ぼんやりと塚本邦雄を読む(1)

地主らの凍死するころ壜詰の花キャベツが街にはこび去られき/塚本邦雄『水葬物語』

かの有名な「革命歌作詞家」の次に置かれている歌。
塚本の歌の背景はよく知らないので背景まで読み切れてはいないのだが、凍死した「地主ら」と「壜詰の花キャベツ」のイメージの対比がよく効いている。

読んでいて注目したいのは、この歌を含む連のタイトルが「平和について」であることだ。『水葬物語』の出版が1951年であることに注意しながら「平和について」の歌をいくつか引いてみたい。

賠償のかたにもらひし雌・雄の鬪魚をフライパンに転がす
國國の眼にかこまれて繪更紗や模造眞珠をつくる平和を
聖母像ばかりならべてある美術館の出口につづく火藥庫

一首目、賠償の"かた"としてもらった闘魚について。「賠償」が戦争賠償だとすれば、「雌・雄の鬪魚」は何の比喩だろうか。敗戦国から搾取した美しい二匹の魚をフライパンに転がす様は、勝者の理論による"処罰"のようだ。「鬪魚」に「鬪」の字があることも意味あり気に思える。
二首目、「國國の眼に」監視されながら工芸品を作る"ポーズ"を平和ということへの揶揄。三首目、不自然なまでに「聖母像」が並べられている「美術館」は、「火藥庫」のカモフラージュでしかない。このあたりの歌からは、時代を考慮すると冷戦をイメージせずにはいられない。

さて、最初の歌に戻ろう。終戦後、冷戦が起こり始めたころの歌と思うとどうだろう。
「地主らの凍死」は列強の国の敗戦とでも捉えられるだろうか。敗戦した列強国といえばドイツを思い浮かべるが、「凍死」と少しイメージが合わない感じがする。「凍死」からはどちらかというとロシアのイメージのほうが強い(が、私は第二次世界大戦について詳しくないのでここでは措いておく)。
「壜詰の花キャベツ」は財の喩だろうか。敗戦国から持ち去られてゆく財。誰に持ち去られてゆくのかというと、それまでは「地主」よりも弱かった人々だろう。終戦により、勝者と敗者が明らかになった。勝者は勝者の理論を正義だとするが、それは果たして本当の意味での「平和」なのだろうか。

塚本は、いくつかの歌集のあとがきを読むかぎり、喩や連作にかなり意識的だったようだ。
今後も気が向いたときにふと思ったことを書けたらと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?