見出し画像

アイドル YOASOBI

歌われてしまった……

TikTokのBGMがこの曲一色に染まって
これでもか、これでもか、と頭をいっぱいにした。
「究極のアイドル」
を歌うだけあって、非の打ちどころがない。

どこのアイドルの曲?アイドルじゃない?
水曜日のカンパネラか?
え!YOASOBI⁉
幾田さんがラップ?うそだろ?

アイドルの歌をアイドルじゃないアーティストに歌われてしまった……
DNAの二重らせん構造を解明したのが生物学者ではなく物理学者だったように。
ポアンカレ予想を解くのはトポロジー、と誰もが信じていた中、時代遅れとも言われていた微分幾何にやられてしまったように。

出し抜かれた

YOASOBIはデビュー当時から好きだ。アイドル、J-POPというジャンルにこだわっているわけでもない。どちらも音楽、ステージ芸術として楽しんでいる。たまたまアイドル現場が多い、というだけである。そしてこの楽曲も文句なく良い。
今までは優れた芸術に触れたときはとてつもない感動にときには興奮し、ときには安息を全身で感じたが、この曲は違った。聞けば聞くほど止めどものない敗北感が、神の仕打ちに踏みつけられるような思いが湧き出してくる。芝居がかった話をすると、オスカー作品、「アマデウス」でモーツァルトのスコアの1小節、1音を読むたびに敗北感を噛みしめるサリエリのシーンがリアルになったような思いだ(もちろん、私はクリエーターではないからアイドルオタクとしてだけど)。

映画「アマデウス(1984)」より
モーツァルトのスコアに打ち震えるサリエリ

「推し」は時代を象徴する文化になった。文学作品まである。推す対象はいくつかあるが、やはり「アイドル」はその中心的存在と言って過言ではないだろう。それと矛盾するように、「アイドル冬の時代」でもある。とくにライブアイドルはコロナがほぼ終わったとはいえ、明るい見通しがたっているとは思えない。いわゆる「地上」アイドルも、解散するグループが「地下」アイドルほどではないにしろ、人気的には韓国系アイドルに大きくシェアを奪われている。
そして、なにより、ヒット曲、「代表曲」がない。必ずしもアイドルファンでない人でもなんとなくわかるような「時代を象徴するアイドルソング」が。もはや、テレビを見ない時代となって、それは音楽のどのジャンルでもありえないのか?と思っていたが、それをYOASOBIはやってしまった。「アイドル」モチーフで。「推し」の文化の象徴を、横からかっさらって全部持っていってしまった。この「横取り」的爽快感。まるで怪盗ミステリーのようなニュアンスはAメロ(2番はAメロがない?)のチェンバロベースでほのめかしている。

昭和の私は恋愛至上主義者。歌は恋愛を歌ってほしい。
湧き上がる野蛮な「発情」を「慈」と「情」をまとわせて美しい「恋愛」に昇華させて歌ってほしい。
だから、初めて通っていたアイドルがラブソングではなく、いわゆる「がんばろうソング」を連発したときはちょっと疲弊した。そして、気づいた。今の時代、若者は恋愛しないということに。恋愛以前に発情しない。ネオテニーのためか?
「推し」ても「恋愛」してはいけない、「つながって」はいけない。恋愛不毛にして疑似恋愛の「推し」が文化の中心となる矛盾がうまく成立するシステムだ。

だからラブソングはもう成立しない。アイドルは「自己愛」を歌う。FRUITS ZIPPERなどが典型である。異性と恋愛を成就したいからではない、可愛い自分でいたいからアイドルになって発情しない虚構の愛を歌う。

とある対バンのフライヤー
カワイイ系アイドルの隆盛が見て取れる

「売れる」方程式のひとつがこのかわいい「自己愛」であれば、もう一つは「原点回帰」といわれる「清楚系」である。黒髪ロングの美形をそろえた、グループ。かつて欅坂46でディストピアなどをテーマにしてアイドルソングの分野を広げた秋元康も昭和男の限界か、今は打つ手なく清楚系一辺倒だ。飼い慣らされて去勢された男子でも近づけそうな女子像演じさせている。

