取りにいくの、手伝ったし」
「あら。偉いわねぇ!」
 ぱあっと、母の顔が明るくなった。桜色に上気した頬は、若く可憐な乙女のようだ。うんざりだった。私は一直線に自室に行き、机の上に鞄とマフラーを放った。
 部屋は落ち着く。鍵もかかるし、好きなものが置いてあるし、自分だけの空間という気がする。私は靴下を脱いだ。スカートも、ブラウスも脱いだ。脱いだものはやはり、そこらへんに放った。学校で着替えるときは、きちんと丁寧にたたむけれど、ここではそれもしなくて良い。スカートは皺がつきにくいし、ワイシャツは毎日新しいものと代えている。
 下着姿になった私は、箪笥から長袖シャツとジャージのズボンを取り出した。シャツはしまむらで買った安物だ。ジャージにいたっては中学時代のものである。
 下着も楽なものに変えて、取り出した服を着る。三百六十度、どこから見てもラフな格好だが、私が着るとそれなりにさまになる。長い足に、七分丈に切ったジャージは似合っていた。
 その格好で、ベッドに横たわる。サイドテーブルから今月のファッション雑誌を一冊取り開く。『秋本番! 色とりどりの重ね着コーデ♪』なんていう特集ページを、さらーっと流し読む。すでに二回は読んだ内容なので、それだけで頭に入ると思ったのだ。
 新橋明日香。
 そのはずなのに、なぜか、その名前が何度もよぎった。だから、スイーツな雑誌の中身なんて、頭に入らなかった。雑誌を閉じ、私は仰向けに寝転んだ。
 蛍光灯のまぶしい光と、ちょっと黄ばんだ天井が眼に入った。
「意味、わかんねーっつうの」
 吐き捨てると、唾が自分のもとへと帰ってきた。軽く舌打ちをしてそれを拭う。母の声が聞こえた。どうやら夕ご飯が出来たらしい。立ち上がり、鍵を開けて外に出た。
 リビングのテーブルには、父と母が座っていた。どうやら、今日は帰りが早かったらしい。
並べられた献立は、鶏肉の煮物とお味噌汁、ほうれん草の胡麻和えだった。席に着く。母の前で、その母の隣に父が居る。上下共に灰色のスウェットで、いつもは六四にセットされている黒髪も、くしゃっとラフな感じだった。
「久しぶりに一緒にご飯が食べれてうれしいよ」
 本当に、心の底からそうなのだ、とばかりに言ってきた。きっと満面の笑みを浮かべているに違いない。けれどそんな父のほうなんて、私は一瞥もしなかった。「私もうれしいよ」と空っぽの言葉ばかりを返した。声音は一応、気をつけている。だから、父は、ますます顔の皺を深くしたことだろう。
「さあ、食べましょう食べましょう」
 母が明るい声をだす。陽気な音楽のようで、私と父とのやりとりに、疑念など一つだって抱いていないようだった。いただきますと手を合わせだす二人の前で、同じように手を合わせてから箸を取った。
 煮物をはさみ口に入れる。美味しい。私好みの薄味だった。おかずとご飯を機械的に交互に口に運んでいく。食べている最中、母も父も私に質問をしてきた。いわく、「最近学校はどうなのか?」「友達はどんな子なのか?」「勉強は進んでいるのか?」「そろそろ志望大学を決めたのか?」。
 それらのすべてに、「ああ」だとか「そう」だとか、私は生返事を返したかった。会話なんてしたくないんですよと彼らに伝えたかった。けれど、そんな態度はとらない。
 丁寧に質問に、嘘も混ぜ込んで答えていく。そして笑顔も絶やさない。この光景だけを見れば、ここは明るく幸せな家庭だ。きっと、父も母もそう思っているだろう。私の気持ちも知らないで。
「ごちそうさま」
 ぼそりと言って、立ち上がった。名残惜しそうな四つの瞳が私を見上げた。その奥にすがるような色が見えて、少し揺らいだ。
「美味しかったよ。もう少しゆっくりしたいけど、でも、学校の課題があるの」
 言い聞かせるようにゆっくりと言葉をつむぐ。
「それじゃあ、仕方ないな」
 と父が落胆を押し殺したような声を出した。私はリビングを後にした。
 自分の部屋に戻り、再びベッドに寝転がる。食べてからすぐに眠ると牛になるという迷信を思い出したが、気にしないことにする。
 気にしない、気にしないなんて思いつつ、雑誌の続きをめくっていた。
 けれどもやっぱり結局気になって、立ち上がった私はヨガをした。風呂上りの日課だが、それ以外の時間にも私はヨガを良くする。
 体を動かし、筋肉を伸ばし、姿勢を良くして呼吸を意識する。その一連の動作の中で、頭の中がすっきりと空っぽになれる気がする。最初は評判だったからと始めたヨガだったが、今では私のライフワークといっても過言ではない。
 手を前につき、背中を伸ばし、お尻を上に突き上げる。行ったのは、猫のポーズだった。鼻からゆっくりと息を吸い、数秒とめて、またゆっくりと息を吐く。
 心が静かに、沈んでいくのを感じた。

          ○

 ヨガをした後すぐに寝たからか、一日の初めは満点の体調だった。昨日の昼過ぎの時点でほとんど気持ち悪さを感じていなかったが、早く就寝したことで完璧に具合は戻ったらしい。目覚まし時計を覗くとまだ朝の六時で、普段起きる時間より二時間も早起きだった。
 しばらく布団の中で丸まってスマートフォンをいじっていたが、ちょうど良い時間に眼が覚めたらしく、ほとんど眠気がない。どころか、横になることに退屈を覚え、何かしたいという欲求があった。いわゆる『冴えている』状態だ。
 起き上がり、私は机に腰かけた。生物の教科書を手に取る。今行っている遺伝の話が面白く、ちょっと予習をしてみようと思ったのだ。前回の授業を思い出しながらページをめくると、今日の授業は『致死遺伝子』という単語がキーワードになるらしい。
 遺伝子とは通常、母方からと父方から半分ずつ受け取る。その中に、二つ重なると死んでしまう遺伝子があるというのだ。致死遺伝子は、一つならば問題はないらしい。まるでサッカーのイエローカードだなと私は思った。一枚ならば大丈夫だが、二枚だされるとレッドカードで退場だ。人生は、退場なんていうやわな言葉じゃ表現できないだろうけど。
 そこまで学習して、大きく伸びをした。頭は冴えているし、このまま勉強を続けるのも悪くない。しかしカーテンの向こうから差し込む光を感じるうちに、私は外へ行きたくなってしまった。朝の散歩だ。
 めったに行うことではないが、たまにやってみると楽しい。ぱぱっと、上着を羽織ってから外にでた。逃げるように抜けた一階は、まだ誰も起きだしていないのだろう。静まり返っていた。
 緩やかな日差しが心地よい。秋が始まったこの町だが、今朝はいつもより暖かく感じた。ポケットに手を突っ込みながらゆっくりと歩く町並みは、新しい一日が始まるよ! とキラキラ輝くように見える。多分、私の錯覚なのだろうけど。
 ただ、朝のせかせかした雰囲気と、日差しに反射する町のあらゆるものが、私にそういた印象を与えるのだろう。
 昼間の喧騒とは違った、穏やかな情景がそこにあった。
「だって、こんなに、騒ぎ立てるんだもの! まるで、大事件のような気がしてくるわ!」
 肩が震えた。「ほへ?」っと小さく声が漏れる。あたりを見回してみるが、声の発生源はわからない。どころか町行く人はこの声を気にしてすらいない。まさか、これは私だけに聞こえる妖精の声なのだろうか。いやそんなわけない。
 瞬時に否定しているうちに、「なあに、それ?」とまた声がした。よく響く声だなと思った。さすがに三度目は心構えが出来ていた。「いやよ、こんなものっ」。
 ばちんと耳の奥がはじける感覚がした。
 ああ、なんで分かるんだろう。対して聞いたこともないのに。
 歩を進め、角を曲がった。大体こっちから聞こえてくるなとあたりをつけていた。ところどころ、身を隠すように進む。「どうして入れとかなくちゃならないの……。こんなもの」声はすぐ近くの、公園から聞こえた。人影が、木の間から見える。そっと覗いてみると、案の定そこには新橋明日香がいた。
「それじゃ、なんだか、罠を仕掛けているような気がして――嫌だわ」
 頭を振り乱していた。手を胸に当て、身をよじりながら。
 それは仰々しい動作のように思えた。しかし、馬鹿に出来ない何かがあった。
 公園ではブランコが小さく風に揺れていて、誰にも使われていない鉄棒が寂しそうに並んでいて、作りかけの山と、忘れ物のシャベルが砂場にある。
 けれど、すべてかき消されてしまう。
 彼女の動きが、声が、この場を『他の何か』に変えてしまう。
 私は引き付けられるように、新橋明日香を見つめていた。
 彼女の周りだけ、まるで透明な薄い膜が張られているようだった。空気が違う。そんな表現を、肌で感じた。うっすらと彼女の額を伝う汗の一滴さえ、何か尊い物のように見えた。
 はぁッと、思い切り息が吐き出された。ああ、私、息を止めていたんだ。
 と、そこで新橋明日香は不意に、こちらに視線を向けてきた。
「アア! お母さん、なんてきっ…………」
「アア! お母さん、」までは良かった。彼女は集中していて、空気は張り詰めていた。その糸が不意に緩んだ。新橋明日香は大きく眼を見開いて、遮られた木々の隙間を通して、はっきり私を見つめていた。その状態で、「なんてきっ…………」までは搾り出したのだが、どうにも後が続かない。二人見つめあったまま、沈黙だけが続く。
 ちゃお、なんて陽気に気軽に、手でも振ってみようか。そんな愚にもつかないアイディアが生まれたが、もちろん実行に移す気なんてはなから無い。
 やがて、新橋明日香は胸の前で結んでいた両手を開き、直立不動の姿勢になった。
「なんでこんなとこ、いんの」
 ムカつくくらい、不機嫌な声だった。私がこの場所にいることについて、二三発パンチを食らわせたいとすら思っているのかもしれない。
「なんでって」
 表情筋をすごく意識して、笑顔を作り上げる。
「えっと、そこの家、私の家だから」
 私は振り返って、二階部分と屋根が見える、我が家を指差した。ちょっと古びたクリーム色の壁と、空よりずっと濃い青の屋根。
「だからいて、あたりまえでしょ?」
 言葉を続ける。なんだかあなたは不機嫌そうにしていますが、私はここに居ておかしくないんですよーっという気持ちを伝えるために、イントネーションに気をつける。
 新橋明日香は、むすっとした。見られたもんじゃない顔だった。
「あたりまえじゃない。あたし、あんたをこの辺りで見たことなんてない。気まぐれで外を歩かないで」
「は?」
「毎朝ここに来ていたんだ。あんたは今日、初めてここに現れた」
 それがまるで、裁判か何かで提出された重要な証拠であるかのように新橋明日香は言う。
「えーと?」
「つまり、あたしは怒ってる」
 言葉通りに、その口調には棘がある。
なんで、なんで、なんで、私が怒られなくてはならない! ただ近所を歩いてただけだっつーの!
「そんな。……とりあえず、ごめんなさい」
 私は頭を下げた。握り締めた拳の中で、皮膚に爪が食い込んでいる。頭を下げたまま、一秒二秒三秒。別に丁寧に謝ろうってわけじゃない。表情を作るのに時間がかかっているのだ。
 唇を吊り上げる。声に出さないように、「いー」と言った。よし、これで顔をあげ……いや待て! まだ眼が笑っていない感じがする。目じりを意識して……。
「でも、私、何も恥ずかしくなんて無いと思うよ」
 顔を上げてそういった。笑顔は多分、及第点だ。いつものウルトラ可愛い天使スマイルとはいかないだろうが、町行く男が思わずにやける程度の顔にはなっているはず。
「キモ」
 一蹴された。
 ちょっとよろけてしまうくらいのヘビーパンチだった。
 彼女は無表情で、じっと私を見つめていた。深い井戸の奥底のような、濁った黒色の瞳。
「あんたさ、そういうの、やめたほうが良いよ。いつも思ってたけどさ」
「え?」
 私の疑問符をガン無視して、くるりと踵を返し、新橋明日香は歩き始めた。公園から、道路へと出て行ってしまう。その後姿はあくまでもぴんと伸びていて、私と出会ったことなんて、まるで無かったかのように颯爽としている。
「まって」
 思わず呼び止めた私を、彼女は首だけ振り返って、
「あと、服もダサいから」
 と指差した。
 あわてて見下ろすと、チャックをきちんと閉めた灰色のパーカーに、寝巻きの中学ジャージという服装だった。
 意味も無く両手をばたつかせながら顔を上げると、新橋明日香の姿はもうどこにも無かった。

          ○

「おっはよう、灰音!」
 教室に入るなり、彩が私に向けて大きく手を振った。教室中に響く大きな声で、多くの視線が彼女に集まっている。その隣では、洋子が彩にジッと非難の目を向けている。しかし彩は気づかずに、ぶんぶんぶんと手を振り続けていた。
「おはよう、彩。洋子」
 近づいて笑う。教室の中心付近は、彩と洋子の机があり、そこに私がやってくる。私達の定位置となりつつある、たまり場だった。
「ねえ灰音ねえ灰音。みたみた、昨日の嵐の番組! 大野くんちょーカッコいいよね!」
「んー……。見てない」
「えー! 灰音も見てないの!? 洋子も見てないって言うし、つまんないのう」
 ふくれっ面を見せた後、彩はその番組の内容を私達に教えてくれた。曰く、釣りコーナーのここが格好良かっただの、若手芸人とのこの絡みが良かっただの。
 正直、彩のこういった話には、興味が無い。けれどいつもの私なら、ニコニコ笑顔を見せながら、そうだよねぇと相槌を打っている。話題のタレントやアイドルは、雑誌やネットニュースでチェック済みだ。大抵の話題に対応できる。しかし、今日の私に限っては、彩の話をそっちのけで新橋明日香を見つめていた。
 丁度、彩の後ろの方に新橋明日香の席がある。斜め前から見る彼女の顔は、やはり美しいとは言いがたかった。今の彼女は本を広げて、一人読書にふけっている。カバーがつけられているため内容は伺えない。
「ねえ聞いてる?」
 彩の顔がいつの間にか、私を覗きこんでいた。
 聞いてる、聞いてる、と彩をなだめるように私は言った。
 ドンッと、大きな音がしたのはそのときだった。視線を向けると、床に新橋明日香が倒れていて、渋谷がバスケットボールを片手に彼女を見下ろしていた。
 渋谷はお調子者の男子高校生で、私や洋子たちともよく話す。決定的な瞬間は見逃したが、おそらくバスケットボール片手にふざけていたところ、彼女にぶつかってしまったのだろう。たいした事じゃなくて良かった。そう思い、視線を逸らそうとしたときだった。
「ざけんなブス」
 あれ? っと思った。
 最初、耳を疑って、けれどやっぱり間違いではなさそうで。渋谷って、あんなこと言う男子だっけ。
「…………」
 新橋明日香は、本を拾い上げたあと、無言で渋谷を睨んで席に着いた。
 そしていつもどおりの朝が流れていく。今のやり取りを誰も気にしてなんていない。
「はーいーね?」
 彩が私の顔を覗き込んでいた。こめかみに怒りマークが見える。
「福祉会、彩も役者として舞台に出ようかなって」
 語尾がきつい。話題もすっかり別のものに移っているし、どうやら私はまったく話を聞いていなかったらしい。
 瞳の奥に、かすかな嫌いという感情が見えた。
「うん、良いんじゃないかな! 彩って顔も声も可愛いし、スタイルも良いし、舞台栄えするんじゃないかなあ!」
 あわてて飛び出た言葉は、驚くほどスムーズに紡がれた。私の安易な世辞に、彩はにんまりと三日月みたいな笑顔を作る。
「だよね、だよね。やっぱり灰音もそう思う?」
「うん」
「やったー! ねえ、洋子も一緒に出ようよ!」
「えー、わたし? わたしは良いよ。柄じゃないし」
「そんなことないよう! 洋子も彩の友達だけあって可愛いしっ。三人で仲良くでようよー」
「やだよ……」
 洋子は呆れたように肩をすくめた。
「それにわたし、他にやりたいことあんの」
「え、え、なになに」
「舞台背景。大きなベニヤ板とかに、がああとペンキを塗ってくんだよね。楽しそう」
「そう?」
「そうだよ! なんかさ、ああいうの好きなんだよねー。全部塗り終わったときの達成感とか、すごいし。塗ってる最中もちょっとシンナーがきついけど、無心になれる感じが良いんだよね」
「彩にはわかんないなぁ」
 唇を軽く尖らせて、彩が言う。小さな背丈に軽い目方、全体的にほんわかした雰囲気にと、彩はとても子供っぽい。トレードマークのサイドテールも、まるでミニーちゃんみたいな赤い水玉リボンで結んでいる。そんな彼女が唇を尖らせると、思わずほほえましくなってしまう愛らしさがあった。
「うーん。まあ彩、スポーツ苦手だしね。五十メートル走十四秒だし」
「そ、それは言わないでよぅ~っ。ていうか、スポーツ苦手関係ないよね!?」
「そうかな? なんとなく通ずるところがあるような気がしないでもないんだけど」
「気がするんだかしないんだか」
 私は口を挟んだ。洋子と彩はテンポ良く会話をしていて、聞いているこちらは楽だったのだけれど、そろそろ一言ぐらい発しておかねばと思ったのだ。
 私の突っ込みに、洋子はちろりと小さく舌をだした。
「とにかく、わたしは大道具って役がいいな。舞台端から二人のこと、見てるからね。まあ、彩はまだ出られるか分かんないけど」
「むー。洋子のいじわるぅ」
「あはは。彩ってば、変な顔」
 こいつめぇという親しみをこめて口にすると、彩はちょっとだけ唇の両端を持ち上げた。

          ○

 五時限目にHRの時間があった。教卓の横に、千葉がチョークを片手に仁王立ちしている。もう一人の学級委員は、自分の机が最前列にあるのを良いことに、そこに座って学級日誌を広げている。
「じゃあ始めよう。とりあえず前回で何をするかってことと主演が決まったな。ほかの役割を決めていこう」
 千葉は黒板に几帳面な文字を綴っていく。『役者・大道具・小道具・照明・音響・衣装・監督』と、適当な間を空けて白い文字が書かれた。
 ああそうか、衣装なんていう役割もあるんだなーなんて、私はぼんやり思っていた。
「さて、まずは希望を聞いておこうか。役者をやりたい人―」
 ずびしっと彩が勢い良く手を上げるのが見えた。それと、もう一人。
「小林と、渋谷か」
 千葉が黒板に二人の名前を連ねて書く。驚きを胸に、新橋明日香を見つめた。彼女の後頭部はぼんやりと俯いていて、時々手が動く。本を読んでいる。なんで、こんなときに? 
 それから、千葉がまたあおって、ちらりほらりと人が手を上げた。「なんとか足りそうだけど、少ないなあ」と千葉が言う。絶対に挙げると勝手に思っていた新橋明日香は、挙げなかった。
「じゃあ次。大道具やりたい人―」
 さっきと打って変わって、八名ほどが一気に手を上げた。それを受けて、ぱらぱらとまた手が挙がっていき、ついには教室の半分ほどが大道具に挙手をした。そこにはもちろん洋子がいたし、新橋明日香もだった。千葉は苦笑いを浮かべつつ、順に記名をしていく。新橋の新を書いたところで、なぜか彼は一度手を止めた。ちらと背後を振り返る。しかしすぐに視線を戻して、几帳面な字で新橋と続けた。
 その後、小道具が七名ほど、照明や音響や衣装がどれも四名ほどと、手を上げていき、それぞれの希望する係が明らかになった。監督は、誰一人として手を上げなかった。
「うーん、参ったなぁ」
 うなる千葉の声音には、「案の定こうなったか」という意味が含まれていた。照れ笑いのような表情で、右頬をぽりぽりと掻く。
「とりあえず、役者は少なすぎる。大道具と小道具が多いから、だれか移って。ほかのところも、もう一、二名少なくていいぞー。あとの問題は、監督だな……」
 言葉尻を伸ばしながら教室中をぐるりと見渡す。視線を合わせまいと、俯く人がほとんどだった。
「監督、千葉がやれよーお」
 おちゃらけた声があがる。渋谷だ。声変わりをした男の声だが、ほかの男子と比べ彼の声は甲高く特徴がある。そばかすだらけの丸顔も、見ようによっては女の子っぽい。ただし身長だけは人並み以上で、渋谷は男友達の中にいると、頭半分ほど飛びぬけている。
「俺かぁー」
 苦笑しながら千葉が返す。どうやらあまり乗り気ではないらしい。
「演劇、あんまり詳しくないからなぁ」
「詳しいやつなんていないんだし、千葉でいいじゃん」
 千葉はちらりと視線を走らせた。また新橋明日香を見た。
「……とりあえず、保留な」
 渋谷に視線を戻しそういうと、彼は再び教室を見回した。
「役者志望がいないのは、たぶん、シナリオが決まっていないからだ。何の演目で、どんな役があるのかがはっきりすれば、きっとみんな役者をやりたくなるはずだ」
 見事な理論に、最初からそう言えよと心の中で思う。というか係り決めの前にやることのような気もする。千葉はまじめで成績優秀だが、ほんのちょっと頭が抜けている。この段取りの悪さもその一部だ。
そんな彼は教卓から何冊かの本を持ち上げた。童話のようだった。
「とりあえず、何冊かこっちでピックアップしてから、みんなに選んでもらうのがいいかと思って持ってきた」
 タイトルを一つずつ、本を持ち上げながら告げていく。用意されていたのは五冊で、どれも有名な童話だった。シンデレラ、白雪姫、眠りの森の美女、人魚姫、不思議の国のアリスと、なぜかディズニーでアニメ化されたものばかりのラインナップだ。
 主演が私であるというのが決まっているから、それにあわせて選んだという面もあるかもしれない。「ふふん、君もなかなかやるじゃないか。ありがとう」とねぎらってやってもいいラインナップだ。
「えーと、で、この中から何を上演するかだけど」
「はーいっ」
 不意に彩が手をあげた。千葉が「ん?」と顔を向ける。
「質問なんだけど、内容ってこのまま? アレンジとかしないの?」
「なるほど、アレンジか」
 関心したように鼻を鳴らす。
「確かに、ただみんなが知ってる童話をやるだけじゃ面白みにかけるよな。新訳とでもいようか、シナリオを直すのは楽しそうだな」
「だよね、だよね! 彩ってば、ナイスアイディア?」
 小首をかしげた拍子にサイドテールが跳ねるように揺れる。幾人かの男子がほほえましそうな表情をし、教室にいる女子の何人かが舌打ちをした。
 彩はそんなクラスの様子に気づいているのかいないのか、ふふっと小さくハミングする。
 千葉は役割決めのために書いた黒板の最後に、シナリオと付け足した。
「聞いておこうか。シナリオをやりたい人―」
 しーんと手が上がらない。
 なんとなく気まずい空気が流れる。それを払しょくするように、「とりあえず、内容を決めよう!」と千葉が声を張った。
「まずは何で決めるかを決めないとな」と千葉が続けると、「なにで決めるかを決めるかを決めないとな」と渋谷が続けた。クラスで軽く笑いが起こる。湧きだした笑いの波は、ちょっとした一体感を与えてくれる。中には新橋明日香のように、ぴくりともしない人もいるけれど。
 多数決、話し合い、くじ引き、と、ポピュラーな方法が候補として上がっていく。千葉の鶴の一声で、話し合いで数を絞ってからの多数決という決め方に落ち着いた。
 これによってまっさきに消えたのが人魚姫だった。魚の尾ひれが動きにくく、高校生演劇としては向かないのではないかという意見が出たからだ。その次に、眠りの森の美女が消えた。主演である私が、ただ眠っているだけという役になるからだという。王子役を長谷川がやれば良いのではという意見もでたが、なにか違うとボツになった。私自身、ちょっとなにか違うと思う。いや、王子様というのも、やってみたいかもしれないけれど。フェンシングで使うような細い剣を持って戦うのだ。剣道とか武術は、怖いけどちょっと憧れる。ストレス発散に良さそうだしね。
 劇の主演と聞いたときはやりたくないと瞬時に思ったものだが、心の奥底では本当に案外乗り気だったのかもしれない。どのお話にするのか皆でわいわい話すうちに、自然とその役柄を演じる自分を想像している。
「シンデレラが良いんじゃないかな」
 教室の中央付近から声が上がった。洋子だ。
「シンデレラって灰かぶりっていう意味なんだよね。なんか、灰音の名前とかかってていいかなって」
 ああなるほど、と嘆息の息があちこちから聞こえてきた。なかにはシンデレラの語源をしらないのだろう、どういう意味? と隣に訊ねる人もいた。
「シンデレラか、なるほどな」
 と千葉が言う。話し合いはそこでストップして多数決に移り、圧倒的な票数を集めてシンデレラに決定した。
「演目はシンデレラだ。じゃ、決まったところで役者に移りたい人はいるか?」
 学級委員のよく響く声に、答えるものは誰も居ない。
 何人かは周囲と視線でやりとりをして、「でる?」なんて口にしていたが、結局は手を挙げなかった。
「役者をやってくれると助かるんだがなー」
 何かを期待しているような口調で千葉が言った。ぐるりと教室を彼が見回すと、やはり視線は逸れることのほうが多かった。彼はため息を一つつくと、後ろを振り返り顔を上げた。時計を確認。教室の壁時計はもう、五限目終了まであと三分といった頃合いだった。
「んー。じゃあ、今日の学級会はここまで。監督脚本、それから役者、次までに決めよう」
 千葉がそう宣言すると、入れ違いで教室の最後方にいた担任の新井先生が立ち上がった。もう足腰もあまり丈夫ではないのだろう、若干動きづらそうにして、一度など彩の机に手をついた。彩はちょっとだけ、不機嫌そうな顔をした。
 帰りのHRが始まる。いつもと何も変わらない、大したこともないやり取りだった。

          ○

 どこか遊びに行かないか、と彩に誘われたが、バイトだからと断った。洋子も部活だし、つまんないのぉと言いながら、学生鞄についた大きなシェリーメイのキーホルダーを揺らして教室から出て行く。
 荷物を軽く整理したあと、私も出て行った。
 バイトはこの春から始めたもので、まだ四ヶ月目だ。お金が欲しいのと、家に居たくないのと、ついでに社会勉強にと、私がバイトを行っている理由は多々あるが、一番の理由は制服だ。
 駅前のカフェ、エーデルワイスは、私が中学生のときから憧れのお店だった。ドイツをモチーフにしており、雰囲気がとにかくおしゃれ。木の感じがする外装に、くすんだ緑色の屋根。まるで童話に出て来るような建物なのだ。
 中学生の私は、その小さくて可愛いお店を外から見るだけで満足だった。中に入りたいと思ったことは数知れないが、カフェという響きがどことなく大人びていて、ワクワクして、とにかく自分のようなものが入る場所ではないと思っていたのだ。
 私は決めた。志望校に合格したら、必ずこの店に行こう。そして、ケーキと紅茶を堪能するのだと。
 その誓いを胸に(若干)秘めながら努力した受験勉強で、私は見事狙い通りの高校に合格。早速カフェに向かった私を出迎えたのが、その店の店員さんの愛らしすぎる制服だった。
 一目見た瞬間、雷に打たれたような衝撃が走った。店員さんの服装をガン見していたと思う。注文を取るときなど、彼女は声が震えていた。よほど私が怖かったのだろう。正直悪いことをした。しかし罪なのは、その制服なのだ。
 ふわりとしたフレアのスカートに、清潔なシャツとベスト。色はすべて灰色がかった黒色で、全体としてはシックな印象を受ける。胸元には小さなリボン。彩が好むような派手でふりふりしたものではなく、あくまで控えめに大人らしい可愛さを主張している。ドット柄やチェック柄や、ストライプ柄などがあって、色も店員さんによってそれぞれ違う。スカートの下は揃いのニーソックスで、これまた端っこにさり気なくエーデルワイスの花が模様になっていたりして、細かいところにまでこだわりが伺える。
 キモい男子がメイド服に萌えーっとか言ったりしてるのも、こういう気持ちなのだろうか。正直一緒にされたくはないが、すこしだけ彼らを理解した。
 制服は、凶器だ。
 人を狂わせる危険なものだ。
 そんなわけで、今日も私はその凶器を手に持って、もとい身にまとってフロアにでた。
 バイト募集の広告が出たら絶対に受けようと決めて、それが出たのが高校二年生の春。面接の場ではこの店に憧れていたことから始まって、制服に対する愛情をつらつら語った。店長さん若干引いていた。それでも負けなかった。店長さん若干ドン引きしていた。
 正直、ブレーキをかけたほうが良いのかなーとは、二分話したあたりで思った。それでも止められなかったのは、その制服をデザインしたのが店長さんだと聞いたからだ。バイトに最悪落ちてもいい。けれど、この熱い思いを彼女に伝えたいと思ってしまったのだ。
「灰音ちゃん、五番テーブル見てよ。イケメンよ」
 店長は結局私を雇ってくれた。ちなみに採用理由は情熱ではなく顔だったりする。
「えー、ほんとですかぁ?」
 小声で言いながら、店長が言った五番テーブルに視線を向ける。
 そこには、こちら側に背を向けている小柄な少女と、青年の姿が見えた。少女をイケメンとは言わないだろうし、顔なんて見えない。店長が言ったのは間違いなく、あの青年のことだろう。真っ黒いトレーナーという、ラフさMAXな服装に、まるで咬み合わない金色のネックレスと、服装のセンスはいまいちだが、確かに顔立ちは整っていた。
 日本人顔をベースにして、外国人の彫りの深さを加えた感じで、真面目そうに見えながらもちょっと悪いところがありそうという不思議な印象を受けた。面長でぱっちりとした瞳とチョイ悪な様子は、まるで少女漫画の王子様といった印象だ。普段は冷たくあたるくせにこっちが悩んでいる時にはしっかりと手を伸ばして、強気なくせに実は過去に悩みを抱えていて、きゅんとしてしまう弱さがあるに違いない。
「なるほど、イケメンですね」
「でっしょー!! はぁぁ。やっぱ素敵ねー。イケメンって至福だわ」
「はあ」
「あ、もちろん美少女もね」
 ぱちんと店長が私にウィンクを向ける。私は苦笑いを返した。
「それは、全然違うだろ! 全然納得できないね」
 青年の声が聞こえた。少女はなにか返したようだが、小声で聞き取ることができなかった。
「あらー? 痴話喧嘩ー?」
 若干落胆した様子で店長が言った。ひょっとしたら、さり気なくお客様に近づいて軽快なトークで距離を縮め、連絡先の一つでも聞くつもりだったのかもしれない。
「兄妹か何かだと睨んでたのにー」
「まあまあ店長」
 年齢考えましょうよ、という言葉を何とか飲み込む。青年は見た目二十代前半。店長は御年三十九歳である。
「行こうと思ってたけどおー、五番テーブルお願い、灰音ちゃん」
「はーい」
 カウンターの調理担当スタッフから手渡された抹茶白玉パフェとコーヒーを受け取る。カップルの話はまだ続いているようだが、青年が私の姿を認めて口をつぐんだため、必然的に会話が止まる。
「お待たせいたしました、こちらコーヒーです」
 言いながら満面の笑みでコーヒーをテーブルに置く。コーヒーソーサラーの端を持っているため、結構指の力を使う。けれどこのバイトは笑顔が命だ。その辛さを顔にださない。前に伝えられた注意を胸にコーヒーを置ききった。
「ありがとう」
 青年は私の顔をまじまじ見ながらにこりと言った。ああ私に見とれてやがりますね。こんな場所にこんな可愛い子がいるとは思っていなったんでしょう?
 私はイケメンに見惚れられたという自信を胸に、少女を振り返る。
「こちら、抹茶白玉パ――」
 べちょり。
 気が付くと、トップのソフトクリームを机に食べさせていた。白いバニラと緑の抹茶が目にも美味しいそのソフトは、現在パフェのカップを離れて机と愛を育んでいる状態だ。
 そのまま停止すること三秒。じっとソフトクリームを見つめていた新橋明日香にようやく「すいませんでした!」と頭を下げた。
「別に」
 突き刺すような言葉だった。私の出現に、当然だがあまりよい感情は持っていないらしい。
「別にって、沢尻某じゃないんだから」
 青年が新橋明日香に向けて笑いながら言った。彼女は驚いたように大きく目を見開いた後、ぎゅっと顔を歪めて、「別に」とまた言った。私は何度も謝罪を述べながら、ポケットに常備してある科学布巾でテーブルを拭いた。その間、新橋明日香はずっと機嫌が悪そうで、 青年はニコニコとしていた。
「失礼いたしました、ごゆっくりどうぞ」
 用意してもらった新しいものを新橋明日香に手渡して、私は店のバックヤードへと向かった。フロアに出ているのは気まずいし、客はあの二人しかいない。
「どうしたの灰音ちゃん」
 店長が目を白黒させながら言う。
「灰音ちゃんがミスするなんて珍しいじゃない」
「はい、すいません、店長」
「何かあったの?」
「いえ……」
 新橋明日香のことを言い訳するのは簡単だ。しかし、私はもう一度すいませんと頭を下げた。水を一杯もらって飲み干す。エーデルワイスの水は美味しい。輪切りにしたレモンを沈めていて、ほんのりその味がするのだ。私はこういった水が結構好きだ。口の中がすっきりする気がする。出される水によってその飲食店の評価が変わると言ってもいい。無料だからと手を抜いた水を出す店に、ろくなものはないと勝手に思っている。
 そんなふうに水のことを考えて、私は脳内のある感情を上書きしようとした。けれど、自分できちんとそのことを認識してしまっている。妬み、だ。
 自分で零した抹茶白玉パフェに、スプーンを突き刺す。もったいないから食べちゃいな。もちろんお金なんて取らないよ、と店長が言ってくれたのだ。
 口の中に入れると、洋に分類されるであろう生クリームと、和の小豆が見事なコラボネーションを発揮していた。美味しい。振りかけられた抹茶も、良いアクセントになっている。
 飾りとして突き刺してあったチョコの棒を指でつかみ、付いている生クリームを舐める。それからガリガリガリと行儀悪くハムスターのようにそれを食べた。
 新橋明日香も今頃彼氏の前でこの抹茶白玉パフェを食べているのだろうか。私、彼氏なんて出来たこともないのに。
 ガリガリガリと、食べるスピードは上がっていった。
 食べ終わってからフロアに出る。しばらくしてお客さんが現れた。「いらっしゃいませ」「三名さまですか?」「禁煙席でよろしいでしょうか?」「こちらへどうぞ」マニュアル通りに接客の言葉を連ねて、笑顔で席へとご案内する。仲良しそうな女子三人組で、大学帰りのようだ。「ご注文がお決まりになりましたらお呼びください」と頭を下げて席を離れる。メニューをめくりながら、三人はとても楽しそうだ。
 そう。
 そうだよ、男がなんだ! 女子の友情が一番だ! 私も今度、彩と洋子とカラオケに行くんだからっ。
「いい加減にしろ!」
 バァンと机を叩く大きな音。
 反射的に振り返ると、新橋明日香の机からだった。青年が立ち上がり、小柄な彼女を見下ろしている。テーブルの上のガラスコップが倒れて、レモン味のついた水が流れていた。ぽた、ぽたっと床の下へと垂れていく。
「お客様!」
 飛び出していった。店を守らねばという気持ちと、……あの子は新橋明日香だ、という気持ちがあった。
 青年がぐるりとこちらの顔を回す。悪鬼――そんな表現が思い浮かぶ形相だった。
 手のひらが震える。怖い、と思った。店長を呼ぼう。そして、この対応を任せてしまおう。一歩後ろに下がると、新橋明日香の顔がよく見えた。
 あ――。
「お客様……。他のお客様にご迷惑ですので、どうか、お鎮まりを」
 震える声で、けれどはっきりとそう言った。
 青年は小さく舌打ちすると歩き始めた。くたびれたジーンズに手を突っ込み、カランクロロキィンと扉のベルを打ち鳴らして、カフェから出て行った。
 私はそれを見届けると、テーブルの上の紙ナプキンをとって新橋明日香に差し出した。こくんと頷くと、彼女はそれを受け取って、鼻を噛んだ。続けて涙を拭こうとしたので、慌ててもう一枚取り出して渡した。
 彼女は泣いていた。
 泣いた顔は、今まで見たどんな表情より酷かった。ぐちゃぐちゃで、めちゃくちゃで、汚かった。そこら中にシワがあって、瞳なんでどこにあるのか分からないくらい細められていて、涙はあふれていて、鼻水はこぼれそうで、唇の端からはよだれまで出ていた。
「あんたさー、そんなにあの男が好きだったの?」
 言った後に、しまったと思った。思わず口をついて出たのは、素のしゃべり方だった。けれど新橋明日香はそんなことを気にしはせず、ただその中身だけに驚いたのだろう。自分で紙ナプキンを引き出して、そこら中を拭ってから、なんとか聞き取れる程度の小さな声で「なんで知ってるの」と言った。
「そんなの、はたから聞いてれば分かるよ、新橋さん」
 さり気なく口調を元に戻す。新橋さんと意識的につけたのは、さっきの言葉を言い間違いで片付けたいからだ。
「そう」
 新橋明日香は言った。
「そうね、好きだった」
 その言葉はすとんと私の胸の内に落ちた。誰かをまっすぐに好きだという言葉を、初めて聞いた。
「でも、これからは、違うから」
 彼女の声は嗚咽混じりで、ともすればまた泣いてしまうのではという危うさがあった。けれど、唇をぎゅっと一度引き締めて、彼女は踏みとどまる。
「とらわれないから。あたしは、あたしらしく生きる。そうじゃないとダメ。……すぐには切り替えられそうにないから、明日から」
 醜い、ひどい顔の中で、瞳だけが光ったような気がした。細めた瞳の輝きは、微かだったけれど。
「……かばってくれて、ありがとう。…………長谷川さん」
 あ。と、思った。彼女は初めて、私の事を名前で呼んだ。
「どういたしまして、……新橋さん」
 ようやく、素直にその言葉を言えた気がした。新橋明日香は、いや、新橋さんは、すっと立ち上がり鞄を手に持った。何の変哲もない肩掛けカバンで、端っこに束ねられたお守りがあった。ぎょっとするぐらいたくさんの数だった。
「また明日」
「うん、また明日」
 返事を返す。新橋さんはそれ以上なにも言わないで、扉のベルを鳴らして去っていった。その背中に、言いようのない感情が芽生えた。親しみとは違う。好意でもない。だからといって、嫌悪なんかではもちろんない。
 ただ、ここ数日にあった、「くだらない人間」というつぶやきだとか、太陽の家で見かけた写真に収めたい一枚だとか、公園で演じる彼女だとか、ありえないほどの毒舌ぶりだとか、……いまさっき見た、涙だとか。
 そういったあれこれが、なぜか溢れだしてきた。
 そんな私の肩に、ぽんと優しく手が置かれる。暖かなぬくもりに振り返ると、そこには微笑をたたえた店長が立っていた。女神のような優しい声で、「灰音ちゃん」とささやきかける。
「あの子、食い逃げだわ」
 続けられた言葉に、私はぶっと吹き出した。



