見出し画像

「お絵かき」が好きな子をそのまま成長させてくれたおとなたちの言葉ー雑事記⑧ー

学びながら。働きながら。
小学生から30代半ばの現在に至るまで絵や漫画を描き続けてきた私の失敗や煩悩を脈絡なく書く、『雑事記』第8回。

「うちの子絵が好きなんですが、なにしてあげたらいいですか?」そんな質問を数年前に受けた。
大成はしていないけれど、私も幼少期から絵が好きで、学校で絵を学び、そのままおとなになっても描いている。私はどうやって、ここに辿り着いたんだっけ?

今回はそれを思い出してみるお話。



祖母と並んでお絵かきをした幼少期

私の「宇佐江みつこ」は本名ではない。「宇佐江」は岐阜県美術館の所在地である宇佐からいただいて、「みつこ」は亡くなった父方の祖母の名前「満子(みつこ)」から貰った。なぜ祖母の名を、という理由は明確で、私の「お絵描き好きの血」は間違いなく祖母から譲り受けたものだからである。

父方の祖父母と同居していた私は、昼間は両親が共働きだったこともあり、物心ついたときから祖母の隣でよく絵を描いていた。当時、祖母がどんな絵を描いていたかは覚えていないが(庭にあった藤の花をよく描いていた気がする)、私が中学生のとき、その祖母が長期入院の末亡くなって、荷物を整理していた母が「こんなの出てきたよ」と見せてくれたのは、おそらく10代の頃の祖母が描いたであろうイラスト。「少女!」というタイトルが添えられたまつ毛バチバチの、いかにも中原淳一の影響を思わせる少女像が黄ばんだ画用紙にペンで描かれていた。それを見て思った。

「ああ、おばあちゃん。同じだ、私と」

あの絵は今思い出してみてもかなり上手だったと思う。


小4の「授業中イラストを取り上げられた事件」

小学4年生の頃、大ブームだった渡瀬悠宇先生の『ふしぎ遊戯』と出会い、私は漫画に目覚めた。単行本に載っている扉絵や好きなキャラクターを真似して描いているうち、その絵を「うまい」と言ってくれる友人が出てきて、だんだん「私にも描いて」というリクエストまでもらうようになった。

ある日のこと。授業中、なんでか知らないが私は自分の描いた最新イラスト、『ふしぎ遊戯』に登場するキャラクター「娘娘(にゃんにゃん)」の真似絵を机に出していて、それが担任の先生に見つかってしまう。
「おい、みつこ(※実際は本名の下の名)。なんだこれ」
私の絵を取り上げたのは、「ケショパ」という隠語で生徒たちに呼ばれていたメイク濃いめのベテラン女性教師、I先生。サバサバした性格のため生徒からの評判も割れていたが、私のように地味な子にもよく声をかけてくれたので個人的に大好きな先生だった。しかし、この時は(怒られる!)と思い私はビクリと固まった。
ところが、続けてI先生はこう言ったのである。

「なんだこの絵。みつこが描いたのか?うまいなあ」

しみじみそう言うと、あろうことか黒板の隅に私の描いたその「娘娘」をペタリと貼り付けたのである。私は恥ずかしさに赤面しつつも、自分の描いた絵を「うまい」と先生に認められたことがものすごく嬉しかった。

中学校のカオスな美術部

中学で入った美術部は今思うとだいぶ不思議だった。部長はめちゃくちゃ絵がうまく、それでいて生徒会選挙の応援演説で盛大なギャグを飛ばし全校生徒を笑かすようなスター性のある人だった。しかし、部活時間は誰も真面目に絵を描かず、ただおしゃべりしたり遊んだり(部長含む)。一部の子は漫画やイラストを描いたり。そうした自由気ままな雰囲気のせいか、他の部を辞めた途中入部者が流れつくことも異常に多かった。
皆それぞれ好きなことをして、でも一緒の部屋(美術室)にいる。
それが居心地良いと感じて、皆が集まっていたのかもしれない。

