なんとなくいいことが通じなくなっている

先日Twitterでもちらっと触れたんですけどね、読書と労働は両立しないって話。
いや自分はどちらかというと労働を犠牲に読書を選んでるほうなのですが、そういえば自分はどうして労働を犠牲にすることを選んだろうと思ったんです。

書痴と社畜は、エグいくらいの二極化が進むと思います、今後。
その理由についてちょいと考えてみたんですよ。以下妄想。

普通に稼ぐ、普通に出世する、普通に所帯を持つ、普通に云々……
こうしたなんとなくいいことだと思っていたことが通じなくなっているのではないでしょうか。

インターネットの普及によってその代償が分かりやすくなりました。
なんとなくいいことを維持することでメンツを保てると思わせられなくなりました。
それどころか、無理してメンツを保つよりそのリソースを趣味に投資して自己満足を優先させる方が楽だし生きやすいということに気づかれてしまったんです。

考えてみると安定という言葉が流行るのは必然的なことで、そこそこ食えて、そこそこ自由で、そこそこ稼げる、そんないい感じの、悪い言い方をすると甘えたポジションが魅力的に映るのは、間違いなくこれまでの成功像の虚勢が見抜かれてしまっているからでしょう。
それなりに頭が働く方は子作りしないし管理職も望まない。ローンも組まない。知足安分。

今もなおなんとなくいいことの虚像を盲信していてかつ後先を考える能力のない方々が闇バイトなんぞに応募されるんでしょう。
そういった虚像から振るい落とされた自分を認めたくない思いから他者を陥れたうえでの一発逆転を夢見、脳みそを一切働かせることのないまま自分にだけ優しい世界が与えられると信じようとするのです。
後先考えないだけならギャンブル(またはそれと類似する行動)にのめり込むか騙されて利用され続けるかするだけで、他者を陥れてでの一発逆転は考えようとはしないでしょう。虚像に振るい落とされなかった連中への嫉妬の解消、これまでの我慢料の支払いも同時に望むから暴力的な手法への抵抗が小さくなるのです。我慢料の支払いを望むことによって暴力的になるというのは闇バイトに応募する方々に限った現象ではありません。個人的には、これは人間という種が抱えた病気のひとつだと考えております。
ギャンブルよりは確実性があるから消去法的にというのは理由に含まれないと思います。なぜなら闇バイトに応募する状況は確実性なんて問うてられない状況だからです。確実性を心配できるほど頭が働いておりながら闇バイトに応募せざるを得ない状況に陥るというのはレアケースではないでしょうか。

今日も眩いほど煌びやかでにこやかなアカウント画像の裏で誰かがほくそ笑んでいるーー。

なんとなくいいことの虚像は技術の進歩や経済の発展を促す要因であることも確かなので別に虚像とまで言い切る必要はないのかもしれませんが、でもここではあえて虚像と言い切る形にします。

なんとなくいいことの虚像が揺らいでしまったのは政治のせいだけでは決してありません。インターネットのせいだけでもありません。国民全員がその虚像を守ることに疲れてしまったことが一番大きいのではないでしょうか。

なんとなくいいことの虚像は、高度経済成長期のタイミングでは大正解のものだったから、それを成り立たせる理屈づけを考えずに済んだのでしょう。実際は土台部分が少しずつ崩れ始めていたんですが、国民全員見て見ぬふりを決め込んだのです。

インターネットが登場した後は、なんとなくいいことの虚像から振るい落とされた方による虚像は虚像と喝破した声が聞こえやすくなってしまいました。インターネットをオタク、陰キャのおもちゃに留めておかず、オタク以外の方々、主にヤンキー、陽キャがいたずらにインターネットを普及させてしまったのです。そしてなんとなくいいことの虚像が一般人にも少しずつバレはじめてしまいました。

虚像が虚像であると知ってなお虚像を守らなければならない現実に疲れた、だから無気力になる。欲が小さくなって安定が望んで得るものとなる。
必死で頑張って手に入れた肩書や役職を下の世代が両手を挙げてもてはやしてくれないどころか、少なくない数の人々がそれを白い目で見てくるってどんな気分なんでしょうね。それをどれだけ長く保持してひけらかせ続けられるかが生き甲斐になっている方も少なくないようですし、何も感じていないのかもしれませんけど。

読書をするといっても読む本の種類によって意味が変わってきます。
いちいち生産性を要求する自己啓発書や揚げ足取りを生業とする週刊誌などの類を趣味として読むのではなく糧とすべく読むのは、読書というより労働をしている状態、なんとなくいいことの虚像に縋っている状態です。

虚像を信じ続けられるのは才能になりつつあると思います。私はそういった才能に恵まれなかったから読書を行えるほどの余裕を確保できたんだと思います。

読書を行うには、生活の中に他者の人生の物語を挿入するだけの余裕が必要なのです。

その余裕をそのまま読書に充てるか、なんとなくいいことを実像に近づけるために充てるか、そこんとこがうまく噛み合わないという方は少なからずいらっしゃるのではないでしょうか。
その解決策として速読が挙がることもありますが、私個人としては好かないんですよね……なぜだろう……。

以上妄想でした。

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