日本の美意識~『風姿花伝』より~

なんで珠光は侘び茶を思いついたのだろう、と思って、世阿弥の美意識に影響された説があったので、世阿弥の「風姿花伝」の美意識の部分を拾い読みした。芸や美について、観客視点で説明してあり、色あせずわかりやすかった。

芸能とは、人のこころを和らげて、感動を呼びおこすもの。とか。

花(=美)とは、珍しいなあ、面白いなあ、と思うこと。それは四季折々の草木の花が咲いて散りゆくのに感動するのと同じこと。とか。

しおれた風情とは、花があっての風情であり、花が無ければ単に湿った面白くない風情である。とか。

やっぱこの「花が咲く」を美の頂点としない、花が咲いて「しおれる」ことを、美的に上の格付けにするところが、日本的な美の観点の一つなのかもしれないなあ。

・古代からの美意識「優美」=自然を神として崇拝する美、自然美
・仏教の無常観の影響を受けた美意識「幽玄」=「優美」に、生から死に向けた時間軸を加味した美、未完の美、「もののあはれ」
・「余情」「余韻」「余白」が、「幽玄美」の表現方法である。
『日本の美意識』(著者:宮元健次、2008年、光文社)より

"日本人にとっての美とは、季節の移り変わりや時間の流れなど、自然の営みと密接に結びついている。"(p167)『日本人にとって美しさとは何か』(著者:高階秀爾、2015年、精興社)より引用

"私義にいはく、「そもそも芸能とは、諸人の心を和らげて、上下の感をなさんこと、寿福増長の基、遐齢延年の方なるべし。・・・」”
『風姿花伝』〔第五〕奥儀云
(p65)『世阿弥芸術論集』(校注社:田中裕、平成30年、新潮社)より引用

”そもそも花といふに、万木千草において、四季折節に咲くものなれば、その時を得て珍しきゆゑに、もてあそぶなり。申楽も、人の心に珍しきと知るところ、すなはち面白き心なり。花と面白きと珍しきと、これ三つは同じ心なり。いづれの花か散らで残るべき。散るゆゑによりて咲くころあれば、珍しきなり。能も住するところなきを、まづ花と知るべし。住せずして余の風体に移れば、珍しきなり。”
『風姿花伝』花伝第七 別紙口伝
(p82)『世阿弥芸術論集』(校注社:田中裕、平成30年、新潮社)より引用

" 問。常の批判にも、しほれたると申すことあり。いかやうなるところぞや。
 答。これは、ことにしるすに及ばず。その風情あらはれまじ。さりながらまさしくしほれたる風情はあるものなり。これもただ、花によりての風情なり。・・・
 しかればこの、しほれたると申すこと、花よりもなほ上のことにも申しつべし。花なくては、しほれどころ無益なり。これはしめりたるになるべし。花のしほれたらんこそ面白けれ。花咲かぬ草木のしほれたらん、何か面白かるべき。されば花を窮めんこと、一大事なるに、その上とも申すべきことなれば、しほれたる風体、かへすがへす大事なり。さるほどに譬にも申しがたし。”
『風姿花伝』風姿花伝第三 問答条々
(p37)『世阿弥芸術論集』(校注社:田中裕、平成30年、新潮社)より引用

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