 第二章・笑顔のかたち

 秋は、ときどきうんざりするくらいの寒さを携えてくる。あわてんぼうの冬の野郎が、そろそろ自分っすか? なんて言いながら、静かな秋を押しのけて舞台袖から顔を出しているのかもしれない。
 そんな空想を浮かべながら、私は早朝の町を歩いていた。2日続けての早起き。これでもし無駄骨だったらと思うとげんなりする。睡眠欲は強くない方だが、早起きした結果が無駄足となれば話は別だ。コートの襟をきつくして、私は歩き続けていく。向かったのは昨日も訪れた公園だった。
 そこに至る道の途中で、声が聞こえてきた。新橋さんの、よく響く声だ。ちょっとだけ胸をなでおろす。それにしても、彼女は本当に毎日この公園に来ているのだなとあらためて実感した。
「新橋さん」
 公園の入り口まで行き、セリフとセリフの切れ目で彼女を呼んだ。新橋さんは動きを止めて、手を下ろしながら私を振り返る。目が合うと、細められた。眉間によったシワが、「なんでここに来たの」と訴えてくる。
 近づいていく途中で、一度頭を下げておいた。邪魔をしたのは間違いないのだから、礼儀をもって接しなければならない。たとえ相手に礼儀がなくとも。
「あの、昨日の代金。払ってなくて」
「あ――」
 あの糞野郎、と新橋さんは続けた。
「ごめん。立川さんが払ってると思ったの。悪かった」
 言いながら、ポケットに手をやる。しかしそこには何もないのか、「ああ」と嘆息した。
「あ。あの、また今度でいいから」
「ごめん」
 普段と違いしおらしい姿に、こちらのほうが悪いことをした気になってくる。私はなんとなく話をそらそうと、「本当に毎朝ここにいるんだね」と言った。
「まあね」
 もうブスッとした響きだった。
「ええと、演劇みたいだけど」
「みたいって、そうに決まってるじゃん」
「あんた馬鹿? ああ、馬鹿ね」なんていう心の声が聞こえてくる。拳をぎゅっと握りしめ、怒りをこらえた。
「ガラスの動物園」
 新橋さんが不意に言った。
「昨日もたけど、これ、『ガラスの動物園』って演劇」
「へえー……。なんだか、綺麗な名前ね」
 どういう話なの、と尋ねる前に、「これはね、すごく繊細な女の子の話」と彼女は言った。
「その子、ローラはね、ガラス細工の動物を大切にしてる。そんで彼女自身は、そのガラス細工みたいに、すぐに壊れてしまいそうな危うい存在。人と付き合うのが苦手で、とても内気なんだ」
「そっか。……その子の役を、どこかでやるの?」
「……ええ、そうよ。昨日の代金は、今日の放課後、店に届けるわ」
「あ、うん」
 急に話が飛んだなと思っていると、「あたし、分かってるから」と彼女は言った。
「長谷川さん、教室であたしに話しかけたくなかったんでしょ」
 心臓がはねた。なんと答えるのが正解か分からずにとぎまぎしていると、「放課後に行くから」と繰り返した。本当になんでもないことのようだった。
 ごめん、と胸の内だけでつぶやく。
 私は確かにそう考えて、そんな風に考えて、今朝、早起きまでして新橋明日香を尋ねたのだ。
 だって、彼女に話しかけたりなんかしたら、目立ってしまう。それはきっと新橋さんだって望むところではないだろう。だから、仕方がないのだ。ことが穏便に済むのならそれ以上のことはないじゃないか。新橋さんも私の心遣いに感謝してほしいぐらいで、ある。
「分かった。待ってる」
 もやっとした気持ちを抱えながら返事をすると、「ん」と新橋さんが顔をしかめた。それが微かな笑顔だと気づくまで、数秒かかった。

          ○

「あ、灰音、洋子、おはよぅ~。今日、寒いね!」
 洋子と話していた私に、彩が飛びつくように近づいていくる。高校生にしては少し幼すぎる動物の耳がついたニット帽に、ふわふわした素材のミトン型の手袋。そのすべてが真っ白で、まるでシロクマのコスプレをしているようだ。
「彩、いくらなんでもそれ、早すぎでしょ。まだ9月だよ?」
「だってだって、寒かったんだもーん。彩、寒がりなんだよね。寒冷じんましんだし」
「それにしたって」
「いいのいいの。だってさ、今年の冬にはまた新しいの買いたいけど、去年のやつも使いたいんだもんー」
「めちゃくちゃな奴」
 呆れたように洋子がため息をつく。私はにっこり笑いながら、「でも可愛いよ、彩」と言った。彩は満足そうに、「まあね」と笑う。
「ところで、何の話をしてたの、ふたりとも?」
「うーん? 大した話じゃないよ。二限目の英語の宿題の話」
「英語の宿題……? あ!」
 彩は自分の机に手を入れると、バッと教科書の束を取り出した。
「置き勉かよ」
「うるさぃー」
 頬をふくらませながら、彩はノートのページを捲っていく。表情はだんだんと青ざめていき、ついには大きくため息をついた。
「あーあー。もしかしたら学校でやってるかもって思ったんだけどなぁ」
「どんまい彩」
「うー。お願い灰音、写させて!」
「え?」
「お願いお願いっ。今度なにかおごるからさ、ね?」
「仕方ないなぁ……」
「ちょっと灰音」
 洋子が叱りつけるような声を出すのは、彩が写しの常連だからだ。私だって正直、自分で苦労したのになんで他人に提供しなければいけないのだと憤りはある。けれど、私の分が消えるわけじゃないし、彩は最初から写す気でいるわけじゃない。困っているのならまあいいかと渡してしまうのだ。洋子は多分私のことを嫌いにならないけれど、彩は写させなかったら私のことを嫌いになる。
「あっりがとおー! さっすが灰音」
 スクール鞄からノートをとりだし差し出すと、彩はひったくるようにそのノートを受け取った。席について、動かしにくそうなストラップ付きのピンクのシャープペンシルを取り出し、坂道を駆け上がる立ち漕ぎ自転車のようなスピードで手を動かしていく。
「彩、書き写すのだけはホントに早いよねえ」
「日頃の努力の賜物だね」
 私の軽い皮肉に洋子が吹き出す。彼女と二人で話す中、担任の新井先生がやってきて、席に戻った。一日の始まり、HRの時間だというのに、彩は手を動かすのをやめない。まあ彩だけでなく、この先生のHRを真面目に聞いている人なんて、ほとんど天然記念物なのだけれども。

          ○

「長谷川」
 と千葉に声をかけられたのは、お弁当の時間だった。私はいつもの様に洋子と彩と集まって、それぞれ小さな弁当(洋子はそれプラス惣菜パン)を広げていた。千葉も教室でお弁当を食べていたはずなのだが、さすが男子というか、もう食べ終わったらしい。
「千葉、ご飯粒ついてる」
「え」
 洋子が笑いながら指差す場所に、確かに米粒がついている。千葉は顔を真っ赤にして人差し指で米粒を探る。しかし場所はまったく分からないらしい。右往左往とするうちに、洋子が手を伸ばした。洋子に頬を触られて、千葉はますます顔を赤くした。
「ひゅーひゅー、らっぶらぶぅ」
 彩がからかいの声を上げると、洋子まで顔を真っ赤に染めた。
「ち、ちがっ。だってさ、ほら、どんくさくてイライラしたんだもん!」
「はいはいー。どんくさくてイライライライラぁ〜っ」
「もーう! やめてよ彩!」
 洋子が頬をふくらませる。彩はどことなく生き生きとして楽しそうだ。彩のこういった部分は好きだ。他人をいじるときに、言いようのない親しみを感じる。新橋さんもこんな感じなら、もっと友達ができそうなのになと、窓際の端を盗み見た。今日も彼女はおとなしく、根暗そうな女子と机を囲んでいる。話が盛り上がっている気配はなく、個人個人で本や雑誌を広げていた。
「長谷川」
 千葉の声。ああそうだ。こいつは私を呼びに来たんだっけ、と思い出す。
「何?」
「いや、ちょっと話したいことがあって……」
「そっか。何?」
「いや、ここじゃなんだから、昼飯を食べ終わってからで良いんで、どこか行かないか」
「え?」
 彩が「ちょっとちょっと洋子さん、宅の千葉さん、もう浮気ですよ」なんてふざけた。洋子は軽く彩を叩いた。千葉はそんな様子を一瞥してから、「いや、福祉会のことでちょっと。主演の長谷川さんに言っておきたいことがあって」と続けた。
「ああ、そうなの。わかったわ。食べ終わったらすぐに行くね」
 頷いて、弁当箱へと視線を戻す。残り四分の一ほどだ。ここから、いつもならだらだらと喋りつつあと五分ほど食事に費やすが、呼ばれたからには早く行ってあげたほうが良いだろう。ご飯をかきこむように、けれど決して下品ではなく食べ終わる。「行ってらっしゃい」と彩が手を振ってくれる。洋子はなぜか、複雑そうな顔をしていた。
「行ってきます」と返して、立ち上がり千葉の席に行く。
 友達と談笑していたようで、近くに三名の男子の姿があったが、前もって話を通していたのだろう、「じゃあ」と片手を上げてさっさと教室を出て行ってしまった。慌ててその後を追う。廊下に出ると千葉は私を待っていて、「ありがとう長谷川」と言った。
「どういたしまして。で、どこに行くの?」
「うーん……。そうだな、中庭はどうだ?」
「ちょっと寒いんじゃないかなぁ」
 少し甘えるような声を出す。だって行きたくない。ゼッタイ。
「それもそうだな……じゃあ、図書室……は騒いじゃいけないし……。自習室、か?」
「良いんじゃないかな。どうせ誰も居ないだろうし」
 この高校には、各階に自習室がある。それぞれの学年ごとに階が分かれているから、私達のいう自習室は当然二年生専用だ。三年生の自習室ならいざしれず、二年生の自習室にはほとんど人気がない。ていうか皆無だ。冬が近くなると、受験生用の特別対応ということで、すべての階が受験生専用となるのだけれど。
 自習室へと向かう。道中の会話はなかった。千葉はほっといてもフレンドリーに話しかけてくれるので、何かしら会話のきっかけを持ってくるだろうと思っていたら、なんと何もなかったのだ。一度沈黙が訪れてしまうと、会話の切り出しにくいことにくいこと。そんなわけで、自習室の扉をガラリと開け、「案の定、誰も居ないな」と千葉が私に笑いかけるまで、大変に気まずい時間だった。
 千葉に続いて自習室へと入る。後ろ手で扉を閉めた途端、あ、教室で男子と二人きりだと自覚した。やばい、どうしよう。こんな青春ど真ん中みたいな状況の相手が、まさか熱血堅物馬鹿の千葉だとは! 
「長谷川」
 千葉が私の名前を呼ぶ。つかつかと近寄ってくる。え、え? いや違う。違う、緊張するな私。福祉会の話だ! 千葉はたんに福祉会の話をするつもりなのだ!
「どんな魔法を使ったんだ?」
 発せられた言葉は、想像の右斜め四十五度を駆け抜けた。
「魔法……?」
 魔法ってあれか、日曜の朝八時ぐらいから12チャンとかでやってたやつか。
「ああ、魔法だ。明日香のやつが昨日、お前のことを話してたんだ。魔法だろ」
 私の困惑を知ってか知らずか、ニカッと笑いながら千葉が言う。というか、明日香って……。
「新橋さんが、私のことを話してたの?」
 動揺はまるっきり声に出ていた。出まくりだった。はたから聞いたならばさぞ笑えたことだろう。しかし私は当事者なのだった。千葉は私の困惑に気づいたのだろう、ちょっと困ったように頭を掻いて、
「幼なじみなんだよ、あいつとは」
「えー!」
 思い切り声が出た。ぱくぱくと口を開けたり閉めたり。
「家が近所でなー。幼稚園も小学校も中学校も一緒だったんだぜ」
「そうだったんだ……。なんか意外」
「俺もだよ。まさか長谷川が、明日香と仲良くなるなんてな」
「仲良く……?」
 首を捻っていると、「まあ、仲良く……というと語弊があるかな」と再び頭を掻く。
「お前のことを尋ねられたんだ。あの劇の主役をやる、長谷川灰音ってどんな奴だと思う?」って。
「ふ、ふーん」
「なんで急にそんなことを訊ねるんだと聞いたらな、口ごもってたけど、長谷川と偶然会って話したっていうじゃないか。だから、どんな魔法を使ったんだと、な」
「うーん。魔法も何もなぁ……。別に、普通だよ」
 新橋さんが立川と呼んでいた男の顔が浮かんだ。が、千葉には隠さねばと思った。なんの許可もなく他人に口にされるには、ちょっと重たい話だろう。内容的にも、男子に伝えられるのは嫌だと思う。
「そうか……。……そういえば長谷川は、クラスの行事が演劇に決まった時の話は聞いたか?」
「聞いてないけど」
「あれはな、半ば俺がゴリ押ししたんだ」
 いたずらっこのようにペロリと舌をだす。
「一応他の意見もでたんだぜ。合唱とか漫才とかな。けれどどうにもまとまらないし、ならってことで押し通した」
 わははと笑う千葉の笑顔は、いつもの平等や調和を重んじる学級委員のそれではなく、我を通すガキ大将のようだ。
「なんで、そんなことを?」
「明日香がさ、好きなんだよ、演劇」
 視線を落とす。太陽の家で彼女が開いていたのは『演劇のせかいと、それから』。公園で練習しているのは、『ガラスの動物園』という劇。
「だから、演劇ならもしかしたら、あいつも積極的に福祉会に参加するんじゃないかなーって……。なんなら、主役だって引き受けてくれるんじゃないかって、そう思ったんだよ。そうやって一度でもクラスの中心に立てばさ、友達だって、出来るかもしれないし」
「……友達、いるじゃない」
「…………そうだな」
 千葉は気まずそうに頷く。その声には、そうだったらいいな、という響きが感じられた。
「長谷川、あいつの演劇さ、すげーんだよ」
 千葉が言う。
「まるであいつじゃないみたいなんだ。俺があいつの凄さを知ったのは、幼稚園のお遊戯会でさ。長谷川、お前は何をやっていた?」
「え?」
 遠い記憶を探る。ダンスや演劇をやったような気がした。ダンスは、幼稚園らしいネズミの耳をつけてふりふり踊るようなもの。演劇は、桃太郎だ。たしか、おばあさんの役をやったような気がする。
「ああいう劇ってさ、一つの役割を何人もがやらない? 主役ズラズラ〜みたいなさ」
「ああ、確かにそうだったなぁ」
 私と同じおばあさんが横に二三人いた気がする。主役の桃太郎は五人くらい居たかもしれない。
「まあちゃんと覚えてるわけじゃないんだけどさ。あれだけいる人数の中で、キレっていうの? そういうのが違うんだよな。普段は全然目立たない奴なのに、舞台の上だと一人だけスポットライト浴びてるみたいなの。そういうあいつの姿、何度も見てるからさ。だから、福祉会を演劇にしたんだ。だけど」
 千葉は続ける。
「だけど、明日香は役者に手を挙げなかった」
 大仰に首を振ってから、「けれど、長谷川、あいつはお前に興味をもった」
 言葉をきり、千葉は距離をぐいと詰めてくる。びっくりして、一歩下がった。
「い、いや、そんなこと言われても……」
「頼む! アイツをどうにか、舞台に役者として上げてくれないか? 悪い話じゃないはずだ。あいつさえいれば、舞台は盛り上がると思う。な? 主役の長谷川にとっても、悪い話じゃないだろう?」
「そ、そんなの」
 瞬間、脳裏にその舞台がよぎった。
 主役の私はシンデレラ。ふわりと広がる水色のドレスを身にまとって、散りばめられたスパンコールがスポットライトできらきらと光る。素敵、という声が舞台のあちらこちらからため息のように漏れる。得意げな私はこっそりと鼻を鳴らし、その場でくるりと一回転。観客席からは拍手喝采。そして私は馬車に乗り舞踏会に向かう。舞踏会にはたくさんの出演者がいる。けれど、注目の的はやっぱり私。ああ、私って罪づくりな女……。私は得意気に観客席を見つめる。そこで、あれ? と首をひねるのだ。
 見ていない――。
 誰一人、私のことなんて見ていない。一様にある方向を見つめている。嘘でしょ、と脳内だけでつぶやいて、私もその方向を見つめる。そこには新橋明日香がいるのだ。
 青い、素敵なドレスを身にまとった少女。胸元にはキラリと輝くパールのネックレス。簡潔に言って、プリンセス。顔は全然ブサイクだけど。そして、みんなしてうっとりと彼を見つめる。私なんて放っておいて、彼女を見つめる……。
 私の服装は、いつの間にか一段階、みずぼらしくなった気分だった。ああ、思い出した。私ってば、意地悪なシンデレラの姉の役だったっけ……。
「そんなの、自分でどうにかしてよ!」
「長谷川?」
 千葉の驚いた顔でハッとした。らしくない。否、私が思い描かせた、みんなの中の私らしくない。
「ごめんなさい。私も今、いろいろと忙しいの。だから、新橋さんのことは心配だけど、力になれそうにない……。私より、幼なじみの千葉のほうが、ずっと頼りになると思うな。千葉、結構すごいやつだし」
 褒め言葉をふんだんに盛り合わせ、にこりと微笑む。千葉はうっと喉を詰まらせ、
「俺じゃ、だめなんだ」
「だめ?」
「い、いや。なんでもない。……でも、女同士じゃないと分からないことだって、あると思うんだ。もちろん俺も頑張る。だけと長谷川。時間があったら、お前も頼むよ」
 千葉が軽く私に頭を下げると、自習室から出て行った。私はなんとなくその場に立ち尽くして、閉じられた扉を見つめていた。

          ○

「あー、あー。やっぱり、まだ寒いねえ」
 歩く振動で前にほぐれたマフラーを巻き直しながら、彩が言う。彼女の言うとおり、寒い。しかし秋ゆえの肌寒さといった感じで、耐えられない寒さからは程遠い。彩はよほど寒がりなのだろう。
「そうだねえ」
 適当に返事をする。彩は最新の音楽の話を始めた。SEKAI NO OWARIがうんたらだとかそんな話だ。雑誌やテレビの情報は常にチェックしているので、話を合わすことができる。とくに興味はないけど。
「ねえ、今日は時間あるの?」
 彩が弾むような声で言う。
「うーん。今日はバイトだけど、まだ時間があるかな」
「ほんとに? じゃあちょっとだけ、あの雑貨屋さんに寄って行こうよ。駅前の」
 彩が言う店は、彼女のお気に入りの『クローバー』というお店だ。女の子らしい赤やピンクが多い雑貨屋で、正直なんだか落ち着かない。私が好きなのはどちらかといえば寒色系なのだ。
「うん、いいよ。少しの間だけね」
「やあったぁ」
 進路を少しだけ変えて駅前へと向かう。寒さゆえかいつもより人通りは少ないが、やはり駅前は多少賑わっている。これから東京にでも出ようというのか、おしゃれな格好をした男女もいる。
「あれ、君は」
 と声をかけられたのは、クローバーまであと数歩という時だった。振り返る。そこには、黒のスェットとジーパン姿の若い男がいた。
「わっ」
 黄色い声が彩の口から漏れ出る。明らかに喜色のこの声は、青年の美しさからくるものだろう。彫りの深い顔立ちは、有名男性モデルと言われても違和感がない。首には、金色のネックレスを下げていた。
 ……。
 私は振り返った顔を戻し、踵を返した。
「ちょ、ちょ、待ってよ!」
 肩を引き寄せられ、強制的に男の姿が目に入る。馴れ馴れしくさわられたのに、思わずドキリとしてしまった。大きな瞳に惹きつけられてしまう。どうしてこんなに、整った瞳をしているのだろう。神様が特別にこしらえたのだろうか。
「君さ、あれだろ。この間喫茶店に居た店員の子! 可愛いからよく覚えてたんだよね」
 立川は思わず安心してしまうような、人好きのする笑みを浮かべている。
「この間はごめんね。君に一喝されてから目が覚めたよ。あの時はなんていうか、本当に頭にきて、周りが見えなくなってたんだよ……。本当にごめんね」
「はあ……。別に、いいですけど」
 沢尻某かよ、と心のなかでこの間の青年の言葉をリピートしてみた。愛想よく返事をすることも考えたが、そんな気にはなれなかった。
 なぜだろう。
 男は美しく、そして紳士的だというのに。
「ところで、今時間ある? この間のお詫びにお茶でも一緒にどう?」
 爽やかな微笑。ああそうか、これナンパだ。と、ようやく私は気がついた。愛想よくしようと思えなかったのは、立川の態度の裏に下心を感じ取ったからだ。それにしてもまたかー。めんどくさいなー。本当にもう、めんどくさいなぁ。私ってば、本当にどうしてこんなにめんどくさいことを引き寄せちゃうんだろう。やっぱり人を惹きつけちゃうんだろうなぁ。しかたないなぁ。
「灰音、顔、すごくニヤけてる」
 彩が私だけに聞こえるようにぼそりと言った。言葉尻には不機嫌さがにじみ出ている。ああしまった! このままじゃ彩の好感度がただ下がりだ。よし、うまく断ろう。それで彩の好感度を上げよう。立川は確かにハンサムな男だが、どうにも金を持っていなさそうだし。
「あの、せっかくですが――」
「もちろん、君も一緒にね。君もすごく可愛いね。なんて名前?」
 きらりぃんと彩の瞳が光った。
「小林彩ですぅ。お兄さんは、なんていうお名前ですかぁ?」
 自分に興味が向いたやいなや、すっと体を寄せ、上目遣いで甘ったるい声を出す。うん、ガールズバーとかで即戦力だね。
「立川。立川つばさだ。よろしくね」
 顔のすぐ横で手のひらをぐーぱー。よくわからないが、なんだかナンパな動きだった。
「立川さんですかぁ。立川さんは、お幾つなんですか?」
「僕? 僕は今年で二十二だよ。君たちは高校……二年生ぐらいかな?」
「わ。正解ですぅ」
「やっぱり。女性の年齢を当てるの、実は特技なんだよ。でも君たちはちょっと大人っぽい魅力があるから、迷っちゃたよ」
 軽くウィンク。立川と楽しげに会話をしていた彩は、うっとりと目を細める。対する私はなんとなくいけ好かなかったので別の意味で目を細めた。
「で、どう?」
「もちろんご一緒させていただきますぅ。ねえ、行くよね灰音?」
「あの、悪いんだけどね」
 ちらりとわざとらしく携帯を取り出し時間を確認。
「私もう、バイトの時間なんだよね」
「ええ!」
 彩の明らかに失望した声。私は両手を合わせて、ごめんと告げる。立川は眉をひそめて実に残念そうな顔で、「バイトなら仕方ないな。頑張ってね」と笑う。私は礼を述べて、彩を見やった。彼女はちらりとクローバーの方向を見つめる。どうやら彼女ともここでお別れのようだった。
「ホントにごめんね彩。今度埋め合わせするからね」
「ほんとに?」
「ほんとほんと。カラオケのとき、アイスで良い?」
「いちご味だかんねっ」
「わかってるって」
 彩に手を振って歩き出す。一旦家に帰らずに、このままバイトに向かうことにした。ちょうど駅の反対側の通りに、カフェ、エーデルワイスが存在している。

          ○

 裏口から店に入ると、愛理さんが「お友達、来てるわよ」と言った。新橋さんのことだとピンと来た。
愛理さんは今日も髪の毛を耳の位置で2つ結びにして、子供っぽいプラスチックの飾りゴムでしばっている。「おはようございますっ」と頭を下げると、「おはよう」と返してくる。彼女はそのままスッとバックヤードから出て行ってしまった。おそらくフロアに出たのだろう。
 愛理さんは、私の一つ上、高校三年生の先輩だ。もうすぐ受験シーズンだというのに、たくさんシフトに入っており、私と時間がかぶることも多い。ちょっときつい性格をした人だが、本当はとても優しい。私の新人研修を担当してくれたのが彼女で、右も左も分からない私がレジ打ちでミスを出してしまった時、何も言わずに自分のせいだと罪をかぶってくれたこともあった。そのあと、決して怒りはせずに、ただ丁寧に仕事を教えてくれたことは、忘れもしない出来事だ。
 自分のロッカーの前に立ち、制服に着替える。もう何度袖を通したか分からないこの服だが、着るたびにテンションが上がってしまう。ただ今日は着替えを堪能する時間はなさそうだ。始業時間までまだあるが、できれば始まる前に新橋さんとのやり取りを終わらせておきたい。着替え終え、財布の中から昨日のレシートを取り出す。
 フロアに出ると、この間と同じ席に新橋明日香の姿があった。肩肘をつき、難しい顔をしてノートのようなものに視線を落としている。
「新橋さん」
 声をかけるが、彼女は顔をあげない。
「新橋さん!」
 彼女は顔をあげないまま、「待って」と冷たく指図した。イラッとした。
 新橋さんは真剣な表情でページをめくる。私は苛つきもあって、彼女のノートを見下ろした。それはノートではなく冊子だった。安っぽい紙をホチキス針で止めただけの代物。そこには名前とセリフと、そして線を引かれてのスペースに、メモのような羅列。ああ、これはきっと劇の脚本なんだ、と私は理解した。暫く待つ。新橋さんはやがて手を止めると、一つ息を吐いて台本を閉じた。
 そして一言。
「遅い」
「遅いって……」と、私は苛つきを抑えて、困惑したような声をだす。
「私のバイト時間はこれからもうちょっと後なんだよ?」
「そうなの。じゃあちゃんと教えておいてよ。無駄に待ったじゃない」
「……そうだね。ごめんね新橋さん」
 もとはといえばあんた等の食い逃げが原因だろうがぁ! っという怒りをなんとか飲み込む。新橋さんは不機嫌そうに目を細める。
「長谷川さんさ」
 何気ない口調で。
「そういうの、ほんとにやめたら?」
「え?」
 また、それか。思わせぶりないつもの忠告。
 彼女は隣の椅子においてあった鞄を手に取る。昨日も下げていた、お守りだらけの鞄。中から取り出したのは可愛らしいアヒルマークの封筒。彼女はなぜかそれをくるりと回転させてから私に渡した。イラストが変わり、優雅な白鳥が描かれている。
「これのお礼に教えてあげる。表情、いつも不自然なんだよ」
「不自然……」
「言いたいことがあるなら言って、きちんとその表情をしな。そのほうがずっと素敵だよ。無理して作った笑顔、長谷川さんは上手だけどさ。怒ったり泣いたり、そのほうが良いよ。それでも笑顔でいたいなら、心根まで演じてみせなさい」 
 まるで老獪な人物に、ぴしゃりと説教を食らったようだった。背筋が伸びる感じ。けれど、決してそれを認めたくない感じ。
 私は新橋さんの言葉を、薄いガラスで囲った。苦い薬を飲むためのオブラート。
「心配してくれてありがとう。でも私、無理なんてしていないよ?」
 にこりと笑う。笑って、あれ、今私なんで笑っているんだろうと考える。わからない。
「ありがとう、新橋さん、優しいんだね」
 なぜだろう。こういえばきっと喜んでくれる。クラスのみんなはそうなのに。お父さんもお母さんもそうなのに。なのに、新橋明日香は笑ってくれない。
 ただ難しい顔をして、私をじっと見つめている。なんで思い通りにならない。私は拳を握り締める。
「……どういたしまして」
 立ち上がり、新橋さんは伝票を手に取った。
「今日の分の会計、してくれる?」

