灯りを刻む手のひら

その日、私がその店を見つけたのは、まったくの偶然でした。

初めて入る、まったく知らなかったお店。あまり飲めないお酒をちびちびと口にしながら、私は店員さんと他愛もない話に花を咲かせていました。
どうしてそういった流れになったのかは忘れてしまいましたが、その店員さんが、ある手相鑑定の話を始めたのです。何でも、非常によく当たる方がそれほど遠くない場所にいるらしい。店員さんの語り口からすると、どうやら本当に当たるようでした。

店員さんから得た情報を元に、私はその方が個人で鑑定事務所を持たれていることを突き止めました。
どうしても歩くのが下手で、何度も人生に躓いてきた私は、誰にも言えない胸の内を占い師に語り、とりあえずの心の支えとすることも多々ありました。しかし、今回情報を得た占い師さんについてはまったくの初耳。
こんな風に偶然飛び込んできた情報には、きっと何かある。私はあまり迷うこともなく、鑑定の予約を入れていました。


迎えた鑑定当日。鑑定事務所のドアをおそるおそる開けた私を、まだ若い男性の手相家さんが出迎えてくださいました。若いながらも落ち着いた雰囲気に、今日の鑑定は面白いものになるのではないかと、私は直感したような気がします。

いよいよ鑑定が始まります。テーブルを挟んで手相家さんの前に座り、私は両手をテーブルの上に差し出しました。
その瞬間です。手相家さんはぎょっとしたような表情を浮かべ、「えっ…」と小さく呟くではないですか。明らかに動揺しながら、「これは…」と私の手のひらを凝視する手相家さん。

おもむろに、手相家さんの手が鑑定時間をはかるストップウォッチを止めました。そのまま、ゴキゴキと肩を鳴らし、気合いを入れるように両手でご自分の頬を叩くと、再びストップウォッチを作動させます。

…ここまでの様子を見て、私は「これは相当酷い運命が出てるんだな、最悪の場合長生きできませんって言われるな」とうっすら覚悟していました。しかし、どうやらそんな話ではまったく無かったようです。それどころか、非常にユニークで、おそらくこの先も忘れることがないであろう鑑定結果が待っていたのです。


どうやら私の手相は、相当変わった人間の手相だったようです。気合いを入れて鑑定しなければならない程の手相だということだろうか。何なんだ、私の手のシワは何がどうなっているんだ。「超マニアックなオタクの手相」だとか「エジソンやアインシュタインも子供の頃は変だったと言われてたはず」だとか言われてるんだけどどうなっているんだー!

いや、変な人間の自覚はありましたよ。「お前ほど変わった奴見たことない」とか「自由すぎる」とか散々言われて生きてきましたし。私は真面目に生きてるつもりなんですけどね←遠い目
でもそれがそんなにハッキリ手相にも出てるなんて知らなかったよ。昔々にも手相観てもらったことあるけどさ、そんなこと一度も言われたことなかった気がするんだけど。どうなっているんだ←3回目

そのうちに手相家さんの口から告げられた言葉を、私はこの先も忘れることはないと思います。

「あなたは今まで普通に生きようとしていたからうまくいかなかったんです。あなたのことをわかってくれる組織等にいたら大丈夫です」

ハッとしました。目から鱗が落ちるとはこのことでしょうか。

そうです。私はずっと、「普通の人間」になりたかったのです。お洒落で可愛くて素直で気が利いて空気が読めて仕事も家事も当たり前にこなせて、「推し」の前で転んだり、慌てていてベッドの角に足の指をぶつけて骨折したり、いじめに遭ったり、シャツを裏返しに着たまま出勤したりしない、どこにでもいる「普通」の人間。集団に埋もれて、目立たず騒がず当たり障りのない毎日を送っていける人間に。そのためだけに必死になって生きていたように思います。

しかし、手相家さんのその一言が、私を長年縛り付けていた鎖から解放してくれたような気がするのです。
どんなに必死になっても、私はいつも「居場所」からこぼれてしまっていた。どこに行っても、誰に会っても結果はほぼ同じ。どうしたらいいのか、わからなかった。それは、私が「普通になりたくて」選んでいたせいだったのかもしれない。
そして本当は、そのことに気付いていたような気もするのです。

鑑定に訪れた時期は、ちょうど私の人生の転機だったそうです。おそらくはこの鑑定がまさしく転機そのものだったのでしょう。そして手相の結果を受けて、しばらく悩んでから始めたブログもそうだったのかもしれません。さらに言うと、ブログがなければ、こうして今、noteに文章を綴ることもなかったはずなのです。


