推理もの好きの末路

脳について考える機会が増えたからか、得意なことと不得意なことが前よりも明確になってきた気がする。

多分幼い頃、母が私のこと好きすぎてたくさん話しかけていた影響か、私はとてもおしゃべりである。
話せる人にしか話さないので、そう思っていない人もいるかもしれない。
ちなみに、noteは誰が読んでいて、どんなことを求められているか気にせず書きたい放題書けるので、ここではかなりおしゃべりに気持ちや考えをだだ漏れにしている。

話が少し逸れたが、何が言いたいかというと、言葉を使うことや理解しようとすることは、私の中では「得意」に分類されるということ。


私は小学1年生の算数のテストで20点をとったことがある。小学生で、しかも低学年で50点を切ることは多分珍しい。
その20点も、勘で取ったものであることを当時から自覚している。
それから勉強して、さすがに20点はあの1回だけだったものの、大人になった今でも暗算はできないし、小数点や分数、割合になってしまうともう何が何だかさっぱりわからない。
先日、小学5年生の計算問題を解く機会があったが、ちっともわからなかった。

また、私は地図が読めず、かなりの方向音痴である。
絵を描くのも苦手。ノートの端に落書きする程度のイラストを描くことは好きだが、陰影をつけたり立体感を出すことはできない。
これらは脳出血の部位とも関連しているのではないかとも思うが、まあ、定かではない。

算数も含めて、このように頭の中に言語ではない抽象的なものを思い浮かべてさらにそれを操作、処理することは「不得意」に分類される。


さて、タイトルに戻りたい。(やっと!)

私は小学校低学年で『名探偵コナン』にハマった。苦手な父と2人で映画を観に行ったこともある。今でも父は、毎週録画してくれていて、休みの日が合えば一緒に録りだめしたものを観ている。
とはいえ、はじめにハマったのが小学生で、まだ「怖い」という気持ちもあり、しばらく観ていなかった期間もある。そこは再放送やビデオで補ったので、ほぼ全ての話、犯人を把握していると思う。

それから少し大きくなって『金田一少年の事件簿』にハマる。
図書館に漫画が置いてあり、3冊まで借りることができたのでこまめに借りに行っていた。
アニメは怖いのと、なんともいえない悲しさ切なさがあるのとであまりじっくり観たことはない。
そして『探偵学園Q』にハマる。
漫画を揃えた。ドラマも観た。ゲームも買ったが、怖くてクリアまで辿り着けなかった。

もう少し成長すると、推理小説を読むようになる。しかし、問題があった。ホームズやポアロの出てくるような話は、登場人物が全てカタカナなのだ。

私は数字とカタカナは似ていると思っている。
漢字には、形や成り立ちに意味があって、日本人の名前であれば香りのような、その人の雰囲気を感じることができる。
しかし私は外国の文化に疎いので、カタカナで名前を見ても香りを感じることはできないし、たくさんの人が出てくると誰が誰だかわからなくなってしまう。
それはまるで計算問題でどんどん置いていかれるような、そんな感じで、とにかくカタカナの人物名が並ぶと途端に頭の中での処理が追いつかなくなってしまうのだ。
だから私は世界史も不得意だった。世界史に登場する人物は、なんと名前に数字までついている。資料集を見て顔を確認しないと全然覚えられない。

ただの言い訳である。

それで、世界の名作といわれるものからは早々に離脱してしまった。
そしてついでに言うと読書も好きなわけではなかったので、中学生になっても日本の児童文学の探偵シリーズのもの、小学校低学年〜中学年向けくらいの、文字が大きくて挿絵がたくさんのものを読んでいた。

そして時が進み、『流星の絆』というドラマから東野圭吾作品に興味を持つようになる。
母が原作も買ってくれたのだ。
さらに、同級生に『相棒』の右京さんのファンがいたので、『相棒』も観るようになった。

それから刑事ドラマにハマる。
もっとも、初めて視聴した刑事ドラマは『古畑任三郎』なので、もっと前から観てはいたのだが。

様々な「推理もの」といわれる作品に触れていると、好き嫌いがはっきりしてくる。
そして考えてみた。
私は「推理もの」の何に魅力を感じているのか。
答えは簡単に見つかった。「動機」と「犯人の追い詰め方」、「どんでん返し」だった。
どうして簡単に見つかったのかというと、「トリック」には全く興味を持てていないことに気づいたからだ。


ここで思い出してほしい。
国語のような言語的なものは得意、算数のような概念的なものは不得意。
どんでん返しは別として、動機や犯人の追い詰め方は言語的であり、トリックは概念的なものではないか。
つまり私は、理解できないものにはあまり興味を持てないということになる。
ちなみにどんでん返しについては、「ああ〜!その人が犯人かー!」と思うのは好きだが、「え、あんな一瞬しか出てこなかったのに?」という裏切られ方は好きではない。
動機については、「そうかー、それで、そうかー」と納得(していいものか微妙なところだが、、)できるものもあるが、「サイコパスで」とか、「快楽のため」とかだと少しがっかりしてしまう。
追い詰め方は、「いつ証拠をつきつけるのだろう」「自白をどう引き出すのだろう」という心理戦のような駆け引きを見ているとワクワクしてしまう。

だから私は刑事ドラマに限らず、法廷が舞台になっているものも大好きである。
人間模様や、裏側という意味では「恋愛もの」とも共通しているのに、なぜかあまり惹かれない。これは私の七不思議のひとつ。(七つどころではないかもしれない)

先日推理小説をひとつ読み終え、今日は久しぶりに刑事ドラマを2本観た。
それぞれ全く別のものに触れたわけだが、感想、というか、見応えというか、同じ印象を受けた。
幼い頃から「推理もの」に触れていたせいか、どんでん返しされないことが増えてきてしまったようである。
「きっとこの人があの人の隠し子」とか、「あの絵の秘密はきっとこれ」とか、「トリックはわかんないけど多分犯人はこの人」という予感が的中してしまうのだ。
なにせトリックはどんなに巧妙で工夫が凝らしてあっても、理解できないので「へぇ」で通り過ぎてしまう。
そうすると、わたしにとってのどんでん返しは、全然あやしくなかった人が犯人か、ぐっとくる背景の隠された動機か、とかそういうことになるのだろう。
かと言って、『金田一』のように悲しすぎる話は苦手である。

推理もの好きの末路として、推理ものに対してワガママになるということを仮説としてここに置いておこう。
言語的で、びっくりするような推理ものがあれば是非出会ってみたい。
まだ知らない物語がきっとたくさんあるので、こちらから積極的に迎えに行こうと思う。
これを機に、読書苦手マンを卒業できたら、、なんてヨコシマな思いも抱えつつ。

あともうひとつ。「なんとなくわかった気になってしまう」というのは私のここ最近気づいた課題なので、「犯人はきっとこの人」と思ってからもう少し考えを深めてみると、また違った面白さが見えてくるのかもしれないな。

結局のところ、「推理もの好き」はまだ当分辞められそうにないし、それを堂々と宣言するにはまだ浅いようだ。

これからも推理ものを楽しもうと思った今日でした。

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