平成最後の冬までを語り続けて自己紹介㉑ ―鏡の前から「自分」が消えればあの暗い雲も消える―

もう二ヶ月くらいnoteを毎日更新してるんですが、本当に誰も読んでないので(笑)、もう今日は好きに書きます。いつも好きに書いてるけどそれ以上に。暗い内容だから気をつけて下さい。実際はそういう記事こそ私の血を吐くような叫びでもあるのだが、それはそもそも誰にも届かない方がいいんじゃないか?とも思ってしまう。さてどっちがいいんでしょうね。


私は人前に出ることが大の苦手です。たぶん本来の性格では嫌いじゃなかったんだろうと思いますが、色々あってできればもう一生やりたくないな、くらいに思っています。
私は自分の容姿が嫌いなのです。この姿形で人前に出たくないのです。

私が小学生の頃にいじめに遭っていたことはこのシリーズにも何度か書いていますが(詳しくはを。興味ある人いないだろうけども…)、その原因のひとつは私の容姿でした。これを書くだけでも身を切られるようだけど、残念だけどはっきり言って下の下。
子供というのはたいへん残酷なものです。大人ならばオブラートに包めることも、容赦なく口に出してしまう。まったく知らない人からすれ違いざまに容姿について罵詈雑言を浴びせられたことは生涯忘れないと思います。
よく、「好きだからからかってるだけじゃない?」などと言う人がいますが、「私」としてその頃を生きてみれば、それは好意の裏返しなどではなく単に「不快なもの」「劣ったもの」を排除したいという心の表れだったことに痛いほど気付くでしょう。私が他人からそういう態度を受けた回数は、一度や二度ではないのですから。

大人になって良かったと思ったことの一つが、あからさまにそういう態度を取る人が減ったことです。あからさまでないだけで、内心は子供と同じかもしれないけれど。
友達に呼ばれた合コンだったか、ただ一緒に遊んだだけだったか忘れてしまいましたが、「何であんなの呼んだの」とでも言うように男の子から指をさされて笑われたことも生涯忘れないと思う。今ここで初めて書くけどね。口に出したこともないよ、心が痛すぎて。その友達には「男の人紹介してもいいけど嫌だとか気が乗らないっていうでしょ?」と言われたけれど、そりゃそんな思いしたら気も乗らないよ。彼女には何も言わなかったけれど。その話をするにはあまりにもつらすぎた。

私は子供の頃から結構長い間、人に話しかけたり前を見て歩くことができなかった。顔を見られたくなかったし、自分のような見目形の悪い存在に声をかけられた人は不愉快な思いをするんだろうと思った。本当は遊びに行くことも誰かと騒ぐことも好きだったけど、外に出ることも怖かった。今でも道を歩いていると、通りすがりの人に笑われているのではないかと怖くなる。
だから写真を撮られることも大嫌いで、「写真を撮ると魂を抜かれますよ」と馬鹿の振りをしてごまかしていた。馬鹿だと思われる方がずっとマシだったから。プリクラが流行った頃も近づきもしなかった。友達や兄弟と2回くらい撮ったことはあるけど、自分の顔がシールになるなんて、と心底ぞっとしたものです。
私がずっと大好きな趣味なのにフィギュアスケートの試合に行けなかったのは、テレビに映ることが嫌だったから。豆粒でも嫌だった。今でも会場に行くのはびくびくしているし、あんなキラキラした世界には自分は近づいてはいけない、近づく資格がないと思い込んでいた。
仕事や家族行事で写真や動画を撮られるのは本当に本当に本当に嫌だったけど(※不特定多数の人間が触れる形で残ることがあるから)、仕事や身内の節目だから抵抗できない。ものすごくストレスだった。そういう悩みを相談できる上司がいたときは本当に助かった。私はあからさまにダメな部下だと思われていたけれど(まあ思われてもしょうがない)、私からしてみれば数少ない「まとも」な上司だったなと今でも思う。
そもそも、履歴書に写真を貼って提出するという行為がもう苦痛以外の何ものでもない。何で顔がいるんだろう。確かに、同じ事をやっても結果は美醜に左右されるなと感じることも多々あるけれど、一体何を求めているのだろう、仕事に。

