岸辺露伴 ルーヴルへ行く を観てきた

ネタバレ感想です。






















第2部までは漫画で読んで、第3部を飛ばして、第4部は映画版を先に観て、今アニメ版を第1話から見始めているという、かなり偏った食い方をしてきた。

岸辺露伴は動かないシリーズに関しては、ドラマを数話観て、単行本も一冊読んで、能力の詳細について少し知っていたレベル。映画版を見ようと思った理由は、その数話でも、高橋一生が演じる露伴が結構好きになっていたからだった。

一見すると、どんな困難にも落ち着いて対応する鉄面皮のようなキャラクターで、実際普段は落ち着いて、気楽に暮らす凡人を若干見下しているようなニュアンスもある、そういう印象を受ける人物像として演じられていると思う。そうしてポーカーフェイスを持つ露伴が、ポーカーフェイスのまま追い込まれて冷や汗を流している様子が個人的には好きだったりする。

あと、飯豊まりえも個人的に好き(バナナマンの日村さんにドッキリを仕掛けられる番組を観てから)なので、単純に目の保養の意味もあって観に行った。

で、観てみての感想だけど、目の保養どころではない木村文乃の波動にやられた。特に登場してすぐ、汗をかいたまま露伴少年に迫るシーン。心の中の童貞が、光っててエロいことに即座に反応した後で、極端に瞬きが少ない彼女の表情だったり、絵をひったくって回転する彼女の所作だったり、そういう非現実じみた存在感に対しての反応がじわじわ毒のように効いてくる。

もう、こういう女性には二度と会えないに違いない、と思わせられたら男はみんな負け(そしてそういう人のことは、たとえその人との関係性が途切れてしまったとしてもずっと忘れられなくて、ずっと負け)なのに、その敗北感を一瞬で感じさせてくる演技だった。

美しいという感覚が、怖いという感覚と表裏一体であるという発見も面白いと思った。怖いもの見たさという言葉があるけど、怖くて美しいならばなおさら見たいと思うわけで、そういう観たくて観たくてたまらない何かの正体が、実は絶対に観てはいけない絵だったというところが、今回の映画のパンチラインだったのだと思う。

「人の手に負える美術館じゃない」とか、名台詞の中に見え隠れするようなテーマ、造物主の普遍的な願望から何かが作られた結果、造物主の想像を超えた異常な何かが創造されてしまう恐怖みたいな部分についても、何か考察ができそうだと感じた。けど、この点は露伴というキャラクターについてもう少し勉強してからだとまた感想が変わるのかなと思った。自らも漫画を描いている露伴自身がその怖さに言及する意味が何かあるんじゃないかと思う。この辺りは、露伴の登場作品をすべて追えてからの方がより面白く解釈できる気がしている(ので、少なくとも4部のアニメは早くすべて観たいと思う)。

今のところで言うと、個人的には、ナナセが実は露伴のご先祖だったとか、実はあんなに怖くて美しかったナナセが意外ともともとは普通の女性だったみたいな設定も、この辺のテーマについて示唆するための設定だったのかなという気がしている。その人の罪をご先祖までさかのぼって裁こうとしてくる絵という設定だとして、じゃあナナセや仁左衛門の罪って何なのかを改めて考えたら、ナナセの罪は大好きな仁左衛門の夢を応援したことだし、仁左衛門の罪は実物のナナセより絵の中のナナセを大切にしてしまったこと(愛する人の美しさという刹那を絵画という永遠にしようとしたこと)という、ひどく普遍的で、罪とも呼べない内容だったりする。露伴も似たようなことをやってナナセに怒られるけど、愛情を形にしようと行動して結果的に呪いや罪の結晶が出来上がるみたいな、誰でも陥る可能性のある遣る瀬無い絶望をわかりやすく描いてくれていたのかもしれないと思う。

それから、冒頭に書いた、追い込まれる露伴の画は今作にもしっかり組み込まれていて良かった。ぐぎぎぎぎと軋む音が聞こえるようなスピードで、震えながら背後を振り返るシーンとか、最高にかわいかった。かわいさで言うと、おばあちゃんがかけていたグラサンを、ルーブルにまでかけて行ってたりするところもかわいかった。このグラサンこんな似合うのすげえな、とおばあちゃんに対して思った後で、露伴の方がより似合っててさらにビビった。

久しぶりに見た美波さんの演技も良かった。有閑倶楽部のドラマ版で剣菱悠理役にすごいハマってて記憶に残っていたのだけど、年月が経って、難しい母の役を難しいままに演じていてすごく良かった。

羅列になってしまったけど、色々な発見があって面白い作品だったと思う。この作品を観てから、露伴の時計(グッチの何とかってやつ。すごく高いわけじゃないけど、すごく高い)を購入することを目標に、日々頑張っている。

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