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25時、ナイトコードで。「演劇」歌詞考察

 皆様、いかがお過ごしでしょうか。うさと申します。最近猛暑が続いておりますが、ニーゴのストーリーは暑いどころの話ではなくなりました。
 進級前ラストのストーリーとして取り上げられたのは「母親からの逃亡」でした。イベントタイトルにあるように、「演じる」事を辞めると決意したまふゆ。互いが互いの幻想を見続け、すれ違い続ける朝比奈親子。果たしてこの親子に、いつか平穏は訪れるのでしょうか。


 そして書き下ろしを務めるのは「ナノウ」(現:コヤマヒデカズ)さん。プロセカ収録楽曲として「ハロ/ハワユ」が挙げられます。日々を生きる事の艱難辛苦をド直球に表現した楽曲です。まふゆがいい子バージョンで歌っているのもまたポイント。

 さて、そんなナノウさんが書き下ろした楽曲「演劇」。正直な感想を申し上げますと、泣いちゃってまともに聴けませんでした。ナノウ節が炸裂していたというよりも、「朝比奈まふゆ」の人物像を全て、豪速球ストレートで描き出した、とてつもなくグロテスクな歌詞となっています。ではそんなところで当記事の本題へ。
 もはや考察など要らないくらいド直球ですが。


歌詞

或る時誰かが言いました
みんな役割があるんだと
足りない物を分かちあって
補い合って生きていると
それなら私の空白は
誰かが埋めてくれるはずで
聞こえますか その誰かさん

誰かが誰かに言いました
「君の役割はこうだ」って
「これは愛故の言葉」だと
「皆そうやって生きてる」と
喜ぶ顔が嬉しくって必死で役を演じました
呼吸さえも忘れるほど

路地裏のゴミ置き場
雑に捨てられたランドセル
笑う時すら周りを気にする癖はいつからだったっけ
もしも願いがただひとつだけ
叶うならばもう終わらせたいんだ
この ふざけた演劇を

間違ったまま 生きてたんだ
今更首輪を外されたって
一体どこへ行けばいいの?
ただ確かな自分を欲した
その代償がこれですか神様
全部酷すぎるよ全部
もう良いからさ 早く
終わらせてよ

世界は誰かの理不尽と
誰かの我慢で出来ている
押し付けられた酷い役も
みんな必死で演じている
それなら私の失望も
いつかは花を咲かす筈で
意味があると信じていた

ささやかな願い事
無垢な希望や将来の夢
祈りさえすればいつか叶うと
誰に教わったんだっけ
もしも何処かで見ているのなら
今の私に名前を付けて
もう分からなくなったんだ

お願いだから来ないでくれと
震えた両手を合わせ祈って
それでも朝はやってくるの
ただ確かな 未来を欲した
そんなに馬鹿な願いですか神様
全部もう虚しい全部
ただ疲れたんだ 息を
し続けるのが

愛されたいと願って
愛される為自分を捨てて
最早観客もいない舞台の上で
声が響いたんだ
「私はここだよ」と泣いている
「どうか気付いて」と叫んいる
誰も聞こえない 私にしか分からない
わたしの声だった

間違ったまま 息をし続け
今更気が付いてしまったんだ
居場所はもうここには無いと
ただ確かな自分を欲して
逃げ込んだ先で見つけた小さな
呪いを解くあの灯りを

今 私の舞台を終わらせるから
目を覚まして

 もうド直球過ぎますね。読めばひと目でわかる程です。では、ストーリーと関連付けさせつつ見ていきましょう。

歌詞考察

●或る時誰かが言いました
みんな役割があるんだと
足りない物を分かちあって
補い合って生きていると

 ここの「誰か」は、後述の誰かとは異なり、特定の誰かを指すものではないように思えます。

 人は何かしら役割を持って誰しも生まれた。人という字は、人が支え合っている形から出来ている。そんな何の根拠も無いくだらない一般論に対する皮肉のようなものに思えます。
 人は補い合うだけでなく、足を引っ張り合います。そして必ずしも一人一人に対して「役割」があるとも限りません。役割が無ければ生きてはいけない、という逆説が成り立つ事になりますから、この節はそういった一般論に対する反論のような、皮肉ったようなもののように私には聞こえるのです。

