面倒見のいい喫茶店

からん。扉が鳴る。

この界隈には時々足を運ぶけれど、こんな店があるとは今の今まで知らなかった。
ぐるりと店内を見渡す。昔ながらの喫茶店という風情でも、流行りの小洒落た店という風情でもなく、漠然といつも頭の中にあった「喫茶店」のイメージをすべて混ぜ込んだような、不思議で、けれど当たり前の空間が広がっていた。

「いらっしゃいませ」
店の奥から優しい声がする。声のイメージをそのまま絵にしたような、眼鏡の男性が微笑んでいた。緊張がゆるんでいくのを感じる。

「どこでもかまいませんけど、よろしければその席へどうぞ」
言われるがまま、勧められた席へ腰を下ろした。使い込まれた木のテーブルと椅子。午後のにぶい光がテーブルではじける。

若い男がメニューを差し出す。高校生くらいに見えるが、実際のところはわからない。
「おすすめはありますか?」
思わず尋ねると、若い男はニヤリとして答えた。

「紅茶。一応、この店のウリなんだ。あいつが淹れるんだけど、うまいぜ?」
そう言って、カウンターの奥に顎をしゃくる。眼鏡の男が申し訳なさそうな顔をした。
「すみませんね、どうも教育が行き届かなくて…。これっ、お客様になんて口のきき方するんですか」
「なんだよー。だったらもっとバイト代くれよー」
「何言ってるんですか。君食べるばっかりで普段何もしないでしょ」
「今メニュー持ってたろー?俺すごい頑張ってるじゃん」

思わず吹き出してしまった。なんだか久しぶりに笑った気がする。
「じゃあ、せっかくだから紅茶。この、ケーキセットで」
メニューを指さすと、「あいよ」と答えて若い男はまたニヤリと笑った。

程なくして紅茶とケーキが運ばれてきた。かぐわしい香りがふんわりとテーブルに立ち上る。
ティーカップを見つめる。底まで見渡せる、深い色の湖。森の奥に秘密の場所を見つけた子供のように、一杯の好奇心と一抹の不安を胸にかき抱いて、そっと口をつけた。

「美味しい…!」
間違いなく、今までに飲んだどの紅茶よりも美味しかった。自分が今まで紅茶と呼んでいたものは何だったのか、と思ってしまったほどに。
「ね?言ったとおりだったっしょ?」
若い男がしたり顔でニヤリとした。こういう笑い方が癖らしい。
そういえば、何も考えられずにふらふらと歩いていた自分に声をかけてきたのがこの若い男だった。店から逃げ出したらしい猫をつかまえて、猫に悪態をつきながら連れ帰ろうとしているこの男と偶然目が合ったのである。男はやはりニヤリと笑って、
「ここ、喫茶店なんだ。味は保証するけど、入ってかない?」
そう話しかけてきたのだった。
あんな誘い文句に乗ってしまった自分に一瞬失望したけれど、こんなに美味しい紅茶に出会えるとは。決断を下した15分前の自分を褒めたくなる。

紅茶を飲み干した頃、若い男があくびをしている猫を抱いて話しかけてきた。
「やっと取れたね」
「え?」
「眉間のシワ」
「……」
「随分悩んでるみたいだから、声かけてみたんだけどさ。少しは落ち着いた?」
こちらを見透かすかのように、薄い色の瞳が見つめている。カップにほんのり残ったかぐわしい香りが、鍵をかけて閉じこもっていた住人の家の扉を優しく叩く。その香りに誘われるように、かちゃりと音を立てて扉の奥の住人が顔を覗かせる。

「猫が…いなくなっちゃって」
「飼ってるの?」
「いえ、全然知らない猫なんですけど…」

その猫を初めて見かけたのは仕事の帰りだった。アパートのガレージに勝手に入り込み、我が物顔で寝そべっている猫に、何となく話しかけたのだった。動物を見ると話しかけてしまうのが癖なのだ。
猫は怪訝な顔をして、すぐに走り去っていった。

それから何度も、同じ猫を見た。見かけるたびに話しかけていた。近所の人に挨拶をするようなもので、元気、とか、バイバイ、とか他愛もないことを言うだけだった。猫が聞いているとも思っていなかった。

