エンドロールのつづきを観てきた

インド映画はバーフバリときっとうまくいくくらいしか観たことなかったんだけど、何かの時にCMを観て、雰囲気がよさそうだったので観てきた。

何とも言えない感じで、ちょっと眠くなるとこもあったくらいだったんだけど、なんでそんな感じだったのかも含めて考えたい。
いつも通りネタバレ感想です。










田舎の駅でチャイを売っている親父と、めっちゃ美人な母親と、かわいい妹。切り取り様で幸せにも不幸にも見える生活が、おそらくは幸せなものとして描かれていたと思う。

僕がバカな子どもだっただけかもしれないけど、今考えると、あの子の家の中めっちゃ荒れてたな?とか、すっげー金持ってたんだろうな、とか、大人になってから気づいたりする。親がどんな人間で、生活水準がどのくらいで、みたいなことは、子どものとき結構気づかないし、もしかするとそういうことを考えずに済む程度には何となく自分の家に満足してたのかもしれないな、と漠然と思う。

映画の中でサマイの仲間が言われていたみたいな、「あの家の子とは仲良くするな」みたいなことを言う親ではなかったけど、よその家では僕と遊ぶなと言われてたかもな、とか。

子どものときはどうでもよかったことが、大人になると、大事に思っているわけでもないのに自分の首を絞めてくるような感覚になる。そういうことを何となく考えたくなるような、無邪気な子どもの目線みたいなものが、作品の中でよく切り取られていたと思う。

サマイが映っているシーンでは、その無邪気さが特に顕著になる。例えば、映画館の映写機が突然PCになってしまう感じとか。本物を観たこと無いから何とも言えないんだけど、映写機ってあんなにSFチックに光ったり音出たりしないよな?

映写機がスプーンになり、フィルムが腕輪になっていくシーンもそう。マジでこの世の終わりみたいな。劇中で何度もサマイが光に照らされるシーンがあったり、サマイ自身も映画ではなく「光」の勉強をしたいと話しているように、希望も絶望も併せ呑んで照らし出すものとしての光がすごく美しく使われていた気がする。そう見えてたよな、子供の時は、みたいなメッセージを感じた。

で、サマイが映っているときはサマイの目から見た世界みたいな描写の仕方なんだけど、そうでない時は割と、きれいな何かというか、ひょっとすると監督の思い出補正で美化されたような部分が切り取られていて。いや、美化された思い出の世界の中で、サマイが見たものはより捨象される、という順番なのかもしれないけど。

一番は、母ちゃんの料理のシーン。なんていう料理かはわからないし、味の想像ができないし、実は劇中ではほとんどサマイは手を付けない(これもなんか、あるあるって思えて良かった)んだけど、マジで美味そうなんだよな。でも、たぶん子どもの時はその嬉しさに気付いてなくて、思い出すときにだけあの美味そうな感じに脳内再生されるんだろうな。

主人公のサマイとその仲間たちも、シンプルにかわいかった。ボディパーカッションSEで盗品のフィルムに音をつけて上映するシーンとか、一番好きだったのはライオン見てるシーンとか。絶対ダメなことを平気でやるよね子どもって。なんか、インド版の初めてのおつかいを観てるような気持ちになる部分もたくさんあった。

サマイは子どもだから、自分の想像通りにならないことですごい怒ったり悲しんだりするんだけど、映画観てる側としては、なんというか、嫌な人が一人も出てこないんだよね作品の中に。例えば、兄弟にお金をだまし取られてやっと生活をつないでいたチャイ売りの仕事までなくそうという時に、息子の夢を応援して送り出す親父(まあ、サマイのことをガンガン棒でぶっ叩くので、現代日本的な感覚からするとバッチリ虐待なのはそうなんだけど。あれ、ハロー効果か?)。映写技師の仕事が無くなって、誰かを恨む怒りではなく悲しみと驚きを表現するおっちゃんもそう。なんというか、遠く離れた国の、信仰とか文化とか政治体制とかも全然違うような国で、「まあそうなるよな」って思いながら感情が追える映画になっているのがすごいと思った。

こうやって書いてるとかなりいい感じの映画だったのに、なんであんな眠かったんだろう。全然知らないから何とも言えないんだけど、たぶんインド映画の平均的な展開のスピードよりもずいぶん丁寧に風景や感情を描くことに徹していた気がする。だから、ほっとして癒されすぎて、眠くなったのかもしれない。

また、疲れた日に、眠る前にみたくなるような映画だったかも。


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