●それなら私の空白は
誰かが埋めてくれるはずで
聞こえますか その誰かさん

 先程話し尽くしてしまったので似たような内容となります。
 もしも「人には何かしらの役割がある」という事が真なのであれば、「空白ができた場所」には代わりの誰かが割り当てられるシステムになっていなければおかしいのです。役割は無限ではなく有限です。人の数が飽和すればいずれ役割の枠も消えていくでしょう。
 つまりここで言いたいことは「私が消えたところで、誰かが代わりをしてくれるでしょう?」という、「人間=その人にしかできない役割がある」等の一般論に対する、最大級の反論のように思えます。
 歌詞末尾の「聞こえますか? その誰かさん」という問いかけも、一般論に対して挑発的な問いかけにも見てとれます。あくまで私個人の意見ですが。

 少なくとも「それなら」という文言から始まっている事から、歌詞の主は「人には役割がある」という一般論に対して否定的な立場をとっていることが分かります。

●誰かが誰かに言いました
「君の役割はこうだ」って
「これは愛故の言葉だ」と
「皆そうやって生きてる」と

 ここからが朝比奈まふゆを描き出す本論のように見えます。
 人には役割があるのだという一般論に対して反対的な立場を示した後に、あえて「役割はこうだ」と役割を押し付けられる描写が入るのです。言わずもがな、朝比奈家そのものを描き出した歌詞描写と言って良いでしょう。

 テストで好成績をとること。
 友達には優しくすること。ただし仲良くする人はしっかり厳選すること。
 母親には優しくすること。

 音楽を辞めること。

 将来、医者になること

 果たしてそれは、本当にまふゆの役割なのでしょうか。いいえ、全ては母親の「愛ゆえの言葉」なのです。母親としては「まふゆに役割を押し付けている」という認識はもちろんありません医者になって欲しいという純粋な願いがあっての事なのでしょう。よく教育ママなどという風に言うような時代がありましたが、典型的なそれ(もしくはそれが行き過ぎてしまっているケース)に当てはまるような気がしてならないのです。

 「人は人、うちはうち」という親ほど、よく「○○ちゃんは勉強ができて……」などというように、都合のいい時だけ他の家の名前を出すことがあります。皆さんにも経験があるかと思われます。「みんなそうやって生きてる」というのは、「他の人もまた、同じように役割を与えられているんだから」という母親視点の想像なのです。
 まふゆは他の家庭を知りません。ですが、東雲家の食卓の温かさに触れ、自らの家の冷たさに気付くことが出来たのです。
 つまり「みんなそうやって(何か役割を押し付けられて)生きている訳じゃない」と。同じユニットの絵名はそれの最も良い例なのではないでしょうか。親に何を言われようと自分の意思を貫き続けるその姿は、まさに反骨精神を具現化したかのようです。

●喜ぶ顔が嬉しくって必死で役を演じました
呼吸さえも忘れるほど

 ですが、まふゆにとって母親は悪者ではないし、自分を想ってくれての発言であると信じ続けています。ですから、まふゆは母親のためにずっと頑張ってきたのです。
 テストで優秀な点をとり、部活で好成績を納め………………。全て母親の言われるがまま、「良い子」であり続けました。
 本当はただの普通のいい子だったのに、気付けばそれが「偽りの良い子」になってしまっていました。

 趣味が分からない。
 何が面白いのか分からない。
 食べ物の味も分からない。
 何になりたいのか分からない。
 何もかも、私には分からない。

 全てを母親によって与えられてきた彼女にとって、「分からないこと」は計算外の事であって、自分自身でもそうなってしまう理由が分からなかったのです。「良い子を演じる」事がストレスになっていた事に気付くのは、もっと先の事なのでしょう。

 同氏の楽曲「ハロ/ハワユ」にて、このような一節があります。

 生きていくだけで精一杯の私に
 これ以上何を望むというの

 人は生まれながらにして「役割」がある。本当でしょうか。生きているだけでも一苦労なのに、その上にまた別の役割が重ねられていったら、いずれその人は役割の重さに耐えきれず、潰れてしまいます。
 「生きること」。ただそれが生命を宿す生物たちの使命であり、役割なのです。それ以上もそれ以下もありません。つまり「役割」などというものは、誰かから与えられて(もしくは押し付けられて)、始めて登場する「人生における障害物」なのです。ゆえに、それ以上のものを与えられ続けた彼女にとっては呼吸をすることすら苦しかったのでしょう。

