『Love is on line』~日常は作品になる~

【はじめに】
このnoteは歌詞の『解説』や『考察』ではありません。ただの『感想文』ですので、軽い気持ちで読んでいただけると幸いです。歌詞を読んだとき(聴いたとき)に受ける印象や、感じることは千差万別です。このnoteでは基本的に私が感じたことを紹介するため、少しずれたことを言うかもしれませんのでご了承ください。
もし特集する曲を聴いたことがない方がいらっしゃったならば、是非一度聴いてからお読みいただけたら幸いです。詞の世界を自分で想像して、色々と思いを馳せる時間こそが一番の幸せだと思います。また、あなたがその歌詞に触れたとき、どう感じたのか、なにを思ったのか、もし良ければ教えてくださると非常に嬉しいです。
色々な人の『視点』、『ものの切り取り方』、『感想』を知ることを楽しんでくれる人が一定数いらっしゃるとのことですので、そういう方々に楽しんでいただければと思います。
(敬称は略させていただきます)


今やSNS黄金時代ではないでしょうか。名前も姿も知らない、ともすれば実在するかも分からない人達と、インターネットを通してコミュニケーションを重ねる毎日。よくInstagramやTwitterで『いいね』がほしいという話を聞きます。正直なところ、私もほしいです。「自分の音楽が受け入れられたかも!」と嬉しくなります。承認欲求が満たされ、自分の存在価値を感じる事ができるのです。逆に、『いいね』がつかないと「自分の音楽って求められていないのかな、意味あるのかな」と自分の存在価値を怪しんでしまいます。しかし、誰かも分からない不安定な存在からの『いいね』をもらうことで、自分の存在を安定させているのはなんだか面白い現象だと感じます。
少しお話がズレましたが、今回お話しするのはそんなインターネット上での人との関わりを歌った『Love is on line』キリンジの曲です。
2006年にリリースされた6thアルバム『DODECAGON』に収録されている『Love is on line』は堀込高樹により作詞作曲されました。このアルバムは、冨田恵一のプロデュースを離れての初のセルフプロデュース作品であり、全体的にエレクトロなサウンドが光っています。またソロ活動を経てからのアルバムだからでしょうか、堀込高樹による楽曲、堀込泰行による楽曲の印象の違いがこの辺りから大きくなってくるように私は感じました。しかし、それはアルバムとしての統一感を損なわず、むしろメリハリを与えています。

【美しい歌詞】
曲を聴いてみましょう。壮大なサウンド、思わず涙が出てしまいそうな美しいメロディですね、今これを書きながら涙ぐんでいます。
この歌ではインターネットを介した恋愛が歌われています。深い夜、主人公はインターネット上で知り合った女性(?)とチャットをしていると思われます。
インターネット上で知り合った女の子と夜通しチャット、それだけ聞くとなんだかジメジメとして陰気な雰囲気が漂っています。かくいう私もSNS上で出会った女性に心惹かれるという経験はありますので、歌詞の主人公の気持ちは少し共感できる気がしています。ここで私が感じたのは、この『Love is on line』、日常にありふれた風景を、あまりにも美しく描いた歌詞であるということです。歌詞を読んでみましょう、情景描写がなんと美しいのでしょうか。『二人は蜘蛛の糸を渡る夜露さ』、脆弱なインターネット上の繋がりを感じさせる蜘蛛の糸に渡る夜露を、自分達に例えるなんて素敵すぎます。『心はもう通いあってる』『on line』『蜘蛛の糸を渡る夜露』などのキーワードがダブルミーニングを含んだように聴こえ巧みに絡み合っているような感じもしますが、皆さんはどう感じたでしょうか。
また『鼻緒が切れたら〜結べばいいだろう』の部分、主人公の人柄が現れているような気がします、愛した相手に対する献身的な態度である一方、どこか少し自己中心的な印象も受けました。このように比喩表現を豊かに使用しながら、現実世界の陰気な雰囲気を美しく昇華させています。
(昇華させている…、というか、もともと日常が秘めていた『作品的側面』を描写しているというほうがしっくり来るかもしれません。)
『女の振りかな』、相手がどんな人物か分からない、相手が男性か女性かということも分からない、不確実すぎる相手に向けられた主人公の純粋な愛が美しく輝くように、詩的な言葉達で世界が展開されていきます。インターネットの荒波の中で、ただ1人の愛する人を探し出すというのは長編スペクトラの特大映画のような世界観です。
しかし、もう一度現実的な風景を想像してみると、そんな美しい世界とは違う、湿ったい部屋で男が夜通しネットをしているのでしょうか。おそらく動きは目と指先くらいでしょう。この場面から、こんなにも美しい詞の世界が広がる、実は広がっているということに、私が初めて聴いた当時、衝撃を受けたのを覚えています。

【歌詞の主人公と、カメラの配置】
恋愛ソング、失恋ソング、また元気の出る応援ソング、色々な歌の中には様々なエピソードを抱えた人物が登場します。その人物の歌詞の中での語られ方は1人称、2人称、3人称それぞれでありますが、それぞれに特徴があると思います(個人的感想としては1人称視点の歌は『共感』しやすいとか、3人称視点の歌は『物語』を聴いているような気分になるとか…)。この視点の設定や切り替えも、歌詞にとっては非常に重要なポイントになるように感じております。
例えば映画を想像してみてください。登場人物の視点で映像を撮る(1人称になる)と、その映画の世界にグッと近づく、もしくは世界の中に入り込むような印象があります。同時に登場人物の状況や心情を感じ取れるのではないでしょうか。
一方、3人称視点ですと少し俯瞰したような、物語や状況の説明であったりその場面の含んでいる景色や雰囲気を感じることができるような気がします。ラブストーリーの映画を見ていると、告白するシーンで①引きの俯瞰、②告白された人物視点、③告白した人物視点の3視点を繋げている場合がある(順番は色々変わります)と思いますが、この視点の効果を利用したものかもしれません。状況説明、それぞれの人物への感情移入を誘う視点設定など考えられますよね。
この歌詞については、1人称視点で描かれている部分が主であり、(私個人的には)詞の世界にものすごく感情移入してしまいます。主人公の気持ちが伝わってくるようで、いかに主人公が壮大なスケールの愛を感じているのか、主人公が感じている愛がどれだけ美しいものなのか、まるで主観的に感じることが出来ます。その世界の描写がまた綺麗なもので、、、。この曲を聴くとどこか別の世界にいるようです。
そういえば、秒速5センチメートルという映画があるのですが、それを見ているときにこの『視点の移り変わり』の大切さを感じました。その結果、私はもうこの映画を涙なしでは見られなくなってしまいました。この現象は歌詞にも当てはまることであり、時々アップで、時々引きで、時々斜めから、パーンしながら等、カメラ位置を気にすることは大切なことだと感じます。

【最後に】
ありふれた言葉ですが、何気ない日常の中に美しさは散らばっているのかもしれません。一見、つまらなさそうな風景も、角度を変えて見てみると素敵な人生の1ページになりうるのでしょう。
私も詞を書く者、とても考えさせられた一曲です。

そして、12月3日リリースされた『crepuscular』、本当最高でした!!!!

次回
カルアミルク

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?