発達障害児に[個性という呪文]を唱え、困りごとから目を背ける世間に対して思うこと
わたしは「障害は個性だ!」みたいな教育で育ったゆとり世代。
「障害を持たれた方」「障がい者」「チャレンジド」、
そんな呼び方で授業がありました。
この「個性だ!」と言い出した方は、当事者ではないんだろうなって思っています。
例えば、
わたしは24歳のころ「てんかん」の発作が起こり、
「障害者」になりました。
「よし、今日から私の個性は『てんかん』!」
いやいや、ないない。
わたしという個人を形づくる属性だとは思っていますけど。
「障害」という言葉が過激(本人や周りにとって)だからか、
「障害じゃないよ、個性だよ、あなたらしさだよ」
と、ソフトでポジティブな言葉に変換しているのだなと感じます。
…いや、『てんかん』がわたしらしさって何?!
そしてうちの4歳は、
自閉スペクトラム症、注意欠如多動症、知的障害です。
「発語がない?そりゃあ個性だ!」
「危険が分からなくて道路に飛び出す?個性的じゃないか!」
「下半身真っ裸でテーブルに上る?そりゃあ個性だよ!」
いやいやいや、ムリムリムリ。
障害ゆえの特性であって、
障害は障害。
個性という呪文で、
目の前の「生きづらさ」を有耶無耶にしないで。
わたしは「私の障害は個性だ!障害がない私は私じゃない!」
と胸を張って言える方は、個性なんだと思います。
当事者がそう思っているのなら、
それはとても素敵なことだと。
ただ、周りが「個性だから~」と言うのは
どうかと思うわけです。
生まれつきの障害は、
自分で獲得したものではありませんから。
その「個性とやら」をおなかの中で選べるとして、
うちの4歳はきっと選ばなかったんじゃないかな。
「障害」は、「生きづらさ」「難しさ」と言えます。
「障害」=「個性」という呪文の公式をいま一度、消してしまいませんか?
それこそ、チチンプイプイ、って。
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