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映画作りとスライス・オブ・ライフ

映画作りはスライス・オブ・ライフ

昔とあるテレビ番組で、大林宣彦監督が「映画っていうのはスライス・オブ・ライフなんだよ」と述べていた。
ある世界から時間・空間をスライスしてくるのが映画なんだ、と。

スライス・オブ・ライフというのは、通常いわゆる「日常系」ジャンルの作品を指すのに使われる言葉だけれど、ここでの大林監督の使い方はちょっと変わっていた。

大林監督曰く、映画は*全て*スライス・オブ・ライフなのだと言う。
サスペンスであれ、ホラーであれ、アクションであれ、全てがスライス・オブ・ライフ。

これは一体どういう意味だろうか。

建築のメタファーと写真のメタファー

物語を作るという行為に対して、多くの人は無意識に「組み上げる」ようなイメージを持つと思う。

骨組みを組んで、肉付けをして、ちょっとしたトッピングを飾り付ければ作品が出来上がる、というイメージ。
あるいはレゴやジェンガブロックを組み上げるようなイメージ。

つまり、人は創作行為を「建築」的なメタファーとして理解する。
3幕構成みたいな脚本術も、物語に対するこういう見方を助長する。

大林監督は「いや、映画を撮るっていうのはそういうことじゃないんだ」という。
映画作りを建築的なメタファーで捉えてはいけない、映画は「スライス」なんだから、と。

「スライス」として映画を作る場合、スライスすべき「世界」は眼の前に(あるいは頭の中に)最初から存在している。切れ目のない全体として存在している。作家がやるべきことは、ただその「全体」から一部分を切り取ってくることだけ。それが映画を作るということなのだ、と。

スライスしてきたシーンはごく一部でしかなくて、その外側には膨大な世界が広がっている。その膨大な世界を切り捨てることによって映画になるのだ、と。

これは写真を撮る行為に近いと思う。
写真は「組み上げる」ものではなく、世界から切り取ってくるものであり、その切り取り方に作家性が現れる。

創作行為のメタファー

他にも色んな創作のメタファーがあるかもしれない。

たとえば村上春樹は「小説を書くことは起きながら夢を見るようなもの」と言っていた。確か森博嗣も似たようなことを言っていた。
あるいは、創作を「コミュニケーション」として捉える人もいる。
東村アキコ氏はマンガづくりを「幕の内弁当」にたとえていた。

なんにせよ、大林監督の視点は自分にとって新鮮だった。

私は創作を建築的な行為として捉えていた側なのだけれど、それは完全に無意識だったので、「創作行為は建築的な行為とは別種の行為かもしれない」なんて考えたこともなかった。

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