エア【ショートショート】

「長生きの秘訣？　油ものを一切食べないことですかね」
　この道８０年のラーメン評論家が肩を揺すって笑う。

「私ぐらいになると、スープの匂いを嗅いで麺を持ち上げただけで、もう味が判ってしまうからね。じっさいに食べる必要がないのです」
　なるほど『技を極める』というのはそういう境地を指すのかも知れない。

　それを耳にして、営業７０年の店の主が忍び笑いを漏らした。
「それが何だって話でさぁ。アッシぐらいになれば麺もスープも無しに客をうならせることができますがね」

　店主が右手をチャッと振った。
　何も無いはずの空間に、一杯の名品が現れる。
　芳しい湯気が立ち上った。

「ほう、ではいただきましょうか」
「へえ、冷めねえうちに」

　二人の視線がかち合い火花が散る。
　龍と虎。名人と名人の技がぶつかる真剣勝負だ。
　知らず思わず、身震いが出た。
　新聞の家庭欄の記者になって６０年の私にとっても、これまでで最高の記事が書けそうだ。

　そのとき、妻か娘か誰か判らない女の声がした。

「おじいちゃん、デイケアの時間がそろそろ終わるんで帰りますよ」
　明晰だったはずの意識がみるみる濁ってゆく。
「まあまあ、本当に三人とも毎日毎日同じことしてよく飽きないわねえ……」

　遠くのほうで、誰かの声がこだまする。
「長生きの秘訣？　油ものを一切食べないことでしょうなそれは……」