しかし、美術部顧問のO先生はそんなやる気のない生徒たちによく溜息をついていた。たしか1回くらい、ふだんは温厚なO先生がしびれを切らし、「漫画の絵ばっかり描いてないでちゃんと油絵とか描きなさい!!」と大声で言われびっくりした記憶がある。それがきっかけ、というわけではなかったと思うが、あるとき私は「油絵を描いてみたい」と思うようになり、友だちと一緒に、相変わらずカオスな美術室で2人だけ真面目に油絵を描いたことがあった。「油絵を描きたい」と言い出したとき、O先生がすごく喜んでくれたような覚えがうっすらある。

余談だが、この時同じ部室の隅の席でエヴァの絵をひたすら毎日描いていた同級生の女の子がいて、その子は今、東京ですごい立派なアニメーターになっている。母校の美術部、恐るべし。


母、娘に美術科を勧める

中学美術部の後半で少しやる気を出して、油絵を描いてみたりポスターコンクールに出品したり、漫画を参考にするのではなく画集を見て絵を描くようになったりした私だけれど、高校はふつうに自分の成績に見合った普通科へ行くつもりだった。ところが中3の夏、「親と相談して書いてこい」と言われた志望校表を前にして、母は、「A高校の美術科いけば?」と言った。

これはとても意外な発言だった。たしかに私は小さい時から絵ばかり描いてきたが、「美術科」となると、相当専門的なイメージがあった。けれど、「A高校」といえば当時、偏差値表の一番上に鎮座する超名門公立校で、しかも私の実家から自転車で5分の距離にあった。そんな理想的な学校に、美術科がある。そこなら我が娘にもつけ入るチャンスがあるかもしれないと踏んだ母の考えはわからないでもない。

悩んだ末、私は第1志望をA高校の美術科、第2志望を私立の美術科(この2つしか県内に美術科がなかった)にした。某美術研究所の高校受験対策コースにも通い、入試に出るデッサンの基礎をこの時学んだ。
結果的に、私はA高校美術科に落ち、第2志望の私立の美術科に通うことになった。A高校なら色々と安上がりになったはずなのに、同じ美術科でも、私立に通わせるのは相当大変だったことだろう。(画材費とかすごいので普通科よりお金がかかる。)「あの時、娘に美術科を勧めなければ良かったかも…」と後から母が思ったかどうかは不明だが、その後私が美大に行けたのも、今美術館で働けているのも、全てあの時の母の発言がきっかけなのは間違いないので、私はとても感謝している。


対等でいてくれた美術科の先生たち

A高校なら自転車で5分だったのに、私が通うことになった私立は自転車で片道40分、しかもその半分が坂道という過酷な場所にあった。第1志望に落ちた屈折と、反抗期を親ではなくなぜかクラスメイトに向けて発動した当時の私は、女子高生という肩書の華やかなイメージからはかけ離れた、無愛想で地味な暮らしを送っていた。具体的にいうと、友人(皆いい人)もそれなりにいたけれど、弁当をグループの中で速攻食べ終えると席を立ち1人で図書室で過ごしたり、学校行事でクラスの集合写真を撮るのが嫌で、そういう雰囲気を察するとゴミを捨てに行くなどしてさりげなくその場から消えるような、謎の反抗を勝手に繰り広げていた。

そんな娘の態度を察してか、高校2年の三者面談で母は当時の担任の先生に「うちの子は頑固なところがあるので…」というと、先生は母をまっすぐ見てこう言った。

「お母さん、頑固さは、作家にとっては大事な要素ですよ」

それを聞いたとき、私は自分が、自分のいるべき場所でちゃんと生きているという肯定感を覚えた。父や母のことはとても大好きで尊敬しているし感謝しているが、ふたりとも制作からは程遠いふつうの暮らしと価値観を持つ人たちなので、私を「ヘンにこだわりの強い奴」という目で見るときがあった。それに対し、目の前の先生は他人であり、私も特別慕っていたわけではない(私は油絵専攻で、先生は彫刻専攻顧問だった)けれど、それでも「私と母」にはなくて、「私と先生」には共通する見えない何かが存在していた。それは、「ものをつくる人間(作家)」という性だと思った。