その後も、訪れる度に「あなたくらい偏ってないと大きなことはできないんですよ」と言われてみたり、「こんな変な人わからん…」と呟かれて鑑定を投げられそうになったり、褒められてるのか呆れられているのかさっぱりわからないものの、いつも興味深い鑑定をしていただいています。

一度だけの鑑定に終わらなかった理由はひとつ。鑑定で告げられた未来が、すべてとは言いませんが、次々と当たっていったこと。そして、この先数年の未来がどうやら非常に明るいものであるらしいこと。その未来に、どうしてもたどり着きたいと思ったからです。そのためのヒントや心構えが欲しかった。

たとえばですね、今後の仕事のことを聞いたのに、「おかしいな、この期間に何にも(仕事のことが)出てこない…」とおっしゃられたことがあったのですね。
実はその期間、ピッタリ無職でした…。もちろん無職になるつもりなんて無かったです…。こえええー。
そのほかにも、そんなつもりの無かったことを言われた通りの時期に行っていたり、まさかそんなことは起こらないだろうと思っていたことが、振り返るときっちり発生していたり。本当にその通りになったのかはもう少し様子を見なければ断定できないこともいくつかありますが、確かに言われた通りに何かが動いているのです、じわじわ、じわじわと。
普段さほど気にも留めていない手のシワにどれだけの情報が詰まっていると言うのか。私にはただのシワにしか見えないのに…。

ちなみに、もしかしたら手相とは関係ないかもしれないのですが、「趣味について語る内容と自分自身の思いを綴る内容とでブログを分けた方がいいかもしれない」とアドバイスしていただいたこともあったのですね。私は面倒でそのまま放置するつもりだったのですが、ひょんなことからブログを読んでくださっていた方にあるサービスを教えていただいたのです。
お察しの方もいらっしゃるかもしれません、それがnoteでした。私はこれまで書いていたブログとは別にnoteにも文章を綴るようになりました。結局、言われた通りになっているのですよね、ええ…。


もしも当たれば、非常に面白くなりそうな未来はこれから訪れるようです。いえ、今にも訪れようとしているはずなのです。その未来が本当に訪れるかどうかは誰にもわかりません。結局ただの幻で、訪れることなどないかもしれない。けれど、私は最後まで信じてみたい。

心の中でひっそりと、誰にも言わずに願い続けていたことが叶うかもしれない。何かはさっぱりわからないけど、すごくワクワクする何かに関われるかもしれない。
それは「希望」でした。今はまだ真っ暗な闇の中を、手探りでようやく這いつくばっているのだとしても、その闇に浮かぶ幻の灯りに過ぎないのだとしても、ほんの少しだけ道を照らしてくれる、すぐに転んでしまう私に歩くことを諦めないでいさせてくれる、希望の光だったのです。

全面的に頼ってしまうと道を誤るかもしれない。けれど、靄がかかって先がよく見えない道を少しだけ歩きやすくしてくれる杖として、つらい時にちょっとだけ肩を貸してくれる希望として占いを利用するのは、そんなに目くじら立てて怒られるようなことでもないんじゃないかな、と私は思っています。

私はそのうちに大きな何かに関わることになるそうです。それが何なのかは、現段階ではさっぱりわかりません。そもそも、それが本当に現実のものとなるかどうかもわからないわけですし。
大きくなくてもいい、ささやかでいいんです。ささやかでいいから、私のたどり着くのであろう未来に、私が楽しく座っていられるスペースが在って欲しい。本当に、ただそれだけなんですよ。

いつか、あの時の手相は全部当たってた、諦めなくて良かった。そう笑って言いたい。希望の灯りは本物の灯りだったと確信できる瞬間を感じてみたい。そうやって、何がどんな風に当たっていたのか書けるようになる日が来たら、そっとまた書き残そうと思います。本当はね、もうちょっと詳しく色々書きたかったんですけどね、肝心な部分が現状「まだ」なものですから…。

ただの偶然だと受け流しているすべては、本当は偶然などではなく起こるべくして起こったことなのかもしれない。あの日、たまたま噂を聞いて鑑定を受けてみようと思わなければ、私はささやかな「希望」には出会えなかった。今これを読んでくださっている画面の向こうのあなたにも、出会えなかったかもしれないのです。
画面の向こうの、きっと私を知らない、私も知らないどこかのあなた。ほんの一瞬だけすれ違って、明日にはもうお互いを忘れてしまうかもしれないどこかのあなたに、そっとありがとうと伝えて、筆を置きます。もし私の手のひらのどこかにあなたの名前が刻まれているなら、きっとまたいつか会えるんじゃないかな。そんな気がします。

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