鮮烈なビジュアルはいつ生まれるのか/BLAME!、少女終末旅行

テキストが先かビジュアルが先か

一般的に、物語を作る時は脚本が重要視される。特に映画やアニメでは「脚本が駄目ならどれだけビジュアル面で頑張っても無駄だ」という声を(制作者サイドからも)よく聞く。

個人的にも同意見で、私もマンガを描くときはまず脚本から考えていた。ビジュアル(キャラデザイン含む)は全部後回しだった。

でも一方で、たまに鮮烈なビジュアルを持つマンガに出会うと、「いや、やっぱりビジュアルの方が大事なんじゃないか?」と思い直す。「ビジュアルそっちのけで脚本と格闘しても、良い作品にはならないのでは?」と。

「BLAME!」と「少女終末旅行」のビジュアル力

個人的にビジュアルが印象深いのは、弐瓶勉『BLAME!』とつくみず『少女終末旅行』だ。

BLAME! 8巻より
少女終末旅行5巻より

この2作品のビジュアルは本当にすごい。圧倒される。マンガっていうのはこういうハッとする絵で魅せてなんぼだよ、と突きつけられたような気持ちになる。

つくみず先生の『少女終末旅行』の世界観は『BLAME!』に大きく影響を受けていると思うけれど、絵の表現の落とし込み方は全然違う。また、双方ともに、巻数が進むにつれて画風が少しずつ変わっていく。この画風の変化は単なる「描き慣れによる手癖の変化」を越えて、作品世界が深堀りされていく体験にもなっている。

こういう絵ってどうやったら描けるんだろう。脚本がどうとかいう問題とは別次元の、別種の試行錯誤を要求されるスキルだと思う。

ビジュアルはいつ生まれるのか

この2作品はなんとなく、絵を(世界を)描くために脚本を作っている、という雰囲気がある。目的(アイデア)は絵の方にあって、ストーリー進行は絵と絵をつなぐための方便という感じ。

じゃあ、とにかく印象的な絵を描くことに集中すればいいんだろうか?
脚本など一切考えず、ただイラストレーターのように絵に向きあった方が、面白いマンガを描けるのか。

それはなんか違う気がする。
脚本もないのにいきなり白紙の上に絵を描こうとしても、結局凡庸なビジュアルになってしまう。

絵から入るのも脚本から入るのもなんか違う。
だとしたら一体どこから制作を始めればいいんだろうか。
それとも、やっぱり「センス」なんだろうか…。何かを作り始めるまえに、「センス」を磨かないといけないのだろうか。

ビジュアルと設定

なんとなく最近考えているのは、「設定」が重要なんじゃないか、ということ。
そういえば前にもそんな記事を書いた。

BLAME!や少女終末旅行が描いているのは、ストーリーというよりも「設定」だと思う。設定というのは世界観の断片だ。ある一つの世界観を、様々な切り口から描く。その様々な切り口が、個々の設定となる。

うまく絵が描けない場合、それは多分、その作品世界のことをちゃんと考えられていないのだと思う。作品世界のことをちゃんと考えなくても、出来事の連鎖があればとりあえずマンガにはなってしまうのだけど、それだと凡庸なビジュアルの作品になる。

とはいえ、じゃあどうやってそういう世界観を思いつくんだよ、という話になってしまうのだけど……。これは宿題にしたい。


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