このように、「あ、同じ世界で生きてる人だ」と思えるような先生が高校の美術科にはたくさんいた。どの先生も、高校教師として働きつつも作家として自分の作品を作り活動していたので、先生と生徒であると同時に「作家を志すものとして」ちゃんと対等に接してくれていた感じがあった。

だいぶ後日談ではあるが、高校と美大を卒業し、いったん会社員になり働いた(これも母の勧めで、「一度はちゃんとした会社に勤務しておいた方がいい」と強く言われた)あと、やはり絵の世界に戻りたくて会社を辞める決意をした私はふと、「高校の先生に相談に行こう」と思った。

この感覚って、他の人はどう思うのだろう。卒業後、一度も会うことも遊びに行くこともなかった高校の先生に、突然「進路相談」に行こうという発想(当時26歳)。そしてそんな私を、高校時代油画専攻でお世話になったM先生はふつうに受け入れてくれた。思い切って会社を辞めるものの、作家として何の足がかりもない私は内心不安で、「デッサンとか、1から学びなおせる場所はないでしょうか」とトンチンカンなことを先生に尋ねた。M先生は笑い飛ばし、「今更デッサン描きに行かなくても自分でやれるだろう」と言い切った。
気持ちだけで描いて美大を卒業しすぐに作家になる人もいる。しかし、たいていの人は5年から10年で消えてしまうと先生は言った。

「一度(社会に)出て、戻ってくるくらいがいいのかもしれない。やりたいことがあるってのはいいことだよ」

高校の時とまったく変わらない真面目さで語りかけ、最後に「金も貯まったじゃろ」とニヤニヤ、懐かしい広島弁で付け加えた。
そうだ。私はもともと、仕事を辞めても絵が描けるように会社員時代ひたすら貯金をしていたんだった。なんか、先生に言われるまですっかり忘れていた。そういう発想を言わなくても分かり合えるところがやっぱり「制作する人同士」だなと思った。


絵が好きな子に何かしてあげたいおとなたちへ

ひとつひとつの思い出はとても小さい。

けれど、今も私がこうして絵を描いているのは、「描いている私」を肯定してくれたたくさんのおとなたちの存在と、向けてくれた言葉のお陰だ。

もし、自分の子やまわりの子が、絵が好きで、それをおとなになっても続けたいと思う子なら、まわりの人はどう接するか。

過度に褒めなくていい。自分では理解できないなら、同じような子が集まる場所に連れて行ってあげてもいい。(私もちいさい頃お絵かき教室に行った。全然エピソードは覚えてないけれど。)
将来は食べていくのが大変になるだろうから、貯金は大事よということだけ教えてあげて、あとはなるべくほおっておけばいいと思う。

理解してくれる人はちゃんと、世界のどこかにいるはずだから。





今週もお読みいただきありがとうございました。高校のエピソードでちょっと補足しなきゃなと思ったのですが、私は美術科だったので、学校に1クラス(42人だったかな?)しかなく、3年間クラス替えがなかったのです。また、美術科の先生は全員実技の授業で顔見知りで(1年生の頃は全部の専攻を経験するので)「担任」は毎年代わっていたけれど、自分の「専攻」の先生は3年間ずっとお世話になるわけで、普通科の先生と生徒より接する時間が圧倒的に多かったと思います。決して先生と仲良くなれるタイプではなかった私ですら、卒業後数年経っても先生が覚えててくれたのは、そのためです。
小・中・高・大それぞれの先生たち、あらためて、本当にお世話になりました。いつか有名になって恩返しがしたいです…。

◆次回予告◆
(4コマ漫画)『接客業のまみこ』3,4

それではまた、次の月曜に。


2高校初油絵

◆高校の美術科で描いた1枚目の油絵◆
定番モチーフの牛骨。
布の影の描きっぷりがいやらしい(わざとらしいの意味)…。




今回の記事で美術学校に興味を持っていただいた方は、よろしければこちらにも少し書きましたのでご紹介↓


こちらは、今回省いた大学受験時代お世話になった画塾の先生たちの話↓








この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?