平成最後の冬までを語り続けて自己紹介⑤ ―本と孤立と暗闇と―

小学校に上がる直前に、私は淡路島を離れました。当時親が乗っていた、赤いアルトを父が運転して、父以外の家族はたぶん引っ越しのトラックに乗って移動したんじゃなかったっけな。
引っ越し先は広島。たぶんそんなに友達がいる方ではなかったと思うけど、物心つく前から住んでいた土地を離れるのは抵抗があったような記憶がうっすらとあります。
そして、ここから私の人生は、這い上がれない谷の底へと落ちていくのです。

小学校に入学してから、それは始まりました。
国語の時間に教科書を読むと、関西の訛りを笑われる。
アレルギーが酷くてよく鼻水が出ていたり、アトピーでカサカサの肌などを見て「汚い」とバカにされる。
バイ菌がつくからって、机はいつもひとりだけ離される。
体育が苦手なことを呆れられ、球技などではお荷物呼ばわり。
それぞれが意見を出して作り上げたことに対して「あいつの考えた部分が嫌だった」と数多くのクラスメイトの作文に書かれる。
遠足の写真は一人だけ離れたところでお弁当を食べている姿が残されている。
自分の絵をクラスメイトが見てくれたのが嬉しくて、それを子供独特の感覚で「映画館みたいだった」と担任に提出する日記に綴っていたら、勝手に読んだクラスメイトから「何が映画館だ!自慢するな!」とキレられる。
ほかにもたくさんあったと思うけどもういちいち覚えてなくて、記憶にあるのは「いつもひとりだった」ということ。

そしてその状況を、四年以上の長きにわたって学校がほったらかし。

殴られたり蹴られたり靴に画鋲を入れられたり(笑)してないからいじめじゃない、と思い込もうとしていたけれど、たぶん世間的にこういう状況をいじめと呼ぶんだろうなあ、と思いますがいかがでしょうか。

私はこの実態を、親にまったく話さなかったらしいです。言わなかったかもしれない。親は親で、いつも忙しいとか言ってたししょっちゅう怒ってたし、言える空気ではなかったかもしれない。それ以上に、自分に起こってることが何なのかうまく言い表せなかったんじゃないだろうか。「いじめられている」という言葉と結び付かなかったのかもしれない。

親が気付いたのは、私が日記だか連絡帳だかに毎日毎日こう綴っていたからだそうです。
「きょうもだれもあそんでくれなかった」

覚えてない。びっくりするほど覚えていない。そんなこと書いてたんだ。てか、この頃のことを基本的にあまり覚えていないのですよ。確かに自分のことなのに、自分の記憶だという認識が薄い。自分だったのかどうかもよくわからない。輪郭がぼやけて、うまく認識できないような感覚です。

親は学校に怒鳴り込んだらしいですけどね。転校させるとかさせないとかいう話にもなったらしいです。でも、転校だけは待ってくれ、何とかするから、と言ったとかなんとか。きっと先生たちなりに努力はしたのでしょうが、結果としては四年以上いじめは止まなかったんだから、何にもしてないのと一緒だと判断してもいいような気がします。自分の記憶の中で、何とかしてくれようとしたという思い出がありませんし。
よく覚えてるんです。ある日、一部の生徒の下駄箱が土だらけで、ほかの子の下駄箱は綺麗なのに気付いて私含めた数人が先生に報告したら、それは気を利かせた誰かが上の方の下駄箱を掃除していたら時間切れになってしまって下の方にあった下駄箱に土がたまっただけで、悪気はなかったのに責め立てたと報告した生徒が怒られたこと。そのこと自体は先生の言うとおりかもしれないけど(中途半端な親切をして放置してる子供たちもダメな気がするけども)、私はその時めちゃくちゃ思ったんです。
私がずっとクラスで孤立してても放置のくせに、たまに声を上げてみればいじめっこの肩はしっかり持つんかい、って。

誰が何をどういじめてたか、は実は覚えてないんですけどね。言ってみれば私以外の全員だったわけですし。自分以外の全員が敵なの?って大人になってから聞かれたことあるけど、私は「基本的にそう思ってるよ」と答えたよ。私の心はたぶんこの頃に完全に壊れてしまって、その壊れたベースの上にめちゃくちゃにいろんなものが積んである。そのベースは「全員からおそらく理不尽に嫌われてひとりぼっちだった」という記憶でできてるから。
確かに私は変わった子だったでしょうよ。スッ頓狂なことばかり言う、扱いにくい子供だったかもしれないしきっとそう。それを考慮しても、よく「いじめられる方に原因がある」って言うけれど、6歳の子供に何をどう工夫したらいじめられないようになるか説明して実行させられるものならそう言え、できないのならどうせ責任を取ったり考えるのが面倒なだけなんだから黙っとけや、って正直思いますね。