          ○

「今の子不細工だったわねえ」
 こんな言われ方、たまったものではないだろう。客が一人もいないエーデルワイスのバックヤードで、私は店長とお茶を飲んでいた。フロアには愛理さんが一人いて、テーブルをせっせと磨いている頃だ。休憩が終わったならば、今度は私が布巾を手に持つ。
「店長、そんな言い方やめてくださいよ」
 笑顔で言う。実際、新橋明日香はお世辞にも可愛いとはいえないだろう。顔は大きいし、整っていない。そうだ。あいつは顔が悪いのだ。
 ざわり、と、心が動く。
「ごめんねえ。灰音ちゃんのお友達を悪く言うつもりはないんだけどねえ。……ねえ、昨日のイケメン、やっぱり彼女の彼氏?」
「別れたみたいですよ」
「まあ本当に?」
 にんまりと笑うその笑顔の裏には、どこか優越感が見え隠れする。他人の不幸は蜜の味。それが恋愛沙汰ならなお良しというのが店長の性格だ。結婚をあせり始めた女は怖い。しかしこれほどまでに裏表なく、しかもあっけらかんと言われると、不思議と嫌う気にはなれない。
「あー、あー。だったらもう一回お店に来てくれないかしら。そうしたら、今度こそ声をかけてやるんだから。なんならスペシャルパフェ、サービスしちゃう」
「経営厳しいんですから勘弁してくださいよ、店長」
「てへっ」
 いい年こいた大人が「てへっ」って……。
「いらっしゃいませー、一名さまですか?」
 愛理さんの良く通る声が響いてきた。お客さんが来たらしい。店長はさっそく休憩を切り上げて、手を洗い出している。さて私はどうしようと考えていると、不意に愛理さんがバックヤードに顔を出した。クールビューティーな面長の顔に、困惑の表情が張りついている。
「ねえ、あなたの知り合いって人が来てるんだけど……」
「え」
 新橋明日香だ。
 何か私に言い忘れて、帰ってきたのだろう。座りの悪い感情が心の中を支配する。もやもやする。むしゃくしゃする。
 会いたくない、と思った。
「……悪いんだけど、私は居ないってことに、してくれないかな?」
「ああ。了解」
 納得、という顔でうなずくと、愛理さんは再びフロアへと出て行く。ダンボールが詰まれたバックヤードで一人、私は事務椅子に腰掛ける。使い古しの錆びた椅子が音をたてる。
 動揺してるんだ、私。
 自覚をすると、その動揺はますます広がっていくようだった。
『バッカみたい。くだらない人間……』
『表情、いつも不自然なんだよ』
 新橋さんの言葉を思い出す。すんなり思い出すことが出来て、それを放ったときのトーンや響きまでも、鮮明だった。印象深い出来事は、ときに人に棘のように刺さる。私にとって彼女の言葉は、その類のものだったのだろう。
「うるさい」
 呟いてみる。少しだけ胸がすっとする。
「えー! いないの? ……ところで、君は何ちゃん? 可愛いねぇ」
 予想外の声がフロアから聞こえた。もしやと思い顔をだす。そこには案の定、立川つばさの姿があった。どうして、彼が、ここに?
「やだ! ほんとに来てる!」
「うわっ。店長っ」
 気づいたら背後に店長が立っていた。ちょっと腰をくねらせて、うっとりした顔で立川を見つめている。
 その表情に聞いてみる。
「本当にパフェ、作るんですか?」
「うーん。どうしようかしら」
 真剣な表情で考える乙女を置いて、私は見つからぬように顔を引っ込めた。一度居ないといった手前、なんとなく出て行くのが気まずい。やがて立川は去っていき、疲れた表情をした愛理さんが戻ってきた。
「しつこいナンパだったわ……」
「お、お疲れ様です」
 崩れ落ちるように愛理さんは事務椅子に腰を下ろす。一際さび付いた音が鳴った。
「休憩、変わってくれる?」
「はい、もちろんです」
「ありがと。助かるわ」
 本当はもう少し休みたかったけれど、愛理さんの疲れた顔を見ているとそうは言えなかった。コップにレモン水を注いで手渡す。気が利くわね、と呟いて、彼女はそれをいっきに飲み下した。

          ○

 日が落ちて、寒さはますます厳しい。彩のように、マフラーでももって来るべきだったかも、と思いながら歩き出す。
 お疲れ様でした、と出て行ったカフェの中では、愛理さんと店長が働いている。時刻はもう夜の八時だが、お店は九時まで続くのだ。私も最後まで働きたいと思うのだけれど、お父さんが許してはくれなかった。
 灰音は可愛い女の子なのだから、九時までには家に帰っていなさいと言うのだ。
 空を見上げる。一番星が光っている。星には詳しくない。だから、あれがなんという名前の星なのかは分からなかった。ただ、もうずっと昔の輝きが、何万光年もかけて私の瞳に届いている。
 にっと、口元をつりあげて笑顔になってみた。
 笑顔の練習は、ここ数年間欠かしたことが無い。鏡の前に立ち、笑顔を作る。最初はぎこちなかった。笑顔を浮かべている自分に違和感を覚えて、腹の底がむずむずとした。毎日続けていくうちに、少しずつ慣れていった。鏡を見ながら笑顔をつくるとき、自己暗示もしていった。
 私は可愛い。私は優秀。私は優しい。私は素晴らしい。私は綺麗。私は頭が良い。私は偉い。私は家族思い。私は良いやつだ。私はきっと善いことがある。
 繰り返し、繰り返し、繰り返し。
 その日々の努力は実を結んでいき、私の笑顔は不自然ではなくなっていった。
 笑えるようになった。
 たとえ、腹にどんな一物を抱えていたって。
「ただいま」
 ほら、やっぱり私は笑顔だ。つられるように父親が、「おかえり」と笑ってくれる。バイトお疲れ様、とねぎらわれた言葉。ありがとう。疲れたから休むね、と私はまた笑顔。
 リビングから母親がわざわざ顔を出してくる。「おかえり灰音」「ただいまお母さん」決まりきったやりとり。やっぱりこれも笑顔。いつもと変わらない笑顔。
 何がいけないんだ。
 だって、自分の思うとおりになんて、私は口にしたくない。
 態度で示したくなんて無い。
 私、本当は嫌いなんだよ? お父さんも、お母さんも、嫌いなんだよ? 
「疲れたから休むね」
 私はお母さんに向けて、お父さんに言った言葉と同じものを呟く。二人とも笑顔で「おやすみなさい」と笑いかけてくる。
 階段を上る。上る。上りきって、扉を閉めて鍵をかける。すとんと、うずくまるように腰を下ろした。目の前にはちょうど、姿見が置いてある。そこに映る自分の顔をみてぞっとした。
 表情が、抜け落ちている。
 能面なのだ。今まで笑顔を作った反動のように、私の顔にはどんな起伏も存在しない。
 笑え。笑うんだ。
 意識して頬を吊り上げる。表情筋は思うとおりに動いた。いつもの私の笑顔がそこにあった。

          ○

 テーブルの上の目覚まし時計を叩いて、早起きをしてしまった、と思った。昨日新橋さんに会うために、いつもより早くセットした目覚ましをそのままにしていたのだ。
 眠い。まだ眠気が霧のように私の脳内を覆っている。霞みがかった頭はぼんやりと、とりとめのない思考をする。いつかどこかで見た景色。遠い昔の記憶。そこでお父さんとお母さんと私が手をつないで笑っている。
私はそれが好きだった。たぶんきっと、覚えてないけど好きだった。
 ぴぴぴぴぴ、と音がなる。
 まぶたを開く。いつの間にかもう一度眠っていたらしい。目覚ましを止めてから確認すると、さっき起きてから十分後になっていた。どうやら二度寝防止の機能が働いたらしい。その機能を完全にオフにする。
 仰向けにベッドに寝転がり、一瞬、新橋明日香に会いに行こうかと考える。きっと彼女は今日もあの公園で、劇の練習に興じているに違いない。ガラスの動物園という、あの劇の練習をしているに違いない。
 行けば会える。
 いや、ひょっとしたら、窓の外からあの公園が見えるかも。そう思いベッドにひざをつき窓を見下ろしたが、角度が悪いのか見えなかった。二階にある別の窓ならば見えそうだが、そこまでの根性は、結局はない。
 再び寝転がる。寝転がった瞬間、どうして今、新橋明日香に会いたいと思ったのだろうと疑問に思った。
 考えても良く分からなかった。私は目覚ましをセットする。いままでの、普通に学校へ行くときの時間。
 タイマーをかけて寝転がる。快適とはいえないが、なんとか浅い眠りにはつけそうだった。

          ○

 今日の彩は何かが変だ。
 口には出さないけれど、洋子もきっとそう思っている。
 おかしなところその一。目つきが危うい。瞳がどこかとろーんとしている。眼を離した隙に液状化するのではなんていう恐ろしさがある。
 おかしなところその二。髪型が丁寧。なんていうか、いつもより丁寧。サイドポニーのトレードマークも、ミニーちゃんのような赤い水玉模様のリボンも変わらないが、毛先でくるくると遊んでおり、ゴージャスだ。
 おかしなところその三。口が結構半開き。いつもは可愛らしく上向きにきゅうっと結んでいる唇が、頻繁に半開いているのです。
 以上。
 以上三点からして、今日の彩は何かが変だ。
「ちょっと、トイレに行って来るねぇ」
 声をかけて、私と洋子を置き去りに、彼女は教室から出て行った。顔を見合わせると、洋子も私を見つめていて、二人して首をひねった。
「やっぱり、おかしいよね」
「だよね」
「とくにいつもなら、絶対一緒にトイレ行こうって言って来るもんね? あの子、一人でトイレに行けない系女子の権化だしっ」
「権化って……。洋子ってば」
 軽く笑う。けれどその表現は誇張されつつも的確なものだと思う。女子はトイレで群れるのが好きだ。どうしてあんなに一緒にトイレに行きたがるか、私には理解不能だけれど。いいか。一つはっきり言っておく。トイレは、排泄行動をするところなのだっ。決しておしゃべりの、井戸端会議の場ではありえない。そんなにトイレで集会を開くなんて、おまえらは便所コオロギかってんだ! ……ちなみにこのトイレ集会への強烈な反感は、個室トイレで下劣な音を出してしまったがばっかりに、出るに出られなくなって授業に遅刻したことに由来する。
「んー。何かあったのかなあ」
「何かあったのかもね」
「まさか、恋、とか?」
 いたずらっぽく洋子が笑う。まっさかぁ、あのお子ちゃま彩がぁ、という感情を背景に、「まさか」と言って上品に笑う。しかし笑ったとたん、あれ、案外的を射ているんじゃ、と背筋が寒くなった。
 立川だ。あの男と彩は昨日出会って、彩はなにやら興味がわいたようだった。おまけに立川は、可愛いと思った女はすぐに口説きにかかるような軽薄馬鹿である。甘いマスクに甘い言葉。ちょっとお子様な彩が、ころりと騙されても、案外違和感がないのかも……。
 どうしよう。あいつは駄目だ。私の直感は警戒信号を点滅させている。なんというか、ろくな男じゃない。こういうのはフィーリングだ。インスピレーションだ。
 私の直感は、割と良く当たる。ミスタードーナッツのスクラッチで、一等賞のスヌーピー人形をもらったことだってあるのだ。
 ちらりと背後を振り返る。今朝の新橋さんは友達に囲まれていた。みんなでアニメ雑誌を広げて、なにやらクフフと笑って……。あれ?
「灰音、どうかした?」
 洋子に声をかけられて、あわてて視線を戻す。感じた違和感をとりあえず端に押し寄せて、私は彼女と会話を続ける。彩がおかしいという話から、昨日の晩御飯の話にシフトされていた。彩が帰ってきたときに、自分の名前が会話から聞こえてたら嫌だもんね。洋子のこういった地味な気遣いは、とても好感がもてる。
「たっだいまー! って、ちょうどチャイムですかぁっ」
 予鈴が鳴り響く中、彩の大きな声が響く。漏れ出た音は周囲にまで笑いをもたらした。渋谷がわざわざ振り返って、「運わりぃなぁ」とげらげら笑う。
 彩はほっぺたを膨らませて、「うるさぁい」と可愛らしく抗議をした。皆ばらばらと席に着く。担任がやってきて、連絡事項を告げていく。二十日後に福祉会が開催されますが、と先生が言って、ああもう二十日後なのかとクラス中がざわついた。
 やばい。あまりにも何も進んでいない気がする。周囲の視線がちらちらと交叉する。集中するのは私と、それから千葉だ。
 私と千葉も視線を混じらせた。その瞳で、私は新橋明日香を思い出した。なぜか、福祉会のことではなく、彼女のことを。
『だから、演劇ならもしかしたら、あいつも積極的に福祉会に参加するんじゃないかなーって……。なんなら、主役だって引き受けてくれるんじゃないかって、そう思ったんだよ。そうやって一度でもクラスの中心に立てばさ、友達だって、出来るかもしれないし』
 千葉のあの言葉は、ひょっとして、あれのことだったのだろうか。
 さっき新橋さんを振りかえったとき、私は見てしまった。いつも、友達とアニメ雑誌を広げて気持ち悪く笑っていると思っていた。けれど、彼女は別に笑ってなんか居なかった。ただ回りに女の子がいて、その子達が笑っていて、新橋明日香は笑ってなんかいなかった。つまらなそうに肩肘をついて、ときどきぼそりと言葉を吐く。
 気付いていなかった。あそこにいる連中を一緒くたにして、ひとくくりにして、私は片付けてしまっていた。
「なんだかなぁ」
 誰にも聞かれないように小さく呟く。なんだろう。この感情は、なんだろう。
 人に合わせて笑うことも、人に合わせないで仏頂面なのも、ひょっとしたら同じことなのかもしれない。はたから見たら違和感で、もやもやっとして、自分の主義と違うから、やけに気になってしまうのかも。
 ぼんやりと前の席に座る新橋さんの後頭部を見つめる。野暮ったい髪型。けれど手入れはしているのだろう、艶はしっかりとある。
 この子は、何を考えているのだろう。私とは違うふうに世界が見えているのは間違いない。自分と同じように皆が感じているだろうだなんて、そんな幻想はとうの昔に置いて来た。
 自分がごちゃごちゃと物事を考えているそのとき、別の誰かは他のことで悩んでいるかもしれないし、心配事なんて何も無いのかもしれないし、はたまた恋愛などという幸せな空想にうつつを抜かしているのかもしれない。
 三十六人の生徒がいるこの教室には、三十六通りの思考がある。それは、考えてみればぞっとするくらい大層なことだ。私一人の頭だって、こんなにも重たいというのに。
 あとで。
 と、私は思う。
 あとで、新橋明日香に話しかけよう。うまく話しかけられれば良いけれど。
 あの子は、なんていうだろう。どこか達観しきったように、教室であたしに話しかけたくないんでしょう? と言い放ったあの子は。
 ねえ。本当は、分かってるんだよ。私、自分がすごく歪だってこと。笑いたくないときだって笑っていること。でもさ、それは悪いことかな? 周りの女の子をさけて、仏頂面で肩肘をつく君が、正しいとは思えないよ。私は間違っているかな? 確かに疲れた。ごちゃごちゃ考えるのも面倒だ。
 だから、私は君に話しかけるよ。君に会いたいと思ったから、君と話したいと思ったから。だから、話しかけるよ。
 HRが終わる。また休み時間が始まる。千葉が真っ先に立ち上がって、なぜか私に近づいてきた。どうやらさっき視線を合わせたときに、あいつはあいつで別の何かを感じ取ったらしい。三十六通りの思考。
「長谷川」
 福祉会、どうする? と、声をかけられるのだろう。分かってるよ。そんなこと。私は立ち上がった。彼女はもう一時間目の準備を始めていた。
「新橋しゃん!」
 馬鹿なことに、思い切り噛んだ。
 クラスのそこらじゅうがざわつく。「あれ長谷川さん、いま噛んだ?」「萌え……」なんて、小さな呟き。
 私は咳払いを一つつき、振り返った彼女と視線を合わせる。彼女は驚いていた。予想外。そんな顔。そんな顔を認めて、ざまあみろと思う自分が居た。
 そういうの、やめたほうが良いよと上から目線に忠告する彼女に、不意打ちでアッパーを食らわせてやるのだ。
 だって、私は、長谷川灰音なのだから。
「新橋さん、一緒に舞台にあがろうよ。役者をやるの。どうかな?」
 ああ、笑ってる。
 私いま、きっと、心の底から笑っている。
 対して、新橋さんの表情は、とても不可思議なものだった。何かを見透かしているような、賢者の輝きを携えた瞳。その瞳で私のそれをじいと覗き込んで、口元にはかすかな微笑を浮かべている。
 あがって来い。
 私は思った。あがって来い。クラスの福祉会の、あのしょぼいステージにあがって来い。他のクラスがやるであろう別の劇や、バンドや、コントや、歌や、ダンスや、なんもかんもを上回って、最高の舞台にしてやろう。
 そこで私は、きっと笑顔だ。クラス中を巻き込んで、笑顔で立ってやる。お前が偽者だという私の笑顔で、拍手喝采を浴びてやる。
 だから、すぐ側にいて。
 私は、決めたから。君に私を認めさせてやるって、そう決めたから。
 だから、あがって来い。
 新橋明日香はにいっと口元を歪めた。笑っているような、笑っていないような、良く分からない挑戦的な口元だった。
 その形で、彼女は言う。
「クラスのお遊び演劇なんて、やだよ」



 第三章・好き?

「はーいね、ほら、牛乳」
「ぎゃあっ。ちょ、ちょっと洋子。ふざけないでって」
「ふざけてないよー。ほーらー、灰音、牛乳だぞー。のめのめ、飲んで大きくなれ。背丈も、胸もぉ」
「わー! 洋子がセクハラ親父だ! セクハラ親父で妖怪牛乳押し付けだ!」
「なんだよ妖怪牛乳押し付けって!」
 もはや定番となりつつある昼のやり取り。私たちのそれを遠巻きからほほえましそうに眺めるグループまである。
 一昔前の流行歌がスピーカーから流れる今は、学校のお昼休みの時間だった。いつもなら洋子に加勢して牛乳を押し付けてくる彩が、ちゃちな恋心を歌ったミュージックに耳を傾けている。……これは、本格的に恋なのだろうか。そうなのだろうか。一友人として非常に心配だ。
「はい、洋子。今日ものーんでっ」
「さんく。……ねえ、どちらかといえば灰音のほうが、妖怪牛乳押し付けじゃない?」
 くふふと笑いながら私の牛乳に洋子がストローを指す。結局は毎日、私の分の牛乳は洋子の腹の中に納まってしまうのである。
 お弁当を広げて、ぺちゃくちゃと喋りながらご飯をつつく。肉団子を口に放り込んで、私は新橋明日香を見つめる。
 彼女は私の視線に気付いて、ちょっと眼を細めた。睨みつけているようにも見えるが、きっと眼が悪いだけだろう。こんなにも愛らしいこの私を睨みつける人類なんて、いるわけがないのだから。
 今日も新橋さんは、いつもと同じ女子に囲まれて御飯を食べている。コンビニで買ったコッペパンのようで、片手でそのコッペパンを掴んでダイレクトに口に運んでは、牛乳で流し込んでいる。なんとも大胆な食事だった。
 視線を自分の弁当に戻す。母さんが毎日作ってくれる弁当は、いつもなかなかに豪盛だ。いわゆる出来合いの冷凍食品はひとつもなく、家で作って冷凍したものか朝その場で作ったものだけが詰められている。レタスやミニトマトを使って色合いも鮮やかで、まるでお手本のような弁当だと思う。
「あ。そのハンバーグめちゃ旨そう」
「いいよ。あげる」
 洋子の弁当箱の蓋に、ハンバーグを移住させた。俵型の小さなハンバーグ。トッピングされたチーズとバジルが鮮やかだった。
「え、いいの?」
「うん。かわりにその玉子焼きくれない? ふわふわで美味しそう~」
「もちだよっ。灰音、さんくー」
 玉子焼きを受け取る。口に入れると想像以上に美味しかった。本当は欲しいわけじゃなくて、洋子の心に負担をかけないための配慮だったけれど、得したかもしれない。
「甘くて美味しい。洋子のお母さんは料理上手だね」
「あっはは~。実はそれ、わたしが作ったんだよね」
「え?」
「最近練習してるんだー。褒められると照れるね。ありがと」
 ちょっとはにかんだ洋子は、いつもよりずっと女の子らしかった。ふむ。男まさりなソフトボール女子だと思っていたが、こんな一面もあるんだな。
「ねえ、彩にも頂戴?」
「はいはい、どーぞ」
 洋子が笑顔で彩にも玉子焼きを渡す。昼食の時間は和やかに、穏やかに進んでいった。

          ○

「今日は金曜日だねぇ」
「そうだね。カラオケ行くんだよね! 楽しみ」
 御飯を食べ終わった後、私達三人は校庭を歩いていた。洋子がたまには外に出ないかと私達を誘ってきたからだ。たしかに今日は、昨日とはうって変わって温かい。秋の優しい日差しの下は、うっとりするほど気持ちが良さそうだ。
「灰音、イチゴアイスだかんね」
 振り向いて彩が私に言う。にっと笑った笑顔はいたずらっ子のようだった。
「わかってるわかってるって」
 話しながら外にでる。校庭では主に男子生徒が多く、ドッチボールに興じたりと騒がしい。
「おや、珍しいな」
 振り返ると千葉が立っていた。手にはバスケットボールを持っている。眺めていると、へーい、パス。なんて言いながら、私にそれを投げてよこした。とっさに手を伸ばす。しかし指で弾いてしまい、ボールはあらぬ方向へ。それを洋子がダッシュで追いかけて、見事地面に付く前にキャッチした。
「ナイキャ」
 千葉が言う。洋子はちょっと得意げな顔をしたあと、バスケットボールをドリブルし始める。
「懐かしいなあ」なんていいながらリズミカルにつく。運動神経はやはり抜群のようで、まったく危うげがない。
「ああ、そういえば長谷川」
 ん? と振り返ると、ありがとな、と言われた。なんのことだか分からない、と表情に出すと、明日香と小さく付け足された。なるほど。
 小さく微笑んで返事に変える。別に千葉のために言ったわけでもないのだけれど。
「福祉会、どうなるかな」
 訊ねてみた。
「まあ、なるようになるんじゃないか。所詮そんなもんだろ、福祉会は」
 楽観的なやつめ。けれど、のほほんと微笑む千葉を見ていると、たしかになんとかなるような気がしてくるから不思議だ。
「けれどとりあえず、脚本だけは早くどうにかしないとな」
「え?」
「だってそうだろ。決まってから書き上がるまでも結構掛かるだろうし」
「ああそっか。うーん」
 二人で頭を悩ませていると、おーいボ、オ、ル! と声がした。視線を向けると、両手を口の横にあててメガホンにした渋谷がいた。洋子がごめーんと言いながら バスケットボールを投げる。それから千葉に顔を向けて、
「ねえ、戻らなくていいの?」
「うーん。まだ長谷川と話してるしなあ」
「……。戻りなよ。友達みんな待ってるんだからさ! ほら早く!」
「わかったわかった」
 洋子にせっつかされて、千葉がバスケットボールの一団へと混ざっていく。そういえば彩はどこだろうと見回すと、ぼんやりと花を見つめていた。
「彩」
「へっ」
 声をかけると、裏返ったそれが返ってきた。
「何か考え事?」
「えー? そんなことないよぉ~」
 絶対に何かを考えていそうだが、深く突っ込むのはやめておいた。私は大きく伸びをして、秋の空気を吸い込む。まだ夏が残った、ぬるい温度の空気だった。

          ○

「監督と脚本、俺がやるから」
 千葉がそう言い出したのは、帰りの会のことだった。宣言した瞬間、わあっと一斉に拍手があがる。めんどくさいことを引き受けてくれてありがとう、の拍手である。千葉は困ったように、けれどきりりと真剣な表情で、勇ましい。
 こいつはまったく、損な役回りだなあと思う。将来的に良いお父さんにはなりそうだけど。家事とか、めっちゃやってくれそう。
「そんで、あと二十日のおおざっぱなスケジュールも考えてみた」
 五日後に脚本が終了。その後十五日間かけて、演技の練習。同じく十五日間で衣装や大道具や小道具の準備。音響や照明等の活躍は最後のほうで、終わりから十日間に打ち合わせやリハーサルと言った内容だった。
 千葉は黒板にタイムスケジュールを知覚的に書いてくれたから分かりやすい。
 とりあえず、私は脚本終了の五日後まで、やることはなさそうである。
「じゃあ、そんな感じで」
 千葉が締めの言葉を言うと、再び拍手があがった。面倒なことを引き受けてくれたお礼だけは、馬鹿に丁寧にするクラスだった。

          ○

 放課後。私達三人は連れ立って駅前へと歩いて行く。ぽかぽかと気持ちの良い天気はおでかけ日和だ。こんな日に動物園にでも行けたらさぞ楽しいだろう。まあ実際は、薄暗いカラオケ個室なわけですが。
「カラオケとか久しぶりー。彩、ぱみゅの新譜覚えてきたんだよー」
「あー。あの耳に残るやつね」
 ちょっと否定的に洋子が言う。私は慌てて、「リズミカルでポップで可愛いよねっ」と彩に笑いかける。彩は洋子の言葉を気にした様子はなく、私に「だよねぇーっ」と満面の笑みを向けてきた。
 わいわいと話しながら歩く。通りですれ違うと、ときたま視線を感じる。「うおっ。美人っ」とか、心の中で思っているのだろう。早起きした分を髪のセットにあてた私はいつも以上に綺麗なはずだ。一万円費やして買ったヘアアイロンを駆使して、ゆるふわパーマを入念にかけている。
「あ。もーすぐ灰音のバイト先だねぇ」
 彩が言い出したのは、カフェまであと五分といった地点だった。バイトが休みの日とはいえ、なんとなく遊んでいるところを見られるのは気まずい。というか、学校の友達に対する私と店長に対する私は微妙に違うので、少し対応に困ってしまう。だから意識して意識しないようにしていたのに、話題を振られては仕方ない。「そうだねー、もうすぐだね」と曖昧に笑い返しておく。
「あー! 灰音ちゃーんっ」
 なれなれしい声に振り返る。立川が立っていた。服装は灰色のスェットに、カーキ色のカーゴパンツだった。ようやく上半身の服装が変わっているが、首からさげた金のネックレスは相変わらずで、太陽の光を浴びて鈍く光っている。
「はにっ」と、横で彩が鳴く。立川も気がついたようで、「あ、彩ちゃんも一緒なんだ」とはにかむ。「はいっ」と勢い良く返事をする彩の声は、いつもより半オクターブ高い。なんだかなぁ。
 ちょんっと、肘を突かれる。目線だけやると、洋子が「この人だれ」と顔全体で問うていた。そこではたと気づく。……この人、なんて表現するのが正しいのだろう。新橋さんの元彼ですと説明するのは無理だし、私と関係なんてないし。
「あー。俺、えっと、この店の客? ていうか今日もこの店に来たんだよねー」
 洋子の疑問に気づいたのか、立川が助け舟を渡してくれた。指差した先にはカフェ、エーデルワイス。なるほど、と洋子がうなずくと、また人好きの笑みを浮かべて、「僕、立川つばさ。君は灰音ちゃんと彩ちゃんの友達?」
「ええ。……佐野、です」
「佐野なにちゃん?」
「…………洋子です」
 警戒心たっぷりの洋子の視線にも、立川はめげずにニコニコとしている。
「洋子ちゃんかー。ていうか何、みんなでどっか行くの?」
「彩たち、これからカラオケに行くんですぅ」
「へぇ、カラオケ」
 口笛でも吹くような口調で、立川が言った。
「いいねぇカラオケ。懐かしいよ。僕もよく友達や劇団の仲間とやりに行くんだよね」
「劇団?」
 と、声が二つそろった。私と彩だ。立川は、あれ言ってなかったっけ? なんておどけながら首をかしげ、まあ言うタイミングも無いか、なんて言って自己完結をしている。
「僕、劇団に所属してるんだよ。まあいわゆる売れない役者ってやつかな。『劇団くろばな』ってとこなんだけどね」
「へーっ! カッコいいですね! 立川さん、どおりで二枚目だと思いましたぁ」
「ははっ。ありがとう」
 きらきらと輝く瞳を彩が浮かべる。対して私は、少し怪訝な瞳をしている……と、思う。
劇団。
 ひょっとしたら私は、何かを勘違いしていたのではないだろうか? いや、待てよ……。その劇団がきっかけで付き合っていたのか……? 
「ああそうだ」
 立川は何かを思い出したように、ポケットに手を入れる。取り出したのは、紙切れだった。書かれた文字に眼を走らせる。『ガラスの動物園』とタイトルがあった。
「あ、ひょっとして、劇のチケットですか?」
 爛々と輝く彩の瞳。立川はにこりと笑顔で、
「そう。一枚二千三百円なんだけどね。買ってくれない?」
 空気がぴきりと固まる。
 え、買うの? 二十二歳が女子高生に自分の演劇のチケット買わせちゃうの?
 そんな疑問が一気に脳内をうめつくす。しかしこんな不細工面を浮かべ続けるわけにもいかない。鋼のような意思で私はいつもの笑顔を取り戻す。愛想は大事。
 しかし時はすでに遅かったらしい。立川はバツが悪そうに頬を掻いて、「いやぁ、ごめんね。ホントは君たちにあげたいんだけど、劇団も経営が厳しくて……。ホントにごめんね。どうでもいいからさ」と言いながら紙切れをポケットに引っ込める。
「やっぱり、そういうところって、大変なんですか?」
 同情的な声を出したのは彩だ。仔リスのようなキュートな表情で小首をかしげる。立川はその瞳を真正面から捉えながら、苦く笑った。
「まあ、大変だよね。やっぱり劇だけで食べられるなんていうのはほんの一握りだし。テレビのオーディションなんか、なかなか受からないしね。バイトでどうにか食いつないでいるって感じ。それでも辞められないのは、やっぱり快感……なんだろうな」
「快感……?」
「そう。舞台に立ってさ、演技をやる。注目を浴びてそわそわするけど、その気持をねじ伏せて思うんだ。夢中にさせてやるって。そうして、劇が終わった後の拍手喝采。あの衝撃を全身で味わったら、やめられないよ、演劇は」
 にっと笑う立川の笑顔は、得意げな少年そのものだった。ああ、輝いているなと、私はこのとき初めて彼に好感をもった。
 同時に思う。私には、あるのかな。彼のように、やめられないものが。眩しいものが。
「素敵」
 小さくつぶやいたのは彩だ。ああ、もう駄目だ。これは確定だ。こいつ、惚れてやがる。若干の絶望を覚えながら思う。けれど、今朝よりはまだその気持が理解出来るような気がした。
「彩、買います!」
「え、ホントに良いの」
 喜色満面の声をあげる立川に、彩は満足気にこくんと頷く。それから私と洋子の顔を順番に見て、「ねえ、一緒に買おうよ!」と声を張り上げる。
 洋子の反応は早かった。面倒さを隠そうともせずに、「えー、演劇? 悪いけど、興味ないな。ごめんなさい」と彩と立川に言葉を返す。悪びれなく、またさばさばとした洋子の口調は、これ以上交渉の余地がないことをはっきりと示している。だいたいが、高校生にとっての二千三百円は、貴重なのだ。とんでもなく。
「灰音ぇ……」
 必然向けられる、羨望の眼差し。彩が、灰音、一緒に来てくれるよね? と二つの瞳で訴えかけてくる。瞳はうるうると涙ぐんでいる。……。私は頷いた。「良いよ」
「やったぁ!」
「え、ホントに!?」
 彩と立川がそろって嬉しそうな声を上げる。私は財布を取り出して、二千三百円を手渡した。彩もだ。
「ホントにありがとう! 初演は明日で、これから一ヶ月毎週末に演ってるから!」
 おいおい、急な話だなと思いながらチケットを受け取る。
「一緒に見に行こうね」と飛び跳ねる彩に、頷き返す。洋子が怪訝そうな顔をしていた。
「立川さんは出るんですか?」
 彩が尋ねる。
「もちろん。劇の中で重要な人物なんだ」
「わあ! 主役ですか?」
 んーっと、立川は顔をしかめる。
「この物語の主人公は、女の子だからね。ローラって名前の。僕はまあ、その子の弟役で、この劇はその弟の追憶という形で進んでいくんだ」
「すごぉい! 劇、楽しみにしてますね! あ、連絡先を教えてもらってもいいですか?」
「もちろん」
 ちゃっかり携帯電話を取り出し、彩は立川と連絡先を交換した。灰音ちゃんもと立川が言うので、なんとなく断りにくくて交換してしまった。
「じゃあね。待ってるからね」
 片手をあげて軽く振り、背を向けて去っていく。その後姿を彩はぼんやり眺めていて、時折携帯電話に視線を走らせては顔をぽっと赤くする。友人としてあまり応援はしたくないが、それでも小さく彼女の幸せを祈っておこう。
 と、立川が去った後、ふと我に返る。
「……財布、軽くなった」
「彩も……」
 臨時出費のため、お気に入りの大人ぽいキティちゃんの財布は、すっかり軽くなってしまった。いや物理的にはあまり変わっていないのだけど、精神的に。
 二人揃って、すがるような視線を洋子に向ける。
「はいはい、カラオケはまた今度ね」と、教師のような口調で言った。
 そこから、しょうがないのでウィンドウショッピングに向かった。お金がなくても、品物を見てみんなでわいわいするのは楽しい。「この服可愛いっ。試着してみようっと」と笑って、彩がハニーズの試着コーナーに消えた時、洋子がふっと私に近づいてきて、
「ねえ灰音、無理してない?」と訊ねてきた。え? っと振り返る。
「演劇なんてホントに行きたかった? 彩に端から端まで付き合うことはないんだよ? 灰音は優しいけどさ、お金ってタダじゃないんだし」
「あ、うん」
「今度から気をつけなよ」
 したり顔の洋子を見て、まるでお母さんだなぁと思う。無駄遣いしないように。そういって、小学一年生では百円。二年生では二百円と毎年順々に上がっていくお小遣いをくれた。そのちっぽけなお金を握りしめて、何を買おうかと百円ショップなんぞをうろうろしたことは記憶に懐かしい。
 しかし今回に限って言えば、まんざら、彩に流されただけとは言えない私が居た。
 なにせ、二千三百円なのだ。友達に合わせて一つ六百円程度のストラップを買うのとはわけが違う。値切ればそのストラップを四つほど入手できるような価格なのだ。セールで狙っていたバイカラーのヒールだって買えるのだ。
 まあ、流されたことは否めない。彩が居なければ買ってないとは思う。
 それでもそのチケットを一目見た時、正確には『ガラスの動物園』という文字を見た時、「行きたい」とほとんど反射的に思ってしまったのだ。新橋明日香の演技がよぎった。
 朝っぱらの公園で、大きく張り上げた声で演じていた彼女。まるで新橋明日香ではない、別の誰かのような所作。
 あれを、見てみたいと思った。
 彼女だけが別世界の空間な、早朝の公園なんかではなく、整えられたステージの上でスポットライトを浴びる彼女を見てみたいと思った。
 まあたしかに、二千三百円は、ちょっと高いかなあとは思うけど。

