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記憶について

先日、記憶に関するある記事を読みました。「記憶とは、映画のように再生されるものではなく、実際には解釈(意味付け)と想像力を通じて再生される」------ なんとも当たり前のことですが、時々この当たり前のことを忘れてしまわないでしょうか。とてもインパクトがある、最近の出来事であれば、ほぼ正確に思い出すことはできるはずですが、そうであっても、個人の感情や意味付けで、歪みが出るはずです。事実と真実の違いの定義と近いものもあるかも知れません。

記憶の中の事実は、個人の解釈(意味付け、見方、捉え方)や想像力というフィルターだけでなく、時間の経過とそれに伴う感情の変化というフィルターも通して再生されると、さらに大きな歪みが出てしまいます。

何故こんなことを考えたのかと言うと、刑事事件の事情聴取や、裁判や、警察への被害届提出など、犯罪を決める重要な場面で、客観的な証拠はもちろん、被害者(や加害者)の記憶に頼るところがとても大きいのに、記憶ってあまりに心許ないな、とふと思ったからです。

冤罪事件で問題になった、自白の強要とか、食事も睡眠も制限されて、怒鳴られたり叩かれたりしながら言われ続けたことは、事実でなくても事実だと思ってしまったり、その困難な状況から逃れるために、事実だと言ってしまったりするわけで、そういう状況さえ許されれば、どうとでもなってしまいます。

もちろん、今の世の中自白の強要はできません。(本当にできないことを願います。)ですが、SNSやらメディアやらの圧力で、被害者が事実を歪めることを自ら選んでしまったり、自分の記憶が誤っていたのではないかと疑い、記憶が塗り替えられるということは、普通にあるのではないでしょうか。それが、酒を飲んでいたり、睡眠薬を入れたドリンクを飲んでいたり、精神的に強いショックを受けていたりしたら、なおさら記憶の塗り替えは起きやすいのではないかと。

そして、記憶の一貫性がないと不利になる、ということも、知っていて欲しい人達が知らなかったりします。

2段落目に書いた、時間の経過と感情の変化のフィルターは、論点がずれそうなので、省略します。こういうことの教育とか、もっとあるべきじゃないか、とか、色々考えてしまいます。取り止めなくてすみません。。。


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