そのうちに、猫は毎晩現れるようになった。声をかけてもすぐに逃げてしまっていたのに、なかなか逃げようとしなくなった。
おいでおいでをしても、はじめは寄ってこなかった。だが、そのうち猫の方から近づいてくるようになった。

猫は毎晩、夜道を歩いてくる気配を察して、ニャニャニャと鳴きながらどこかの茂みから飛び出してくるようになった。飛び出してくると足にまとわりつき、遊んでくれとせがんでくる。買い物袋を提げていても買ってきたものには目もくれないし、でっぷりと太っていたのでどこかの飼い猫なのだろうと思った。
アパートに入ろうとすると、エントランスの扉の前でとおせんぼした。帰るなよ、自分と遊べよ、とでも主張するかのように、ニャニャニャと鳴きながら。

なかなか帰してくれないのには少し困ったけれど、猫が待っていてくれるのが実はとても嬉しかった。たまに姿が見えないと、心配してしばらく部屋へ入るのを待ってしまったこともあるほどだった。
その、たまに姿が見えないことが、だんだん増えてきた。だんだん増えてきて、ある日を境にとうとう、猫の姿はアパートの周辺からぷっつりと消えてしまった。

猫である。名前も住所もわからない。スマホも持っていない。連絡もつけようがないし、尋ね猫の貼り紙を出そうにも、そもそも自分の猫じゃない。

誰も待っていない帰り道は、恐ろしく暗くて長い気がした。猫がいつも寝そべっていたガレージを見るたび、涙がこぼれた。

「なんでこんなにショックなのかわからないんですけど…。たぶん飼い猫だし、自分の家に戻っただけなのかもしれないのに。でも、あの子は今どこでどうしているんだろうと思ったら、もう会いに来てくれないのかなと思ったら…。私を待っていてくれるのはあの猫だけだったから…」
涙が頬を伝って、あとからあとから溢れた。人前で泣いたのは、どれくらいぶりだろう。この店に入ったのも、たぶん猫がいるのに気付いたからだ。

かぐわしい香りが鼻孔をくすぐった。はっと顔を上げると、白いカップに湯気を立てる琥珀色。
「おかわり。サービスだから、気にしなくていいよ」
驚いてさらに顔を上げると、少し切なそうな笑みを浮かべて自分を見つめる若い男の後ろに、あの眼鏡の男が立っていた。

「何か、あったんですね?」
その優しい声に、警戒心は完全に崩壊する。
「私…。会社でお局に嫌われているんです。たぶん、私がお局のお気に入りの男の子を好きだって言っちゃったから、それ以来…。私だけプロジェクトから外されたり、飲み会に呼んでもらえなかったり、だんだん同僚からも無視されるようになって、友達にもそんなのよくあることだからって聞いてもらえなくて…」
次から次へと言葉が出てくる。会社に居場所がなく、まともに仕事もさせてもらえなくなって、お局の嫌がらせによって去っていった何人もの社員と同じように、会社を去ることしか考えられなくなるほど追い詰められていること。猫の存在だけが支えだったこと。次から次へと。

眼鏡の男は黙って話を聞いていた。その穏やかな、けれど何かを決意したような顔が、紅茶の向こうにゆらゆらと揺れる。


お局が会社から姿を消したのは、それから程なくしてのことだった。不正に関与していたとか社長の奥さんと険悪になったとか、真相は霧に包まれたままだったけど、表だっては言えないことをしていたのは確かのようだった。本社で採用した若いアルバイトが「証拠」を見つけて社長に突きつけたという噂もあったが、本当かどうかは誰も知らない。

その会社からは結局去った。同僚の態度が変わらないことに気付いたからだ。自分が去ってから、何故か会社の業績は大きく傾いた。元同僚たちには嘆かれたけど、もう何も心は動かなかった。

猫は戻ってこなかったけど、新しい会社で隣に座った人がアパートで待っていてくれるようになった。その人に、あの美味しい紅茶の店を教えようとしたけれど、何故かいくら探しても見つからなかった。その店のあった界隈には、記憶から立ち上るようにあのかぐわしい香りが漂っていたけれど。

あの紅茶が何というフレーバーだったのか、くらいは聞いておけば良かった、と今も時々思うのである。

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