          ○

 いざ、敵情視察へっ!
 時刻は九時。自然と目が覚めて、布団の中でスマートフォンを弄り続けていた私は、気合を入れて立ち上がった。
 丁度いいから明日行こうと、彩と二人で帰り際に決めたのだ。花の女子高生で土曜日だというのに、お互い休みの予定がないとはこれいかに。
 ちょっと残念に思いつつ、クローゼットを開く。絶対にクラスメイトには見られたくない部屋着から、カジュアルな服にシックな服。遊び用にスポーツ用によそ行き用にと、種類豊富な洋服から、私は一着のワンピースを選んだ。
 秋らしいデザインのモスグリーンをベースにしたワンピースだ。下着を変えてワンピースを着こむ。洋服の準備が完了。続けてもろもろメイクの材料を取り出して、室内にある鏡台の前に座る。
 今日は舞台演劇。そして敵情視察。
 私は念入りにお化粧をすることにした。指にファンデーションを出して、人差し指につけ、ぽんぽんと頬にスタンプしていく。続けてファンデを伸ばしながら、はたと気がつく。彩。
 しまった。彼女に見られてしまうじゃないか。どうしよう。いや、大丈夫なのか? 新橋明日香が居たとして、それが何になるというのか。「あー、なんか居たねー。すごいねー」で終わるのではないだろうか。
 つらつら思考を続けたまま、チークを頬にのせる。にっこり笑った顔を見ながら楕円形に描く。自然な作り笑顔を見ている内に、まあなんとかなるかと思えてきた。
 そうだそうだ。なんとかなる。カーラーでまつげを整えながら、私は着々と準備を進めていった。そうして化粧を終えて、前日に荷物を整理しておいた鞄を取り出す。髪の毛も整えてカールして、準備は完璧だ。
 私は待ち合わせの駅前に向けて歩き出した。休日の午前は、いつもよりちょっとだけ賑やかだ。手をつないで歩くカップルや、友達と遊ぶ中学生のグループなどが目立ち、灰色や紺色が目立つ平日の駅前とは華やかさが違う。飛び跳ねるように歩く彩を途中で発見し、私は「おはよう」とその背に声をかけた。振り向いた彩は、いつもよりずっと気合の入った服装だった。オレンジのワイシャツに茶系のジャケットを合わせて、白いラインの入った深い赤色のスカートをまとっている。靴下はニーソックスで、白い太ももがちらちらと覗くのがいじらしかった。
「おはよう灰音」
 弾けるのは、とびきりの笑顔。楽しみで楽しみでしかたがないという様子が、そこかしこから伺える。
「灰音は演劇って見たことある?」
 二人並んで歩き出す。その一歩めで彩が訊ねてきた。
「うーん。中学生のときに、学年みんなで見に行ったかな。いや、あれはミュージカルだっけ」
「え。中学でそんなことしたの? いいなぁっ。なんかオシャレ!」
「そんなに良いものでもないけどねー。ガヤガヤうるさいし。隣の子なんか、くちゃくちゃガムを噛んでいたっけ」
「それは気になっちゃうね」
 くすりと彩が笑う。ちなみにその子は先生に見つかって反省文を五枚書かされたらしい。
「で、どうだったの?」
「そうだねぇ……」
 遠い記憶を探る。確かあれは、赤い髪の女の子が主役の劇だった。アニーだとか、アンだとか、そんな名前の元気いっぱいの女の子だった。題材は青春。女の子はたくさんの人と出会ったりぶつかったりしながら成長していくのだ。
「面白かった……かな」
 感じたことは、結局よく覚えていなかった。ただひとつ、めいっぱい拍手をしたことは覚えている。先生から指示されていたという理由もあるが、私は心の底から手を叩いていたと思う。
 会場中に広がる拍手の音は、耳が痛くなるほどの音量で、それを受ける劇の出演者達はいちようにまばゆい笑顔だった。
「そっかぁ。まあ彩、ミュージカルとか苦手なんだけどね。なんで急に歌い出すのか意味不明だし」
 がくっと膝が落ちた。興味津々に聞いておいてこの仕打ち。さすが彩としか言いようがない。浮かべた苦笑いを打ち消して、
「たしかにね。必然性ないしね」と笑う。上手く笑えていると思う。
「この劇もミュージカルだったりして」
「うーん。違うと思うけど」
「どんなストーリーだろうね。やっぱり、新種の動物が見つかるのかなぁ。ガラスみたいに綺麗なライオンとか。強くて壊れやすいとか、ちょっと素敵だね」
「あはは。そうだね。でもこの劇、実際の動物は出てこないよ」
 私は新橋さんに教えてもらった『ガラスの動物園』のあらすじを彩に伝えた。ローラという傷つき易い内気な少女が出てくるお話で、彼女が戸棚にガラス細工の動物を集めているということを。
 彩は、「へーっ」と関心した声を出した。
「灰音、詳しいね。さすが博識! よ、成績上位者っ」
「た、たまたまだよー。ていうか、気になってちょっと調べたんだって」
 とっさに誤魔化してしまった。こんなところから、新橋さんと私の関係なんて、分かるわけないのに。
 駅につく。
 鞄の中から財布を取り出す。使うのはSuicaだが、財布の中に収めているのだ。彩は鞄から可愛らしいクマのぬいぐるみ型のカードケースを取り出した。見るたびに、そういうのも良いかなと思う。けれど、少し子供っぽい感じがして、自分のキャラと合っていないかなぁと思うのだ。
「へっへー。電車でお出かけするの、久しぶり」
 彩が笑う。私はそうなんだと頷いた。
「うん。今は欲しい服があっても、通販で買っちゃうからね。前はよく東京とか出て行ったんだけど、最近はこの辺にも可愛いお店が多いし。そこで洋服を見て、その後でネットで買ったり」
「そうなの? なんか以外。彩ってネット使いこなしてるね」
「オシャレに努力は惜しまないのですぅ。ほらほら、このスカートも通販だよ」
 電車の中でも変わらず、彩の声はよく響く。周りの迷惑を考えて私はトーンを抑えているが、まったく合わせる気配がない。内容も薄っぺらで、まるで朝のバラエティニュースを聞いているようだなと思う。
 まあ人生において実りのある話なんて、なかなか聞けないけれど。とくに、彩を相手では。
 それでも時間つぶしにはなって、目的地の駅まで退屈することなくたどり着くことが出来た。電車で三十分という道のりでたどり着いたのは、私達が住む町よりちょっとだけ賑やかな場所だった。高いビルが多い。けれど、空をうめつくすほどの大都会には程遠い。
「あー、楽しみ!」
 言いながら彩はチケットを取り出した。裏に簡単な案内図が付いているのだ。
「こっちだ! ……と、思う」
「ちょ! 待って待って」
 彩が指差し歩き出したのを慌てて止める。私達が目指す劇場とはまるで正反対の道だった。
「ほら、調べてきたから」
「わっ。さっすが灰音ぇ。……灰ネェって呼んでいい?」
「……」
 はいはい、というギャグを思いついたが、私は口をつぐんだ。かわりにニコッと微笑んで、返事に変える。ちなみに目尻が笑っていないのがポイントです。
 私は鞄から取り出した地図を広げる。チケットに書いてあった会場の場所を調べて印刷したものだ。下調べによるとそこはちょっと大きな市民会館のような場所で、小劇場が三階についており、そこらしい。
 地図を片手に歩くこと十数分。私達は目的の会館へと到着した。入り口をくぐり三階に行くと、受付がすぐに目に入った。長い茶髪のお姉さんと、無精髭の男だ。立川の姿も、新橋さんの姿もそこにはない。
 チケットを差し出すと、すんなりと中へ通される。席はまばらに埋まっており、話声がそこらで聞こえた。
「なんだかワクワクしてきたなぁ。ポップコーンとか売ってないかなぁ」
「映画館じゃないんだから」
「えーっ。でも、あったら素敵じゃない? 彩、キャラメルポップコーンだーいすきぃ」
 子供っぽい舌っ足らずな声。私はまた笑顔を返してから腕時計を確認した。余裕をもって着いたため、開演までまだ二十分ほど時間があった。
「トイレ、行っておこうか」
「あ、賛成ぃー」
 跳ねるように席を立った彩と一緒に一度会場から外にでる。受付でトイレの場所を尋ねると無精髭の男が丁寧に場所を教えてくれた。
「立川さんいないかなー」
 彩は辺りをきょろきょろ見回しながら歩く。今の声も大きかったので、近くに居たなら向こうからやって来そうだな、なんて考えていると、不意に視界に新橋明日香が映った。
 黒い長袖のトレーナーを着ていて、下は動きやすそうなジャージ姿だった。腕まくりをして、何か大きな板を運んでいる。あれ? なんであんなことをしているんだろう。新橋さんの後ろ姿は、後ろ姿のままどこかへ行ってしまう。
「灰音?」
 と声をかけられて、思わず彩の視界を塞ぐように自分の身体を動かした。新橋明日香の姿を捉えても気づきはしないかもしれないけれど。
「トイレ、どっちだっけ」
「もー! さっき聞いたばっかでしょ、こっちだよ」
「……ごめん、彩。そっち逆方向」
「知ってるのに何故訊いた!?」
 新橋明日香をごまかしたかったからです、とはもちろん言えず苦笑いを返す。冗談冗談と付け足せば、きっと冗談になるはずだ。
 彩とトイレに向かいながら、さっきの後ろ姿は見間違いだったのかなと私は考えた。
 あの野暮ったい黒髪ショートカットは、あの妙に小さく感じる背中は、間違いなく新橋明日香だと思うのだけれど。
「もうすぐだね」
 トイレから会場に戻ると、まばらに埋まっていた席が、少しはましになっていた。しかし会場に人は少ない。ざっと見渡す限り、二百五十人は収容出来そうなこの会場に、客は百人ちょっとほどしか来ていない。『劇団くろばな』なんて聞いたこともないし、こんなものかもしれないなぁと納得した。
 ブザーがなる。中学のミュージカルのときもそういえば、耳に残るこの厄介な音は響いたような気がする。アナウンスが流れる。真紅のカーテンはまだ開かない。本日は劇団くろばなの公演にお越しいただき、まことにありがとうございます。と綺麗な声がスピーカーから聞こえてくる。滑らかに進んでいく劇団と劇団員の紹介、そして『ガラスの動物園』の前説。この作品は一九四五年、テネシー・ウィリアムズが三十四歳の時に発表されました、うんたらかんたら。
 説明が終わり、ブザーがもう一度なった。ゆっくりと幕が開いていく。この幕の奥に、新橋明日香が控えているのだ。そして自分の殻に閉じこもった内気な少女の役で現れる。私は息を飲んだが、幕が開いて現れたのは一人だった。
 中央に一人、立川つばさが立っている。身を乗り出したのは彩だ。立川の衣装は、どこか外国のあまり良くない暮らしをしている青年のものだった。薄汚れたズボンに、ボーダーのシャツと灰色のパーカーを合わせ、頭にはこれまた汚いハンチング帽をかぶっている。
 舞台は真っ暗で、絞られたスポットライトを浴びた立川の姿だけが浮かび上がるように存在している。
「これは、過去の話です」
 立川が放った第一声は、劇場に程よく響いた。つんとした氷のような声は、いつものふわりと浮かぶような軽く明るい声とは別物で、ああ、演技をしているんだなぁと感じる。
「僕達がまだ、家族だったころの話。ああ、僕達というのは、僕と僕の母さんと、そして僕の姉さんだ。僕の母さんはアマンダというのだけれど、これがまた強烈な理想主義者でね。おまけに過去の栄光にばかりしがみついて、やってられないのなんのって。まあそれでも、騒がしいほど明るい善人には違いないんだけどね。そして僕の姉さんがローラ。彼女はアマンダとは正反対の性格だね。見ているだけで不安になるくらい繊細な子なんだ。とても臆病で内気で……。それに、自分にすごく自信がない。もういい年だというのに、働きにもいかず結婚だってしない。母さんは彼女のことがすごく心配なんだな。最後に僕、トム・ウィングフィールドの紹介だ。っといっても、自分のことを語るのは好きじゃないので一言だけ。働いているんだ。荷物を整理するだけの、単調でつまらない仕事さ。体力だけ使っていれば良いという感じの作業だね。さあ、基本設定の説明は終わりだ。話の本題に入ろう……って、忘れちゃいけない人の紹介を……忘れていた」
 立川の右後方に、明かりが灯った。薄暗い舞台の上に、写真が浮かび上がる。年をとった男の写真だった。ニカッと笑った笑顔が、浅黒い肌をより健康的に見せている。立川がゆっくりと客席を見回してから口を開く。その瞬間、引きこまれたと思った。
 さきほどから、立川の一人芝居が続いている。動きはほとんどなく、張り付いたように足は動かない。
 けれど、ふとした瞬間に見せる表情だとか、身振りや手振りだとか、話のトーンだとか、そういったものの端々にすっかり感情が込められていて、このトムという人物が家族を疎ましく感じつつも確かに愛しているということが伝わってくるのだ。
「彼は、僕達の父親です」
 浮かび上がった写真を、手のひらを開いて指し示しながら客席に伝える。
「僕とローラが幼いころに、アマンダを放り出して町を出て行ってしまいました。消息は元気だというポストカードが一枚とどいたきり。そこにはどこか遠い外国の地で笑顔を浮かべる父の写真がありました。まあそんなわけですから、我が家は大変に貧乏なわけです。僕と母さんが働いて、家族三人慎み深く暮らしております。さて物語の本筋を語りましょう。これは、一人の青年紳士が、我が家を訪れ食事をする、ただそれだけの話です」
 照明が落ちる。コツコツと足音を響かせて、立川が舞台から去っていくのがわかった。
 そして、再び明かりが点く。スポットライトではなく、舞台全体の明かりだ。
 ようやく明らかになった舞台のセットは、貧乏な外国の家と言った感じで、大きなテーブルと、ソファと、キラキラと輝くガラスの動物が飾られた棚とがあった。先ほど浮かび上がっていた父の写真は、カレンダーよろしく壁に吊り下げられている。
 その部屋には、一人、少女がいた。若い女だった。
そして、慌ただしく音がする。
「ただいまぁ! ローラ! ねえ、ローラはいるの?」
 と騒ぎ立てる声。そして、少女が顔を上げた。
 胸がつまった。否、ぎょっとした。なぜなら、その美しい少女は、新橋明日香ではないからだ。
「なぁに、お母さん」
 紡がれる言葉は、繊細で壊れやすさを表現しているのだろう、か弱く、可愛かった。
 違う。
 舞台の劇は進行していく。ローラが母親に嘘をついていたシーン。母親がローラに結婚を勧めるシーン。ローラが宝物のガラスの動物達を紹介するシーン。
 すべて、違うと思った。 
 ストーリーはわかりやすく面白い。ローラのキャラクターもわかる。舞台の大道具も小道具も、ここはどこか外国の街なんだと雰囲気を盛り上げてくれる。
 なのに、私は忘れられないのだ。公園で一人練習していた新橋明日香のあの姿を。彼女が演じていた、この劇のいち幕を。
「だってこんなに騒ぎ立てるんだもの……。なんだか、大事件のような気がしてくるわ」
 あの時のシーンだ、とすぐに分かった。初めて公園で新橋明日香の一人芝居を見た時の。
「どうして入れておかなくちゃならないの、こんなもの!」
 下手だとは思わない。けれど、新橋明日香のそれと比べると、舞台の上のローラはまるでなまくらだった。心の片隅で、ああこの子は演技をしているのだなと感じてしまうのだ。
 新橋明日香のそれは違う。
 心ごと奪われてしまって、こんなふうにガラス一枚通した場所では見られない。まるで一緒にその場にいるかのように、見ているだけで脳の感覚が錯覚を起こす。あの一挙一動が、あの響く声が、私は見たい。私は聞きたい。
 劇は終わりに近づいていた。食事を終えた青年紳士の役者が、家を出て行く。舞台の明かりが落ちる。余韻を残すように和やかな音楽がなって、再び明かりが点く。始まりと同じように、一部分だけに絞ったスポットライトだ。現れたのは、再び立川の姿だった。仰々しくお辞儀をして、一人語りを始める。もう一度彼が頭を下げた時、会場には拍手が沸き起こった。舞台の演者たちが次々と現れて、右へ左へお辞儀をしていく。心地よい感動の波がそこにあって、私もたしかにその波の中に居たけれど、ふわりと漂う細かなゴミのように少しだけズレた存在だった。
 役者たちが舞台の上から立ち去り、客席が明るくなる。「面白かったね」とはにかむ彩。
「劇とか始めてみたけど、ほんと、興奮した! やっぱり生っていいね。ぐいぐい引きこまれて、どうかローラが幸せになれますようにって願ってた」
 まぶしい。まぶしいくらいに、ストレートな感想だ。
「そうだね」
「あのローラの役の子、すごい綺麗だったなぁ……。とくに、着替えた後のドレス姿……」
 この言葉は、どこか少し不安げだった。立川のことがあるからだろう。まさか立川さん、あの子のこと好きじゃないよね、いやもしかして付き合ってたり……。なんていうことを考えているかも。
「そうだね、綺麗だったね」
 彩が不思議そうな顔をする。わかってる。今の言葉には、刺があった。口にだしたあと、自分でも少しぎょっとした。慌ててニコリ、笑顔を作る。
「面白かったね。来てよかった」
「だよね!」
 弾けるような笑顔の彩は、ぴょんと飛び跳ねるように席をおりた。

          ○

 会場をでて会館の廊下を歩く。先ほどまでは室温が保たれた場所に居たからか、入ってきた時よりずっと寒く感じる廊下だった。ポケットに手を突っ込みたい衝動に駆られるが、ぐっと堪える。あれをやると、少しガラが悪く見えるのだ。女の子の手はふんわりと、ペンギンのように真横にあるのが望ましい。
「ん」
 っと、ちょっとエロティックな声を彩が漏らしたのは、三階から二階へ向かう階段の途中だった。目線の先を追うと、二階の広場のような場所で、劇団の一員なのだろう、黒い長袖のシャツと作業しやすそうなズボン姿の人物達が、談笑しながら何か作業をしていた。
「立川さん、居るかな?」
「居ないんじゃないかなー。あそこにいるの、劇の裏方さんっぽいし」
 ひょっとしたら、居るかもしれない。
 ローラの役をやると言っていたのに、ついぞ舞台の上には現れなかったあの嘘つきならば。
「……控室とか聞けないかな」
「え? いやいや、やめとこうよ、迷惑だろうし」
「でも、でも、彩たち立川さんに招かれてるんだよ? 挨拶しないほうが失礼じゃないかなー……なんて」
 ちらりっと、彩が自分の鞄に視線を向けた。何か贈り物でもあるのかな、とほとんど瞬間的に思った。そういう少女なのだ、彩という奴は。
「……帰ろうよ。お礼とか感想ならほら、後日会った時にでも言えばいいし」
「でも、でも、それじゃあ印象が薄れちゃうよぉ……」
 ぽつり紡いだ彩の声は、隠そうともしない恋心の発露だった。ふっと顔をあげ、彼女は真正面から私の瞳を覗きこんだ。その奥にはまっすぐな光。いつかどこかで見たような、いや、それとはちょっと違うような。
「あのね、灰音だから言うけどねぇ、彩……立川さんのこと、好きになっちゃったみたいなの」
「…………」
「応援、してくれるよねぇ」
「もちろん」
 と流れるように口から言葉が出た。
 心の底からの言葉ではなく、今日一番のはりぼてだって自分でも分かった。立川つばさという男に、私はあまり良い印象を持っていない。軽そうだし、新橋さんの元カレ? だし、彼女を泣かせて怒鳴っていたし、顔は格好良いけれど、あちらこちらにそれを鼻につけたような態度が見え隠れしている。
 けれど頷いたのは、たぶん、彩を傷つけたくないからだ。友人のまっすぐに恋をする気持ちなのだ。応援したい。当然、だろう……。
「じゃあ、行こう」
 あ、待って。とは、もう言えなかった。彩の背中はずんずんと劇団員達へと近づいていく。その背中には迷いはなく、完璧に吹っ切っていると思った。やるぞ。言うぞ。間違いなく。そんな感じの、振り絞った勇気を固めた堅い決意の背中。
 その背中を眩しいと感じる一方、止めたい。そう思った。立川に会いに行くのもそうだが、あの中に新橋明日香が居たとしたら……。もしも彼女が居たら……。
 でももう、止めようとしたって遅いのだ。ついていくしか、ないのだ。
「すいません!」
 彼らの一団から数歩離れたところで立ち止まり、彩は声をはりあげた。全員が顔を上げる。彩の声は相変わらず、大きい。
 そしてすぐに見つけた。
 私とばちん、瞳を合わせた新橋明日香は、ものすごく気まずそうな顔をした。不細工なツラをなおさら歪ませて、さらに不細工を際立たせて、どうしたって醜くって、……けれど、目を離せないようなそんな表情。
 その奥には、傷が見えた。あなたに会いたくなかったと、上目遣いの瞳が訴えていた。
 そしてその顔のまま、彼女は私から目をそらした。私は彼女から目をそらせなかった。
「はい、何ですか?」
 視界の隅で無精髭の男が立ち上がる。彩は最上級の甘い声で、「あのぉ、わたし達ぃ、立川さんからチケットをかってぇ、お祝いとかしたいのでぇ、どこに居るのか教えてもらえますかぁ?」
「ああ、はい、いいですよ」
 無精髭が道案内を始めた。
 私は顔をそむけたままの新橋さんがすっと立ち上がるのを見つめていた。行ってしまう。あんな顔を私に向けたまま。道案内の言葉が続く間、私は彼女の行方を追っていた。一階に降りて、扉から外に出るのを見続けていた。
「よし、行こう、灰音」
「……ごめん、私、トイレに行きたいし、彩、一人で行ってきなよ」
「え」
「その方が、印象だって上がると思うな」
 彩を振り返って、ちょっとだけ笑顔を作った。私は彼女を置いて、駈け出した。足音が響く。階段を一段飛ばしで駆け下りて、最後はちょっとつまずきかけて、新橋さんが出て行ったその扉から外へと飛び出した。左右を素早く見回すと、彼女の後ろ姿が見えた。狙いを定めて走りだす。私の足音に気づいたのか、彼女はちらり、背後を振り返った。そして戻した首をもう一度回した。浮かんだ表情は、驚愕。新橋明日香は走り始めた。
「待って!」
 声に出す。走って、走って、追いつかない。新橋さんも返事を返さない。女子高生が二人して、休日の賑やかな町を人混み避けながら走って行く。周りは奇異の視線を向けてくる。
 なぜこんなことをしているのだろう。単純に疑問に思う。足の動きが鈍る。新橋さんの後ろ姿が、少し遠くになっている。
 ……あの背中を、逃したくないのだ。
 私と目線があった時、傷つつけられたような顔をしたあの子の背中を。
「負けるかぁぁぁぁ!」
 足に力を入れる。体育の成績は普通だ。得意じゃないが、ペーパー試験が良い点数なのでずっと5段階評価で4をもらっている。新橋明日香なんて、明らかに運動ができなさそうな顔だ。教室の隅っこで本でも読んでいるのがお似合いなのだ。
 だから、負けない。
 地面を跳ね返して進む。距離は少し縮まった。追いつくはず。そう思った時、町行く人に思い切りぶつかってしまった。私は尻もちをついた。向こうが悪いわけじゃないのに、「すいません」と声をかけて、その人は立ち去ってしまう。呆然とした私が顔を上げた時、新橋明日香の姿はもうどこにも見えなかった。
 ああ、もう、ぐちゃぐちゃだ。
 綺麗にセットした髪の毛もそうだし、一応真剣に選んだお出かけ着だってそうだし、そして何より、私自身の心が。
「ばかだな」
 衝動に駆られて追いかけて、走る途中で無理に理由を作って。気に入られていたい友達を置き去りにして、そして結局追いつかない。
 何がしたいのか、分からない。自分がどうなりたいのか、分からない。
「ほんと、馬鹿だよ」
 俯いていた顔をハッと上げる。黒い長袖のトレーナーと、ジャージのズボンの組み合わせ。目を覆いたくなるような激ださファッションに身を包んだ、少女。彼女は困った顔をして、けれどどこか笑っていて、そんな不思議な表情で、戸惑ったような声をだす。
「意味分かんない。なんで突然、急に、追いかけてなんかくるの。やめてよ」
「あのね、好きだよ」
 反射的に飛び出した言葉に、自分でも驚いた。新橋明日香も驚いていた。二人して目を丸くして、沈黙すること数秒。私は今言ってしまった言葉を反芻して反芻して、そしてかあっと頬が一気に赤くなっていくのを感じた。
「や! 違う。違う。えーと、なんか、今のは違くって、そうじゃなくて、なんていうか、そう、演技!」
「……演技?」
「今日、劇を見てたよ。……私は、……新橋さんのほうが」
 ああそっか、と納得がすとんと落ちてきた。私は伝えたかったのだ。感動した料理のシェフをテーブルに呼んで、褒め称えるセレブのように。けれど気持ちにはっきり気づいた途端、私の唇はうまく動かなくなってしまった。強がり、意地っ張り、馬鹿野郎。
 ただ、新橋明日香は私の言いたいことを、きちんと汲み取ってくれたらしい。力の抜けた、やわらかな表情で微笑む。「ありがとう」と紡がれた言葉はとても自然で、私の中で小さな暖かさを生み出した。その気持をうまく処理できない。
「ローラの役、やるって言ったのに」
 だからだろう、立ち上がりながら憎まれ口を叩いてしまった。しかも、すねた子供のような声で。
「あれ、嘘じゃないから。代役(アンダー)には、選ばれてたんだから」
「代役?」
「役者が風邪で来れなかったり、怪我をしたときに、変わりに演じる人のこと」
「……控えってこと?」
 新橋さんは悲しそうな顔で頷いた。目尻が下がる。
「…………なんで?」
 口から飛び出したのは素朴な疑問だった。新橋さんのほうが、ずっと素敵なローラになれるのに、と。
 彼女はじいと私を見つめていた。何か付いているのだろうかと不安になるくらいに。
「顔」
 やがて彼女は唐突に、開き直ったような声を出した。地面にたたきつけられたその単語は勢いよくどこかへ跳ね返っていきそうだ。
「あたしの演技は完璧よ。あの子より上手いわ。けど、ローラはとても綺麗で、可愛い女の子なの! ……代役に選ばれたのだって、十分、凄いんだから」
 最後は自分を慰めるような、噛みしめるような声だった。それがなんだかとても悲しくて、私は新橋さんに何かをしてあげたいと思った。
 けれど、何をすればいいのか、思いもつかない。
 苦し紛れに出た言葉は、「人間、顔じゃないよ」なんていうありきたりの言葉だった。新橋明日香は私の言葉に、ふんと鼻を鳴らした。
「あんたに言われると、なんだか、ムカツクわ」
 よくもまあ、面と向かってこんなことが言える。こっちはあんたを慰めたいんだぞ! ちくしょうっ。
「ごめんね」
 笑顔で言う。
「だから、顔に出てるってば」
 と呆れたように新橋さんに言われた。私は作った表情を戻した。自分がどんな顔をしているのか、分からない。ただ笑顔でい続けることは恥ずかしく感じたし、無意味なことだと悟った。
「いまのは、良い意味でムカツクっていったの」
「良い意味?」
「あんたの顔は、だって、とても綺麗でしょう」
 不意打ちで、ぎくんとした。まさかコイツが、私を、褒めてくるだなんて。
「……あたしさ、自分の顔、すごく嫌いだった」
 どこか遠くを見る瞳で、新橋明日香は言う。
「この間学校の授業でさあ、致死遺伝子って習ったじゃん。あれって良いよねって、ちょっと思った。あたしの父さんも母さんも、結構酷い顔でさぁ。まあ、そこそこ見れるんだけど。でもあたし、両方からダメな部分ばっか受け継いじゃったんだよねぇ。顔が大きいのはお父さん似。鼻が開いてるのはお母さん似、とかさ。あの遺伝子が不細工にもあったら、生まれてこなくて済んだかも」
「そんなこと……」
「なーんてことを、中学時代のあたしなら考えただろうな、間違いなく。今もそうだけど、不細工ってだけで男子からの扱い結構変わるし。ま、良いけどね」
 いつかの事を思い出した。渋谷が新橋さんにぶつかった時のこと。私や、彩や洋子に対する態度とは、全然違った。
「そんな悲しそうな顔しないでよ。顔がなによ。今回は残念だったけど、あたし、信じてるんだから」
「信じてる……」
「褒めてくれたんだ、立川さんが。ずっと昔のことだけどね。人間の顔をさ、例えば百人とかで平均化するの。そうしたら、美人になるんだって。美人ってさ、究極的にはどこか似通っていて、同じなんだよ」
 この言葉の言い回しには、どこか気遣いが感じられた。彼女にしては、珍しく。
「演劇は、あたしのこの顔を武器だって言ってくれた。個性的で、他の誰でもない、新橋明日香なんだって。大きな顔も、舞台栄えするって。私は名を残す。綺麗な顔じゃないけれど、この武器で名を刻む」
 大げさだなぁと思った。
 名を刻むなんて言葉、素で言っている人を始めてみた。おまけに結構人通りのある町中で、劇団員ゆえのよく通る声で。
 眩しい。
 どうしようもなく、眩しい。たったいま、私の目の前で夢を語ったこの生物は、今まで見たどんな人よりも、鏡の中の私よりも、ずっとずっと美しい。
「走ってきてくれて、あたしの演技を好きって言ってくれて、……すごく嬉しかった。ありがと」
 微笑んだ彼女は、不意に私に向かって右手を差し出した。女の子らしい、小さな手だった。握手。私はほとんど迷わずにその手をとった。状況に流されて、だとか、そんなことはなく、ただ自分の意思として。
「あんたのこと、灰音って呼んでもいい?」
「う、うん! もちろん」
 うんもちろんと答えた言葉はとっさだった。だって、この言葉はよく言われる。クラスが始まった時に、距離を縮めようと言ってくる。その時私は、あまり親しくないのになぁと思いながら、そんなこと、微塵も顔に出さない。だって、友達が欲しいから。誰かといつも一緒に居ないと、不安だから。
 けれどこのときばかりは、違う。
 嬉しいと、素直に思えた。
「そう。じゃあ、またね灰音」
「ばいばい……明日香」
 無理して紡いだ最初の呼び捨て。口元に違和感を残すこの響き。千葉のやつ、よくあんなにも気軽に呼べたものだ。
 新橋さんは、いいや明日香は、私から手を離して歩き出した。行ってしまうと思っていたが、途中で唐突に振り向いた。
「そういえば、一緒のところに行くんだった」
「あ」
 苦笑いを浮かべて、明日香に駆け寄る。会場までの道のりを、私達は並んで歩き出す。