清楚系の元祖坂道グループ
指原莉乃も同様の清楚系アイドルをプロデュースしている

もうアイドルはラブソングを歌わない、愛を歌えない、
そう思っていた。
ところが、アイドルが歌わない中、歌えない中、YOASOBIがアイドルの愛を歌ってしまった。
「愛は虚構」という荒廃した世界を、ラップのあとの間奏で新興宗教か専制政治で聴衆が集う映画のシーンのBGMのような壮大なコーラスで演出する。そして、すべて嘘でできたディストピアをめまぐるしく「告発」したあと、

そんな私の嘘がいつか本当になること
信じてる
……
やっと言えた
これは絶対嘘じゃない
愛してる

アイドルという虚構の世界の中での、現代という恋愛不毛の世界の中での「愛」をとてもpureな音と言葉で締めくくっている。
もう、ぐうの音も出ない。

「愛」の荒廃した世界を乗り越えた救済、というモチーフによく似た構造をYOASOBIは以前にも扱っている。「アンコール」は世界の終焉を歌い、最後に「希望」を語っている。時代と共鳴するAyaseさんが仕掛けている世界のひとつであり、その相似で現代の「愛」を表現できると確信したのだろう。

冒頭にも述べたように幾田さんにラップ、というのは衝撃のひとつだった。
正直、素人の私には幾田さんのすごさが、最初よくわからなかった。
MISIA、越智志帆、吉田美和のような圧倒的な声量を誇る本格的ボーカリストではないし、Lisaのようなロックチューンに特化したところもない。Uruのような独特の癒しボイスを持っているわけでもないし、Ms. Oojaや宇多田ヒカルのような1/fのゆらぎがあるわけでもない。「幾田りら」としての楽曲はどうかわからないが、YOASOBIの歌についてはあまりエモーショナルに気持ちを乗せている感じがない、というか、わざとそういうテイストで歌っている(歌わせている?)ように思える。だからヨルシカとあわせて「きれいな女子の歌声」で上手に歌う子、というだけの印象だった。
しかし、「夜に駆ける」を何度も耳にするたびに幾田さんはかなり難しい歌をなんなく歌っているということがわかってきた。素人さんの「歌ってみた」が撃沈していく姿を見て、幾田さんがすごいことにやっと気づいた。後知恵で「ボカロを肉声で歌っている」と聞いて、なるほど、それはすごい!とやっと認識した。

女子のラップどころか、ラップそのものをほとんど聴かないが、抜群の音域と歌唱技術、そしてきれいな声をもっているボーカリストにそのどれも必要としないラップをさせるという時点でこの上もない「挑発」である。
このラップ、難しい。幾田さんの高音をしてなせる技。そして最高音はボカロ風に聞こえる。ラップすらYOASOBI色を塗り込んで他の追従を許さない。そして虚構の愛の世界を歌い、「挑発」を続ける。お星様の引き立て役Bの嫉妬と自虐という暗黙の了解を煽り立てる。

ライブ映像がまたにくい。途中で「オイ、オイ」とアイドル現場を模したように、これ以上ない、というくらい場違いな煽りを入れる。あのリズムはあきらかにアイドル現場ではない。まさに、「虚構のアイドル」で、「アイドルの虚構」と二重構造にしている。

アイドルのself-mention songは珍しくはない。Honey Worksさんはほとんどそのカテゴリーばかりだと言ってもいいだろう。しかし、そこに自己愛はあっても「挑発」はない。たまたまアニメのストーリーになぞらえただけかもしれないが、このスキャンダラスな告発の末に純粋な魂の救済を持ってくるのは直木賞小説のような仕上がりで、「参りました」だ。

虚構のアイドルにアイドルの愛の真実を歌われてしまった。
この挑発にどんなAnswerをホンモノのアイドルはできるだろうか。
私の敗北感を救済してくれるアイドルソングは現れてくれるだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?