途中に

「はじめに」「おわりに」は見たことがあるが、「途中に」は見たことがないなあと思い、作ってみた。
いや、本当はここまで書いてみて思うことをまとめてみたくなっただけだ。
そして私が見たことないだけで、「途中に」らしいものは存在しているのかもしれない。


私は実際のところ、脳出血を起こし入院したことについて驚かなかった。前兆はなかったので、突然のことではあったが、驚いている心の余裕がなかったのだと思う。
気づいたら検査されていて、気づいたら入院になり、気づいたら脳出血の診断がなされた。この一連の中で私の感情はどれだけ動いただろうか。

私は人より少し、自分の感情や他者の感情に過敏なところがあると思う。また、刺激にはかなり弱く、衝動性が高いので、何でもかんでもすぐに反応する癖もある。たとえば、身近な人がぼそっと何かをつぶやいたとしたら(刺激)、独り言かもしれないのに返事をせずにはいられない(反応)、といった具合である。
だからこそ私は、この日々の中で特に自分の心の動きからはなるべく目を逸らすようにしていた。
今大切なのは、自分の感情ではなく自分に起きている事実だと考えたからだ。

一方で、不安や恐怖といういわゆる負の感情に向き合いたくなかったという側面もあっただろう。

ここまで入院日記を書いてみて、なんだかこう、事実をただ書き連ねているだけのように思えてきた。そしてなんだか雰囲気が重いし暗い。
それはそれで良いのだが、あまり自分らしくないような気がする。
そこで、それはなぜだろうかと考えてみたとき、上述のようなことが頭に浮かんだ。
自分に起こっていることが恐ろし過ぎて、事実しか見えていなかったのだと。事実だけを知ろうとするのに精一杯だったのだと。
また、今になってようやく、脳出血を発症したというこの重い現実を受け止めようとしているのではないか。

3日目以降はだいぶ「自分」を取り戻していくので、色々なことに気づいたり、向き合ったりする機会も増えたが、それまではとにかく事実だけ、今起きていることを理解しようとしていた。
心の動きに目をやると、「悲劇のヒロイン」として、全くそうではないのに、世界で一番悲しいのは自分だと思い込み、塞ぎ込んでしまうから。
さらに私は家族がどう思うかも心配していたので、ひとりの時間以外には悲劇のヒロインにすらなりきれなかった。

ああ、そういえば、そういうちぐはぐした自分にずっとしんどさを抱えていたのかもしれない。だから私は、こうして日記として表現することで、だんだんと自分がまとまっていく感じがあって、それを続けようとしているのだと思う。

私は今まで日記が続いたことがない。

当時のことを思い出しながら、自分と向き合う。今、そういう作業がきっと必要なのだろう。


はじめは、友人の勧めであり、未来の私が読んで「ふふふ」と笑うためという何とも軽やかな目的だった。
それが次第に、「私が私を忘れないため」に変化していき、今では「必要だから」と思っている。
なぜこんなに重たい位置付けになってしまったのか、今は自分にもわからない。それもきっと今後の課題となるであろう。


と、まあそういうわけで、どこか淡々としていて、重くて暗い雰囲気なのにはそれなりに理由があることがわかった。

しかしこの目的のために続けるとすれば、完全に自分のために書いていくわけで、誰かが読んでも何の為にもならないかもしれない。
それでもこのままでいこうと思う。このまま書き進めて私は自分が何を思うのか?どこに行き着くのか?とても興味がある。というか、興味を持ってしまった。



でも明日と明後日は試験のためにお休みです。頑張らないで、と言われている私ですが、ちょっとだけ頑張ってきます。


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