●路地裏のゴミ置き場
雑に捨てられたランドセル

 今まで、まふゆは母親によってどれほど大切なものを奪われてきたでしょうか。
 シンセサイザー、パソコン。そして自らの想い。
 路地裏にゴミ箱があるとするなら、恐らく乱雑に投げ捨てられたゴミの山を想像するかと思います。母親にとって、娘に害をなすものは雑に捨てられて当然の存在だったのかもしれません。真相は分かりませんが。
 そして次の「雑に捨てられたランドセル」。ランドセルは、小学生の代名詞とも言えよう存在で、小さな背中に合わぬ大きなランドセルを背負っていくのが大変だったあの頃を思い出させます。
 しかしこれもまた前述に似た通り。
 母親は、娘が医者になるためであれば何でもしてきました。例えそれがどんなに非道な事だろうと、娘のためを想って。必要が無いと判断すれば、例えそれが娘が使っていたランドセルだったとしても、迷わず乱雑に捨ててしまう事でしょう。

●笑う時すら周りを気にする癖はいつからだったっけ

 まふゆは怯えるようになりました。母親という存在の気配に怯え、物音1つでもビクリと反応するほどに。しかしそれは最近のこと。
 まふゆが笑顔を振りまく良い子を演じていたのは、もうずっと前からの話。中学時代には既に味覚障害などの症状が現れ始めていました。彼女は気付かないうちに、自らの顔を硬く冷たい仮面で隠してしまうようになったのです。そしてそれは、「周囲が望む自分像」を創造するための道具と成り果てていきました。

●もしも願いがただひとつだけ叶うなら
もう終わらせたいんだ
この ふざけた演劇を

 いよいよまふゆの中に、母親に対する反抗心が芽生え始めました。そのきっかけはニーゴの全員であったかもしれないし、KAITOの影響だったかもしれない。そして自分自身だったかもしれない。
 母親にはいくら話しても通用しない。それが分かったまふゆは、ついに自らの仮面を壊す決意をしました。

 母親からして見れば「良い子のまふゆ」を。そしてまふゆからしてみれば「自分を想ういい母親」を。互いが互いの理想像を幻視していたのでしょう。それはきっと、お互いがお互いを拒絶するのが怖くてたまらないから。そして、お互いが「大切な存在であるから」かもしれません。

 「ふざけた演劇を終わらせる」。つまり今まで偽り続けてきた自分を捨てるということ。
 それは母親に対して、理想像でない姿を見せるということでした。そして同時に、まふゆもまた、理想像ではない母親の姿を見ることになるのです。

間違ったまま生きてたんだ
今更首輪を外されたって一体どこへ行けばいいの?

 間違ったまま生きる=偽りの「良い子の自分」のまま生きること
 それを自覚したのは、周囲の存在があった頃でした。ある時、「本当にやりたいことが無いのか」と問うた類。まふゆはそれに対してハッキリ答える事が出来ませんでした。やがて色々な人間と接するうち、自分の今の在り方が本当に正しいのか、自問自答するようになります。だからこそ隠れて音楽を続けているのです。そうでなければ、音楽を辞めているはずですから。

 しかし、母親のレールの上を歩き続けていたまふゆにとって、母親に反抗するという事は、自らレールから外れた道を歩むということです。今まで敷かれた安全なレールがあった人間は、ある日突然自分で考えて行動することなど出来るわけが無いのです。何も分からない。
 「首輪」という表現をしているのを見るに、恐らくまふゆにとって今までの人生は、母親に縛られ続けてきたものだったのかもしれません。
 しかし今更自由になったところで、何をどうしたら良いのかなど分かるはずもないのです。母親のように、やり方が誤っていたとしても、自分の人生を導いてくれる人など存在しないのだから。

●ただ確かな自分を欲した
その代償がこれですか神様
全部酷すぎるよ全部

 「確かな自分」=何も分からない自分
 ただ母親にも知って欲しかったのです。自分が「何もかも分からないこと」を。しかしそれはまふゆの母親にとっては、「娘に嘘をつかれていたこと」になります。母親は激怒します。

