見出し画像

歴史好きが訪ねた、武田信玄公の世界!其の三

元亀三年(1572年)10月3日、将軍足利義明の信長討伐令に応じ、信玄は甲府を進発。

二俣城跡本丸

12月19日遠江の二俣城(ふたまたじょう)を陥落させ、12月22日三方ヶ原(みかたがはら)で徳川家康と決戦するも、徳川方は敗退。
元亀四年(1573年)信玄は度々喀血するなど持病が悪化し、同年4月初旬に甲斐に撤退。

三方原古戦場跡の碑

4月12日その途上、三河街道にて武田信玄は逝去しました。
死因については、徳川方の銃弾が元で死去したなど諸説ありますが、私は労咳(結核)を患っていたことによる死が最たる死の要因ではなかったかと思うのです。
法名は「恵林寺殿機山信玄公大居士(えりんじでんきざんしんげんこうだいこじ)」、菩提寺は山梨県甲州市の恵林寺(えりんじ)。
辞世は「大ていは 地に任せて肌骨好し 紅粉を塗らず 自から風流」

恵林寺三門

恵林寺は元徳二年(げんとく:鎌倉時代(南北朝時代)1330年)甲斐牧ノ庄の地頭 二階堂出羽守貞藤(にかいどうでわのかみさだふじ:道号 道蘊(どううん))が夢窓国師を招いて自邸を禅院として創建しました。
これが、臨済宗妙心寺派乾徳山(けんとくざん)恵林寺と称します。
信玄の尊敬を受けた美濃(みの:現在の岐阜県)の快川和尚(かいせんわじょう)を招き、寺勢を高め、永禄七年(1564年)信玄は寺領を寄進し、菩提寺と定めました。
恵林寺には信玄のお墓があります。
この恵林寺で、信玄亡き後、勝頼は信玄の盛大な葬儀を行いましたが、天正十年(1582年)3月、勝頼は天目山にて自刃、甲斐武田家は滅亡しました。
同年4月3日、恵林寺は織田信長の焼き討ちに遭い、快川国師は「安禅必ずしも山水を須(もち)いず 心頭滅却すれば火も自ずから涼し」と言葉を残して、百人以上の僧侶と共に火に包まれたのです。

焼き討ちで亡くなった僧侶の供養塔

同年6月3日に信長が本能寺の変によって討たれると、徳川家康によって復興され現在に至ります。
第五代将軍徳川綱吉の時代に、甲斐国守となった柳沢吉保(やなぎさわよしやす)の庇護で寺運は発展し、吉保の嫡男吉里の代に柳沢家は奈良大和郡山に転封となりましたが、吉保の葬儀は恵林寺を菩提寺として霊廟を設けました。

諏訪湖

「甲陽軍鑑(こうようぐんかん:武田家臣山本勘助の子が記した武田家の記録物語だが、史料としては信憑性に欠ける)」には、信玄の遺言で「自身の死を三年間秘匿し遺骸を諏訪湖に沈めよ」などと言い残したとありますが、家督を相続した勝頼は遺言を守り秘匿したと伝わります。
しかし、実際は諏訪湖に沈められていのではないかと考えられています。

諏訪大社上社本宮

長野県中部、諏訪盆地に面積1,281平方キロメートルの長野県最大の湖である諏訪湖が存在します。
湖畔には、信濃国一之宮諏訪大社があり、神階は正一位、国内にある最も古い神社の一つです。
ひと口に諏訪大社といっても、四社(四つの神社)を総称して諏訪大社と言い、諏訪大社本宮、諏訪大社前宮、諏訪大社春宮、諏訪大社秋宮が鎮座しておられます。
御祭神は、本宮・建御名方神(たけみなかたのかみ)、前宮・八坂刀売神(やさかとめのかみ)、春宮秋宮・建御名方神、八坂刀売神、八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)がそれぞれお祀りされています。
古事記に記されている国譲りに反対した建御名方神(大国主神の子)が出雲(いずも)から諏訪へ移られ信濃国を築き治められました。
冬の諏訪湖で有名な氷湖の神幸(おみわたり)は、上社(本宮・前宮)の男神が下社(春宮・秋宮)の女神のもとに通われた道筋であると伝わっています。
また、諏訪の地は古代ユダヤとの関係もあるとの説も大変興味深いものがあります。
信玄の四男勝頼の母方の系統は、建御名方神の後裔と称する諏訪大社上社大祝(おおほうり)家の諏訪氏(諏訪神家)です。
「神」を本姓としているため、勝頼の正式名称は「武田(諏訪)四郎神勝頼」と神姓が入ります。
但し、公的文書では神氏は認められておらず、諏訪氏の除目(除目経文奥書)などの本姓は「金刺(かなさし)」と記しているという興味深い話があります。

小坂観音院

さて、諏訪湖に信玄の遺骸が沈められているとの説については、諏訪湖の真中、一番水深が深い場所に沈められているとのことで、その場所を国土地理院湖の深さを測った際、湖の底から菱形の造形物が見つかり、その中に棺のようなものがあることまでわかったのだそうです。
それは、信玄の側室で勝頼の母、諏訪御料人が住まわれていた小坂観音院の近くなのだといいます。
中に信玄の遺骸が甲冑を着用したまま沈んでいるのでしょうか?
それはまだわかっていません。

武田勝頼公生母 諏訪御料人供養塔

信玄は京から公家を招いて詩歌会(しいかのかい)、連歌会(れんがのかい)を度々行っており、信玄自身も多くの歌や漢詩を残しています。
また、人としても親としても、その心にあたたかみがあり、嫡子義信に切腹を命じ廃嫡したことや、婚姻同盟による子女の受難などを招きつつも、娘の安産や病気平癒を祈願した願文を奉納しているのです。
さらに、行政や軍制が早くから整えられ、検地(測量)も行われ、領国支配の基盤が整えられました。
天文十六年(1547年)には甲州法度次第(こうしゅうはっとしだい:信玄家法、甲州式目ともいわれる)という分国法(独自の法律)を制定しました。

徳川家康は、武田信玄公を心から尊敬し、武田家滅亡後の家臣を多く取り立てました。

武田家は滅亡しましたが、信玄の次男武田(海野)龍宝(龍芳とも。諱を信親(のぶちか:別名 勝重))の系統が徳川幕府に高家として召し抱えられ、現在も続いています。
また、高知県の佐川にも、落ちのびた武田勝頼の子孫が現在でも住んでいるそうですが、それはまた別の機会にお話したいと思います。

■他SNSのフォローもしてくれると嬉しいです。
■ブログも不定期に更新しています。

【YouTube】

【X(旧Twitter)】

【ブログ】 
https://usakichi.net/ 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?