 第四章・ひび割れた殻は戻らない

「ちょっとトイレ」
 といって私が席を立つと、彩がくすくすと笑った。もう一昨日のことなのに、と少しムッとする。
 明日香と二人で会場の前まで戻り、一緒に帰るのは気まずいと、時間をずらして中に入ることになった。最初に私が戻った時、すでに彩は用事を終わらせていたらしい。彼女と別れた二階の廊下に立っていて、壁に背中を預けていた。そして私を見るなり第一声、こう言ったのだ。
「すごいダッシュ力だったね。トイレ、そんなに限界だったの」
 ……と――っ。
 メールの文面ならまず間違いなく、かっこ笑いの記号がついたことだろう。まったく失敬な。いや確かに、トイレに行くといったのも私だし、そのあとダッシュしたから言い逃れ出来ないけれど……っ。
 彩の忍び笑いから背を向けて、廊下に出る。私達三人のうち、洋子と私は一人だってトイレに行ける。一緒に行きたいときはもちろん着いて行くが。対して彩は一人でトイレに行けない。「えー、一緒に行こうよ行こうよ」とねだられると、私は人の良さが売りなので断るわけにも行かない。
 まったく高校二年生にもなって、と、こちらだって彩のトイレは馬鹿にしているのだ。そんなむしゃくしゃを抱えたまま、廊下を歩く。しかしあくまでおしとやかにだ。頭のてっぺんをテグスで釣り上げられているかのように背筋を伸ばし、右足も左足も直線をなぞるようにまっすぐ出していく。いわゆる颯爽とした歩き方だ。
 パリに行くと、街行く人をすごく美人にオシャレに感じるらしい。しかし、パリの人が特別綺麗なわけじゃなくて、日本人と変わらない。ただ彼女らは、歩き方が綺麗なのだという。背筋を伸ばして、前を向いて、胸をはって歩くのだ。自分に自信がありますよとアピールするその歩き方に比べ、日本人のそれはうつむきがちで、猫背が多い。だからパリの人は、とても美しく見えるのだ。
 私の視界に、あまり美しくないものが映った。明日香だ。
 目の前で、一人ですうっとトイレに入っていった。あっちゃぁ、と心の中で額を叩く。なんとなく、トイレで彼女と顔を合わせたくない。私はそのトイレを通りすぎて、次のトイレを探す。確か下の階の同じ位置にあったはず。下級生が主に使うトイレなので、上級生がよく使う上の階よりは気が楽だろうと思う。
 用を済ませた私は、教室へと戻った。彩と洋子の近くに千葉が立っていて、何故か談笑に混じっている。近づくと、彩がまた微かに笑う。話しを止めた千葉が私の瞳を覗きこんで、「おお待ってたぞ」と片手を上げる。
「実は原稿を書き上げたんだ。長谷川。お前も確認してくれ」
「あ、できたんだ」
 千葉が示した机の上に、確かにファイルがおいてあった。最初の一枚目を開くと、『新訳シンデレラ』というタイトルが踊っていた。平凡な題名だが、フォントだけは妙に凝っている。ディズニーのそれをイメージしたのであろう薄い青のフォントで、バックにカボチャの馬車がシルエットで描かれていた。
 更にページをめくろうとすると、「だめだめ! 恥ずかしいから俺が居ないところで読んでくれっ」と懇願された。わかったと頷き、私はそのファイルを自分の鞄の中にしまう。席を戻ると、千葉にまたもや話しかけられた。
「あと、えーとさ」
「ん?」
「……役者は、どうしようか」
 明日香のことだなとすぐにぴんと来た。千葉は恐ろしいほどわかりやすい。鼻がひくひくと動いていて、言葉に裏があるなと一瞬にしてピンと来た。
「どうにかするよ」
 いつか、面と向かって、二人きりで、そしてはっきりと頼まれた時よりも、よほど力強い声がでた。千葉はどこか嬉しそうに、「そうか」と口にする。
 そうだよ、と私は心のなかで思う。
 明日香には、舞台に上がってもらいたい。勝負したいという意思や、演技を見たいという希望や、もっと仲良くしたいという思いや、いろんなものを混ぜこせにしてそう思う。
 そうだ。だから、明日は早起きをしよう。
 決意をこっそりと固めて、私は明日香の席を盗み見る。彼女は相変わらずの不細工ヅラを、けれど彼女が武器と呼んだそのツラを、青空が晴れ渡った窓の向こうに向けていた。

          ○

 朝。早起きして眠かったので、ちょっとヨガをした。仰向けの姿勢からうつ伏せに切り替えて、両手をついてゆっくりと顔を上げていく。上体を逸らしたならもう、上を向いた犬のポーズだ。続けて、その姿勢のまま腰を持ち上げて、身体をくの字にする。これは、下を向いた犬のポーズ。呼吸を意識しているうちに、脳に酸素がすっきりと通って行く。ぱっちり目が覚めた私は、クローゼットに向かった。服がダサいなど、二度と言われたくない言葉だ。とくに新橋明日香には。
 そんなわけで、朝からばっちりコートとミニスカートとタイツとブーツで決めてみた。コートが薄手なので、秋の早朝の寒さに程よい。
 いつもの公園に近づくと、早速明日香の声が聞こえてきた。ただ、どうも様子がおかしい。「んーーーーーーーーー」っと、永遠んーーーーーーーーーだけが聞こえてくるのだ。かなり耳障りな音だが、街行く人は相変わらず素知らぬ顔で歩いて行く。ときどき顔を歪める人はいるけれど、慣れっこのようだった。公園の中が見える位置に来ると、明日香のほうが先に私に気づいて口を閉じた。近づく途中で私は手を振って、明日香はとくに手を振らなかった。
「おはよう」
「なによう」
 返ってきた言葉に思わず吹き出す。私と全く同じ発音で、何用と言いやがった。問い詰めると、挨拶と問いかけがいっぺんに出来ていいかなって、と真剣な顔で言ってのける。ますます笑いがこみ上げてきて、ちょっとむせた。やばい、ツボだ。
 笑いが収まらなくなった私を、明日香は黙って、けれど無表情で見つめていた。一通り笑い終わり顔を上げると、「何が面白いのやら」と呆れた声で言われる。その平坦な口調で、またちょっと噴出してしまった。明日香は不機嫌そうに眉根をひそめる。
「で、本当に何のよう」
「いや、あのね、学校の福祉会、劇に役者として出てみない?」
「いいわよ」
「明日香の演技は綺……えぇ!?」
 ぱくぱくと口を動かす。何か問題でも? っと明日香はあごを上げてきた。いや、問題など、ない。
「どうして急に……」
「うるさい。別にいいでしょ」
 明日香は私を思い切り睨みつけてきた。その鋭い眼光に、けれど怒りの色は見えない。その言葉と態度がさっぱり分からなくて首をひねる。ふいを突かれたように明日香は「う」と小さくうなるとそっぽを向いた。その横顔のまま、「私が出るんだから、生半可な劇にはしないから。灰音、あんたもたった今から練習しなさい」と吐き捨てるように言った。
「れ、練習って……まだ脚本も読んでないし」
「発声練習」
 明日香はぴしりと背筋を伸ばすと、大きく深呼吸をした。全身の力がふっと落ちる。そして「んーーーーーー」と声を震わせはじめた。ああそうか、さっきのこれは、発声練習だったのか。
 一人納得しているうちに、明日香が口を閉じる。ちょっとだけ呼吸を整えると、私と向き合った。
「これはハミング。どこから声を出しているのか、意識できていいのよ。演劇の舞台じゃあ、喉から声を出したら通らない」
「あー……。よく、腹から声をだせ、とか言うね」
「そう。そんな感じ」
 二人、無言で見つめあう。小さく首をひねって見せると、明日香は不機嫌そうに眼を細める。これは、まさか。
「……私に、やれと?」
「あたりまえじゃない」
 ふざけんなぁ! と、声に出して叫びたかった。だって、こんな早朝の、こんな公園で、いったいどうしてあんなことが出来る?
「灰音、あんた恥ずかしがってるでしょ」
 見透かされたというよりは、思い切り顔に出ていたのだろう。明日香の指摘は的を射ていた。
「これはね、自分との戦いなの」
「戦い…」
「恥ずかしがってちゃ、だめなのよ。そんな演技、お客さんは見たくないわ。この恥ずかしさを乗り越えてこそ、味方につけてこそ、演劇は楽しいんだから」
 どこか優越感の含んだ笑みを浮かべる。お気に入りのアーティストのアルバムを、ドヤ顔で貸し出す彩の表情に似ている。
 心の底から。
 この子は演劇が好きなんだ、とそう思う。
 大きく息を吸い込んだ。
 めいっぱいめいっぱい酸素を吸収する。吸い込みすぎてつらい。そう思ったタイミングで、驚くほどいっきに吐き出してしまった。仕切りなおそう。深呼吸は、確かこんなもんじゃない。いつもヨガで呼吸は意識しているのだ。
 おなかに手を当てる。おなかをへこませながら、ゆっくりと鼻で息を吸う。限界の少し手前でとめて、そのまま二秒ほど停止。そこからゆっくりゆっくりと、おなかを膨らませながら息を吐いた。不思議と背筋が伸びて、視界がクリアになった気がする。
 さあ、言うぞ!
「んっ…………んーーぅ……」
「駄目駄目じゃん」
 ぴしゃりと言われた。確かに私の今の声は、誰にも届かない蚊の羽音だろう。けれど、本当に、想像以上に難しかったのだ。それにタイミングも悪かった。公園の前をサラリーマンが歩いていったのだ。
「灰音、殻を破るんだよ」
「殻……」
「灰音のことなんて、灰音が思う以上に人は気にしてないよ」
 どこか母が絵本を読み聞かせるような口調で言う。
 だからだろう。私のショックは幾分か緩和された。それでも放たれた言葉に私はしっかり爪あとを残されていて、酷く緩慢な動作で髪をかきあげる。
 私のことなんて、私が思う以上に人は気にしていない……。
「……どうかした?」
 明日香が私の顔を覗き込む。表情はほとんど無で、けれど確かに心配は混ざっていて、だからだろう、振り払うのが難しい。
「……大丈夫、だから」
「なんでそんな返事が返ってくるの」
 大丈夫じゃないんでしょう、と、言葉の裏で伝えてくる。ああそうだ。大丈夫じゃない。吐き出したい。
 唐突にそう思う。
 彼女になら、明日香になら、すべて吐き出せそうな気がする。
 洋子にも、彩にも、父さんにも母さんにも、誰にも言えないことを。
「ごめん、なんとなく」
 けれどまた私は笑っている。明日香は怪訝そうな顔をする。彼女には相変わらず、私の偽者の笑顔はばれている様だ。
 それでも、続けてしまう。彼女の前ならありのままになれるかもと思うのに。
 これもきっと、殻なのだろう。
「んーーーーーーーーっ!!」
 声を出した。喉ではなく、お腹から声を出そうと思った。びりびりと腹の底が震えるのを感じる。道行くサラリーマンがちらりと振り返ったが、すぐに眼をそらして足早に去っていく。ああ、ほんとうに、大丈夫だ。
 私はお腹を振るわせ続ける。不思議と、さっきまで考えていたごちゃごちゃが、払われていくような気がした。そこらじゅうに散らばったちり紙を、両手で抱えて集めてぐちゃぐちゃにして、ゴミ箱に突っ込むような感覚。
 口を閉じて、はねるように姿勢を戻すと、不思議と「ざまあみろ」という言葉が浮かんだ。
 ざまあみろ、私にも、出来たぞ。
「やるねぇ」
 明日香は鼻を鳴らすように言った。それからしばらくの間、町いく人を気にせずに、二人で発声練習をした。ぶるぶるぶる唇を震わせたり、あめんぼあかいなあいうえおーっと出したり。
 そろそろ通学準備をしなければという時間に解散した。明日香と別れて一人で歩く私は、さきほどまでの練習の恥ずかしさに少しだけ肩を落としていた。

          ○

 彩の様子が再びおかしい。
 朝、登校した私を待っていたのは、いつもの彩ではなかった。耳障りなぐらいの大きな声で挨拶してくる彼女の姿はなく、自分の席に座ってぼんやりと机を眺めていた。近づき、傍らに立っている洋子と顔を見合わせる。洋子の表情にも動揺がありありと浮かんでいた。
「洋子、朝から?」
「そうなの、朝から」
「……彩、おはよう」
 洋子の答えに眉根をひそめて見せてから、彩に声をかけた。彩は牛のような鈍重な動作で顔を上げて、「あ、灰音。おはよぅ」と言う。しばらくじっと顔を見つめていたら、急ににやっと蕩けるように顔を崩した。かと思いきや、その顔を再び伏せ、机を見つめだす。
 自分でも顔がにやけたのが分かったので、私の視線から逃げたのだ、とは分かるのだが……。
「ねえ彩、何かあったの?」
「え? いや、何もないよぉ?」
「……絶対、何かあったでしょ」
「えー? ふふ。えへへ~」
 顔をだらしなくゆるめながら、ほっぺたを両手で包み込むようなポーズをとる。包まれた頬は見事な朱色だ。まさか、と私と洋子は顔を見合わせた。
「……ひょっとして、彼氏とか?」
 直球ど真ん中ストライク。洋子が彩を見つめて言う。彩はますます頬を緩めて、「そうなのー」と周囲に花びらが舞うような声で言う。
 まさに、幸せオーラ。
 直視しているとこの幸せの波に飲み込まれて全身ピンク色に染まるのではないかと恐怖する。
 というかひとつ。私には確かめたいことがある。
「あのさ、お相手は、立川?」
「うん! あのね、この間、劇が終わったあとにお菓子を差し入れしたんだぁ。そしたら後日お礼をしたいって言われてぇ……。そんで昨日の放課後電話があって、……初デート、したんだぁ」
 夢心地のような口調だった。彩はまだその夢の中に居るのか、大きなぱっちりした瞳をジェリービーンズ型に歪めて、小さく首を揺らす。
「そうか彩にもついに彼氏かあ」
 と、どこか感嘆したように洋子が言った。
「……ね、置いてかれちゃったね」
「え? ああ、そうだね」
「ねえねえ、初デート、何したと思う?」
「いや知らないけど」
 彩の飛び跳ねた問いかけに、洋子が一線、鋭く切りつける。ぷうと頬を膨らませ、彼女は明らかに不満顔だ。
「どこに行ったの!? 気になるなぁ~」
 慌てて、彩と同じ声のトーンで問いかける。相手の口調に合わせるのは、共感を表現するのに有効な手だ。彩はまだ不満げだったが、ぽつりぽつりとデートの様子を話し始める。いわく、まずは映画館。いわく、その次にカフェ。いわく、最後にファミリーレストラン。御代はすべて立川が持ってくれたらしい。
 話していくうちに彩は明らかにテンションが上がってきて、最後は聞き取れないくらいの早口で、「とにかくすごぉく、やしゃしくて、すごおくかこいいの!」と言った。
 洋子は呆れ顔で、「はいはい良かったね」と呟いたが今の彩はそれすら気にしないようだった。いつもならふくれ面を見せるのに、今日は「良いでしょー」と自慢げだ。ああ、なんと腹の立つ幸せ顔。まあ何にせよ、良かった……。よね?
 一抹の不安を覚える。
 彩は本当に立川と付き合ってよかったのか? ……いや、私がひがんでいるだけか。彩に先を越されて、ちょっとムカついているだけ……。
 だって、目の前の彩はこんなに幸せそうだ。今なら死んだって良い! と叫びだしそうなくらいに。
「今日の放課後も会うんだよぉ」
 と、蕩けるような笑顔で彩は言った。
「はいはい良かったね」と再び洋子が呟いた。

          ○

 昼休みもこの調子だった。いっそ清々するぐらいに、立川の話ばかり彩の口からこぼれていく。洋子と私はうんざりしながらその話を聞いている。最初はにこにこしていた私だったが、さすがに現在は疲労の色が濃い。彩も彩で、相手が壁であっても楽しげに話すのだろうなと確信するぐらい、こちらの反応を気にしない。だから私も洋子と一緒にげんなりしていた。
「いつ終わるんだろうね」
 ぼそりと洋子が呟く。
「さあ」
 彩に聞かれないようにこっそり返事を返す。
「長谷川」
 千葉の声がこのときばかりは、天使の招きに見えた。振り返ってみた生真面づらも、今日ばかりはジャニーズばりのイケメンに見える。
「何?」
 弾んだ声が出たのは許して欲しい。千葉は案の定、「劇のことでまた話が……な? ちょっと来てくれるか」と口にする。立ち上がると、洋子が妙な声を出した。見下ろすと、鬼のような形相で私を見つめている。怖いっ。怖いよ洋子さん。
「ごめんね。彩の話をもっと洋子と一緒に聞いていたいけど、福祉会のことだからさ」
「うん、しょうがないね……。灰音、いってらっしゃい。洋子それでね」
 彩様の許可が下りた。区切りもつけずに洋子に話しを続けようとする彼女に若干の戦慄を覚える。私は安堵とちょっとした罪悪感を胸に抱えながら、千葉の背を追う。どこに向かうのだろうと思っていたら、階段をテンポ良く登っていく。
「……屋上に行くの?」
「まさか。最近の学校はどこも管理が厳しくなっているよ。この学校だって例外じゃないさ。鍵がかかって出れないって」
 どこか小馬鹿にしたような口調だった。むっとしつつ、笑顔は絶やさない。
「じゃあ、どこに行くのかしら」
「途中の踊り場。デットスペースになっていて、結構いいたまり場なんだって」
 人聞きのような口調だなと思っていたら、視界に紺色のソックスに包まれた太い足が見えた。視線を上に上げる。噂の踊り場に、新橋明日香が立っていた。手には売店のビニール袋をさげている。
「お待たせ、明日香」
 千葉が親しげに手を振ると、「遅いよとんま」と明日香が言った。親しさを隠そうともしないあけすけな口調に、居心地の悪さを感じる。まるで、踏み込んではいけないものに踏み込んでしまったような感じ。
 教室ではお互い接点なんてない二人が、こんな会話をするだなんて思っても居なかったからだろう。いや、幼馴染だと、聞いてはいたけれど。
「わるいね灰音。あたしが劇に出ることにしたっていったら、和也が灰音を呼んでくるって」
 和也というのが千葉の名前だったっけか。文脈から新発見をし、私は千葉を見つめる。
「話が飛んでるって。明日香が劇に出ることにしたって言って、俺が何でって聞いて、そんで明日香が口ごもって。問いただしたら「灰音に誘われたから」と言うじゃないか。いつの間に仲良くなったんだってことで、成り行きを聞こうと呼びにいったんだ」
 ドヤ顔で胸を張る千葉に、今日だけは感謝しても良い。いつもなら面倒なだけの呼び出しだが、彩ののろけ話に比べればここは天国だ。
「成り行きも何も……。ちょっとこの間の休みに、あす……新橋さんの所属する劇団の劇を見に行ったくらいで……」
 明日香と呼びかけた私の言葉に、千葉がにやりとした。殴りたくなるようないやらしい、嬉しげな笑いだ。
 しかし千葉はその部分には触れず、「ガラスの動物園か。確か明日香はローラの役だったよな」と明日香に笑いかける。彼女はどこか気まずそうに、頷く。千葉は不満げに、
「俺は何度頼んでもチケット売ってくれないのになー」
「うっさい馬鹿。灰音は別口だ。あたしは関係ない」
「そうか。じゃあ長谷川。その別口を紹介してくれよ」
 にこやかに笑いかけられて、思わずうなずきそうになる。頼まれごとをしてそれが叶いそうならば、すぐに頷いてしまうのだ、私は。けれどこのときは首を横に振った。
 明日香だ。
 彼女がすがるような瞳で、私を見つめてきたからだ。まるで親鳥にかまってもらえないアヒルのような。
「そうか残念だ」
 千葉は心底そのように呟いた。たぶん、明日香は私と同じ手を使ったのだろう。ローラの役の『控え』だとは、言っていないのだ。
「ご飯食べるから」
 空気を変えようとしたのか、彼女はそう言い出すと、何のためらいもなく踊り場に座った。蛍光灯を反射する白い床は、お世辞にも掃除が行き通っているとは言えず、私なんかは腰を下ろすのを断固拒否してしまうのだけれど。
「そういえばいつもの子達とは一緒に食べなくていいのか?」
 千葉がおずおずと尋ねると、明日香は取り出したメロンパンの包装紙を破りながら、「別に」と言う。千葉がいつか、明日香に友達はいないと言っていたことを思い出す。
「まあとにかく」
 千葉が口を開く。
「問題は福祉会だ。長谷川、お前には主役を頼んでいたよな?」
 あ。
 と、思った。ひょっとして千葉は、主役の交代を打診しに、私を呼んだのだろうか。心の奥がきりりと痛んだ。勝手に決めて、勝手に主役を下ろすだなんて、勝手なやつめ! ――と、怒りを覚える。
 けれどその一方、仕方ないかと納得する私がいる。それは不思議な感覚だった。私は、だって、こんなとき、そんな反応をする奴じゃない。
 それでも仕方ないと思うのは、きっと――。明日香を見つめる。彼女は片手でメロンパンを持ちほおばって、ときどき学校の牛乳を飲んでいた。
「そこで明日香には、王子の役をやってもらおうと思うのだがどうだろう?」
 予想外の言葉に眼が点っとなった。
「……えっと、王子?」
「そうだ。王子だ」
「……王子って男だよね」
「だけど宝塚って女だよな」
 千葉はにやにやと笑う。
「実際問題、長谷川の相手役を男にするっていうのも、なんか悪いじゃないか。長谷川は人気者だし、いろいろしがらみもあるだろう。そこで明日香だ。明日香なら男役だって完璧にこなせるだろうしな。大丈夫だよな?」
「みゃあ、へいひにゃけど」
 口の中にメロンパンが入ったまま、明日香は言った。私の額には冷や汗が浮かぶ。
「えーと……まじで?」
 素で呟いてしまった。いつもの声より、低い。そしてあからさまに負の戸惑いが混じったものだった。千葉は一瞬ぎょっとしたような顔つきをする。対して明日香は平然としていた。その無表情に、少しだけ救われる。
 私は千葉に向けて、「私もいいけどっ」といつもの笑顔で言った。肯定の言葉を出したのは、彼に悪い印象をもたれたくなかったからだ。
「おお、承諾してくれるか!」
 千葉は「ありがとう!」ニカッと笑い、右手を差し出してくる。また握手を求めてきやがった。私はその手を見なかったことにして、「新橋さん、よろしくね」と笑いかける。明日香はちょっとだけ眉根をひそめた。心の隅がぎくりと音を立てた。
「じゃあ、呼び出しておいてすまないが、少し委員会の仕事が残っているんで、先に教室に帰るな。明日香、頼んだぜ。長谷川、明日香をよろしくな。そんで、ありがとう」
 千葉はそういうと、階段を下っていく。その足取りは軽く、楽しげだ。本当に、明日香のためを思っているのだなあと感じて、ちょっとやっかみが混ざった。
「よっぼど好きなんだねぇ、明日香のこと」
 彩といい明日香といい、どうして私を避けて恋愛沙汰が飛び込むのだ。とくに明日香なんて、不細工のくせに。
「……うるさい、違うし」
 明日香からは、予想外の返事が返ってきた。言葉自体に驚きはない。しかし込められたその色に、とても複雑なものを感じた。
「……そういえば」
 私はなんとなく、聞くなら今だと思った。
「立川さんとさ、明日香って、付き合ってた?」
「は? なわけないじゃん」
 ああやっぱりな。こちらだって別に、真剣にそう思っているわけではもうないのだ。なのに、
「何、なんでそうなるの」
 明日香の口調の端々から、怒りを感じる。
「え? えっと……。一緒に喫茶店に来た時の会話から……」
「……あれか」
 明日香は神妙に頷く。
「……痴話げんかに見えたわけ? あれはちょっと、劇の演出について話してただけだよ」
「演出?」
「そう。私が立川さんを呼び出して、アドバイスをしてたんだ。あのシーンのトムの演技は、悲壮感を表した方が良いって。そしたら、「いい加減にしろ!」って、あの様よ」
 どこか悲しそうに明日香が言った。
「昔はあんな人じゃなかったんだけどね。演劇を始めたばかりのあたしの意見だって、熱心に耳を傾けてくれて……。情熱って、やっぱりだんだん薄れていくのかな……」
「……どうだろ」
 寂しげに言う明日香に、実のある返事は返せない。そのことに気づいた私は、少し我が身が寂しくなった。
「まあとにかく立川さんとあたしが付き合うわけないし」
「そう?」
「そうよ。とんでもないメンクイだし。男として見たら、不誠実そうだしね。ああいうの最悪」
「……辛辣だねぇ」
「別に。ただの感想よ。面と向かって言ったこともあるわ。くすくす笑われたけど」
「そんなこと言ったんだ……」
「灰音、気をつけたほうが良いよ。タイプっぽいもん、あいつの」
 まだ3分の1以上残っていたメロンパンを、明日香はまるごと口に放り込んだ。ハムスターみたいに膨らんだほっぺをぐにゅぐにゅと動かしている。ある程度減ったところでストローを口に加えて、一気に彼女は飲み込んだ。
「ごちそうさまでした」
 言いながらゴミをまとめたビニール袋の口を、きゅっと閉めた。
「じゃあ、さき戻るから」
 背中を向けて、さっさと階段を降りる明日香のことを、私は追いかけなかった。多分明日香はこう考えている。私が教室のみんなに、自分と仲が良いとは思われたくないはずだ、と。
 その考えを積極的に否定出来ない自分に、ため息をつく。私は屋上へと続く踊り場で一人、スマートフォンを取り出した。
時間を潰し教室に戻ると、彩の話はまだ続いていた。アンビリーバボー。恋する乙女の話はつきない。時計を確認して、もうすぐチャイムが鳴ることを希望に席に戻る。
「おかえりー。あ、洋子。灰音が来たからもう一回話すね? 聞いて灰音。あのね、二人でファミレスに居るときにね」
 洋子の顔がげっそりと、二歳は老けこんだ。
 興味のない惚気話に加えて、まさかの二度目という衝撃の付属効果。分かる。気持ちは分かる。天界からの鐘を待て!
 私と洋子はそれからたっぷり十分、彩の話を聞いた。チャイムは五分経たないうちに鳴ったのだが、次の授業が遅れてくることで有名な先生であることを忘れていたのだ。
 英語の授業は相変わらず予習を完璧にこなしているので、退屈なものだった。あまりうまくない発音を聞き流しつつ、ぼんやり明日香の後頭部を見つめる。
 王子かー。王子かー。勢いで返事をしてしまったが、本当に彼女に王子が務まるのだろうか。絵本の中に出てくる、青いジャケットと白いパンツ姿の王子に、明日香の顔をはめてみる。もちろん、豪華な装飾や、胸元のひらひらも健在だ。
 笑いそうになった。
 授業中なので必死にこらえる。急に笑いだすなんて、私のキャラには合わない。ていうか単純に恥ずかしい。
 お腹に力をいれる。笑うな、笑うなと念じるほど笑いたくなってきたので、六個入りのたこ焼きが五個しか入っていなかったときのことを思い出してげんなりした。
 無事に笑いを飲み込んだ私は、机と向き合い授業に集中することにする。お気に入りのペンを走らせて、黒板の英文をそのまま写した。