 「医者になるために頑張ってきたんでしょう?」
 「やっぱり、あの子のせいなのね」

 奏は関係ない。まふゆはそう訴えますが母親は聞く耳を持ちません。話してもダメだ──母親は私を理解してくれない。そう確信に変わったのです。
 「代償」とは、母親との関係の崩壊。まふゆにとっては母親は完全悪ではありませんでした。だからこそ、本当に逃げて良いのか、最後まで迷いに迷っていたのです。このような形での家族との離別。そんなものは誰も望んでいませんでした。酷い様子だったといえるかもしれません。

●もういいからさ 早く
終わらせてよ

 母親に歯向かう事さえも、まふゆにとっては非常に辛いことなのです。このまま一緒にいてはダメになってしまう事は分かっていても、それでも母親を完全悪だと認識することが出来ない。
 こんな辛い時間は、早く終わってしまえばいいのに。お互いがお互いの理想像ばかりを幻視し続けてきたからこそ、今のこの時間は、まふゆだけでなく、まふゆの母親にとっても辛い時間なのかもしれません。

●世界は誰かの理不尽と
誰かの我慢で出来ている
押し付けられた酷い役も
みんな必死で演じている

 誰かが理不尽な思いをして、それを我慢して、社会は成り立っています。日本の悪い風潮の1つでしょう。たとえどんな汚れ役を押し付けられたとしても、押し付けられた誰かはそれを演じなければならないのです。例えそれがどんなに「理不尽」でも。それが「普通」だから。耐えた先に輝きがあると信じて、日本の人々は今日もまた理不尽な事柄に耐え続けているのです。

●それなら私の失望も
いつかは花を咲かす筈で
意味があると信じていた

 もしも前述の道理が成り立つのであれば、まふゆが「演劇」を続けてきた意味もいずれ分かるはずで。きっといつかわかって貰える日がくると、ずっと母親を信じ続けていました。たとえ自分を押し殺してでも、周りが幸せならそれでいい。苦労の末に花が開花する(=将来的な輝き)のは、基本的には世の道理であるから。

 そう、信じていました。

●ささやかな願い事
無垢な希望や将来の夢
祈りさえすればいつか叶うと
誰に教わったんだっけ

 彼女にとっての「ささやかな願い事」。それは「自分を見つけること」でした。
 将来どんな明るい未来が待っているんだろうだとか、あの仕事をしてみたいだとか。そういう風に思えなくなってしまったのはいつからだったでしょうか。
 夢は叶うだなんて言葉は、彼女にとっては幻のように消え去っていった空論と化してしまいました。願えば夢は叶うだなんて、誰が言ったんだろう


●もしも何処かで見ているのなら
今の私に名前を付けて
もう分からなくなったんだ

 自分が何なのか分からない。彼女はずっと長い間悩み続けました。
 まふゆは「誰かに見つけて欲しかった」とメインストーリーで語っていますから、今の私に名前を付けるのはきっと奏になるのでしょうか。少なからず、自力では自分を見つける事が出来ないところまで来てしまっているのです。

●お願いだから来ないでくれと
震えた両手を合わせ祈って
それでも朝はやってくるの

 毎日毎日、周りの同級生が感じられる事を自分だけが感じられない。自分が何になりたいのかも分からなくなりつつある。そんな状況で、果たして生きる希望が見い出せるでしょうか
 人は追い詰められた時、無意識に「明日が来なければ良いのに」と考えるようになる場合があります。恐らくまふゆもまた、毎日毎日朝がやって来ることを恐れていたのでしょう。そんな中で唯一心の拠り所となっていたのが「ニーゴ」でした。

●ただ確かな 未来を欲した
そんなに馬鹿な願いですか神様
全部もう虚しい全部
ただ疲れたんだ 息を
し続けるの

 まふゆにとっての「確かな未来」とは、看護師として働く姿でしょうか。それとも、ニーゴの皆と共に音楽を作り続ける姿でしょうか。どちらにせよ、彼女にはそれを選択し、歩んでいく権利があります。人として当たり前の事なのです。これは誰かによって縛られる事は、普通有り得ません。
 しかし彼女にとってはそれを求めることすら難し過ぎて、「もう疲れてしまった」のでしょう。
 メインストーリーで、まふゆはこう言い放つシーンがあります。

 ──もう、疲れたの・・・・・・!
 希望があるかもって・・・・・・まだ、見つかるかもしれないって思うのが
 だったら、最初から見つからないって思えてた方が楽だった

 何度も何度も同じことの繰り返し。ようやく救われると思ったら、またダメで。希望を持てると思っても、そうではなくて。
 そんなことの繰り返しの中にあれば、疲れ果ててしまうのは当然のこと。ましてそれが「生きること」と直結するのであれば、生きていくことすら疲れてしまうのです。 

 何気なく呼吸をしているかもしれませんが、生きる事が辛い人達にとって、そして希望を見いだせない人達にとって。そして、居場所すら見つけられない人達にとって。
 「ただ生きること」がどれほど辛いことなのか、想像をしたことがありますか?
 息をすることが辛いと感じた事はありますか?

