詞の世界で光る髪 ~髪が出てくる歌詞について~

 このnoteは歌詞の『解説』や『考察』ではなく『感想文』ですので、軽い気持ちで読んでいただけると幸いです。歌詞を読んだとき(聴いたとき)に受ける印象や、感じることは千差万別です。このnoteでは基本的に私が感じたことを紹介するため、少しずれたことを言うかもしれませんのでご了承ください。
 もし特集する曲を聴いたことがない方がいらっしゃったならば、是非一度聴いてからお読みいただけたら幸いです。詞の世界を自分で想像して、色々と思いを馳せる時間こそが一番の幸せだと思います。また、あなたがその歌詞に触れたとき、どう感じたのか、なにを思ったのか、もし良ければ教えてくださると非常に嬉しいです。
 色々な人の『視点』、『ものの切り取り方』、『感想』を知ることを楽しんでくれる人が一定数いらっしゃるとのことですので、そういう方々に楽しんでいただければと思います。
(敬称は略させていただきます)


【はじめに】
 2021年2月20日土曜日の23時から、私はYouTube配信で髪についての話をしておりました。そう考えると定期ラジオをもう2年ほど続けているのだなぁと感慨深くなった一方、焦りを少し覚えています。今回はその髪をテーマにした配信をnoteにまとめてみようと思います。
 また今回の注意点ですが、髪をテーマにした曲は男女に関する内容が多く含まれています。私は性別によって髪型が制限されるといった固定観念はありませんが、あくまで一般的な印象や当時の表現を尊重して書いていきます。

【髪の様子による心情やパーソナリティ等の表現】
 歌詞の中に出てくる髪は、その髪の持ち主の心情やパーソナリティ、その状況を映している場合が多いと私は感じます。歌詞ではなく短歌ですが、1901年に発行された与謝野晶子『みだれ髪』では、あまりにも情熱的で率直な愛が表現されています。その情熱さがみだれた髪によって具体的かつ迫りくるような勢いを感じることが出来ます。女性の髪がみだれているということは「はしたない」、「いやらしい」とも言われた当時、この歌からはそのような卑下するような言葉を跳ね返すような強さと愛を感じることが出来、新しい文学を切り開く一つの要因になったと思われます。髪ひとつの動きや様子が、作者の思いを具体的あるいは抽象的に(逆のことを言っているんですが、なんと表現していいものか…)読者に届けてくれるような気がしました。

 みだれ髪と言えば、美空ひばりが『みだれ髪』という曲を歌っています。先ほどお話した与謝野晶子の『みだれ髪』とは関係ないそうですが、愛や心情を髪が表現するという部分では本質的に類似していると思います。ここでは塩屋岬の風の様子と、本人の心情が目に浮かびます。さらさらと舞っているのではなく、風に吹かれ乱れている、心もみだれて、ひとりの塩屋岬、それだけで深く味わいのある世界が一気に広がっているように感じます。この髪の表現で、風景と登場人物の心情が聴き手に流れ込んできます、この曲の入りの部分で詞の世界に入り込むわけですね。

 さて、お次はヴィレッジ・シンガーズ『亜麻色の髪の乙女』です(Spotifyになかったので、島谷ひとみカバー)。こちらは先ほどの『みだれ髪』と打って変わって、非常にさらさらと明るいイメージが感じ取られます。「風がやさしくつつむ」髪はしとやかで、柔らかい感じ、暖かい雰囲気を表現しています。そして、亜麻色の「長い」髪は、当時の印象では女性らしさ、若々しさを表していると考えられます。まだ大人になりきれていない乙女の、若さ、美しさ、そして素敵な男性を知り大人に変わっていく様子が描かれています。そして、髪に注目してその他の容姿等をあまり描写されていないため、聴き手の思いを馳せることが出来る余地がしっかりとあり詞の中にふくらみが出来ているように感じます。


【髪を切ることの意味の多様性】
 髪を切ると「え、失恋したの?」と聞く人が結構います。確かに失恋後に髪を切る人はいらっしゃいますし、ドラマや漫画などでもそのような描写はよく見られます。しかし、個人的には短絡的だと思います。髪を切ることには様々な要因や目的があると思うからです。

 1981年にリリースされた松田聖子『夏の扉』の歌い出しに「髪を切った私」が登場しますが、ここで「髪を切った」という行為に対する印象は非常に明るいように感じます。夏に向けての新しい自分、フレッシュ!フレッシュ!フレッシュ!な自分、そしてたった今(!)始まった夏のすがすがしい暑さを感じさせます。髪を切ることで新しい自分に、新しい季節に切り替わった様子(移り変わるのではなく、瞬間的)が非常に素敵な一曲ですね。個人的にこの瞬間的な切り替わりがものすごく好みで。この歌詞の中の「扉」って一気に開いているんですよね、パーーン!!って感じで。それと髪を切って一気に違う自分に変わったみたいな風景がリンクしてて凄く好きです。

 とは言え、失恋した時に髪を切るという詞がないわけはなく、素敵な歌がたくさんあります。1993年にリリースされた槇原敬之『SELF PORTRAIT』の『髪を切る日』は、失恋して髪を切っています。話はそれますが、『SELF PORTRAIT』は高校生くらいの時に購入したのですが、当時ものすごく好きになって一日中聴いていた思い出のアルバムです。ここでは、「はさみが通るたびに 想い出が落ちて行く」という髪(自分の体の一部)に想い出が宿っているという表現、「短く切ってください 彼女が嫌いだったスタイルに」という過去との決別、「そろそろ前に進まなきゃ」という新しい自分とこれからの歩みが、髪を切るという行為で語られていると思います。つまり、「失恋」したから「髪を切る」のではなく、様々な思いがそこにはあるのだと感じます。ここで、先ほどの『夏の扉』とも共通するのが、髪を切ることは新しい自分になるという表現です。思いっきり未来を向いたポジティブな『夏の扉』と比較し『髪を切る日』には過去との決別や思い出との別れという、やや過去に焦点が当たっている部分が多いです。この視点の違いで、髪を切るという行為の意味合いが変わってくるのも面白いですね。しかし、最終的に「髪を切る」というのは未来に向かって進みだすというポジティブな印象で終わることが多いようにも思います。

 KIRINJIがバンド体制になりリリースされた『進水式』。「晴れ渡った 嵐は去った 僕の髪も短い」というフレーズがあるのですが、ここすごく好きなんですよね。「髪を切った瞬間に新しい自分になる」ということは先ほどお話してきましたが、髪を切ることは、新しい自分になるための準備、未来へ向かうための準備、何か成し遂げるための準備という意味合いも持っていると感じます。あ、先ほどの『髪を切る日』も、これから新しい自分になっていくという意味合いが大きそうですね。『過去との決別』という意味合いが髪を切る行為の中に比較的割合多く含まれている場合、決別した後に進みだすきっかけとしての印象が強いのかもしれないですね。それとも、新しい自分になって、それから新しい道が続いているという方が正しいのか。いずれにせよ、どのタイミングで新しい自分、環境に変わるのか、詞によって違いがあるのも非常に面白いポイントですね。


【最後に】
 今まで、おかっぱにしたり、ソフトモヒカンにしたり、ロン毛にしたり、パーマかけたり、坊主にしたり…。結局私は新しい自分に変わっていたのでしょうか。改めて思いかえすと、全部私だったなぁと思います、そしていい思い出でした。自由に髪型を変えて(他人に迷惑かけないように)、気分を変えてみるのもいいですね。次は地毛でアフロかな。

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