          ○

 今日はバイトの日だからっを免罪符に、さっそうと教室を出て行った。洋子も部活動だからっと足早にグラウンドに飛び出した。飛び出してから気づいたが、別に慌てる必要はなかったらしい。彩も彩で、デートだからっと出て行った。
 時間に余裕があるので、一度家に帰ることにする。
 荷物を置いて、髪をまとめて、着替えてからバイト先に向かおうと算段を立てる。この時間にはきっと母がいるだろうが、テンポよく動けば困らないだろう。
「ただいま」
「おかえり灰音。学校はどうだった?」
 相変わらずご苦労なことに、わざわざ出迎えに現れる。
「楽しかったよ。なんかね、彩に彼氏が出来たんだって! 良かったよね!」
「まあそうなの!」
 いくつになっても恋愛の話は楽しいのだろう。母はにこやかな笑顔を作る。私も笑顔を作っておいた。
「色々話したいけど、これからすぐにバイトなの。じゃあ」
 晴れやかな声で言い捨てて、自分の部屋へと上がっていく。計画通りに準備を終えて家を出て行くと、バイトの時間まで四十分以上余裕があった。のんびり歩きながらエーデルワイスへと向かう。今日のバイトはそれなりに忙しく、クレームはつかずに終わるといいなあ。愛理さんとお喋りもしたいなあなんて思いつつ歩き続ける。結局バイト開始まで二十分余裕がある状態で、裏口から中へ入った。
「こんにちわー」
「おつかれさま」
 クールな口調で愛理さんが言う。口元の優しげな形が、隠し切れない人の良さを表現していて可愛らしい。
「今日はどうですか?」
「まあまあ。夕方になったらもうちょい忙しいんじゃない?」
 そういうと、さっさとフロアに出て行ってしまった。私が着替えることを考慮して出て行ってくれたのだろう。ロッカーから愛しの制服を取り出し、着替えたばかりの普段着を脱ぎ捨てる。五分もたたない内に、可愛いウエイトレスさんの一丁上がりだ。
 時計を確認するとまだ十分早かったが、これぐらいなら特に問題はない。タイムカードを押して、フロアに出た。
「あ、灰音ちゃん」
 にこやかに片手を上げる青年に、心臓が飛び跳ねた。え、なんでいるの? と音にならない声をつぶやく。手招かれたので、仕方なく近づいていった。フロアに他の客はなく、言い訳が出来ないのだ。
「どうも、こんにちは」
「こんにちは。この間は劇を見に来てくれたんだって? 彩ちゃんと一緒に楽屋に来ればよかったのに」
「はい。あ、えっと、劇、すごく良かったです」
 ローラの配役以外は、と瞬時に脳裏に浮かんだ。
「ホント? 僕の演技どうだった?」
「上手でした。チケット、ありがとうございました」
「こちらこそ! ノルマが達成できずにホント困ってたんだよね。灰音ちゃんのおかげですごくすごく助かったよ。感謝してる」
 さわやかなイケメンスマイルでそう言われて、不覚にもどきりとしてしまった。立川はそんな私の心情を知ってか知らずか、余裕の表情で紅茶を一口。ミックスベリーティーだなと、匂いで判断する。オシャレな名前と雰囲気から女性に人気のメニューだが、味は普通なんだよなぁ。
「良かったら、また見に来てよ。今度はチケット、タダで……渡したいなぁ」
「ぜひお願いします」
 半分は社交辞令。もう半分は本気だった。
 できれば新橋明日香が出るときに。
「灰音ちゃんと仲良く慣れてよかったー。そだ、できれば今度、御飯に行かない?」
「え」
 戸惑う。
 私の戸惑いをどう勘違いしたのか、「ああもちろん友達も一緒でいいからさ。俺のも連れてくるし。洋子ちゃんだっけ、彼女とかどうかな」なんてまくし立てる。
 私はなんと言っていいのか分からずに、ただ座っている立川を見下ろした。
 この男は彩と、付き合っているのに。
 こうも容易く簡単に、他の女を御飯に誘うのか。
「申し訳ありませんが、最近福祉会の準備等で忙しくって……」
 不潔。最低。甲斐性なし。
 支離滅裂な暴言が頭に浮かんでは消える。けれどその言葉の一つすら出ずに、私は結局丁重にお断りの言葉を並べてしまう。それでも立川に、多少のダメージは与えられたらしい、悔しそうに、「そうか。じゃあ今度落ち着いたらね」と笑う。
 落ち着くもんか。私はこれから一生、落ち着かないのだ。スケジュール帳は今日も明日も未来永劫カラフル文字だ。あんたに予定を聞かれる限り。
 カランクロロキィンとベルが鳴って。お客様が現れた。チャイムと良い、今日はたびたび鐘の音に救われる日だ。
「では」
 軽く立川に頭を下げて、接客に向かう。そういえば、今日はこれから彩に会うんじゃないっけと、私は頭の隅で考える。お客様を席にお通ししたあと、壁時計を確認すると五時二十分だった。待ち合わせまでの時間つぶしに、この店を利用しているのだろう。
 納得して仕事を続ける。客がいなくなるたびに立川は私を呼んで話しかけてきた。愛理さんも最初のほうは声をかけられていたが、冷たくあしらうこと三度、ついに立川は根負けした。
「いい顔するから調子に乗るのよ」
 二人きりでバックヤードにいるとき、愛理さんが言った。
「あんな奴、流し目で睨みつけてそれっきりでいいの。下手に口を開くと漬け込まれるから、そもそも話したらアウト。無視が一番応えるんだから」
「なるほど……」
 感心しつつも、私には出来ない方法だなあとため息を心の中でつく。誰にでもいい顔をしてしまうモットーは、こんなときにも律儀に発動しているらしい。
「灰音ちゃんそれでね、そのテレビドラマのオーディションのときにね」
 話し好きなところは、彩にそっくりだなあと思う。ただ立川の話は引きがあり、落ちがあり、彩の話より面白かった。
 立川は結局、私のバイト終わりまでいた。途中で、「今日は彩とデートじゃないんですか?」と何回訊ねてやろうかと、追い出してやろうかとしたか知れない。
 けれど結局私はそれをぐっとこらえて、バイト終わりまで立川をそのままにした。ロッカールームで着替えてきたスカートとスタジャンの組み合わせを再び身につける。脱いだ制服はちょこちょこっとシワを伸ばし、ゴミを払い、軽い点検をしてからしまった。可愛らしい制服には、いつまでも可愛らしくいて欲しいのです。
「おつかれさまでしたーっ」
 愛理さんに声をかけて裏口からエーデルワイスを抜けだした。秋の夜はつるべ落とし。あたりはもうすっかり暗く、ちょっと怖い気持ちで一歩踏み出した。暗い道を歩いていると、背後に気配を感じるときがある。振り返ると大抵なにもないのだが、恐怖心は一人でに大きくなる。
 ただし、この辺りは駅前なので人通りも多い。バイト先を選ぶ条件の一つだったので、家まで人通りがなくなる箇所はない。だからバイト帰りに気配を感じることはなかった。
 なのに、今日は不思議とそれを感じる。気のせいだろう。多分。そう思いつつ後ろを振り向くと、「奇遇だねぇ、やっぱり灰音ちゃんだったか」と立川が片手を上げた。さっきまで喫茶店に居たと思ったのに。私のバイト終わりは夜の八時。タイミングよく待ち合わせの時間だったのだろうか。高校生とデートするにしては、ちょっと遅い時間。私は眉根をひそめた。
「……こんばんは」
「うん。こんばんわーっ。二度目だけどね」
 再びさわやかなイケメンスマイル。彩が一目で好きになるのも無理はないなぁと思うほど、整った顔立ち。
「灰音ちゃん家どこ? 送ってくよ」
「え。大丈夫ですよ」
「いいからいいから。もう暗いし」
 ニタニタ笑う立川に、結構です! と怒鳴りつけてやりたくなった。結局そんな勇気はなく、なんとなく隣を歩かせてしまう。
「灰音ちゃん高校生なんだよね。いいなぁ。俺も昔は高校生だったんだよ」
「そりゃ、そうでしょうねぇ」
「学生のころはすごくモテたっけ。今はさっぱりなんだけどね」
「そうですか」
 むずむずとする。なんだろう。とにかくさっさと立川が、私の前から消えてくれないかと、そればかりを思ってしまう。ただそうしてさえくれれば、他には何もいらないのに。
 それからも立川は、私に積極的に話しかけてきた。学生時代のことから広がり、得意な勉強苦手だった先生、ときおり私にも質問してきた。質問には簡素に答えて、立川の話は適当に相槌をうった。
「灰音ちゃん、ちょっと冷たくない?」
 立川がそう言い出したのは、送るのはここまでで大丈夫ですと私が宣言した時だった。
 もう辺りは暗く、立川の顔にも影がさして見える。けれど表情が、想像以上に真剣なことには嫌でも気づいた。
 三日にいっぺんぐらい手入れしてそうな眉に、力を込めた鋭い瞳がよく映える。口元はしっかり閉じていて、眉間の皺が難い決意を伝えてくる。
 ああ――。
 すとんと、胸の中に何かが落ちてきた。認めなければならない。違うだろう、そうじゃないだろう、高慢な私の勘違いなのだろう。そう思ってきたけれど、認めなければならない。
「灰音ちゃん、今度二人で」
「無理です」
 にこりと微笑む。こんなときでも、やっぱり私は笑顔なのだなと、冷めた私がどこかで言った。
 最低。
 心の内側で罵る。私は駆け出そうと、一歩踏み出した。
「待てよ! 話も聞かずに逃げるのか!?」
 手首を掴まれる。なぜかズキリと傷んだ。自分がひどく汚いものに触れられた気がして、必死に必死に振り払う。けれど男と女、かつ大人と子供の力の差なんて、簡単に覆ったりしない。ぐいと引き寄せられてよろけてしまう。
「助けて!!」
 叫んだ私に、立川は手を振り払った。痴漢扱いされてはたまらないと踏んだのだろう。私は駈け出した。決して振り返らなかった。
 心臓がバクバクとなっていた。足はつねにもつれかけていた。
 そうして家に飛び込むと、いつものように母がキッチンから顔をだす。
「どうしたの、灰音」
 目を白黒させながら、息の荒くなった私を母が見つめる。なんでもないと答えるのも心配させてしまう。とっさにそう考えた私は、「ちょっと犬に追いかけられちゃって」と苦しい言い訳をだした。案の定釈然としていなさそうな母を無理やり押しのけて、自分の部屋に行き鍵を閉める。布団に倒れこみ掛け布団を引き上げて、かたつむりみたいに中で包まった。
 彩。彩。
 可愛らしいサイドテールの少女。その笑顔が浮かぶ。言えなかった。ずっと、言えなかった。立川はやめた方がいいと、その一言が言えなかった。楽しげに笑う彩を傷つけたくなくて、事実に蓋をして、調子のいいことばかり並べて――。
 喫茶店で明日香を怒鳴りつけたことも、私の勘があいつは駄目だと叫んでいたことも、何一つとして言えなかった。
 どうしよう。どうしよう。
 涙がじわりと溢れてきて、次から次へと溢れてきて、頬を伝っていく。暗くてよく見えないが、きっとベッドの上には涙のシミができている。
 明日彼女に会ってどんな顔が出来るだろう。否、問いかけるまでもないだろう。笑顔だ。いつものように心の中とは違う、作られた笑顔を浮かべるんだ。きっとそうだ。
 失敗してしまった。これがばれたらきっと、彩と友達で居続けることは出来ないだろう。彩はきっと、他のグループの一員となり、私の悪口をそこらじゅうにばらまく。二人きりになれば洋子だって、私から離れていくだろう。
 一人だ。ズキンと痛んだ。
 ノックの音がした。「灰音ちゃん? 今日はこれからご飯食べる?」
 いつもはこんなこと、聞いてこないのに。アルバイト帰りは、食べないって知っているのに。
 息を吸った。鼻から吸ってお腹を膨らませて、鼻から吐いてお腹をへこませた。腹式呼吸。明日香との練習で学んだこと。
 意を決して、顔だけ布団の中から出して、上半身を持ち上げた。
「大丈夫。いらないよ」
 振り絞った声は、案外上手に聞こえた。鼻声になっていない。自分の耳だからかもしれないけれど。
「そう。……無理しないでね」
 言い残して去っていく母の足音。気が抜けた私は、顔を出したまま倒れこむ。ばれなきゃいいんだ。その考えが頭に浮かんだ。
 だって私は悪くない。立川が、勝手に声をかけてきただけ。むしろ被害者だ。悪くない。では、ばれないためにどうすればいいのか……。
 立川が言わなければ良い。
 気づいた私は、ポケットからスマートフォンを取り出す。連絡先の一覧にいつか教えられた立川の番号があった。しかし……これにかけて、事情をどう説明する? 気まずいことこの上なく、下手をしたらこれをきっかけにまた嫌われてしまうかもしれない。自分から電話をかけたのは真実だから、否定もしにくいだろう。
 いや、待てよ……。別に立川だって、話したくないに決まっている。誰が彼女に、自分が浮気に失敗した話をすると言うのだ。ならばきっぱりと断った時点で、私の平和は守られている。
 視界が一気に晴れ渡ったような気がした。前方が見えないくらいの濃霧に、光が一筋。そこから一気に、輝かしい風景が広がっていく。
 そうだ。大丈夫。私は、だって変わらない。
 やさしくて、優等生で、可愛くって、美人で、ちょっと牛乳が苦手な、クラスの人気者。
 何を恐れることがある。不安に思うことなんてない。大丈夫だ、長谷川灰音。
 ずばっと、払いよけるようにして布団を引き剥がす。疲れた体を振り絞って階下に行き、ヘッドバンドをつけて前髪をまとめて、顔に水をつける。洗顔クリームを手に取ってあわ立て、肌に練りこむようにつけて、そして水で洗い流す。
「お母さん、シャワーあびるね?」
「どうぞー」
 洗面所の扉を閉めた。そうと決まれば明日の為に、私は自分を磨かねば。

          ○

 化粧やおしゃれは、女の子にとって防具だと思う。RPGで戦士が身につける、「どうのよろい」や、「かわのくつ」のようなもの。化粧がばっちり決まった日は、胸を張って強気で居られる。すれ違う人を自意識過剰に、「いま私に見とれたな」なんて自惚れることも出来る。
 前夜から丁寧に体を洗い、化粧水をつけ乳液をつけ保湿クリームをつけ、日課のヨガを丁寧にこなした。朝起きてからすぐにヘアアイロンを熱して、熱している間に顔を洗って制服に着替えて、髪を丁寧に整えて、いつものように軽くウェーブさせて……。
 とにかく、今日の私はいつも以上に完璧だった。色つきのリップクリームも、この間買ったばかりの新アイテムにした。ほんのり香る桃のにおいが心をちょっと躍らせてくれる。
 部屋に設置した全身鏡で頭の先からつま先まで何度も点検する。完璧、完璧、とチェック項目を一つずつ潰していく。私はスクール鞄を手に持って、玄関から外に出た。
 いざ、戦場へ。
 学校に向かってずんずん歩く。強がっているなあと自分でも思いながら、スクールシューズでモデル歩きを繰りだす。いつもと同じ時間に校門を通れた。教室の前で一度立ち止まる。なあに、気負うことは無い。
 扉を開けるといつものように、彩が大きな声で「あ、灰音。おっはよー」と……。
「灰音、おはよう」
 洋子が駆け寄ってきて、ごく普通の声でそういった。相手との距離間を考えた、常識的な音量。
「おはよう。……彩は?」
「さあ。まだ来てないみたい。珍しいよねぇ」
 良かった。とりあえず、彼女はいつもどおりだ。いつもどおりの佐野洋子で、私のそばに居てくれる。一人じゃない。
 それから洋子と二人、洋子の席で話していた。彩が居ないだけで、いつもと同じ朝の風景。洋子とは、福祉会の話をしたり、学校の授業について話したり、私が訊ねて最近のソフトボール部の調子について話したりした。県大会で優勝したチームに、この間練習試合で勝ったらしい。
 彩がするテレビや雑誌の話より、身近な分、楽しいなと感じた。
 彼女が現れたのは結局、予鈴がなる三秒前だった。まるで図ったようなタイミングで現れて、「あ、おは」と言いかけた私と洋子の言葉をスルーして、着席したときにチャイムがなった。優等生の私は、当然洋子の席を離れて窓際最後尾の自分の席に着く。前方には艶やかなダサい黒髪。
 担任のおじいちゃん、新井先生がやってきて、注意事項をつらつら述べていく。最近学校の近辺で変質者の目撃があったらしい。聞き流しつつ見つめるのは、見慣れたサイドテール。今日も今日とて、子供っぽい水玉リボンが、飾られている。
 その髪の毛が邪魔で、彼女の表情が見られない。今いったいどんな顔をしているのか分からない。きっと、遅刻しなくてすんだって、ほっとした表情を浮かべているんだ。そう信じて、私は視線を教卓に向けた。
 HRが終わり、洋子が彩に話しかけたのが分かった。彼女たちは席が近い。彩は振り返らなかった。振り返らないまま、何かを言ったことだけは分かった。彼女の声は大きい。つかの間の休息で騒がしい教室でも、きちんと届く。ただ肝心の内容が分からない。
 行くべきだろうか。うん。きっと行くべきなんだろう。
 私は立ち上がり、彩と洋子の居る教室の中央へと向かう。大丈夫。きっといつもどおりだ。ここさえ乗り切れば、私はもう何も怖くない。
「おはよう、彩。今日ぎりぎりだったねぇ」
 能面。
 私の声に、ゆっくりと反応して振り返った彩の顔は、それだった。
 ぴきり。心にひびが入る。
 アア、この顔は知っている。私がしたことを知っている。いや、何もしてなんかいない。ほんとだって。自分が一番良く分かっているの。より正確に言うならば、『何もしなかったこと』を。
 彩はぷいと顔をそらした。「ちょっとちょっとどうしたの~?」気遣ったような明るい声が洋子から漏れる。私はただ呆然とそこに立ち尽くしていた。
 自分が立っている地面に、亀裂が入ったような気がする。ただ、怖くて動けない。逃げたいのに。
「彩、ごめんね」
 謝るのは筋違いだ。わかっているのに反射的にこの言葉が出た。ごめんなさいごめんなさいと、悪くないのに闇雲に謝った。
「うるさい!」
 彩はダンッと、強く机を叩いた。ぎょっとしたように、皆私たちのほうに視線を向けてくる。一瞬の沈黙。それから、なんだなんだと騒ぐ連中が四割。心配そうに見つめるのが四割。何が起きるのかとわくわくした連中が二割。そんなざわめきの成分が、教室の空気を満たしていく。
 気持ちが悪い。人の視線が、気持ち悪い。
「なに。やっぱり悪いと思ってるんだね。あんた、ほんと最低だよ。大嫌い」
 ぴしゃりと言い放つ彩の言葉は、やはり大きい。響き渡った声は壁で反響するほどで、だからクラス中に聞かれてしまってる。
 待って。違うの。そうじゃない。落ちついて。一度話し合おう。
 言葉が一つも出ない。
 その代わり喉の奥からあふれてくるのは、据えた臭いだった。口元を押さえる。駄目。こんなことはしたくない。
「いつもいつも、あんたは嫌な奴だった! 彩より可愛いし、人が良すぎるし、まるで作り物みたい! そう思ってた。やっぱり、そうだったんだね。泥棒猫!」
 三文芝居のような捨て台詞。けれどその前が突き刺さった。作り物みたい。ああ、気分が悪い。気持ちが悪い。くらりと揺れる。何が? 視界が。脳が。
 倒れてしまいたい。喉の奥にあるものをすべて吐き出して、倒れてしまいたい。そして鍵のかかる自室で、何も考えずに眠ってしまいたい。
 彩はさらに続ける。知っている限りの罵詈雑言を、闇雲に私に向けて撃ってくる。最低。馬鹿。阿呆。ビッチ。クズ。淫乱女。最悪。エトセトラ、エトセトラ。
 その言葉は渦のようになって、私の心をぐるぐると回る。
「灰音!」
 呼ばれた名前に、ちょっとだけ覚醒した。顔をそちらに向けると、案の定、新橋明日香が立っていた。いつものように、その表情は無い。ただ少しだけ、こちらを心配する色が見えた。
『灰音、殻を破るんだよ』
 いつか言われた言葉が、耳元で再び聞こえた気がした。
「うるさい!」
 私は思い切り机を叩いた。彩は驚いた顔をしていた。なに、あんただってやったじゃない。おあいこよ。
「何、黙って聞いてれば私の悪口? ふざけるんじゃねーーーっつーの! 
私、何もしてないの。立川が勝手にバイト先に来て、勝手に一緒にご飯食べに行こうとか言ってきたの。筋違いなんだから、私に怒るなんて! 謝ったのはなんとなくよ。文句ある?」
 胸を張って、腕を組んだ。
 放った言葉は体にしっくりとなじんだ。ここまで思い切り素でしゃべったのはいつ以来だろう? 清清しい。
 草原に立っているようだと思った。心地よい初夏で。緩やかな風があって。真っ白のワンピースを着て、私は草原に立つ。
 彩は一瞬ぎょっとした。けれどそれは一瞬で、大きく息を吸うと吐き出した。
「あるに……決まってるでしょ! 彩は灰音のこと、友達だと思ってたのに……っ」
 押し付けがましい声音だった。
 表情はきつく、完璧に、私を敵だとそう思う瞳だった。
「友達? ねえ彩、ホントに私を友達だと思っているの」
 やめなきゃ。こんな言葉を吐くのはやめなきゃ。
 そう思うのに、一度吐き出した言葉は止まらない。ダムが決壊して、あふれだす怒涛の雨水のように。
「彩っていつも自分勝手に私のこと振り回すよね? それに、あんたってアクセサリーとして友達選んでるでしょ。彩の友達はみんな可愛いーって、馬鹿じゃないの? 自分の考えとか、将来とか、考えたりもしないんでしょ。いつだって誰かがなんとかしてくれるって……。ワガママなプリンセス気取りはやめてよ! そういうの、見ててホントにイラつくの!」
 言ってしまった。不思議と晴れ渡った気分が続いている。
「それにあんたが好きなものって、流行のものとか雑誌のものとか、全部他人に合わせてるだけ! 悲しくないの? 中身空っぽの脳軽女!!」
 詰め込んで詰めん込んで、飲み込んで飲み込めなくて。自分の中に蓄積していった自分の言葉が、まるごと外へ吐き出された。
 気分爽快、すっきり。
 私と言う不満の卵に日々が入り、そこから一気に全体に広がり――そして割れた。
 私の言葉に、クラス中がシーンと静まり返っていた。彩は私を上目遣いに睨みつけて、瞳に涙を溜めていた。奥には底知れない敵意。そこにはもう一切の友の情を感じられることは出来ない。
 その瞳に、心が疼く。
 あれ。やめてよ。なんで。いや。嫌なの! やめて。やめて……。
「あの……彩、……嘘、だよ?」
 震える声が出た。自分でも情けない縋るような声。そして、笑顔を浮かべる。浮かべ方は分かっているんだ。笑顔とは要するに、顔の形。口角が上がっていて、目じりが細く下がっていて、その形こそが笑顔。
 あとは作っているんだと思われないように、出来るだけ自然な感じにそこへ持っていくだけ。
 ……あれ、でも、それって……どうやるんだっけ?
 真夜中に呼吸の仕方に迷うように、歩き方を見失うように、私は笑顔の作り方を落としてしまった。
 だめだ。絶対、絶対。私が浮かべているのはわかる。不自然な笑顔。新橋明日香じゃなくたって、違和感に気づく歪な笑顔。
「うそつき」
 彩は言った。
 重量のある言葉だった。
 そして彼女は駆け出す。教室のみんなはモーゼが割った海のように、彩を避ける。扉を開けて教室を飛び出した彩の背中を、私は追いかけることが出来なかった。

          ○

 空気を重く感じる。
 きつく左手を握りしめて、耐える。ときどきちらりと私を振り返る視線。
 朝の騒動が終わって一限目、ただ椅子に座っているだけなのに、全力疾走を終えた後よりも疲れを感じる。
 怖い。ここに居る。そのことが、つらい。引きつった顔をノートにぼんやりと向けている。そこに書かれてある文字に興味はなく、シャープペンシルを持っただけの手も動かない。どうしてあんなことを言ってしまったのだろう。
 抜け殻になったような気がする。
 何故私はこの場所に居続けているのだろう。
 早く消えてしまいたい。
 いまさらながらに、走り去っていった彩の判断を羨ましく思う。逃げるべきは、本当は私だった。あるいは二人共だった。
 ただし追いかけてはいけない。右と左。ふた手に分かれて私達は逃走して、きっと二度と顔を合わせるべきじゃないんだ。
 チャイムが鳴る。永遠とも思えた地獄のような時間の終わりに、息をつく暇もなく、私は足早に教室を出て行った。
 視線が痛い。
 長谷川、おまえはあんな奴なのか。灰音ちゃんって案外クズだったんだね。心の内側あんな感じなのか、長谷川さんって腹黒だったんだ。友達に酷いこと言うよね灰音。ああ友達じゃないんだっけ。サイテー。
 絶対にそう思っている。みんなみんな、私に失望している。手首を抑えながらふらりふらりと、私は誰も居ない場所を探し歩く。この時間は幸いにして、廊下に人気は少ない。一限目と二限目の間は小休止の十分間しかないからだ。
 そうだ。このまま、私も帰ろう。彩が出た後すぐのタイミングが出にくくて、教室に残り続けてしまったが、もう耐えられない。こちとら、吐き気だって覚えているんだ。れっきとした病人なんだ。
 ふらふらと歩く私の背後で、足音が聞こえた。
「灰音!」
 よく響く大きな、けれど彩じゃない声。かろうじて首だけで振り返ると、そこに洋子が立っていた。
「灰音、どうしちゃったの。彩に急に……。何があったか、わたしに話して? 彩だって、悪気があったわけじゃないって、分かるでしょ? あいつはああいう奴だし……。灰音、ホントはあんなこと思ってるわけじゃないでしょ。ねえ、一緒に今日の放課後、謝りに行こう?」
 ああ。優しい。
 あれほど本音をぶちまけた私を、洋子は追いかけてくれるんだ。そうだよね。まだきっと、取り返しは付くはず。
 そうだよ。ホントはそんなこと、全然思っていない。彩はいい子だもん。
 そう言って、笑え。笑うんだ、長谷川灰音。
 そう思うのに、いつものように、出来ない。
 今まであんなに簡単に出来ていたのに。怒っていても。悲しくても。めんどくさくても。嫌いな奴でも。
 笑いたくなくても、笑って。
 なのに今はうまくいかない。筋肉が痙攣して動かない。口元が歪みにしかならない。洋子は友達なのに。
「灰音……?」
 洋子が不信な声をあげる。嫌だ。そんな目で見ないで。哀れまないで。おびえないで。逃げないで。
 地面が崩れた気がした。
 ああ、洋子にも知られてしまったと、私はうずくまる。ちょ、ちょっと灰音? と心配する声がどこか遠くで聞こえる。いやあ、だってしょうがないじゃん。立ってるのつらいし。ねえ灰音。そうだよね。もうやだ。誰からも嫌われる私なら、消えてしまえばいい。積み重ねたものは簡単に崩れる。砂の城。私は自分で、それを壊してしまったんだ。努力してきたのに。
 ああ、帰りたい。たったひとつの自分の場所に。鍵のかかる自室に。そしてベッドに寝転がりたい。立川に電話して、罵詈雑言を並べてやりたい。逃げたって許さない。ずっとずっと無言電話。着拒したって無駄なんだから。電話はそこらじゅうにある。
 私の肩に誰かが触れた。
 洋子? と思った瞬間に、脇に手を入れられて立たされる。驚いて開いた視界に洋子が居た。あれ? じゃあこの腕は誰。
「新橋さん!?」
 洋子が叫ぶ。そのとき私は、後ろ向きのままずるずると引きずられていた。歩きにくいことこの上なく、何度も上履きが脱げそうになる。
「ちょ、え? え?」
 横を向くと、確かにその腕の持ち主は明日香だった。この細腕のどこにそんな力がと驚く。
「なに? なんなの?」
 自分が吐き出した問いかけの言葉が、予想以上に優しかった。もっと怒りの声が出ると思ったのに。明日香は私を振り向かなかった。ずんずんと前に進んでいくその姿は、清々しいまでの唯我独尊で。その横顔は、好きになってしまうくらい、固い決意の凛々しいもので。
「いいから。行こう」
 明日香は言った。



 第五章・みにくいあひる

 引きずられて連れて行かれたのは、いつかの踊り場だった。屋上へと続くあの階段。千葉に呼び出されて、明日香が演劇に出るといい、二人で話した場所。
「ばかじゃないの」
 ここに着いて、私の腕を離すなり、明日香はそういった。突き刺さるように痛い。けれど改めて彼女の顔を見つめると、その瞳の奥には優しさが垣間見えて、だから喉に詰まった文句の言葉は、飲み込むざるを得なかった。
 暗い顔で俯くと、ぽんと頭の上に何かが置かれた。明日香の手だ。明日香はそのまま幼い子にそうするように、わしゃわしゃと手を動かして私の頭を撫でた。なに? と尋ねると、何でも? と返ってくる。
 言葉足らずめ。何でもない、と、そういう意味だろう。
 やめてよ子供じゃあるまいし。そういって明日香の手を振り払おうと私は思った。けれど、どうしてもその気になれない。ほんのり暖かい明日香の右手。その感触が心地よくて、不思議と心が落ち着いて。
 だからもうちょっとだけ、撫でていて欲しい。恥ずかしいけれどそう思って、だから、それ以上何も尋ねなかった。
 たっぷり二分は頭を撫でられた後、不意に明日香の手が止まって、私のもとから離れていく。落ち着いた心で明日香を見つめると、彼女は相変わらずの無表情で、
「自分が言いたいことを言って、自分で傷ついてちゃ世話ないわ」
「……だって」
「別に怒ってるわけじゃない。なあに、大したことじゃないわよ。灰音の本心があんなもんだって、あたし分かってたし。ねえ?」
 ばっかじゃないの、くだらないにんげん。
 言い方は違ったかもしれないけれど、明日香がいつか私に言った言葉が蘇った。あの時から、明日香は私の心の奥底を見抜いていたのだろうか。
 薄汚くて。人の悪口ばかりで。不満の塊で。自分のことばかり棚に上げて。――嘘つきで。
「あたしとは、本音で話してよ」
 明日香は言った。
 薄暗い踊り場で、明日香の顔はいつもより少しましに見える。その表情は真剣で、嘘偽りなく、私に真摯に向かってくれてるんだと思う。
「ねえ、不細工灰音?」
 なんで急に悪口!? 意味分かんないなこの毒舌。
 びっくりした私は、それでもその言葉をぎゅうと飲み込むと、「……わかった。そうするね」と絞りだすように言った。
 明日香になら良いかな。嫌な気分じゃなくそう思った。
 なのに明日香は苦虫を噛み潰したような顔をして、私を睨みつける。私よりずうっと不細工な顔が、激しく歪んでいる。
「……あたしさ、あんたのこと馬鹿な奴だと思ってた」
 明日香は言った。
「いつも嘘臭い笑顔浮かべて、心の中とまるで違うこと喋ってるなあって。そこまで徹底して人気者になって、それで何が楽しいんだろうって。だって、本当のあんたを好いてくれる奴がいない……ていうかさ、本当のあんたを知っている奴がいないわけじゃない。とんでもないレベルのペルソナだなぁって……。ああペルソナって、仮面って意味ね。ゲームの方じゃないよ」
「むしろゲームを知らない……」
「そう。灰音はきちんと、ユングのペルソナを知っているんだね。人間の外敵側面。まあもともとのペルソナは、古典劇に使われていた役者のかぶるお面なんだけどね」
 いたずらっぽく笑う明日香の口元から、ちょっと歪な前歯が覗く。
「まあとにかく、馬鹿な奴だと思って、好きじゃなかった。……過去形だよ? 意味分かる?」
 思わずぷっと吹き出した。ちょっとだけ頬を染めて、顔を斜めにそらして。照れた仕草で遠回しに、私を「好き」だと言ったんだ。
 ぽかぽかと胸の内が暖かくなるような気がした。あれだけ落ち込んでいたのに、もう駄目だと世界の終わりすら願ったのに、たったそれだけの言葉が仕草が、私を明るく照らしてくれる。
「あたしは、あんたがいつも色々なことを考えているのが分かった。それと同時に、悪いものも良いものも自分で判断できる子だと知った。それで……あたしのことを、褒めてくれた」
 にこりっと明日香が微笑む。その微笑はやっぱりどう見ても、一般的な女子高生をはるかに下回る可愛くなさで。けれど、写真に収めたいくらい、素敵な笑顔。
「……ホントはね、いつも悩んでるんだ。あたしは確かに天才だけど、それだけで成功する世界じゃないし……。ううん。才能があるってことだって、ときどき疑って、頭真っ暗になって。夜中に外出て自転車で爆走したり、坂道でワーーッて叫んだり……。自分が目指す役者と、演技と、どうしてこんなに違うんだろうって。現実のあたしは完璧とは程遠くて、不格好で……。あまりの差にさ……生きてるの、辛くなる」
 ああっと、息を呑んだ。
 胸がかしいだ。
 私も! っと叫び出したい衝動をこらえた。
「そんなとき、最近はさ、あんたの言葉を思い出すの。あたしの演技を良いって、肯定してくれたあんたの言葉を。あの時、灰音は、心の底からそう思ってくれてたでしょ? はっきりと分かったよ。だってあたしは、いつもの嘘だって分かるんだから」
 再び明日香は笑う。いたずらっぽいはにかんだ笑顔。歪な前歯が少しだけ覗く、子供っぽい笑顔。
 明日香の笑顔はここ最近、ずいぶんとたくさん見たような気がする。今までが無表情の仏頂面しか知らなかったからだろう。
 明日香の笑顔は他の人より可愛くない。けれどその中にはいっぺんの嘘もなく、そして、だからこそ魅力的だった。
「ねえ。だから、あたしとは、本音で話してよ不細工灰音」
 胸が打たれた。
 新橋明日香の言葉が、その一つ一つが、確かに胸の内に募ってはいた。けれど繰り返されたこの言葉の真意は、私にためらっていた引き金を引かせた。
「ばーか。あんたの方が、よっぽど不細工よ。……この、毒舌女」
 涙混じりの声だった。言葉の意味とは裏腹に、明日香への愛しさだけが詰まっていた。心の中でただ汚いと思って、外には決して吐き出さないで、自分に蓄積している泥のような塊に、まさかこんな感情を込められるなんて。
 そんなこと、考えたこともなくって、不思議で、それだけで一回り自分が大きくなったような気がする。
 明日香は、それでいいのよと言わんばかりの得意げな笑みで、「そうよ、私は毒舌なの」とまた笑った。