●愛されたいと願って
愛される為自分を捨てて
最早観客もいない舞台の上で
声が響いたんだ
「私はここだよ」と泣いている
「どうか気付いて」と叫んいる
誰も聞こえない 私にしか分からない
わたしの声だった

 彼女は常に「いい子」を演じ続けてきました。ですから、学校の先生や同級生達は本当の「朝比奈まふゆ」を知りません。
 「観客のいない舞台」とは、「良い子の朝比奈まふゆの人生」そのものを指しているように思えます。その空虚な人生の中では、同級生達は「優等生であることを理由に」まふゆと距離を縮め、先生もまた「優等生であるから」頼りにしている。そして母親もまた、「良い子のまふゆ」の面倒を見続けていた。

 本当の彼女の姿を誰が知っているのでしょうか?

 誰も彼も本当の彼女の姿を見ようともしない中で「本当の私はこうだ」と叫んだとしても、当然見向きもされないでしょう。
 しかし、本当の彼女を受け入れてくれたのが「ニーゴ」でした。たとえ何度ダメでも、本当に救えるまで曲を作り続ける。奏はまふゆに、力強くそう言い切ったのです。

●間違ったまま 息をし続け
今更気が付いてしまったんだ
居場所はもうここには無いと

 「間違ったまま」。つまり良い子を演じ続けることが過ちであったと、彼女はそう判断しました。その結果「ここ」・・・つまり、母親の隣に、自分の居場所は無いと気付いてしまったのです。
 本当はそう思いたくなかった。居場所でありたかった。そのはずなのに。

●ただ確かな自分を欲して
逃げ込んだ先で見つけた小さな
呪いを解くあの灯りを

 母親との決別(今後縁を戻す可能性は充分にありますが)はまふゆにとって計算外の事態でしたが、彼女は「本当の自分を取り戻すこと」を望みました。

 「逃げていい」。瑞希がまふゆに伝えたかったこと。まふゆはそれを思い出したのです。
 そして彼女を本当の意味で受け止めてくれる場所──

 「ニーゴ」の皆が灯してくれる小さな灯りを頼りに、彼女はまた新たな道を歩み始めたのでした。

 彼女の、輝かしい未来のために。

●今 私の舞台を終わらせるから
目を覚まして

 舞台を終わらせる。つまり「良い子の仮面を断ち切る」ということ。そして「本当の自分」に対して、目を覚ますよう訴えかけます。

 自分自身を見つけるために。「朝比奈まふゆ」が「朝比奈まふゆ」でいるために。

おわりに

 正直なところ、今回noteとして残すか非常に迷いどころでした。というのも、ニーゴのストーリーを今まで見ている人間からすれば、「考察なんてするまでもない!」となりそうなものだからです。
 思いましたよ。ナノウさんですよ考察なんて蛇足かもなぁと思いましたよ。けれど文章に残したいという気持ちもあり、今回は普段の歌詞考察とは違う形式で進めさせて頂きました。
 今回のストーリーは、メインストーリーから続くまふゆストーリーの第一部が完結したというような感じなので、今までのストーリーや今回のイベントストーリーを振り返っていくような形でお送りさせて頂きました。

 さて、今回のイベントストーリーで25時、ナイトコードで。の箱バナーイベントは進級前最後となりますから、しばらくは課金に怯えなくて良さそうですね。 ・・・・・・しばらくはお話はお預けという事になりますね。
 瑞希のストーリーについては一番進んでいませんし、3周年以降でグンと取り扱われるのでしょうか。後輩が出来るという事実が恐ろしくてなりません。

 さて、今回は歌詞の考察のほか、様々なストーリーの振り返りを行いながら、「演劇」を咀嚼して参りました。
 3DMVも非常に美しいものとなっております。ぜひ見て頂ければと思います。

 それでは、また次回別の記事にてお会いしましょう。

 ありがとうございました。

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