日本の美意識~対談:司馬遼太郎×ドナルド・キーン『日本人と日本文化』より~

以下、『日本人と日本文化』(著者:司馬遼太郎/ドナルド・キーン、1984年、中央公論社)より引用

"キーン 
日本人はいつも何が日本的であるかということについて心配する。昔からそうだったようです。・・・(中略)・・・現在でも日本人は、日本的なものはどういう形で残るか、日本的なものは全部滅びるんじゃないかという心配を抱いているようですが、日本国民というものが残るかぎり、何らかの形で日本的な特徴はあらゆる表現のうちに現れるにちがいないと思うのです。意識して特徴を出そうと思ったら、むしろ本居宣長のような、なにか不自然なものになるんじゃないか。"

"司馬
・・・(中略)・・・あまり日本的なものとしてがんばりすぎると、いやらしいものになる。宣長さんがいやらしいかどうかは別として、あれは不自然なんです。"(p231)

以下、『日本の美意識』(著者:ドナルド・キーン、1990年、中央公論社)より引用

”日本人の美意識を調べようと思えば、この問題を直接取り扱った、あまり多いとは言えない古典文学の書き物によるのもよい。しかしそれだけでなく、実際の文学作品や批評作品、芸術品、それに日本人の全体的な生活態度自体などという、実例を通じてみるのがよいだろう。美意識の広がりは、それほど広範にわたっているからだ。これから日本の美意識を取り上げていこうとする際、それを中心に論じてみたいいくつかの項目が頭に浮かんでくる。「暗示、ないし余情」、「いびつさ、ないし不規則性」、「簡潔」、「ほろび易さ」である。そうした互いに関連する美的概念は、日本人の美的表現の、最も代表的なものを志向している。とはいえ、これらの反対概念、すなわち「誇張」、「規則性」、「豊饒」、そして「持続性」なども、決してなくはないこと、これは繰り返すまでもない。(p10)

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