          ○

 教室に戻るのが怖いというと、明日香はじゃあ戻らなきゃいいじゃんと言った。
「でも、そんなわけには行かないし……」
「まーった優等生ぶって。授業なんて結構くだらないって思ってる口でしょ、
灰音は」
「む。まあ確かに、徳井先生とか教えにくくてホントに大学出てんのか、とか思うけど」
「あっはっは。きっとFランなんだよ」
 なんてことのない会話。けれど他人の悪口を普段言わない私にとって、どことなく新鮮に感じるものだった。
「いいじゃん。さぼろうよ、授業」
 明日香はにやりと笑う。
「……そうだね。そうしようか」
 こうしてこっそり、明日香と二人で学校を抜け出すことにした。次の授業が始まって、廊下に完全に人気がなくなってからこっそりと下駄箱を目指した。誰かに見つかるんじゃないかとどきどきしながら進んだが、幸い誰にも見つからず、数分後には青空の下、明日香と並んで歩いていた。
「とりあえず、着替えに行かない?」
「そうだね。制服だといろいろマズイし……」
 この曜日のこの時間なら、母さんはおそらくパートだろう。だから、大丈夫。二人で他愛のない話しをしながら、まずは明日香の家に向かった。しばらく待つだろうと思っていたら、明日香は以外にもすぐに出てきた。ジーパンと厚手のパーカーという中学生男子のようなラフさだった。
「……なんていうかさ、もうちょっと身なりに気を使ったほうがいいよ?」
「別にいいのよ。ブスだし」
「そういう問題じゃないでしょ。ていうか、ブスだからこそちゃんとおしゃれしないと」
「うっわ~。余裕のお言葉ですこと」
 人が悪いねえとチクチク刺してくるような口調だった。なのに不思議と心地は悪くない。
 そのまま私の家へと向かう。途中、いつも会う公園の前を通った。
「そういえばあの朝の練習さ、恥ずかしくないの」
「そりゃ、最初は恥ずかしかったわよ。でも、それを克服するための練習でしょ?」
「怒られたりしないの?」
「いっかいだけ、警察呼ばれた。直で抗議されたことも数えきれないなあ。でも毎日やってたらそのうちいなくなっちゃった。あれはなかなかにいい経験だったなぁ」
「たくましすぎ」
 くすくす笑って、私は警察に尋問されたときの明日香の話しを聞いた。その警察官も学生時代に演劇をやっていて、音量を小さくすることを条件に許してもらったのだという。
「はい、着いたね」
 私の家の前で明日香が立ち止まった。
「あれ? なんで知ってんの。まさかスト――」
「ちがうって。前言ってたでしょ。あの屋根の家だって」
 明日香は我が家のてっぺんを指さす。ああそういえば、初めて公園で会った時に教えたんだっけ。
「じゃあ、行ってくるね」
「はいはい。どうせ逃避行の相手はあたしなんだし、準備に時間かけすぎないように」
「そうだね。どうせならイケメンが良かったね」
「では立川さんをどうぞ」
 ブラックすぎるジョークに吹き出す。明日香も笑っていて、二人できゃははと笑い声を立てた。
「じゃあ、行ってくるね」
「はい、行ってらっしゃい」
 家の鍵を開けて中に入る。嗅ぎ慣れた、けれど決して落ち着いたりはしない家の匂いがする。誰も居るわけはないけれど、そおっと靴を脱ぎ玄関にあがる。
「あら灰音。どうしたの?」
 と母さんが顔を出した。頭は一瞬にしてパニックの渦に巻き込まれる。え、
 なんで。どうして? 答えはすぐに分かった。母さんの狭いおでこには、熱冷ましのシートが貼られている。そのまま横になったのか、左端がめくれ上がってきていた。
「あ。えっと、その……」
 具合が悪くなっちゃって、という言い訳を真っ先に思いついた。
 しかしそれでは、この後着替えて明日香と出かけることが出来ない。母さんはどんなにこっそりと出て行く私でも、見逃さないだろう。ではどうするか。学校が早く終わったことにしようか……。しかしバレた時には恐ろしい。母さんには近所づきあいもあるし、その中には私と同じ高校に通っている生徒の親御さんだっているのだ。
「灰音、まさか、また学校をさぼったんじゃ……。もう母さんに心配かけないでよね?」
 言いよどんだことを不思議に思ったのだろう。母さんの顔色に、鈍い色が混ざる。どくんどくんと心臓が高鳴る。早く何かを言わなければ。
「ねえ、灰音。違うよね!?」
 茶化すような、けれどはっきりとした不安の声を母さんは上げる。頭に響くような大きな声だった。ますますの混乱が私を襲う。
 ぴんぽーんと救いのようにチャイムが鳴ったのはその時だ。母さんと顔を見合わせてから、数秒。玄関に近い私が扉を開けた。そこには私服姿の明日香が、ここにいて当然とばかりのふてぶてしい顔で立っている。
「明日香」
「もう、遅いじゃん灰音。あ、お母さんですか? こんにちは」
 にこりと笑い頭を下げる明日香は、いかにも人の良い高校生といった佇まいだ。お母さんは突然の明日香の来訪に、あっけに取られたようだった。
「えっと……」
「あ。私、新橋明日香と申します。灰音さんが遅いので、ちょっとおじゃまさせて頂きました」
 屈託のない明日香の笑顔。邪気をするりと抜き取るようなその無邪気さに、
お母さんも釣られて笑顔を見せる。
「何か家に用なのかしら?」
「ええ。実は今日はほぼ一日中福祉会の準備をするんです。私達のクラスは劇をするので、衣装代わりに私服を持ち寄っての練習だったのですが、私と灰音さんは忘れてしまって……。家も近かったので、一緒に取りに来たんです」
 つつけばボロが出そうな言い訳。だいたいシンデレラなのになんで、現代の私服が衣装代わりになるんだ。
 しかし明日香のまとう雰囲気も、つらつらと語るその言葉も、ああそうかと思わず納得してしまうほど自然だ。演技をしているんだ。私には分かった。明日香は真面目で、人当たりがよくて、嘘なんかつかない高校生になりきっている。
 それも、明日香の本性を知っている私ですら、ころりと騙されそうになる完璧さで。
「そうだったの」
 お母さんは安堵の表情を浮かべた。心の底からの安堵なのだろう。風邪で辛いことも相まって、どこか不自然なくらいの熱い笑顔だった。
 明日香がちらりと私の顔を覗いた。
「じゃあ灰音。忘れ物をとって、早く学校に戻りなさい?」
「は、はい」
 慌てて自分の部屋へと向かう。階段を登る途中で、明日香と母さんの談笑を、不思議な気持ちで聞いていた。

          ○

 家を離れてしばらくして、私は明日香に声をかける。ありがとう、とただ一言だけ。明日香はそれ以上なにも聞いてこなかった。けれど、口を開かずに歩くこと二分、どこかイラッとした様子で、「話し始めるの、待ってるんだけど」と口にした。「私だって……待っていたわ」唇を尖らせて私は言った。
 実際問題、本当に待っていたのだ。
 我が家の玄関は思った以上に中の音を通す。たぶん、明日香には聞こえていたのだ。私がお母さんと話したそのすべてが。だからこそあのタイミングで、明日香は私達の間に割って入ってきたのだろう。そして、聞いているのだ。あの異様な反応は、一体何なんだ長谷川灰音と。
 こくりと頷く。しかし、なかなか決心がつかない。手を胸の前に当てて、逡巡してしまう。本当に、良いのだろうか。うつむき始めた視線を前に戻すと、明日香は私が頷いた時と同じ姿勢のまま、ただ静かに私を見つめていた。その瞳にはただの一つも曇がなく、だからといって決して青空ではなく――。
「あのね、私ね――」
 気がつけば、私は自然と口を開き始めていた。
「ちょっとだけ、学校行かなくなった時があるんだ。お母さんが心配してんのは、私がまたそうなること」

          ○

 中学時代の思い出は、暗く憂鬱だ。……なんていうことはない。ごくありきたりで、平凡な毎日。私はそれをつつがなく進行していたし、私の周りもそうだった。
 中学時代から私は綺麗な顔立ちで、わりとしょっちゅう告られたりして、クラスの中心的立ち位置に居た。
 きっかけは、ただの風邪だった。一度休んで、念の為にもう一度休んで、……そうしたら、もうなんとなく学校には行きたくなくなってしまった。
 行く意味がよく分からなかった。
 今思えば、疲れていたのかもしれない。中学時代から私は、誰にも嫌われないようにと、無理をしていたのかも。今よりもそれがずっと不得意で、自然ではなくて……。
 小学生のときは違った。私は男まさりな子で、仲の良い女子数名と男子に混じってドッチボールで遊んでいた。平和だったなあと今にして思う。
 中学に入り感じたのは、膨らみ始めた胸、そして男女の差。ぎすぎすとした感覚の中で、私は平穏と暮らしていると思っていた。
 ただつつがなく。
 夢中になれることも、熱中できることもなく。ただ淡々と、友人と過ごし、クラスメイトと過ごし、教師たちと過ごした。
 それに、飽きてしまったのかもしれない。あのなんとも言えない億劫感は、今でも、理由がわからない。行きたくないという気持ちだけでなく、行かなければという思いもあった。しかし、学校に行こうと決心するたびに、私の身体は拒絶を起こし、腹痛に襲われた。
 母と父は私を扉の外側から何度も心配し、そして罵った。けれどそれは一日のうち、二人が家にいる間だけ、しかも一回一回は非常に短い時間だった。だからその間だけ、私はベッドの上で毛布にくるまっていた。そうして耳を塞いでいれば、悔しさや申し訳無さは半分で済んだ。
 昼間のうちは静かなもので、この時間を私はゴールデンタイムと呼んでいた。主にパソコンを開いて、ネット上に落ちているドラマやアニメを見るのが常だった。時間を潰すにはうってつけの手段だ。他にも、部屋においてあった手付かずの児童文学全集を読んだり、mp3で音楽を聞いたりもした。『飛ぶ教室』は今でもお気に入りの一冊だ。
 そんな日々を繰り返し繰り返し、私は部屋の内側から外側の異変に気がついた。母と父の声から心配が抜け、罵りの声だけが多くなった。また扉の前を訪れることは少なくなり、変わりに階下から父と母の喧嘩が聞こえるようになった。
「あなたが全然灰音の面倒をみないから!」
「うるさい。お前が見ていたんだろ? じゃあお前の責任じゃないか!」
「じゃあって何よ、じゃあって! いいから早くなんとかしてよ!」
「黙れ! あいつが最初から出来損ないだったんだっ!」
 その喧嘩が聞こえた日、私はますます扉の外に出るのが怖くなった。

          ○

 ある程度の覚悟を持って放った私の言葉に、明日香はただ前と同じ神妙な顔をしていた。私がその顔を若干呆けて眺めていると、早くと続きを促すように顎をしゃくる。
 どうとも思っていないのか。それとも、どうとも思っていないように演技をしているのか。
 いづれにせよ、私は明日香のそんな態度に心底の安堵を覚えた。
 今までこの話を、誰かにしたことはない。話したら、嫌われると思った。少なくとも、私を見る目が多少は変わるだろう。なのに明日香はそれがただそこにあるというだけの瞳をして、そのままで私を見つめてくれる。そのことがどうしようもなく嬉しいのだと気づいた時、明日香はもう一度私に顎をしゃくった。

          ○

 部屋から出よう。このままじゃいけない。せめて部屋を出て、お父さんとお母さんと話さなくては。けれど、勇気がでない。きっとお父さんは私に対して呆れている。諦めている。いまさら出て行ったところで出来損ないには変わりない。きっとお母さんは私を恨んでいる。お父さんに私のせいで嫌われたのだ。恨んで、そして怒っている。
 足が立ちすくんで動けなかった。
 なら、この扉から出るために何をすればいいのか。考えて考えて考えた末に、私は夜中にこっそり家を抜け出し、コンビニで髪の毛を染める薬品を買った。今よりもずっと明るい茶色だった。そうして染めた髪を、私はヘアアイロンでくるくると巻いた。今までは寝癖を直すためにまっすぐに使っていただけだった。
 鏡を覗いて見えた私は、今までの私ではないようだった。制服の着こなしも、スカートを巻き込み短くし、派手に変えた。
 そうしてようやく、私は外に出ることができた。私は、今までの私じゃない。新しい、別の自分なんだ。――そう、思い込むことによって。
 私はちらりと上目遣いで明日香を見つめた。彼女は良かったねと小さく笑う。不意に涙が溢れた。
 わけがわからないまま涙は止まらず、少し唖然とした明日香が微かに笑いながら、どうしたの大丈夫? といつもの口調で訊ねてくる。
 どこか人を小馬鹿にしたような声だ。
「……大丈夫。えっと、それから、ね」
 かすれた声で私は続きを口にする。
「お母さんとお父さん、不自然なぐらいに優しくなったの……。気持ち悪いくらいに気を使ってきて、にこにこ笑顔で……。わた、私はそれが、吐き気がするぐらい嫌だった。だから……また学校に通い始めたの」
 残りの中学時代は、勉強に明け暮れた。復学した私に、クラスメイト達は腫れ物のような扱いをしてきたのだ。友達だと思っていた子も、もう別のグループみたいな顔をして、私に見向きもしなかった。だから放課後はいつも勉強することが出来たし、おかげで同じクラスからは一人も行けなかった進学校に進むことが出来た。
「それでね、変わろうって思ったんだ。高校では……誰もに好かれる、素敵な子になろうって」
「そっか」
 明日香は笑った。今までの話を聞いているのかいないのか、分からないぐらいのいつもの笑顔で。ああそうか、と私は気がついた。
 明日香のこの『なんでもなさ』に、泣いてしまったんだと。
 話して変わることが怖かった。だから今まで誰にも話せなかった。お母さんのようにお父さんのように、中学のクラスメイトのように。
「ありがとう」
 自然とその言葉が出た。明日香はきょとんした顔で「なにが」と言った。妙に胸がくすぐったくなって、「そ、それで」とうわずった声を私は上げた。
「思い出話は、終わり」

          ○

 翌日の気分はとことんと言っていいほど最悪だった。
 適当に街をぶらついて明日香と別れた後、練習はどうだったの? とにこやかに笑いながら訊ねてくる母を適当にあしらい、眠りについたのがいつもよりもずうっと早い、夜の十時。
 何か夢を見ていたような気がしたが、忘れた。起き上がってしばらくは平和なもので、ぼんやりとしていた私はしかし、カーテン越しに差し込まれる秋の朝日でゆっくりと覚醒していった。
 ――学校、行きたくない。
 起こした上半身を再び倒し、布団をたくし上げる。頭まですっぽりそれで包むと、少しだけ心が落ち着いた。中学時代はそういえば、こんなことを良くしていたなあと懐かしく思う。息苦しくて、埃っぽくて、けれど、だからこそはっきり生きていると感じられる、私だけの空間。
 しかし、ずうっとこんなことをしているわけにはいかないのだ。私は中学時代のままではないし、みんなだってそうだ。
 中学生。高校生。
 やはり、今のほうがみな大人に感じる。男女の違いをあからさまに意識していた中学時代と違って、高校は落ち着いて感じる。私自身が、居心地の良い場所にいたからかもしれないけれど……。
「……よし、行きますか」
 一気に布団を引き剥がした。ばささっと耳障りな音がする。押しのけられた布団はズレ落ちて、ベッドから床へと落下した。
 両手を強く握り締める。大丈夫。大丈夫。
 ベッドから降り階下に行くと、母さんがいつものようにご飯を準備していた。お弁当がもう机の上に置いてあって、今は朝食の支度をしているらしい。
「灰音、おはよう」
 キッチンからわざわざ顔をだして、少しはにかんで笑う。わざとらしい、と今日も思った。私が引きこもりから立ち直ったあの日から、我が家は小さなことが一変に変わった。その変化が、今日も心地悪い。けれどいつもと違い、裏切りくないという思いも生まれていた。
 裏切りたくない、もう二度と。
「ああそうだ、明日香ちゃん? 来てるわよ?」
「は?」
 続けられた母の言葉に絶句すること数秒。私は慌てて玄関のほうへと駆け出した。扉を勢いよく開く。驚いた顔をした明日香が、制服姿で立っていた。
 その顔をにやり、ゆがませて、
「おはよう灰音。髪ぼさぼさじゃん」
「っ!!!」
 手櫛で慌てて整える。ついでに服も上から下へとサッとなぞって皺を伸ばす。伸ばしたところで中学時代のジャージという寝巻き姿は変わらないのだけれど。あわてて飛び出すんじゃなかった。ものめずらしいものを見る目つきで、明日香は私を笑っている。
「もう! 何しにきたの!」
 思ったことを素直に口にする。すると案の定、「心配だからに決まってんじゃん」と何でもないことのように明日香は答える。
 そう。きっと、そうだと思っていた。
 だから着の身着のまま飛び出したのだ。何一つ取り繕うことなく。
「ほっといたら灰音、学校に来ないかもなあって。主役が舞台放棄なんて、あたし、赦さないから」
「む。行くわよ。行くに決まってるでしょ」
 明日香の口調は変わらず棘がある。だから、憎まれ口しか溢れてこない。本当はありがとうって思ってる。……言わなくても伝わるような気がして、言わないけれど。
「準備、してくる」
「三十秒で頼むわ」
「無理でしょ!」
 扉を閉める。用意されていた朝ごはんを、流し込むように食した。普段は美容と健康のために、三十回は噛むことを意識している。満腹中枢が刺激されて、少ない量で満足を覚えるので、ダイエットの強い味方なのだ。
「ごちそうさま」
 食べ終わり、階段をかけ上がる。さっさと服を着替えてしまおう。
 朝のけだるさはもう気にしなくなっていた。だって、明日香が待っている。彼女が私を、待っている。
 玄関に戻ると、遅いと明日香が文句を言った。聞こえなかった振りをして、靴のかかとを直して、鞄の位置を調節して、勝手に歩き始めた。明日香はそのあとをついてきて、私の隣に並んだ。
「そんなに気にすることないでしょ」
 歩きながら明日香が言った。今日の天気はどんよりとした曇り空で、秋らしい、少し肌寒い風が吹いていた。主語は無かったけれど、その言葉が何を指し示しているのかはすぐに分かった。昨日の、あの一件だ。
「そうかなぁ」
「そうだって。ほんと、あんたって自意識過剰だよねー」
「うっさい」
「何で怒るの。自己評価が高いのはいいことじゃない」
 明日香は心底不思議そうに言う。ずれているなあ、と感じる。まさかその言葉を、そんな風に解釈するとは。
「ねえそれより、灰音は和也に脚本渡されてんだよね? どうだった?」
「……あ。まだ見てない……」
「ちょっとちょっと、勘弁してよねー。もうとっくに20日切ってるんだけど?」
「ごめん。すぐ読むから」
「よし、じゃあ歩きながらね」
「それは無理」
 明日香がちょこっと笑った。私も笑った。なんだか不思議な感じだった。新しい友人、というのはいつもしっくり来ないような気がする。一緒に居ることに違和感を覚えて、沈黙がちょっと心地悪くって、何を話していいのか考えるけれど思いつかなくて……。でも明日香とは、そんなことは無いようだった。話すことは自然と思いつくし、何も話さないならそれで、気を使わなくって良い。お互いに黙っていて、けれど居心地は悪くなくって……。
「なににやついてんの」
「え? 嘘」
「気持ち悪」
 この子は、本当に口が悪い。私は、さてどうやってこの嫌味の意趣返しをしようかと考えた。

          ○

 学校が近づくにつれ、私のチキンハートはばくばくと音を立て始めていた。昨日の言葉を、クラスのみんなが聞いている。いったい、何を思われただろう。どう思われただろう。
 けれど、明日香がずんずんと私の先へ歩いていってしまうので、意思とは関係なく足を進めざるをえなかった。
 一人だったら、きっとこの扉の前で躊躇しただろう。でも明日香が普通にクラスの扉を開いたので、後に続いた。一瞬、幾人かの人の目が集まる。すぐにそらされて、残ったのはただ一人だった。
 洋子だ。洋子は、彩と一緒にいた。けれど、いつもの教室中央の場所ではなく、嫌味ったらしいぐらい私の席から離れた別の場所だった。彩が相変わらずの大きな声で、「ねえ、洋子聞いてるの」と叱咤するような口調で言う。洋子は私から目線をはずして、彩と向き直った。どこか寂しげな瞳だった。
 肩を叩かれる。振り向くと、何ぼけっとしてんのとばかりに明日香が顔をしかめていた。二人で、席に着く。私の席は、明日香のすぐ後ろだ。
 いつもと変わらない、けれど、やっぱり変わっているような、そんな教室。
 お調子者の渋谷がいかにも楽しげな表情で私と明日香を見比べている。その鼻面を軽く殴ってやりたいな。
 明日香はもう一限目の準備を黙々と始めていた。それにならって私も用意をして、することもないのでノートを見返した。
 おしゃべりの時間だったはずの、HR前のひと時。私、彩と喧嘩したんだなあと、あらためて気分が落ち込んでくる。
 そうしてぼんやり過ごしていると、やがて予鈴がなって担任の新井先生がやってきた。今日の体調はことのほか悪そうで、細い棒のような足が多少ふらついている。
 さしあたりの無い連絡の最後に、千葉がびしっと恥ずかしげも無く手を挙げた。教卓の前に立った彼は、
「みんな、急な話なんだが、今日から演劇の準備を開始しようと思う。連絡が遅れた俺が悪いから、今日は自由に帰っていい。でも、なるべく残ってくれ。これから放課後は毎日やるから、予定が無いやつは残る。そのつもりで居てくれ」
 と宣言した。クラス中から、けだるげなオーラが散らされた。私からもだった。この状態で、クラス演劇の主役なんて、果たして勤めることが出来るのだろうか……。人気者だったから、千葉は私を主役に選んだ。けれど、今は……。
 明日香が振り返ってきた。
 ばちんっと、瞳が合わさる。明日香はとても、楽しげな笑みを浮かべていた。いよいよだね、とサーカスの開園を心待ちにするような子供の目。
 彼女は不安げな私の顔を見てか、ますます皺を深くした。良い笑顔だった。
 笑顔はつられる。楽しさは移る。
 自分の口角が自然と、持ち上がっていたことに気がついた。

          ○

「ふぁーっすっと、どっびゅーーん!」
 放課後準備の始まりは、そんな意味不明の言葉だった。
「な、なにすんだよ森」
「なにじゃないよ、千葉くーん。君ね、放課後いきなり残れとか、何様!? 千葉様!? って感じでーっすよ!」
「だ、だから帰ってもいいって――」
「しゃーっらっぷ! 今日は初めての練習、つまりはふぁーすとどっぴゅーんなんですよ! こんな面白いこと、見逃せるかばい!」
「お、おう。そうか……。まあ、残ってくれてサンキューな」
 千葉がクラスの不思議系ハイテンション女子、森さんに押されまくっていた。「相変わらず森はわけわかんねーな」と渋谷がけらけら笑っている。すべて、教室の中心の出来事だ。
「主役のくせに、なんでこんな端っこに居るのよ」
 隣に立っている明日香が言った。
「あんただってそうでしょ、王子様」
 と、毒をたっぷりぬって言い返す。放課後の初演劇準備には、10名ほどの生徒が残っていた。彩の姿はなく、先ほどから洋子がちらりと私を気にしてくれているようだった。
 ぱんぱん、千葉が手を叩いた。
「さあ始めるぞ。今日はとりあえず、練習とか準備の段取りを考えようと思う」
 そう宣言して、千葉は話しを進めていく。途中何度か、クラスメイトたちが口を挟んだ。背景につかうダンボールをどこから調達してこようか、小道具のガラスの靴はどうしようか、服装はレンタルするのか、など、など。
「長谷川。何か意見はないか?」
 千葉が急に話しを振ってきた。身体がびくつく。ふざけやがって、このやろ、このやろ。
「と、とくにないかなぁ……」
 かろうじて出来た発言。渋谷が鼻で笑った。ずきり。胸が痛む。
「そうか……。じゃあまあ、準備の段取りはこんな感じで。ダンボール班、本当に任せて大丈夫だな、森?」
「なんで私だけピンポイント!?」
 オーバーリアクションな森さんの動作に、クラス中が巻き込まれるように笑う。さっき自分が発言したときとの違いに、ああやっぱりと気が滅入る。

          ○

 その場に長くとどまって居たくなくて、解散と同時に私はクラスから外にでた。後を追う足音が聞こえて、明日香が横に並んだ。
 彼女は何も言わないで、私の隣を歩いた。早足で逃げ去る私に、同じスピードでついてくる。
「あんたさ、明日の朝、公園に来る?」
 唐突に彼女は言った。一瞬驚いて、私は頷いた。
「和也の練習日程じゃ、足りないよやっぱ」
「そうなの?」
「そうなの! 私が出る以上、中途半端にはしたくないわ」
「……そんなこと言ったって、明日香だけ頑張ってもしょうがないじゃん」
「それで、いいのよ。周りに負荷を押し付けたり、そんなことしたらもっと駄目になる。基本的にやる気ないからね。でも、自分には嘘をつきたくない。中途半端な演技したくない。それだけ。だから練習するの。それに、巻き込む人なら一人いる」
「ん」
「灰音、台本ちゃんと読んできてね。私も受け取ったから」
 明日香がにんまり笑う。秘密を共有する悪巧みの相手に向けるような笑顔だった。そんなひねくれた表情が、どうしようもなく明日香には似合う。
 私たちは昇降口にたどり着いて、靴箱からローファーを取り出してそれぞれ履いていた。
「差しあたって灰音、あんたに一つアドバイスよ」
「ん?」
「スタッフと主演のコミュニケーションって、大事だと思う」
「う」
 なんで当たり前のアドバイスも、こいつは演劇に絡めて言うかな。演劇のことを語る明日香は、力強い瞳で、ちょっと上手にかわせない。かかとを無理やり押し入れて、私は外へと出て行く。すぐ後を、明日香がやっぱりついてくる。
「今日、私は見てたよ。灰音のことも、クラスのみんなのこともね。みんな、灰音のこと、おかしいとか、嫌いだとか、そんなふうには思ってないよ。昨日の今日だから、やっぱり戸惑いや、触れにくさは感じてるみたいだけど、それだけだよ」
 明日香の言葉に、今日のみんなの様子を思い出す。私一人だけ、檻の中にいるかのような好奇の眼。失敗したクラスメイトに対する眼差し。
 ほんとうは、違うのかもしれない。けれど、私がそう思ってしまったらもう駄目だ。確かに、面と向かって何かを言われることはなかった。けれど――。
「…………そうかな」
「そうだよ!」
 その言葉は、背後から聞こえた。力強く、迷いのない声。
振り返ると、洋子が立っていた。
 彼女は下駄箱に居て、スニーカーのかかとを履きつぶした状態でかけてくる。
「洋子……」
 全力疾走でかけてきた彼女は、私の前で立ち止まり、瞳を真っ直ぐに射抜いてくる。
「全部、聞いたから。灰音は何も悪くない。それに、灰音が今まで心の内でどんなことを思っていたかも、わたしは別に構わない。だって、そんなの誰だってそうじゃん!」
「全部、聞いた……?」
「うん、千葉から。そんで、ちょっと遅くなった。あの立川っていけ好かない男、ほんっと、サイッテー!! ……確かに、灰音は言い過ぎだと思うけど、彩も言い過ぎ。気を落とさないでよ、灰音」
 そういって、彼女は優しく微笑んだ。私は救われる思いだった。けれど、上げかけた顔をまた下げてしまう。つまりそうになる言葉を、少しずつ、頭の中で咀嚼してから紡ぐ。
「洋子は……優しいから、そう言ってくれるんだよ。私、今までみんなと、ぜんぜん本音でしゃべってなかった……。嘘っぱちの私だった。ホントは、すっごい嫌な奴だもん。私、暗い奴だよ、駄目な奴だよ。……それが分かってもさ――」
「友達だからって、全部見せるわけじゃないでしょ」
 私の言葉を遮った彼女の声は、勇ましいものだった。その声に惹かれて顔を上げると、ニカッと男前に笑う彼女が居た。
「わたしにだって隠し事はあるし。この際だから言うけどさ、千葉とさ」
 そこで逡巡するような表情を、洋子は見せた。日に焼けた頬がうっすらと染まって――
「実は、付き合ってんだよね」
 洋子が言った。何度か瞳をぱちくりぱちくりと瞬いだ。
その言葉が一度はうまく飲み込めなくて、でもだんだんと理解していって。
そして、私は思わず叫んだ。
「えーーーーーっ!? なに、そうなの!? なんで言ってくれないの、洋子!」
「ごめんごめん」
 別に千葉が好きなわけではもちろんない。けど、洋子に実は彼氏がいたなんて、これは手痛い裏切りである。今までずうっと、私達三人は彼氏の一人もいない仲良し女子高生だと思っていたのに。取り残されてる!? 私ひょっとして取り残されてる!?
「くっそうぅ」
 言った後、ハッと気がついた。いつもの私なら、こんなとき、黙っておめでとうと言うべきである。誰にでも優しく、明るく、清く、美しい、長谷川灰音なら。
 けれど、くっそうぅと怒りを込めてつぶやいた私に、洋子は笑っていた。千葉を通じて明日香から何か聞いているのかもしれないし、聞いていないのかもしれない。
 でも、今だと思った。自分らしく、ありのままに接するなら、今なんだと。小さく息を吸う。そして、大きく吐き出した。腰に手を当てて、若干芝居がかった口調で私は言った。
「洋子、これは酷い裏切りだよ。今まで黙っていたなんて、酷すぎるよ」
「だーかーら、ごめんって。なんか言い難くて」
「言い難くてじゃないって。ああもう、ほんとムカつく」
 言葉がストンと落ちていく。心の中と吐き出す言葉と、仲良く手をつないで放たれていく。
 洋子はやはり笑っていた。その笑顔は、いつもとなんら変わらない、親しい友人に浮かべるそれだった。
「ありがとう……。洋子」
 小さくつぶやくと、「ん? 灰音なんか言った?」と洋子が口にする。繰り返そうかと思ったが、癪なので止めることにした。
 いつもなら、ありがとうと言われたら嬉しいから、洋子の好感度が上がるからと、ゼッタイに繰り返したであろう言葉を――。
「なんでもないよ、ばーか」
 そんな言葉に、置き換えたのだった。

          ○

「でで、彩の様子はどうなわけ?」
 洋子に尋ねると彼女は苦い顔でレモンケーキにフォークを突き刺した。
「どうもこうもねー。話、いつも以上に一方的だし……。千葉から話を聞いてようやく事態を把握って感じ」
「ほうほう。彼氏に聞いて」
「嫌味はやめてーっ」
 頭を抱えた洋子を、明日香が複雑な顔で見つめた。
 現在。放課後を制服のまま、女子高生三人がカフェで過ごしている。場所はもちろんエーデルワイスだ。
「お待たせ」
 普段の接客よりもずっと砕けた口調で、愛理さんが私の前にシフォンケーキを置いていく。ありがとうございます、と頭を下げる。
 明日香がスマートフォンをいじりだす。彼女は先ほどからずっと居心地が悪そうだ。私もなんとなく、洋子に見せる顔と、愛理さんに見せる顔と、それから明日香に見せる顔と、どれも違うので戸惑ってしまう。
 けれど、そういうことをやめようと思った。だから、もう分からないけれど、話したいまま思うままに喋ろう。
「私、彩と仲直りがしたい」
 宣言する。
 ぶりっこな態度はあざといと思った。けれど似合っていて、可愛いとも感じていた。スイートな脳みそを馬鹿にしていた。けれど純粋で、子供らしい彩がまぶしかった。
「そういうと思った」
 洋子が笑う。
「お見通しだよ」
「……そっか」
 そうだよ、と洋子が言う。優しげな響きだった。
「灰音はさっき、自分のこと散々言ってたけどさ、私はやっぱりあんたを良い奴だって思うよ」
 あ、そう。と気のない返事をして、そっぽを向いた。頬が赤くなるのを感じている。洋子がくすくすと笑った。
 それから話題は移り、洋子と他愛も無い話をした。明日香はやはり携帯をいじっていた。洋子とは昨日も確かに話していたのに、もうずいぶんと長いこと話していなかったような気がして、私は高調していった。あるいは本当に、もうずいぶん長いこと話していなかったのかもしれない。
「でさ、私は馬鹿だねえっていったわけ」
「あはは。でもそれ、洋子も結構馬鹿だよねえ」
 嫌味な返し。洋子は少しも傷つかない。笑う。
 素のままで、こんなに楽しく話せる相手だったんだ。
「ねえ、新橋さん」
 会話の区切り目で、洋子が明日香に声をかけた。あるいは、会話に参加しない明日香に気を使ったのかもしれない。
「新橋さんってさ、千葉の幼馴染なんだよね。たまに話を聞いていて……。私ね、ずっと話してみたいって思ってたんだ」
「そう」
 明日香はちょっとだけ顔をあげて、すぐに視線を戻した。
 明日香と洋子の会話は結局それだけで、ケーキを食べ終わった私たちは会計を終えて外に出た。
 秋の心地よい風が、私の額をなぞる。長い髪がさらりと揺れたとき、胸がはねた。思わずひそめた眉根。
「あ、立川さん」
 まず声を上げたのは明日香で、続けて洋子が「あ、彩」と言った。私は何も言えずに固まって、並んで歩く二人を見つめていた。
 彩が一方的に立川の腕に絡みつつ、笑顔で何かを喋っている。立川はめんどくさそうに、顔を背けてただ歩いている。あれが付き合いたてのカップルか? と、疑問を覚えるくらいの様子。
「ほら、二人とも、帰ろう」
 見られていることに気がついたら、彩は傷つくかもしれいない。そう思い声をかける。二人も同じく思ってくれたのか、すぐに頷いてくれた。彩と、仲直りをしよう。あんな男に、私たちの仲は引き裂かせない。
 帰り道、洋子と別れたあと、私は明日香と二人きりになった。彼女はいつもより不機嫌そうな顔をしていた。
 夕暮れに染まる彼女の顔に、私は意地悪をしたくなった。いつもやり込められてばかりで、彼女の困る顔が見たかったし、知りたいという野次馬根性があった。
「ねえ、千葉が好きだった?」
 明日香は答えなかった。ただ唇を尖らせて、ますます不機嫌な顔になった。