両親は決して美形ではないけど少なくとも人から指をさして笑われる容姿ではなかったし、兄弟は一緒に買い物などしていても一度も兄弟だと言われたことがないくらい似ていない。性格や特性の面でも私は「家族から浮いている」とずっと感じていたけれど、やっぱり私は何かの法則から外れて異物として生まれてきてしまったんだな、とこの点からも思う。
身内からも顔立ちや体型をなじられたことも何度もあったけど、まったくの他人よりはやはり身内補正が働いていたのかな、と思う。でも母の言葉はいつも私の心を引き裂いた。母は美しくない容姿の人が大嫌いで、テレビに出ている人や近所の人、もちろん本人のいる前ではないけれど、それは強い言葉で容姿を貶すのだ。それを聞くのが私は本当に辛かった。まるで自分に言われているような気がしたからだ。母がもっとも憎むべき美しくない人間は、今母の隣にいる。その牙がスイッチさえ押してしまえばこちらに向いてくることはわかりきっていたから。
私は本当は凄まじく美醜にうるさい。たぶん元々の性格だと思う。でも自分が心底嫌な思いをしたので、褒めることはしても貶す言葉は決して使うまいと決めている。正直、美しい人なんてほとんどこの世には居ない。みんなどこかしら美しくない部分があるものだし、誰かにとっては美しくても誰かにとっては美しくない要素も多々ある。誰からも美しい、誰からも美しくないと言われる人間のどちらも多分存在しないのに、こんなにも外見で苦労しなければならない世の中は理不尽過ぎる。何故なら容姿は持って生まれたもので、自分ではどうしようもないからだ。

化粧をすればいいという声もあるけれど、化粧でごまかせる範囲などたかが知れてる。そもそも子供にはどうしろと言うのだろう?そして化粧は一体誰のためのものなのだろう?人を不快にさせない見た目を維持しろ、というなら余計なお世話だし、じゃあ性別関係なくばっちりメイクしてなきゃ嘘だろ、と思ってしまう。
もう、全員同じ顔になればいいのに。国が定めた指定の顔に全員整形すればいい。そうすれば外見に左右されることなく、実力だけで人間を判断できるようになる。誰も得をしないけど誰も苦しまない。

整形したい、と本当に何度思ったかわからない。私を思いとどまらせるのは子供の頃に読んだ『ブラック・ジャック』の「スター誕生」という物語。説明するまでもない、手塚治虫先生の傑作だ。テレビで整形した人を見るたびに、うらやましい、どうやってその費用を稼げばいいだろう、やっぱり水商売なのかな、でもこの容姿じゃ門前払いだな、とぐるぐる考えて、最終的にブラックジャックを思い出して諦める。
顔出しした方が信用されるとか色々言われてるけど、絶対に嫌だ。私という人間はここにいる通りだけど、ペンネームを使ったり何かのキャラクターに自分を置き換えることで、自分から自分を少し突き放すことで私はこうやって文章が書けている。そうでなければ無理だ。それですらずっと無理だったのだから。私は私のままで生きていくことを選択できない。私でなくても生きていける世界でなければ。

私が生きることを難しくしている最大の理由が「自信のなさ」だと思う。謙遜でも何でもなくて、本当の本当にまったくない。自信のなさはチャレンジというチャレンジを阻害するし、嫌なことがあると簡単に立ち直れなくさせてしまう。その根底にあるもののひとつが、自分の容姿への嫌悪感であることはほぼ疑いないと思われる。
あまり美しくなく生まれても、自信を持って生きている人はたくさんいる。私とその人たちの違いは、私のように激しく外見で拒絶された経験が少ないことと、きっとその容姿も含めたその人自身を受け入れてくれた人がいるかどうかの差だ。手に入らなかったものを嘆いても今更しょうがないけれど、自分に絶望し、世の中に恐怖を感じたままでは生きられない。騙し騙し生きてきたけれど、とうとうドン詰まって途方に暮れているのが今の自分である。どうしたらいいのか、わからない。もう頭が錆び付いて動かなくて、ずっと考えることを放棄してしまっている。
人生のすべてに真っ暗な影を落としたこのことが、いちばん強く影響したのは、人を好きになれなくなったことだろうと思うけど、それはまた別の機会に。

解決法なんかどこにもないのかもしれないけど、話すのは本当は心が痛くて痛くて嫌だけれど、誰かに聞いて欲しかった。最後まで読んでくれた人、ありがとう。でも私はあなたに会いたくはない。がっかりされるのが本当に辛いから。優しいあなたをがっかりさせたくないから。

ではでは、続きはまたいずれ。


フィギュアスケートについてひたすら愛を垂れ流すだけのブログも書いております。noteはそのブログからスケートの話題以外を分割する目的で始めました。今日のブログはなんつーかもうポエムですが読んでいただければ嬉しい…←ポエム化してる時がいちばん熱を入れて書いていると思われる
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