この頃の私は「時々確かめないと生きてるのか死んでるのかわからない」と親が言い出すほど大人しく、抑揚のない喋り方を怒られるほど感情も失い、唯一得意だった勉強だけは馬鹿にされないので頑張ってた、という、おそらく専門家の人が見れば完璧に病んだ子供だったろうと思います。初めて「自分はこの世にいなくても誰にも気にもされないんだからもういいじゃん」と思ったのもこの頃です。これが自分の知り合いの6歳とか8歳とか10歳以下くらいのお子さんの話だとしたら私はとても耐えられない。何とかしたいと思うでしょう。でも私の周囲の大人は全員、結局誰ひとりこの子供を救えなかったんですよ。忙しいから、面倒だから、子供の話だから。そして子供の私はそれを見抜いてた。

「誰にも助けてもらえなかった」

この感情は今も、私の心に埋められない穴をあけ続けているような気がします。

よくびっくりされるんですが、私はこの状況でも学校を休みませんでした。おそらく学校を休むという選択肢があることを知らなかったのと、学校に行かなければ唯一の取り柄である学問を学ぶ機会がない、という現実を把握していたのだと思います。私は田舎に住んでいて、家の周囲は田畑や山ばかり、本屋や娯楽は何もありませんでした。「何故100点が取れないのか」と叱られてしまう家にも居場所はなく、学校に行くしかなかったのです。今ならインターネットもあるし、都会なら様々な施設に逃げ込めたでしょうが、私には何も選択肢がなかった。せいぜい本の世界に逃避する程度で、その本も豊富に置いてあるのは学校だけでした。
なので、「学校に行かなくていい」という意見を見るたび、色々な子供がいるんだよ、と少し切なく思っています。逃げる場所があればそれも選択肢だろうけど。

私にとって救いだったのは、私が小さな頃から読書好きな子供だったということ。「本だけは惜しまず買ってやる」という父の意向が私を間接的に助けたことになるのでしょう。本をたくさん読むことで、私は「家と学校以外にも世界がある」「家族や先生やクラスメイトや近所の人とは違う考え方がある」ということを知ることができたのです。違う世界の思考に身を置くことで、私は自分を取り巻く世界に完全に飲み込まれずに済んだ。私がたまたまそういう子供だった、という話でもあるでしょうが、「自分の周辺以外にも世界がある」ということを小さな世界で生きている子供が手っ取り早く知る方法として、読書はかなり有効なのではないかと考えています。

活字を拾っては読んでいるうちに、子供向けではない本も読むようになっていったので(ってもそこまで難しい本じゃなかったあたりはやっぱり子供なのですが)、自分だけの世界で生きるようになってたと思います。まわりの子供は幼く見えたし大人は馬鹿に思えました。そう思い込んで自分を保っていたのでしょう。端から見れば、最初からそういう性格の子供に思えたかもしれません。今の私は「すげえなみんな天才!私なんでこんなアホなんだろ」とすげー素直に思ってるので、よくこんなに丸くなったな、と自分でも思います(笑)。

運が悪いことに、田舎の学校だったので6年間クラス替えがなかったんですよ。だから変わらない面々の中で変わらない日々が続いていました。クラスメイトのほとんどは保育園からの付き合いで、私同様ほかの幼稚園に行ってた子もいましたが私のようにいじめられてはいませんでした。子供とは残酷なものです。形の悪い異物は容赦なく排除にかかる。子供は天使とか何とか言ってる人たちを見るたびに「現実見ろよ」と鼻で笑ってました。それは何の責任もない立場じゃないと言えない言葉じゃないのかな。

この頃のことはまるで靄がかかっているようにはっきり思い出せなくて、自分のことだけど当時の私の思考や感情は想像で書くしかなかったりします。あのまま育っていた方が、もしかしたら些事にとらわれずよく勉強して立派な人間になったかもしれないですが、精神的には壊れたままだったのでしょうね。まあ壊れてるのはどっちにしろ変わらないか…。ただ、結果だけを求めるこの社会ではその方が「強かった」かもしれない。

しかし、もう変わらないのだと諦めていた日々は、とある人物が嵐のように登場したことで激変していくのでした。

ではでは、続きはまたいずれ。


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