          ○

 翌日、セットした目覚ましに起こされた。明日香と別れ際に約束した時間の、四十分前だ。動きやすい服装で来るように、と指示を受けていた私は、高校指定のジャージに着替えた。寝巻きのままでも十分に動きやすい服装だが、いつかのことがあるので避けた。そっと家を抜け出そうとしたとき、「あれ、灰音?」と眠気眼の声がした。
 振り返ると、髪をぼさぼさにしたお母さんが立っていた。どうやら、トイレにでも立っていたらしい。
「あ……。えっと」
「どうしたの? どこへ行くの?」
 不安そうな声。お母さんは私が何か、いつもと違うことをするたびにそんな声をだす。
「……演劇の練習。朝にも練習しようって」
「こんな時間に? 大丈夫なの?」
「心配ないよ」
 不思議だ。
 いつもより、言葉が生き生きとしているような気がする。
「ああそうだ」
 私は、笑った。お母さんに自然と笑いかけられたのは、いったい何年振りのことだろう。
「福祉会、一般の人も見に来られるらしいの。良かったら来てよ」
「あら……。行っていいの?」
「もちろん。ちょっと恥ずかしいけどね」
 行ってきます、と宣言して、玄関の扉を開ける。今日の天気は、気持ちの良い晴れだった。
 公園に向かっていると、明日香の、例の野暮ったい黒髪が見えた。少し駆け足して追いついて、「おはよう」と背中を叩く。
「にゃっ」
 まさかの鳴き声だった。
「…………く、っく。にゃ、にゃって…………」
「わ、笑うな、阿呆」
「だって、ふふっふ、あはっ。あははは」
 ひざに蹴りを入れられた。なんて暴力的な女だ。キッと睨みつけると、口笛でも吹くように唇を尖らせて、明日香はそっぽを向いた。私は仕返しっと、蹴り上げた膝を彼女の腰骨に当てた。
 二人、笑いあう。馬鹿らしいくらいの下らないやりとりだった。
「ああ、そういえば明日香さ。前から気になってたんだけど、髪の毛ってどこで切ってんの?」
「家」
「え? ガチで?」
「む。何よ、家で切っちゃいけないわけ?」
「花も恥らう女子高生としては、無しっちゃ無し」
「めんどくなくて、無料(タダ)なのに」
 公園にたどり着く。明日香が始めにやろうと言い出したのは、ストレッチだった。地面に腰をつけることはなかったが、立ったままの前屈や、ラジオ体操のような動きを行なった。普段からヨガをやっている成果だろう。身体の柔らかさは明日香よりも私のほうが高かった。明日香は指先が地面につく程度だが、私は手のひらを丸ごとペタリと地面につけることができ、手首にまで砂がついた。
「まずは発生練習からね。そのあと、滑舌のトレーニング」
 明日香が手本を見せてくれた後で、繰り返した。恥ずかしさは拭えないままだが、恥ずかしいなりに吹っ切れてきて、最後のあめんぼあかいなは、我ながら上出来の滑らかさだった。
「あんた、案外器用なのね」
「ん?」
「身体柔らかいし、滑舌だし」
 褒められたのだ。私はちょっと誇らしくて、胸の中でウサギが飛び跳ねたようだった。

          ○

 今日は迎えに行かないからね。あと授業中にもう一回台本読んどいて。明日香はそう一方的に言い残して、公園から帰った。私も家に帰り、母さんが用意してくれた朝ごはんを食べる。
「練習したあとだから、おなか空いてると思って」
 テーブルにはいつも以上にはりきった朝ごはんが並べられていて、私は目を丸くした。心なしかうきうきと楽しそうだ。ふわふわの出し巻き卵を口に入れ、「美味しい」と心からそう言った。
 自分の部屋に戻り、制服へ着替える。昨日、あんなにも気が重かった学校が、今ではすっかり大丈夫だ。不安に思うこともある。けれどあの場所には確かに、ありのままの私を受け入れてくれる友達がいる。
「行ってきます!」
「行ってらっしゃい」
 お弁当もしっかり鞄に詰め込んで、家を出た。
いつもより少し早い時間に学校に着いた。教室の扉をあける。すぐ横にたまに会話をする女子のグループがあった。「おはよう」
 意識して笑顔で、声をかけてみる。「あ、おはよう」「おはよー」と次々と返事が返ってきた。
 喉元のつかえが、少し落ちた気がした。自分の席にたどり着くまで、私はほとんどすれ違ったクラスメイト全員に、おはようと言った。返ってこないこともあった。それでも、返ってきたことが多かった。嬉しかった
「渋谷、おはよう」
「お、おう、おはよう」
「どうかした?」
 きょとんとした顔で挨拶を返されたので、気になって聞いてみた。
「いや、昨日とちょっと違うなーって」
 そうかそうか。やはり、今日の私は一味違うか。よし、それならいける。きっと大丈夫。動き出すのだ。まずは自分から。
「彩、おはよう!」
 彩は顔を上げなかった。どころか、席を立ち上がり廊下に出て行く。ついて来るなと言外に伝える棘棘しい足音を残して。
「彩……」
 きっかけは、誤解だった。けれどあの時私が彼女に言った言葉は、つもりつもった私の悪意だった。
 少しだけ前向きになった気持ちが、黒く染まる。彩と仲良くなったきっかけは何だっただろう。そんなことを考えながら席につくと、洋子が教室の扉をあけた。肩には家でも練習をしたのか、濃紺のバットケースが納まっている。
 彼女は一瞬彩のほうを見てから、私のほうへと近づいてきた。けれど、途中で私が首を振るのを見ると、彩のほうへと移動して行った。
 ああそうだ、思い出した。彩とは高校に入って一ヶ月ほどのとき、不意に声をかけられたのだ。その髪の毛、おしゃれだね、可愛いね、と。中学の二の舞にはなるまいと、気合をこめたゆるふわパーマの髪型を、初めて褒められた瞬間だった。
「席につけー」といつものセリフを吐いて、我らが担任、新井先生が教卓へと納まる。そつなく本日の注意事項をつげて、千葉から打診されたのだろう、放課後の練習について触れた。明日香の自宅で切っているという0円髪形を見つめるが、今日の彼女は振り返ることをしなかった。机の影にこっそり文庫本を隠して読み進めているようだった。
 教室の中央の席にいる、騒がしくやかましく誰よりも女の子な彩は、熱心に爪を磨いていた。彩の筆箱は筆記用具だけでなく、爪磨きや折りたたみの櫛やミニ鏡やリップクリームやハンドクリームまで入っているのだから、巨大でパンパンだ。化粧ポーチを別に作りなよと呆れ声の洋子に対して、だって授業中でもおしゃれ出来るからいいんだもーんと子供っぽく唇を尖らせていたのも思い出す。あの時私は、そんなことだからテストや宿題で私に頼ることになるのだと心の中で叱りながら、彩は本当におしゃれさんだなあと首をかしげて笑っていたように思う。
 三人で行きかけたカラオケ。立川のチケットを買って金欠になり、行けなかったカラオケ。再び三人で行ける日が来たなら、私はどんなに嬉しいか分からない。
 彩のことは嫌いだ。でも、友達だ。友達全部を好きになんて、なれるわけがないから嫌いだ。彩のことが好きだ。気づいてる。白か黒かなんて、人間関係はオセロじゃない。
 新井先生が帰り、一限目前のちょっとした休み時間が訪れた。私は立ち上がり、彩の机へと向かった。
「おはよう彩、あのね――」
「トイレ。ごめんね、もれそうなの」
 取りつくしまもなく彼女はそう言って立ち上がった。灰音、ドンマイと、洋子に肩を叩かれた。結局彩は授業の開始ギリギリまで帰ってこなかった。一限目と二限目の隙間の時刻には、私とも洋子とも違う、別の友達に話しかけて『嵐』の話題で盛り上がっていた。
 私は彩にごめんねと授業中にメールを送った。驚くべきことに、メールアドレスが見つかりませんと返ってきた。ここまで徹底して、嫌わなくても。私は彩に対して、ふつふつと怒りが沸いてきて、昼休みは彼女に近づいて行かなかった。配られた牛乳を飲んでいると、洋子が近づいてきた。
「てか灰音、牛乳飲めたの?」
「あー……」
 そういえば、そんな設定もあったな。でも私は決めたのだ。
「うん。ごめん。ほんとは飲めるの。嫌いだけど、飲めるの」
「……。ふーん。嫌なものは、先に全部片付けちゃう主義ですか」
 洋子は今までの私の嘘に何も言わずに、席についた。隣の男子の椅子を借りている。
「てか、彩は?」
「昼休み開始と同時にばっくれ。私と話してくれてはいたんだけど、そのたびに灰音と仲直りしなって言ってたから」
「くっそ。強情魔人め」
 チューチューストローを吸う。いつの間にか軽い噛み跡が飲み口についていた。
「どうしようかねえ。話も聞いてくれない」
「……そうだね。でも、今日は放課後練習もあるし……」
「そんなこと言ったって、帰るかもじゃん。彼氏もいるし」
「彼氏、ねえ」
 洋子と顔を見合わせる。苦笑いをしている彼女も、思い浮かべていることは私と一緒なのだろう。明日香と三人で行った帰り道。デート中の彩が浮かべていた笑顔。立川のつまらなそうな横顔。声にだしては言わないけれど、立川はきっと彩を好きなわけじゃなくてほかに目当てがあるのだろう。
 それぐらいは分かる。高校二年生の私にだって、いっぱしの女なのだから。自分ごとではないのだから、それぐらいは分かる。
 牛乳を飲み終わったとき、紙パックを握りつぶした。適当に小さく丸めてから口から離し、ストローを抜いた。前方を見ると、今日も明日香は友達なんだか知人なんだかに囲まれて、つまらなそうにそして豪快にパンを口に含んでいた。

          ○

「うっそ、すっご可愛い!!」
 本日の練習で、第一声を上げたのは私だった。思わず、叫んでしまったのだ。ほとんどそれは条件反射で、きっと少し前の自分ならこれほど素直には伝えなかったのだけれど、叫んでしまった。
「だしょだしょ? 灰音ちゃんってば見る目あるぅ~!」
 そう言って森さんは、手に持った薄い水色のドレスをひらひらとさせた。
「これね、すっごい生地選びに時間かけたんだー! 洋裁店8軒回ったんだよ! すそに使ったレースもね、ストックの中から選び抜いて選び抜いて……。まあでもとにかく、マアベラアアアスッ!」
 ぐっと親指を突き立ててきた森さんに、若干戸惑い気味に答える。衣装係。正直ぜんぜん期待はしていなかったが、やるではないか。
「……ていうか森。締め切りはまだまだ先だったんだが……。あと手作りとか聞いてないぞ」
「え!? なに、まさか千葉くん、私の汗と涙の結晶をボツにする気なの!? 君の目は私のこのきらめく才能の塊が見えないの!? 節穴なの!?」
「ぼ、ボツとか誰もそんなこと言ってないだろ! てか近すぎ! 胸当たってるから!」
「わーエロ坊主―」
「坊主じゃない! エロも違う!」
 ずんずん身体を近づけて文句を言っていた森さんは、わあ怒ったコワーイと笑いながら離れてくるくると回り始めた。手に持ったドレス――シンデレラの舞台衣装も、同じくくるくると回る。
 涼しげな薄い生地を重ねたワンピースは、基調の色は水色であるもの、差し色として入ったちょっとずつ違う色の青が美しい。シンデレラだけじゃなくて、海の底にいる人魚のお姫様にもなれそうな衣装だ。つけるのが難しかっただろう、パール色のスパンコールが時折教室の蛍光灯を反射してきらきら光る。
 そしてなにより、誇らしそうな森さんの瞳が輝いている。
「らーらーらー! るーるーる」
「歌うな音痴」
 仕返しなのか、普段めったに言わない悪口を、ぼそりと千葉は吐き捨てた。続けて何かを切り替えるように眼鏡をずらし整えてから、
「さあ、練習だ。もう時間も少ないからちゃっちゃと行くぞ。とりあえず机と椅子よけてー。この辺りにダンボール班。小道具大道具班は絵の具の用意だ。役者はすぐに台本の読み合わせだぞ。黒板の前がちょっとした段差だから、そこをステージ代わりにやろう。教卓と先生の机をどけてくれ」
 千葉が放つ的確な指示に、クラスの練習に残った二十五名ほどの人材が動き出す。前準備が終わり、個々のグループに千葉は声をかけてまわり、最後に黒板の前に立っていた役者班へと近づいてきた。もちろん私のほかに明日香と、そして彩も居る。
「じゃあ明日香、まずは何から始めようか。ああみんな、実は明日香は演劇経験者なんだ。よろしくな」
 集まった人に向かっての、本人への遠慮まったくなしのこの発言に、周囲がざわめいた。ちなみに大部分が、明日香ってだれ? という声で、それに答えるように千葉が明日香に顔を向けた。彩がちょっと気になる顔つきをして彼女を見上げた。ざわめきはますます大きくなる。
「よろしく」
 モーゼだった。明日香はざわめきを断ち切るように、鋭い一声でもってして周囲を黙らせた。ただの一言なのに、言葉に力が宿っている。おなかから声を出すから? 癖の強いアクセントだったから? 言い放つときの身体の動きだろうか? 
 私は、言霊の意味を悟ったような気になった。
「まずは発声練習」
 明日香の鶴の一声で、発声練習が始まった。渋谷が「えー」と明らかに不満と敵意丸出しの声をだす。しかし明日香がキリとにらみつけると、彼は顎を引いてこそこそと奥へ隠れた。チャラ仲間の友人に、「あいつあんなやつだっけ」と訊ねている。
 それから、発声練習が始まった。学校であることを考慮してか、音量は小さめで良いとのこと、しかし声を出す場所に注意することと明日香は言った。しばらく続けたあとに、二人一組で、と明日香が指示を出した。「おっし、一緒に組もうぜ」と友人に言った渋谷に、渋谷は赤木と、と明日香が指示を飛ばした。不満を口にする渋谷をガン無視して、明日香はつぎつぎペアを勝手に決めていく。
「長谷川さんは」
 明日香はにんまりと笑って、続けて彩の名前を呼んだ。げ、と口から誰にも聞こえない声が漏れる。やりやがった、あのやろう。
「あ、の、えっと、よろしくね」
「……」
 近寄って挨拶をした私に、彩は相変わらず厳しい。くっそ。なんだってこんな奴。くっそ。
 発生練習のあと、そのまま二人一組で滑舌を意識したとレーニングをした。そんなことを三十分ほどもやると、明日香は「おしまい」と宣言をし、机から台本をとりだした。
 練習中の明日香は、座禅の後ろで木の札を持って佇むお坊さんのようだった。気になるところがあればすぐ指摘し、普段の物静かな目立たない明日香しか知らないクラスの面々は、鳩に豆鉄砲のように驚き、うろたえ、結果としてかなり素直に言うことを聞いていた。
「彩。私、彩を裏切ってないよ」
 ペアが解散する直後、彩にだけ聞こえるように私はそう言った。彼女はちょっとだけ上目遣いで私を見つめた。彼女の大きな瞳を見るのは、酷く久しぶりのような気がした。
「じゃあみんな、台本を開いて。これから本読みをするから。適当に座って。自分のセリフのところ、読み上げるのよ。和也はト書きね」
「はいはい」
 明日香に促されて、みんな席に着いた。千葉の書いた脚本の、オリジナルとの大きな改善点は、王子がシンデレラのことを舞踏会の前から知っていたという設定だ。下々の生活が気になった王子は、ときどき城を抜け出して城下の町やそのはずれを見て回っていた。そこで見つけた、辛い目にあいながらも真面目に明るく仕事をこなし、前を向き続ける彼女の姿勢にひそかに心を寄せていたという筋に変更されていた。
「前から思ってたんだよ」
 どこかのタイミングで千葉が言っていた話を思い出す。
「シンデレラの王子って、結局ただの面食いじゃん、って」
 うん。確かに舞踏会での一目ぼれだもんね。
「さて、これはある時代。日本とは違う、風情漂う外国の街での出来事――」
 千葉の語りだしが始まる。本読みを一通り終えて、今日の練習は、立ちまでやるわよ。時間が無いものと明日香が言った。いまやった本読みを立って、それなりに感情や情緒をこめて演技らしくしたのが立ちだという。
 座っていた椅子を片付けてと明日香が指示をし、動き始めた。千葉の影はすっかりなりを潜め、ここでの学級委員はもう明日香のようだった。
 そんな彼女は仕事をさぼり、のこのこ私に近づいてきた。
「灰音。あんたちょっとビビりすぎ。公園のときのほうが良い声でてるよ。あんたはもっとすごいんだから、肩の力抜きなさい」
「ふえっ」
 褒めた!? 今なんかすごい褒められた気がする! 
「……よろしくね」
 意味ありげな意地悪そうな笑顔を残して明日香は千葉のもとへと歩いていった。なんだか落ち着かない足取りで、私は二つ椅子をのけた。ノルマはきっと一つだから、私は働き者だろう。
「じゃあ始めるわよ」
 立ち稽古が始まった。本読みと同じように、千葉がト書きの部分を語りだす。先ほどと違い動きをつけてとの指示なので、その通りに始まる。まずは、私と彩のシーンだ。
「シンデレラ! シンデレラはどこ!」
 彩の役は、わたしの姉という設定だった。小さくて子供っぽい彩に対して、私のほうが酷く大人びているが、シンデレラと姉の間に血縁関係はないからいいか、というのが千葉の決断だった。
「ここに居ますわお姉さま」 
 明らかに、本読みのときよりもいい声が出来た。けれど、何かが違う。
「あんた何してんのよ。私の部屋の掃除はまだ? ああ。一応念を押しとくけど、余計なものはいじらないでよ。あと、何かを盗んだりしても、私すぐにわかるから」
「……。まあ、盗むだなんて……。私はそんなこと、しません」
「どうだか」
「ストップ」
 明日香の止めが入った。彩に向けて、「アドリブはかまわないけど、セリフにこめた心情が違う。それから長谷川さんのほうも結構いいけどもっと良くていいはず。良い二人とも? 相手のセリフを受け取って話すのよ。個人個人がただ台本を読むのが演劇じゃないの」
 彩のアドリブは、最後の「どうだか」だった。『何かを盗んだりしても、私すぐにわかるから』
 これはまるで、演劇を通した口げんかだ。
「はぁい」
 甘ったるい、可愛らしい声をだす。私は力強く頷いた。芝居が再開し、下々の生活を観察しに町へ降りてきた王子がシンデレラと出会うシーンが始まる。
 王子は薄汚い物売りの格好へと姿を変えている。
 ちなみにこの王子こそがこの劇での魔女の役割をにない、使いに乳母をシンデレラのもとへとよこし、高価なドレスを与えて舞踏会に招待することにもなっている。ファンタジー要素はないが、現実的でロマンチストな千葉らしい新約シンデレラである。
「んん? やあ、誰だあの少女は」
 明日香の声は、やはりみんなとは違う。背筋がぴんと伸びるような、張りのある声。
 私は手を動かし、家の外を掃除している演技を続ける。一通りの掃き掃除を終えると、次は窓を拭くのだ。
 そして、迷い込んできた野生のうさぎにえさをやるシーン。
「さあお食べ。よしよし。まだ小さいわね。ねえ、あなたも一人ぼっちなの?」
 うん。臭い。一昔前のヤンキー漫画かと言いたい。けれど私はシンデレラ。そしてここは自然あふれる没落しかかった旧家の豪邸。
「そうね。辛くても生きなくては。無くなったお母様のように……。美しく、強く生きなければ」
 さあ、これでこのシーンは終わりだ。このうさぎとのやりとり、そして熱心な仕事ぶりを見た王子は城に帰った後も彼女のことが忘れられずに――
「もし、そのこのお嬢さん」
 声かけてきたーーーー! びくっと震えた肩を、そのまま演技につなげる。シンデレラはしっかりとした女の子だ。警戒心をあらわに、「なんですか」と言葉を返す。アドリブだ。明日香のアドリブが始まるのだ。
「少し訊ねたいのですが、あなたが大切にしていることはなんですか?」
 明日香は顎に手をやって、真剣な顔で訊ねる。なぜか避けられない、優雅な気品あふれるしぐさだった。
「……どうして、そんなことをお聞きに?」
「ああ、これは失敬。道を尋ねるならばともかくと、あなたは不思議に思われるでしょう。けれど今の問いかけこそが、私が迷っている道なのです。どうか、助けると思い教えてください」
「はあ……」
 シンデレラが、大切にしているもの?
「本当のあなたが、大切にしてるものを」
 私が、大切にしているもの?
 なぜ明日香はこのタイミングで、いやしかし、ああそうだ、セリフは相手の気持ちを受け取って。
「私は――」
 考えなくていい。本当に大切なことは、自然に沸き起こるものだ。
「私は、みんなを大切にしたい。私と一緒にいる、私の周りの、私の世界にいる全ての人をみんな大切にしたい」
 口にだしてから、ああそうだったのかと驚いた。けれど驚いた次の瞬間には、すとんと腑に落ちてしまう。
 そんなこと無理だって、分かっているのに。
「なるほど……。これは本当に、王女の素質に――」
 明日香がぼそりと言って、我に返った。流れ的に今のセリフは、聞いてはいけないものだ。
「……すいません、何かいいましたか?」
「いいえ何も。それでは失礼」
 明日香が舞台袖、教室入り口の扉付近へと移動する。その後の立ち読みはつつがなく進行していった。
 立ち読みが終わると、まばらに拍手が起こった。
「すごいね、さすが新橋さん、経験者!」
 森さんが第一声を投げかけると、控えめな賞賛がいくつか付随した。私が舞台を降りると、「灰音ちゃんも上手だった! ひょっとして練習したの?」と佐藤さんに声をかけられた。まあね、と曖昧に笑う。
 誇らしい以上に、照れくさい。私は髪の毛を触り気持ちを落ち着けると、明日香のもとへと向かった。
「さっきのあれ、何」
「んー? なんとなく。まあ、意趣返しみたいな」
「意趣返し?」
「あの子がやったこと、ちょっと返してみたくなって」
 明日香が目で追ったのは、彩の姿だった。彼女はよりどころも無くつまらなそうに、唇を尖らせて天井を見つめていた。
「ねえ、演劇の練習って、普段なにしてるの?」
 一人の女子が近づいてきて、明日香に尋ねた。明日香は私との会話は終えたと判断したらしく、適当な返事をその子に返す。演劇の話だからか、普段は見せないような熱を持って、楽しそうな表情を浮かべている。
 千葉の目論見どおり、この劇をきっかけに明日香はクラスのみんなと仲良く出来るかもしれない。
「長谷川、あのアドリブのシーンなんだが」
 千葉が近づいてきて、今度は私に声をかけた。演出の話をしていると、役者のみんなが集まってきて、あちこちから意見が舞った。
「あのシーンは哀しみをこめるべきじゃないか」
「私の動き変じゃなかった?」
「ねえ、ひょっとしたらセリフ、こうの方がいいんじゃない? 『明日はわが身と――』」
 始まる前のやる気のない態度はどこへやら、熱気を帯びた空間が、明日香を中心に形成されていく。
「なんだか新橋さんと長谷川さんが上手だから、やる気になってきちゃった」
 交わされた意見のなかで、一番じんと来た言葉だった。

          ○

 練習が解散になる頃には、あたりはもうすっかり夕闇に染まっていた。大道具の洋子はとっくに帰っていて、というか役者以外の班は区切りのいいところで解散していて、学校はしんと静かになっていた。
「あー、楽しかった!」
 私の横には明日香。私より低い身長の彼女を見下ろすと、唇の端を持ち上げて彼女は笑っていた。
「昨日までが嘘みたいね」
「ん?」
「いきたくないー、いきたくないーってオーラ、すっごい出てたから」
 確かにその通りだ。
 なぜだろう。私は空を見上げてみた。秋の夜空は吸い込まれそうなぐらい高くて、一つ二つ、星が見えた。私が知っている星は、アテネにベガに……。
「なんでだろ。明日香がいるからかな」
 みんなに好かれたいと思っていた。けれど、素の自分を好きと言ってくれる人が一人いるだけで、私はこんなにも幸せだ。
 空を見上げるのをやめて横を向くと、明日香はぎょっとしたような顔付きをしていた。
「な! 何よその顔!」
「いやだって気持ち悪い」
「気持ち悪くない! あーもう、何よ!」
 こんなとき彩だったら、ぷんぷんとでも言うのだろうか。そういえば彼女の姿が見えない。いつも帰り道は同じだから、時間をずらしているのかも。
 けれどあまりに遅い時間になりすぎると、心配だ。
「ねえ明日香。彩を見てないよね? まだ帰ってないのかな?」
「え?」
 明日香は急に青ざめた。
「なに、どしたの?」
「……いや、まさかとは思うんだけどね……。うん、でも、やっぱ気になるかも。戻ろう灰音」
「え? どこに?」
 決まってるでしょ、教室っと明日香は吐き捨てると、私を置いて踵を返してしまう。釈然としないが、引き返すのは億劫でない距離だ。それに彼女の態度はどことなく、真剣で危ない気配を感じる。少し早まったリズムの心臓を抱え、私は明日香の後を追った。
 教室にはもう、人気がすっかりなくなっていた。薄暗い廊下には明かり一つ点いておらず、怖い。おそらくあと数時間もすれば、鍵をかけて契約しているはずの警備システムが作動するのであろう。
 教室に向かう。
少し薄暗いというただそれだけで、ちょっとした異界に迷い込んだ気分になる。
 教室には果たして、誰かが居るようだった。前を行く明日香が私を振り返る。覚悟して。そんな言葉を感じる表情。ああ、表情だけでも言葉を伝えられるのだ。明日香はすごいなと私は妙に関心した。
「…………」
 無言のまま、彼女は教室の扉を開く。後ろから明日香の頭越しに中を覗くと、そこには小柄な少女が立っていた。
「彩……っ」
 弾かれたように振り返り、彼女の手元から何かが落ちる。カチィンと金属音を立てたソレは、小学生っぽいキャラクターモノのはさみだった。
 そして彼女の前には、机に広げられた水色のドレス。私のドレス。
 状況を察知した私は目を見開き、彩は気まずそうに暗い影を落とした顔を何も無い床に向けた。
 明日香が無言で教室に入っていくので、続いて行く。彼女はあまりにも自然な動きでドレスを取り上げると、ハンガーにかけてもともと置いてあった場所へと戻した。
「彩……」
 怒りより、哀しみが沸き起こった。彩は顔をあげなかった。身体が微かに震えている。
「しょうがないでしょ」
 もうどれだけの時間沈黙していただろう。明日香が場違いにもあくびをした瞬間に、彩は言った。
「わたしは……、だって、わたしは……っ」
 自分のことを、自分の名前で呼ぶ少女。
「だって、だって――――っ」
 彼女はそのまま泣き崩れ、地面にぺたんと床をつけた。私はゆっくり彼女に近づいていき、その頭の上にぽんと手のひらを乗せた。
「さわらないで」
 弾かれて、彼女のお気に入りの髪飾りを掠める。やり場の無い手を私は下げて、目線を合わせるため同じように床に腰をつけた。うっうっ、と小さくなく彩から零れるのは、呪詛のような言葉。
「わたしね、ほんとね、灰音の言うとおりだよ。空っぽだよ……。初めて会ったときね、なんとなく、同じだと思った……。だから、だから…………っ。ううう。うう」
 空っぽ。
 その言葉は、かつての私にひどくピタリと当てはまった。絵に描いたような理想の女の子。私はそれになろうと必死だった。そして、それは上手く行っていたように思えた。
「彩……」
「それでも、優しい灰音が好きだった。わかってるよ。あの時は違ったけど……。でも、やっぱり、気づくよ。立川さん、わたしのことなんか好きじゃないもん。遊びだもん。私が思う付き合いと、立川さんの付き合いは、全然違う……。灰音を御飯に誘って断られたって、あの人笑いながら私に電話してきたんだよ。灰音は……。灰音は……、灰音はあの人、嫌い……でしょう?」
 そう口にする彩は、立川のことをどう思っているのだろう。好きなのだろうか? 分からない。二人の関係がどんなものだったか、私は想像することしか出来ない。多分、彩は……と、気まずくなる想像。
 でも、そんなものを剥ぎ取れば、私の感情は決まっていた。
「うん」
「だよ……ね。わたし、馬鹿だけどわかったから、だから灰音を無視したあと、仲直りしなきゃって、思ってたのに。でも、灰音が変わるから――っ。私と同じだと思ってたのに、変わるから……っ」
 そのあとは、もう続かなかった。彼女はわあっと泣き喚いて、大粒の涙を惜しみなく何粒も流した。私は彼女が泣くのを、ただじっと見ていることしか出来なかった。さっき弾かれたから、手を伸ばすのをためらった。でも本当は、抱きしめたいと、そう思ったのかもしれない。私の手は軽く開いたまま、そんな風に伸びていたから。
「仮面だっていいじゃない」
 ようやく、私は言葉を口にすることが出来た。
「それは彩がなりたいと思う自分ってことでしょ? 嘘でも演じ続けていれば、いつか本当になるかもしれないし! 他人の心の中なんて、普通はわからないよ?」
 それは今まで、自分が演じ続けてきた何かに対する答えなのかもしれない。完璧であろう、良い子であろうとあり続けた分だけ、本当の私も、その精神が確かに残っている。
「本当に、酷いことを言ってごめん。彩は、空っぽじゃないよ。彩は、彩だよ」
「灰音、灰音ぇ……!」
 彩が飛びついてきた。すっぽり収まった小さな身体を、私は軽く抱きしめる。彩が泣き止むまで私は彼女の背をゆっくりと撫で続け、明日香はやはり

退屈そうに、けれど決してその場から帰ろうとはしなかった。



 エピローグ

「あら、こんにちは」
 しわくちゃの柔らかな声に振り返ると、いつか押し花を一緒にやったおばあちゃんが車椅子に座り笑っていた。
「あ、こんにちは。大丈夫ですか……?」
「え? あ。ああ、大丈夫よ。ちょっと足腰が最近動かしづらくて……。それより今日の福祉会、楽しみにしてるわ」
「ありがとうございます! 楽しんでいただけるよう、精一杯がんばります」
 おばあちゃんはにこりと笑うと、くすくすと笑った。ん? と表情を向けると、
「あなた、何だか前よりずっと綺麗になったみたい。恋でもしたの?」
「え」
 恋、といわれてなんとなく、話し始めた私を置いて先に行った明日香の背中を眺めてみた。そう、私は、きっと。
「そうですね、そうかも」
 演劇が好きなのだ、と思った。別の誰かになるのも、腹の底から声を出すのも、華やかだったり軽やかだったり、普段はめったにお目にかかれないような服も。そして、それを作り出すみんなとのやりとりも。
「いいわー。若いって、うらやましい。じゃあ、席に行くわね」
 おばあちゃんと手を振って分かれて、明日香の背中を追う。
「お待たせ。ねえ、劇が終わったらちょこっとお願いしていい?」
「なにを?」
「内緒」
「なによ、気になるじゃない。教えてよ」
「やだ」
 いたずらっぽく笑うと、明日香は舞台前に余計な雑念を与えないでよと不細工なむくれ面で文句を言った。
 明日香の所属する劇団を、今度見学しに行ってみよう。
「ああそうだ、灰音に頼まれてたことやっといたから。てか、頼みごとしすぎ」
「あ、ありがと。そっかそっか、で?」
「暇だし来るって。びびらせてやろうぜ」
「そっか」
 私は軽く振り返り、彩に向かって「来るって!」と叫んだ。彩はにんまり笑った。最近切った男の子みたいなショートカットに、よく映える笑顔だ。
「おう! びびらせてやろうね、灰音! 明日香ちゃん!」
 あの日以来、彩は妙に明日香になついている。ただ単に、私が明日香と仲が良いからかもしれないけれど。
「なに、来るんだ立川」
 大荷物の洋子が口を挟む。背景の木々の板だ。洋子はなんとその板丸々2,3枚を1人で塗りきっている。作業日程が追い込まれると、大好きな部活動を休んで作業を続けたそうだ。
「おう、来るよ立川! 元彼!」
「元気だねえ」
「洋子も別れちゃえーっ」
「何そのポーズ!? 呪い、呪いなの!? やだー! 離れろー!」
 一昔前の黄色い背広のお笑い芸人みたいなポーズの彩だった。
「さて、そろそろ気合いれるよ?」
 用意された舞台裏に機材もろもろ運び終え、明日香が言った。円陣を組むように、クラス全員でぐるりと彼女を囲んでいる。明日香が指示を出し始め、周りのみんなが動き出す。本来の監督だった千葉はどこえやらと思いきや、彼女と仲良く大道具の設置をしていた。
「灰音、なにボーっとしてんの? ほら、最後の打ち合わせだよ役者班!」
 明日香が近づいてきた。手には私の台本を持っていて、見やすい方向で差し出してくる。
「うん!」
 受け取り、私は彼女の背を追って、みんなのもとへと歩き出す。


おしまい


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